鏡の講義も終りにかかる頃、彼がいつの間にか戻ってきていた。話に熱中して聞いていた私には、扉の風も足音も気づかなかった。
「そろそろ行きますよ」
私の肩を叩き、マスターがにこやかに鏡に笑いかけた。でも、どこか意味深で鏡の顔を見る限り良い事ではなさそうだ。
「どこへ?」
「鍵をもらいに行く」
彼が短く応えると、余計に鏡は剣呑として足をコツコツと踏み鳴らす。彼らの会話から窺い知れるわけもなく。
「目当ての人物に会う前に、本当なら導主から与る物があったんですよ。彼女がいなければ、管理人の下へ行かなければなりません」
「遠いのでしょうか?」
「近くだ」
「歩いて行ける距離だね。それより僕はもう少し彼女と話がしたいのだけどね」
彼らについていきたい気持ちもあれば、鏡の話を聞いていたい気持ちも強い。統制部や監査組織の存在と人々の関係、この世界の秩序、律に始まり律に終わると言われていることや定理の根源の研究。私には初めて知ることばかりの知識は面白く、鏡の話し方は巧みだったから。
それでも、私がこちらへ来たのは遊びでも観光でもない。息をついてから彼を見ると、彼は私に向かって小さく頷いてみせた。
「挨拶に寄っただけですから長居は無用です。また次の機会に」
「やれやれ、仕方がない。ゆっくりと話せる時が直ぐに来るだろうから、それまでは我慢しておこう」
含みのある言い方が鏡らしい。マスターは肩をすくめてみせて、彼はさっさと出口に向かう。これ以上、鏡とやりとりしたくないとでも言うような後姿に、私が尻込みしていると鏡がくすくすと笑いを漏らして、少しだけ顎を彼に突き出して見せた。
「行きましょうか」
「はい」
頭だけを下げて、マスターと並んで歩いていこうとする私に、何事かを鏡が言っているのが遠ざかる気配と一緒に霞んでいく。
彼の後ろに追いつき、話し掛けようとしたときだった。うっすらと手首から淡い光が洩れているのに気付いて、私は思わず足を止めた。
「どうかしたか?」
「あっ、いえ・・・」
首を横に振ったものの手首に戻ってしまった視線では、彼をごまかすことが出来なかった。咄嗟に後ろへ引こうとした腕を取られ、ブレスレットが露わにされると、先ほどよりも光りが強くなったように感じる。
「いつから?」
「さあ・・・分かりません。気が付いたらこうなっていて」
「どうかしたんですか?」
彼の横から覗き込む様にしてブレスレットを見ると、ほのかに輝く金色の光にマスターが目を細めた。何も言わない二人に、私は焦りを感じつつも何も口にしなかった。
「珍しい事もあるものですね。あの方にしては」
マスターがぽつりと呟いた。私を素通りして彼へと着地した言葉に、そっと唇を噛み締める。分からない恥ずかしさに、口惜しさが滲んだ。
とはいえ、黙ったままの彼から痺れてきた腕をゆっくり振りほどく。知らないなら聞けば良い。今までだってそうしてきたのだから。
「光は満ちる道、そう言われている」
彼の言葉に思わず目を見開くと、マスターがすかさずに言う。
「鏡の言葉を覚えていますか? この世界には二人の漕ぎ手がいると」
「ぁ・・・はい」
「そして私達が会おうとしていたのは導手、つまり光です」
「それが・・・?」
「導手は光。ブレスレットの素となる金属は光を集める性質がある。それを練成するファクターもまた光を集めるせいで、持ち主を導手が感知しやすくなっている。君がブレスレットを外さない限り、導手に我々がどこにいるか筒抜けになるようだな」
やれやれと言った風にマスターが肩を下げると続けて言った。
「光は満ちると言うでしょう? 導手が私達にこういった形で干渉してきたのはこれが初めてですが、それだけ貴女を歓迎しているのでしょう」
「単に会えなくて拗ねてるだけだろう」
彼の口から聞こえたとは思えなかった。そんな風に言って良いのだろうか。導手さんという方は偉い人だというのに。口を挟まなかったのは彼とマスターから親しみの空気を感じたから。
もやもやとしたものが私を包むけど、弱くなってしゅんと消えた光に気を取られたまま置き去りにした。
無言で歩いていると、ぴたりと彼の足が止まって見上げる。この世界の建造物は私の世界と変わらない。そう思っていたのに、目の前にある建物はあまりにも常識外だ。世界そのものが湾曲したような、あまりいい気持ちのしない建物に不安が掻き立てられた。
「ここで待っていてくれ」
てっきり一緒に行くものだと思っていたのに、彼はマスターと私を残していってしまった。マスターを見上げると苦く笑って首を振っている。よっちゃんのようにおしゃべりな性質じゃないから、こういう時の話題が思い浮かばない。黙って彼が消えた扉の向こうを半ば呆然と見ていると、頭の隅がちりちりとして鮮明な声が聞こえてきた。
『聞こえる?』
「あっ・・・」
思わず声を上げてしまった私に、マスターは気付いていない。そのまま先生の声に集中した。先生とのやりとりで慣れてはきていたけれど、気を抜くと聞いているのに聞いていないのと同じ状態になる悪い癖が出る。
『連絡を取るのが遅れた、ごめん。彼らは近くにいる?』
『はい。あっ、でも側にいるのはマスターだけで、彼は鍵をもらいに行くって建物の中に』
『鍵? ああ、導主様とはお会い出来なかったのね。仕方ないかな、あの方も忙しいから。そしたら、あの人と会うのは時間がかかる?』
『たぶん・・・急いだ方が良いですか?』
電話と違って相手の息遣いまでは聞こえないから、黙ると無音になってしまう。それが連絡で不便だなと感じる部分だった。繋がっているのかも私にはまだはっきりと分からない。これも慣れの問題のようで、回数を重ねるごとになんとなく切れ目みたいなものを感じられるようにはなってきてはいる。
『いいえ、そうじゃないの。あの人の事で伝えたいことがあって。彼らに連絡しようと思ってたんだけど、今まで上手くいかなくて・・・』
『何ですか? 私で良ければ変わりに』
『ううん。大丈夫。貴女と連絡が取れたって事は、彼らにも連絡が取れるはずだから、もう一度試してみるよ。直接話しした方が手っ取り早い。それより、そっちに行ってから彼ら以外に誰かと会った?』
彼女の声が朗らかになったのを聞いて鏡の顔を思い浮かべた。それと私が最初に会った女の子の事も。
『そう。鏡に・・・・・・珍しいね。普段は人付き合いなんて知らないで済ますのに。よっぽど貴女のことが気に入ったんだね。そうそう、その女の子は気にしなくて良いよ』
『でも。きっと勘違いさせちゃったと思うんですけど』
ちらりと送られた視線は、決して好意的なものではなかった。少女から彼らへの崇拝とも似た感情が読み取れて、私は萎縮した自分の気持ちを宥めるのに苦労したのだ。
『彼らは貴女がその子と同じ態度を取るのを良しとはしないと思う。それに、その子が貴女を敵視するのは一緒にいたからってだけじゃないしね』
『違うんですか?』
『世界が交わりを見せて久しいけれど、選民意識があるから。私達が貴女達よりも多くのことを知っているというだけでも、一部の人には大事なようでね。貴女が彼らと一緒にいるのを良く思わないのはそういう部分もあるから』
『そうですか』
彼女の言葉に過ぎた不快感が蘇る。私の世界にもある感情の一つと割り切れなかった。私に、人と自分とを比べて優位に立ちたいと思う程のものがないせいだろうか。
『そういうこと。じゃあ、また暫く経ったら連絡する。マスター達と行動を共にして、はぐれないようにね』
『あっ、はい』
ぷつっと途絶えた音信の代わりに、彼がこちらに向かってくるのが見えた。感じていたよりも時間はゆるやかにだけど過ぎている。目的の人物がどういう人なのか、聞いておけば良かった。
「彼女から伝言です。彼の人に会ったら、塔の遺物は焼却するようにして欲しいと。それから定理の乱れが強くなっているそうです」
「律に影響が?」
「いえ。まだそこまでははっきりと分からないそうです。むしろ、はっきりしてくれれば私達も苦労せずに済むんですけどね」
「そうだな」
「どちらにせよ、あの方に会わないわけにはいきません」
いつの間にか彼女と連絡を取っていたマスターが彼に告げる。マスターと彼の後ろをついていきつつも、ふと振り返った湾曲の建物は周りをゆらめかしながら私を見下ろしているようだった。
彼の人が住まう場所は、私達がいた中心部からかなり離れた場所だ。息すら殺してしまうほどの静けさが不気味に感じる。森のように木々に覆いつくされた中にある家は、古めかしい。
「いてくれると良いんですが」
マスターが渋い顔をしながら家へと近づく。彼が用意した乗り物は車に良く似たエンジン音の聞こえない物だった。街中で見ると派手な印象すら与える黄色はここではすっかりくすんで見える。
「開いている。さっさと入ってこんか」
彼と私が戸口の前に立つと、扉の奥から忙しない物音と共に掠れた声がした。あまりにもタイミングが良かったので、マスターをちらっと見ると涼しげな顔で戸を開けて中へと促される。私は事態が飲めずに先頭をきって足を踏み入れた。
「失礼します」
「全く。うるさい奴だ。そう何度も叩かずとも・・・」
家の主はそこまで言うと、初めて私を見とめた。主は私の後ろにいるマスターと彼に目をやり、私達を椅子に座るよう促した。入ってきた時のように主は捲くし立てることもなく、淹れたてのコーヒーを啜って私達の誰かが話し出すのを待っている。
「急いだのですが、すっかり暗くなってしまいましたね」
最初に口を開いたのはマスターだった。こちらに来て、最初に見た月とは別の月が空にある。夜の月は青白いものか薄黄色だと思っていたのに、こちらでは眩いばかりの白さだった。月明かりと言うけれど、これほど明るかったら白夜と勘違いしてもおかしくはない。
昼の月のような可愛さはないけれど、静かなここでは静謐な月は良く似合っている。
「時間に無頓着なのはいかん。それにお嬢さんの紹介もなしに話を進める気かね?」
老人というには若い、初老よりも少し上ぐらいだろう年齢を思わせる主はしかつめらしい顔をして私を見た。
「初めまして。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」
手のひらがうっすらと汗ばんでいるのを気付かれたくなくて、テーブルの下で足にこすりつけた。主は頭を下げる私に軽く頷きを返し、スカルグと名乗った。
先生の師匠だった人は、先代の導主から構築家達をまとめる任に就いていたらしい。その時に先生のような教え子達に律や定理、この世界と私達の世界の全てを教えていたという。構築家になる逸材はやはり少数で、彼やマスターであっても素養部分が足りないという話だった。
スカルグは真っ直ぐに人を見る。少しも視線がずれないせいで、私自身の全てを見透かされている気がした。隠せないならば、せめて無残な姿は晒すまいと視線を正面から受け止めた時、ふいにスカルグの視線が弱くなった。
「それにしても、どうしてこちらに? 噂だと随分と南に行ってらしたようですが?」
それは、ここに来るまでも彼らの間で度々出ていた疑問だ。この家も中心部から大分離れているが、それでも家を空けて主が向かった南はここよりも更に僻地なのだと言う。学者を見て閉じこもりがちな人物を想像するのは間違いだ。真に学者タイプの人間は一箇所に落ち着くことが出来ない。次から次へと好奇心を煽られるからだ。たぶん、スカルグも同じ。
南に行っていたという話は本当らしい。研究対象の生物がいたからで、研究は未だ終わっていないとも。スカルグはマスターに視線を移すことなく、まるで天気の話のごとく軽々と言う。
「君達が来た目的は綻びについてだろう」
断定した言葉に迷いはなかった。
「・・・・・・どこで・・・いや、場所を特定出来るなら」
「勘違いしてはいけない。律の乱れを感じてはいるが綻びがあるとまでは言えないのだ」
冷静な声とは裏腹に主は見慣れたはずの室内へ視線をさまよわせた。彼もマスターも何も言わず、私は何も口に出来なかった。質量をもった沈黙が静寂に呼応していた。
2009/06/19