しまったと思ったときには、大抵のことが過ぎ去った後だった、なんてことは良くある話だ。
現に、夜理がやらかしてしまった事は、既に取替えしようがない失態だ。こちらでの生活環境を良く知りもし無いのに、うっかり調子にのってうっかり口を滑らしたのだから。
「住み込みとな? 幾分か昔はそんな話も聞いたが、最近は勅命によりどれほど貧しい者でも野宿する事など無いはずだが。それも現国王様が民の生活を考えての事。領地主への申し立てはせんかったのかね」
先ほどまでの柔和な笑顔は消え、寒々しい空気が漂っていた。沈黙は金と言うのは、何も言う前の話であって、言ってしまった後では銅にも劣る。
しかし、黙っていては領地を治めてる者へ連絡が行ってしまいそうだ。ここは・・・ここは嘘の上塗りをするしかあるまい。短絡的だと言われようと逃げ延びるにはそれしかない。
「いえ、確かにそのような措置を取る事も可能だったのですが、やはり女の一人身を案じていたのでしょう。優しい方々でしたから」
言い繕う夜理を見て、何かを察したのかイサクは家族の者だけを残し人払いをすると、静かに口を開いた。
「事情があるのだろうとは思っていたが、どうやら複雑そうだね。なに、ヨリさんの事を疑っているわけじゃない。しかし、これからの事もある。この爺に話してくれれば助けられることもあるだろう」
言葉に詰まった夜理は咄嗟にでっちあげた話をどうするか必死で考えた。ここまできても正直に話そうという気は無い。もっと親しくなった後ならば、真実を打ち明ける事も出来るだろうが、今は好好爺のイサクにすら話せる段階ではない。草地で見た二人組みの会話からして慎重にいかねばならないのだ。
俯いて、口重く微動だにしない夜理にイサクはどうしたものかと頭を抱えているようだった。きっと厄介事に巻き込まれたと気がついたのだろう。夜理はその気持ちが分かるだけに切ない。
ほとほと困ってはいても、何か言わない限りは事態は好転してくれない。真実を明かすわけにはいかずとも、黙秘する理由ぐらいは言っても良いだろう。下にしていた顔をゆっくりとイサクに向けると、自然と眉尻が下がってしまう。親切なイサクに申し訳ない。
「イサク、本当にありがとうございます。今はまだ、私自身が混乱しているせいで詳しく話せる状況ではないんです。こちらに来るまでにいろいろとありすぎて・・・これ以上ご迷惑になるようなら、すぐに別の」
と、夜理がまくし立てるように最後まで言おうとしたのを、イッリが遮って言う。
「しばらくここにいなさい。急がなくて済むなら良いことじゃない。あなたも、つまらない事を気にする必要はありませんよ」
とっても大らかで大雑把で豪快な人である。もちろん、夜理はそういう人が大好きだった。自分が小市民な分、憧れがあるのである。
「つまらないことか。まあ、それもそうだね。悪かったね、ヨリさん。慶事が続いているせいか、慎重になりすぎてしまっていたようだ。何せ良い事の後には必ず悪い事が起るものだからね」
そういうとイサクはイッロに目配せする。これ以上は詮索しないと暗に言っているようにも見える。
「さあ、あなたの部屋へ案内しましょう。女の子のお客様なんて久しぶりね。気に入ると良いのだけど、最近の若い子達の好みには疎いから、ヨリに合わなかったらいつでも言ってちょうだい」
イッリが案内したのは、それはそれは豪華な部屋だった。天蓋つきのベッドはアイアン調で、他の家具もそれに倣って統一されている。部屋全体は広々というか、広すぎる。
― これ、なんかのセットだろうか
理想的な“女の子”の部屋である。故に夜理はしり込みした。夜理が普段暮らすアパートの部屋とはだいぶかけ離れた空間に呆然としていると、イッリが心配そうに見て言った。
「やっぱり若い子は嫌かしらね。最近はもっとレースやフリルの付いたベッドが人気だというし、ここにあるものは古いから……」
慌てて首を振り、むしろ気に入りすぎて言葉を無くした事を伝えると、イッリは初めて言葉を聞いたかのようにキョトンとし、次に大笑いした。
「まあまあ。それは良かったこと。じゃあ、他に必要なものがあったら言って頂戴。ほとんど、クローゼットの中にあるから大丈夫だとは思うけど服や靴はまた後でイッロと一緒に買いに行くと良いわ」
「何から何までありがとうございます。でも…あの、今お金が…」
夜理の手元にあるお金は明らかに日本円で、珍しがられてもここでの支払いには使えない。住食が確保されたのは良いとして、職探しをしなければ通貨が手に入らない事に今更ながらに気付いた。
― 気付いた。気付いてしまった。気付かなければ良かった。
なんて不幸、と哀れんでも一人芝居にもならない。しかし、イッリは呆れたようにしょんぼりしている夜理に言う。
「それぐらいのこと。あなたが気にすることじゃありませんよ」
「えっ、でも…」
「不幸にあったばかりですもの、気にしないでよろしい。どうしても気になるなら、仕事が出来るようになってから返してくれれば良いことよ。先々のことまで気に病んでいたら疲れてしまうでしょう」
「…本当に、本当にありがとうございます」
イッリの優しい言葉とそれを裏打ちするかのような瞳に声を詰まらせた。人の温かさが身に染みる。
イッリが出て行って、しばらくクローゼットや備え付けのチェストにあるものをガサゴソと見て回る。本当に全てあった。そのことにそこはかとない感動をかみ締める。
必需品で無かったのはサイズが分からない服や靴、それに下着ぐらい。この世界の下着がどんなものか分からないが、そうそう外れたものではないだろう。服が夜理の世界と同じなのだから。
向こうの世界から持ってきたバッグの中から手帳を取り出し、必要なものを書き出してみる。
一等にお金が出てくるのが夜理らしい。が、すぐに保留と赤字で書き足し、一応は女としての身だしなみが出来るものを書いていく。いつ戻るのか、戻れるのか、戻れなかったらどうしよう。そんな不安を落ち着かせる作業にもなっていた。
途中でこの家に仕えている二人のメイドを紹介され、湯浴みへと案内された際に聞いてみる。特に美容に関しては気になる所だ。
正直な話、夜理はそんなに期待していなかった。だから、適当に聞いたのだが、それが二人の美容魂に火をつけたらしく、湯浴みから部屋へ戻った時にはドレッサーと美容道具が揃っていた。さすがあの主につく使用人である。
先ほどの手帳で解消されたものを一つ一つ消していき、数行の日記を書き終えたところで控えめなノックがあった。
「ヨリ、まだ起きているかしら…?」
イッリよりも高い声が控えめに聞こえ、夜理は返事をしながらドアを開けた。イッロが微笑んだだけでほっとするのは人柄がなせる業だ。
― 心の匠。師匠だね。ああ、笑顔は癒されるなあ。
人生の先輩に対する感想としては甚だ失礼だ。そんな夜理に何も気付いていないイッロは椅子に座るとゆったりと話し出した。
「ええっと…つまり、王宮の侍女試験が近々あるから私がやるって事でしょうか?」
イッロの話をまとめるとそうなる。ありがたい申し出だというのに浮かない顔をする夜理にイッロが心配げにみていた。
― 仕事は欲しいけど……受からないよなあ、どう考えても。それにあのこともあるし…うーん…
こちらの世界へ来て、まだ一日がようやく経とうとしているぐらいである。さすがの夜理もそんな場所へ行けるだけの度胸はない。昼間の出来事もあるだけに慎重にならざるを得ない状況で、どうにも不都合な申し出だった。
「だめかしら? 貴方なら出来ると思うの。不安なことがあるなら、私や母が教えることも出来るでしょうし、なんだったら今働いている娘を呼んで数日家庭教師として付くことも出来るから。もちろん、どうしてもというのではないから、貴方さえ良ければと思って」
「そうですか……ごめんなさい。有難いお話なんですけど、私にはどうしても…その、敷居が高い感じがしますし、王宮のような所へは…」
言葉を濁せるだけ濁す夜理に、仕方が無いと笑って頷いてくれる。イッロの優しさに答えられないことがひどく不甲斐なく感じられた。
― 仕方ない…か。
幾度となく自分が言ってきた言葉だったが、今の夜理には痛かった。諦められることがこれほど“えぐる”ことだと思ってもみなかったのだ。俯いてしまった顔を上げ、イッロの目を見て言った。事実を話すことが出来なくても真実は伝えたい。
「王都の近くで働ければと思っています。どんな仕事があるか分かりませんが、出来れば接客して人と関わるような仕事がしたいんです。王宮も素敵ですが、普通の、町の人たちと仲良くなれるような…そういう仕事につきたいと思ってます」
「そう…今までやってきた仕事が一番かもしれないわね」
― なんだかなー何だかなー
イッロの寂しそうな顔に、夜理は喉まで出かかった言葉を飲み込み、素直に白状などせずに寝ますとだけ伝えた。意地っ張りというか、見栄っ張りというか、不束者だ。
― 分かってるんだけどさ…分かっててもさ…寝よう寝るんだ、寝てしまえ。寝ないと。寝なければ。けど、どうでも良いって考えるのは、ちょっと早い気がする。
はあとため息が零れて、浮かない顔になってしまうのは止められない。仕事探しもそうだが、今後の事を思えば暗い気持ちになっていく。このままでは先の見えない不安に押しつぶされてしまいそうだ。不確定要素いっぱいすぎて手の付け所が分からない。
― 異世界トリップって、もっとこう煌びやかな感じじゃなかったっけ。王子様とか王女様とか出てきて、ふわふわひらひらな感じで。
見たり聞いたりした世界だったら、夜理にはちょっと手に余る世界だったろう。そうならなかったことに、こういう世界で良かったと安堵しつつも不満という難しい感情に苛まれている。
― けど、逃亡犯ってのは違う…よね。歓迎されなくとも、逃げ回るって…体力持つかな。あっ、気力の問題なのか。でも誰から逃げて良いかわかんないのってないわぁ。仕事もなあ。私がやってたのって事務だし、パソコン無いんじゃ、どうにもなんない仕事だぁ。こっちって、他にどんな仕事あるんだろう? さすがに武器屋とか無理だ。魔術師とかいんのかな。いいな、それ。すっごい今すっごいなりたい。
現実逃避にも無理がある設定だ。むしろ魔術が使えるなら人様の家にご厄介になるほど間抜けではないだろう。しかし、そんな事は夜理に関係なかった。
― とりあえず、寝て。明日になったらどうにかなるよね。つか、明日になんなかったらどうにもならんよね。
寝る前にイサクとイッリ、イッロの顔を浮かべて、どうやって仕事探しを手伝ってもらおうかと他力本願な事を考えながら浅い眠りについていった。
夢の中でイッロの娘らしき人物が夜理に何かを叫びながら顔を真っ赤にしている。顔は良く見えないが、側でイッロが楽しげに笑っていた。変な夢だと思いながら見る夢は、いやに現実的で、そのくせ考えられないほど平和なもんだ。
見えるのはイッロとその娘のような気がする女性だけなのに、他にも大勢の人がいるのを夜理は知っている。おかしな感じだが、夢だと思えばそんな前提もありかと思える。
不可解なのは、それら大勢の人達は気配だけの人もいれば影がある人もいることだった。余計に興味をそそられるのに、夜理は一向に顔が見えないせいで腹が立ってきていた。
いい加減にしろと怒鳴りそうになって、実際に口にしながらムクッと起き上がる。せっかくの夢も起きてしまえば霧散した。
― 自分の声で起きるなんて…ていうか、聞こえてないよね、聞こえてないと良いな。聞こえるわけないよね、うん。大丈夫。
心の中でぼそぼそと喋る夜理だったが、広い部屋で隣の部屋とは距離があることを忘れている。夜理の薄壁アパートとは違うのだ。
そんな夜理に空は白々と朝を告げていた。
2009/02/27