人生とは突然の雷雨に見舞われるもんだ。そう花も嵐のたとえがあると言えるぐらいには経験も積んでいる。夜理はお嬢様でもなかったので、今までに辛酸を舐めた事もあった。舐めたくなかったけど、舐めたという類のものだ。
― けれど、とんと悪い事続きと来た日には、何だかやるせないじゃないか。
いつもの帰り道、社会人として立派に残業を務めた後なら少しぐらい楽をしても良いじゃないか。普段は絶対に通らない公園を横切ろうとしたのは、疲れた頭が睡眠を強く欲していたからに過ぎない。
公園は夕方も過ぎれば人通りもなく、閑散として暗い。近頃の事件などを鑑みるに、普段なら安全のために避けて通る道だったが、その日の夜理は自分だけは大丈夫と安楽な思考にいたっていた。最近、不審人物の情報を聞いたばかりだというのに。
運動神経が鈍い事を自覚しているし、普段なら注意深く足元を見て歩いていただろう。だけれど、疲れから注意散漫になっていたから気がつかなかったのだ。足元のマンホールの蓋が無い事に。それだけならまだしも、気がついた時には見事に足を踏み外し、マンホールの中へと落ちてしまっていたのだからついていない。
ベタなと思われるかもしれないが、落ちている時間が長かった。随分と深いなとか、落ちたら下水かとか、ねずみもごきも嫌だとか、いろいろ考える時間がありすぎるぐらいに長かった。
ようやっと落ちたと思ったら、草が茂った場所だったもんで、思わず最近の流行りかと思ったりもしていた。マンホールの環境もエコになったと夜理は思ってしまったのだ。迂闊さが服を着て歩いていると言ったのは、隣の席のみっちょんだ。
一般的に現実を受け入れる速度は年齢と比例する。けれど、時間は止まらないものだから。夜理がゆっくりと置かれた状況に自覚を持つ前に、遠くから人の話声が聞こえてきてしまった。咄嗟に隠れ場を探すと、おあつらえむきに大きな岩がある。見つかる可能性を考えても、ひとまず隠れよう。
どうやら二人組みの男らしい。はっきり見ようとすれば見つかってしまうだろうから、息を殺しながら左目でそっと盗み見る。距離的には少し離れているため、声も擦れたように聞こえる。
「ご婚約ももうすぐという時に、御巫長様が遠見なさるとは」
「通例ではありえないが、見てしまったのものは仕方ない」
「しかし、本当にいると思いますか? 異界からの者など…」
「ジル、勅命だ」
「ええ、そうですね。すぐに見つけ出さなければ……」
二人の男は、運良くもこちらには気がついていないらしい。少しずつ声も遠ざかっていってる事だし、このまま会わなかった事にしよう。誰よりも日和見主義なのだ。
人生初のファンタジーな体験からそれなりに受けたショックから立ち直ると、男達の話をもう一度頭の中で繰り返した。
「……っっ!!」
異界の者。しかも、あの男達の口調からして、ごく最近に御巫長様という人物から言われたらしい。夜理はその場に座り込み腕を組んだ。
あの話しぶりからして、きっと御巫長というのは役職名だろう。しかも、明らかに探しているのは自分であるという事実。
今まで小説から仕入れた知識からいって、すぐに帰れる保障は全くない上、夜理は誰よりも運動神経が悪かった。加えて、頭も中の下で容姿に至っては劣る方だと自覚もある。だから、ありがちなヒーローにもヒロインにも、ましてや彼らが望むような人物にはなりえない。
彼は夜理を見つけ出して、どうするつもりだったのだろう。夜理が昔に読んだ物語では、こういう時は神託があって生贄になるか、王子様と結婚か、どちらにしても今の夜理が逃げたくなる状況しかなかった。
― 取りあえず、動こう。
夜理の会社が制服制だったのは、この場合好都合だったといえる。スーツなんかでは動きにくいことこの上ない。その点、私服のグレイのカットソーにデニム、スニーカーなら安心だ。
しかも、夜理は日ごろから大きなバッグに詰められるだけ物を詰める主義だ。それも今の夜理にとっては安心材料となっていた。煙草を吸うのでライターもマッチも常備しているし、普段は滅多に使わないカッターまでも入っているのだから。
先ほどの彼らとは逆方向に歩いていくと、小川にいきあたった。流れの速さからいっても、それほど上流ではないようで、ゆっくりと川沿いを下っていけば民家ぐらいはあるだろう。
― でも、さっきみたいな人だったらマズイよね。
彼らの服装は遠目からだったが夜理がいた世界とほぼ同じ格好だった。かといって、同じ素材が使われているとは限らない。慎重だから日和見なのか、日和見だから慎重なのか。少なくとも夜理は後者のタイプに違いなかった。
歩いて数十分も経っただろうか。予想通り、民家がぽつぽつとあるのが見え始める。町というよりは村、集落といった感じがする様子に夜理の眉が寄る。閉鎖的と決め付けるわけではないが、小さな集合体は異質なものに敏感なものだ。
― 当たって砕けてみるか
止めていた歩みを再開し、出来るだけ人の良さそうな人物を探す。人々の服装が自分とそう変わらない事に安心感はあるものの、見慣れない人間に向けられる不信感と好奇の目が夜理に突き刺さっている。
こういう時は、出来るだけ年寄りで温厚そうな人を相手にするのが良い。見知らぬ土地に行った経験は少ないが、迷子になりやすい夜理はその事を熟知していた。
「すみません。ちょっとお尋ねしたいのですが」
夜理が声をかけたのは、一目で高齢と分かる老人だ。皺があって愛嬌のある顔立ちがくしゃっと笑った。
「何かな、お嬢さん」
「ええっと。気がついたらこの近くにいたんです。出先から帰る途中に誰かに殴られて気を失ってしまって。それで気がついたらこのバッグ以外には何もなくて」
全てが嘘だとすぐにばれてしまう、かといって本当の事を話したら身に危険が迫ってくる。
「ここはどこなんですか?」
全てがうそ臭いと思われたらそれまでだが、幸いにも老人は曲解することなくそのまんま信じ込み、夜理に同情の目を向けた。
「ここはコール地方の北の大地よ。ずいぶんな災難だったね」
「ええ。コール…では、私が居たところから随分と東に来てしまったんですね。ああ、どうしよう」
言ってはみたもののコール地方がどこだかなんて知らない。夜理の頭にあるのは、この時をどう乗り切るかで、一世一代の大女優なみの演技を貫徹させることしかない。
「金品は全て盗られてしまったのに」
独り言のように、その実老人に聞かせるようにゆっくり言うと、優しい人は更に同情の色を濃くした。
「可哀相に。ここから北というと、お嬢さんはダートのお人ようだの」
― じいさん、じいさん、北じゃなくて東だ東! 私まで間違えそうだから止めてくれ。全部付け焼刃の設定だからずっと覚えてる自信がなさすぎる。
「ええ。生まれ育った場所は違いますけど。仕事で帰り道に…誰なのかも分からずに気をやってしまったので何も分からないのです」
老人の言葉を肯定もせず、否定もせず。ただ降りかかってきた事柄だけを婉曲に伝える姿は政治家だ。
「しかし、お嬢さんを襲うとは。何か人に恨まれでもしたのかね?」
ここで不信を抱かれるわけにはいかない。なんとしてでも、温厚そうな(加えて情にもろそうな)老人に助けてもらわなければ。
「いいえ。いえ、そうですね。この間、お店に来たしつこいお客さんを無碍にしたせいかもしれません。ですが、」
夜理の必死な思いが通じたのか、老人は夜理の言葉をさえぎった。
「そうか、そうか。王都があるとこで、なんとも不届きなものもいるもんだ。どれ、今日はわしの家で休んでいきなさい。後の事は食事でも取りながら話そう」
老人の暖かい言葉に感謝しつつも、夜理が思う所は他にある。これからどれだけこの世界にいるか、帰る方法が分からない以上は働いて衣住食を賄わなければならない。
「ありがとうございます! あの、ここから王都に行くにはどれくらいありますか?」
王都があるなら城下町も存在するだろうと思い聞いてみる。
「そうさな。ここからなら、馬で半日ほどかかるだろう」
何気ない老人の一言だったが、夜理にはここが異世界であるショックを二重に味わわせた。交通手段が馬だけなら、馬に乗れない夜理はひたすら歩くしかないのだ。馬車もありそうだが論外だった。この世界初体験では先立つものが無い。
夜理がどれほど歩くのが好きだ、趣味だと言ったところで強制されないから言える事だった。今から暗雲が立ちこめてしまっては、この先が思いやられる。
「さ、わしの家に案内しよう。……どうした?」
暗さの抜けない顔を心配そうに見つめられる。夜理は老人に俯きながらも応えた。
「その、馬に、手綱を持った事がないんです」
夜理の言葉をどう捉えたのか、それは不憫なと言うと快く教えてくれるという。あまりにも親切すぎるのではと思ったが、老人の家へと案内されて納得だ。
もはや家ではない。家であろうはずがない。わしの家と言われても思い描く家とはかけ離れている。
「どうした? 何、見てくれだけの家だ。そう緊張しなくても良いから」
声をかけた時のようにくしゃくしゃ笑顔に勇気づけられはしたものの、それはどう見てもお城だった。
― 使用人とかいるし!!
高いと思われる調度品の数々に震え上がる。野宿を避けようと必死になっていた夜理は、老人の仕立ての良い服や磨かれた靴に気がいってなかった。
いや、夜理のことだ。きっと普段でもそんな事は気にしなかったに違いない。普通の人間なら目がいく所にとことん鈍いのが夜理なのだ。
なんにせよ、夜理が気が良くて可愛いおじいちゃんと思って声をかけた人物が何者か、夕餉の食卓にて判明することとなる。
運が良いのか悪いのか。全く知らない世界に突然に落とされて、それでも優しい人に出会えたのだから全く分からない。しかも、偶然出合ったその人は、何だか偉い人みたいなのだから尚更混乱もしようというもんだ。
夜理は全くもって多いに混乱していた。本当は別世界に来た段階でするべきなのに、今更混乱しまくっていた。目の前に出された豪勢というか、豪奢というか、全然わけのわからない一皿千円はしそうなフルーツだとか、とろふんわりとした卵料理だとか、ちまっこい割には高級感を出している肉だとかに。
― もしや、お抱えシェフがいらっしゃるんですか? ぬ・・・抜け出したい。
「お嬢さんの口に合えば良いのだがね。ああ、お酒は飲めるかい? そうか。なら、食前酒を」
ようようと喋ってる老体は姓をイーガル、名をイサクというそうだ。両隣にいるのは彼の妻と娘で、イッリとイッロだ。イッロには三人の息子と二人の娘がいるらしいのだが、皆家を出てしまっているのだという。
娘のイッロは夜理の母親ぐらいの年だと見え、夫を数年前に事故で亡くしたと聞く。返す言葉が見つからずに夜理が俯くとほがらかに笑った。イサクに良く似た優しい人だ。
イッリはイッロとは対照的にテキパキとして、おばあちゃんと感じさせる事はない。夜理よりも小さい体に、口調がキツイながらも、悪意からくるものではないのが分かるから返って小気味良い。
「では、ご長男の方が後を継がれるんですか?」
― 家を見たときに薄っすら思ったけど、本当にお偉いさんだったなんて・・・あっ、でも隠居したから今はイッロさんなんだっけ。・・・どっちにしろ、一緒に食事しているんだからあんまり変わらないけど。
羽振りが良さそうだと思っていたが、そんなもんでは無かった。『一国一城の主』と言うが、地でいく人を見たのは初めてだ。領地主と紹介されたのだ。もはや夜理には、天然記念物認定が目の前にいるのと同じ事だった。緊張どころではなくて、頭のネジがゆるんでしまっていた。
「それが、嫌だっていうのよ」
「ステンは我侭に育て過ぎたんですよ。もうちょっと我慢を知らなくては」
二人の話では長男のステンは放蕩息子をやっているらしい。
らしいというのは、夜理が聞く限りでは、あまり放蕩になっていない。話を聞いていると、『頑張って不良やってます』という感じがするのだから笑ってしまいたくなる。しかし、家族は真剣だ。
「まあまあ、良いじゃ無いか。客人がいる前で、何も家族の恥を晒すこともないだろうに。そうだ。ヨリさんは、何のお仕事を? 確か、何かのお店にいらっしゃったとか」
「んぐっ・・・」
傍観者と決め込んでいたのが悪かったのか、咽喉に肉を詰まらせて慌てて水で嚥下させる。しゃっくりともつかない声が零れたが、広い食卓のおかげで声にならない音は聞こえなかったようだ。良かった。異世界で地球の恥さらしになるところであった。
「お店の給仕です。小さな店だったので私みたいな者でも雇って頂けたんです」
「ほう。ならば、あちらに戻ったらまたそこで働くのかね?」
そうしたいのは山々だが、残念な事に元からそんな店ダートにはない。もしも、夜理があっちの世界に戻れたとしても、戻る頃には無断退職として処理されているかもしれなかった。
「いえ。本当に小さな個人店でしたので、店の主人に無断で休んでしまっては合わせる顔もありません。戻ったら、他の職を探そうと考えています」
「まあ、ダートは広い所ではあるし、コールのように閉鎖的ではないからすぐに見つかるかもしれんが」
「ええ。心配なのは住む場所がない事ぐらいでしょうか。住み込みで働いていたものですから」
夜理がそう言うと、初めてイサクは怪訝な顔をした。
2009/01/02