◇冬の記憶◇Act02


 あれからどれくらい経っただろう。彼が私の前から姿を現しては消えて、随分と経った気がする。季節が変わったからそう思うだけで、本当は3ヶ月も経っていない。
 どれだけ時間が経っていようといまいと、私にはもう関係の無いことだった。何故なら、「SANKA」という名のお店には、週に2度のペースで通ってすっかり居心地が良くなってしまっていたからだ。
 そう。彼が目当てで最初は通っていた店も、そのうち単に珈琲を楽しむためだけに行くようになっていた。
 マスターは企業戦士を勇退したあとの余生の楽しみだからと言って、ほとんどお金にもならないことをしてくれる。それは、灰皿の上に置かれたチョコレートだったり、クッキーだったりして、マスターやここに集う客には不似合いなものだから、きっと私のために用意してくれているのだろう。
 この店の客のほとんどが老齢か中年で、私のような見た目からして若い客は他にいない。それだってまばらにいるだけで、この店が混雑している様子を見た事がなかった。
本当に良い場所・・・・
 流れてくるBGMも、お昼はクラッシックで夜はシャンソンといった風だから、なかなか席を立つことが出来ない。そうして気が付くと休みの日は一日中いる気がする。
 私は時が経つのを忘れ、ゆっくりとお店のソファ席に身を沈めるときが心落ち着く時間になっている。そうして彼の存在を何となく、おぼろげに覚えているだけになった頃だった。
 いつものように「SANKA」の扉を開いた。

 カランッ
 聞き慣れた鈴の音が店内に響くと、マスターが微笑みかけてきた。
 人の笑顔を見るとほっとする。それだけ笑顔というものから遠い生活をしているからかもしれない。特に今日のような愛想笑いしか出来ない人たちを見てからの、マスターの笑顔は格別だと思う。
 店内にかかっている時計の針は、正確な時間より一時間も遅い時刻を刻んでいる。時間を気にしないために来ているのだから、正確な時間など必要ない。
 マスターが前に、この柱時計の時間が遅れているせいで一人のお客さんが商談に間に合わなかったために、後日その人から怒られたそうだ。それっきり来なくなったそうだ。
『あの人にとって、時間は自分を駆り立てるもので、こうして刻むものではなかったんでしょう』
 寂しそうに誰に聞かせるでもなく言った彼は、柱時計を直す気はないのだろう。間違った時間を刻んでいる時計もいつも通りだ。だから、すぐに気が付かなかったのかもしれない。
 店内をぐるっと見回してから入ったはずなのに、彼に気づいたのはカウンターの定番の席につく少し前の事だった。
あの人・・・・
 不思議なことに、もう何の関心も興味もなくなった頃に、私が探していた人が店の片隅にいた。私は半信半疑でいたのに、マスターはそっと水を彼の横に置く。私が何か言う前に彼の隣に行く事が分かったのは、最初の頃、毎日のように熱心に彼の姿を探していた事をマスターは良く知っているからだ。それでもマスターの仕草は余りにも自然でいつものことのようだった。
彼・・・なんだ・・・・
 彼があの日、最後に言った一言も気にしなくなるほど時間が経っていても、その瞬間、私は鮮明に思い出す。
「あの・・・」
 私が彼に話しかけると、無言のまま、手で彼の隣に座るよう促された。
「あの、お久しぶりです」
 何とも間の抜けた挨拶だと感じていても、別の言葉も思い浮かばずにマスターへと視線を逃がした。マスターは口を開かず、ただ私に微笑みかけるだけだ。
「ここのお店、私のお気に入りなんですよ」
 彼が呟くように言う。
 独り言のように聞こえたので、どう返せばいいのか私には分からなかった。
「静かでしょう? 他の店と違って、本当に、このお店が好きなお客さんしか来ない場所なんです」
 そう言うと彼は私ではなくマスターに微笑んだ。
「あなたが、まさかこのお店を見つけるとは思っても見なかったので・・・、正直、最初にここでお会いした時は驚きました」
 彼がまるで親友に秘密を分け合うように言うので私は驚いて、
「どういうことですか?」
まるで私のことを前から知っていたみたい
 私は首を傾げて彼が口を開く。このやり取りすらいつも通りといった顔で。
「覚えていませんか? いや、知らなくて当然です。私は一度、あなたをお見かけしているのですよ。冬の寒い日に。」
「え?」
 彼に言われ、私は自分が最初に彼と会ったときに感じた、不思議な既視感の事を思い出した。私の思い過ごしだとばかり思っていたのに、彼の言い方だとどうやら違うようだ。
「もの凄く薄着をしていたから印象に残ったんですよ。コートを着ず、真冬であれほど寒かったというのにあなたは手袋もマフラーもせずにいたから」
「あっ」
 彼がいつの日のことを言っているのか、まるで電光石火のように閃く。確かに、あの日は寒かった。そして、冬の凛とした空気がとても印象的な日の事を言っているのだろう。寒がりの私が真冬にコートを着なかったのは後にも先にもあの日だけだった。
 あの日、体を分厚いものであの怜悧な空気を遮断する事が惜しかったのだ。だが、そんな偶然があるだろうか。
「思い出しましたか?」
「えっ・・・ええ。でも、あなたのことは」
 あの空気以外は靄がかかった記憶に言いよどんでいると、彼が言った。
「あの時私の髪はもっと長く、私は黒いコートを羽織っていました」
 まるでパズルのピースをはめるかのように私の頭の中で記憶のかけら達が動き、それらが全て正しい場所に置かれていくと、どうして忘れていられたのか分からなくなってくる。
「あ・・・あの時の・・・」
 特徴的な腰まであった彼の髪はばっさりと切られていて、もちろん、この時季に不似合いなコートは着ていなかったから気が付かなかったのだ。いや、それだけではない。あのとき、彼と私は一言も目を合わせることすらしなかったはずだから、私が気が付かなくてもおかしくはない。風のようにすり抜けただけの、それだけの人。
だけど・・・・・・
 私の感じている疑問が分かったのか、彼がまた口を開いた。
「あの時、私とあなたがすれ違った場所、それがこの店の前でした」
 彼の口振りでは私と彼しかそこにいなかったようで、けれど実際は幾人もの人がすれ違っていたのだから奇妙な感じがする。彼は偶然も奇跡も当たり前のようにあるとでも言いたげだ。
それほど、寒そうにしていたかな・・・・?
 あれほど寒かったから、今にも凍えそうにしているのに私がコートを着ていなかったから、彼ははっきりと覚えていたのだろうか。そう考えてもどこか釈然としない。私以外にもコートを羽織らずにいた人は少ないがいなかったわけではない。あの日、彼と会う前に数人のそういった人を見かけていたから、コートを着ないなどという暴挙をしたのだから。
「どうして私を・・・・?」
 私には分からない事だらけの彼の言葉に、戸惑いを隠しきれずにいた。
「珈琲、飲み終わりましたか?」
 私の問いには答えず、彼はカップに目をやる。
「え・・・はい」
 唐突に話題が変わったのについていけず、小声になってしまっていた。ますます彼という人が分からない。
「では、また」
 そう言うと席から立ち上がった。
「えっ・・・・ちょ、ちょっと、待ってください」
 私が呼び止めても彼に待つ気がないようで、迷いなく扉の前まで歩みを進めていく。そして、一度だけ振り返り、
「また」
 店外へと歩き去っていくのを私は呆然としながら見るだけで。我に返った時には、もう彼に声をかけることすら出来ない。
 そんな私に、マスターが珈琲をごちそうしてくれた。珈琲を飲んで人心地ついてから、ろくに彼の顔を見ていなかったのをぼんやりと思い出す。
 『また』という事は次もあるということ。いつになるか分からないその時を、私はじっと待たなければならないのだろう。彼の後を追うこともせず、連絡先も知らないのだからこの店に通い続けるしかない。
 じわりと広がるのは期待だろうか。

2008/10/25