長く感じられた沈黙は、彼が口を開いたことで破られた。
「あなたでも分からないのですね?」
「全くというわけではないがね。分かったと言える程、確信を持てないのだよ。まずは鍵をくれないか。話はお膳立てが揃ってからでも充分だろう?」
鍵をスカルグに渡すと腰を挙げ、先へと歩き出して行く。説明の無い状況に慣れてきたけれど、行き先が分からないままついていく不安は変わらなかった。
部屋を出て奥から二番目の部屋に入っていくと、そこは窓の一つもない真っ暗な場所だった。暗闇に目がなれず、全く何も見えない中でスカルグが動いている音だけが大きく感じられる。
ふいに明かりが灯され、部屋の全容がぼんやりとする。スカルグがゲームに出てくる宝箱のように丸みを帯びた箱にある鍵穴に鍵を差込み開けると、中に一冊の分厚い本が鎮座していた。
「数日前に導主様から預かったものがある。それと一緒に渡そう」
「預かり物?」
彼が怪訝な顔をするとスカルグが溜め息をつきながら、私に視線をよこした。正確に言えば、私の後ろにいるマスターに。
「君達が苦戦していようと私は引退している身だ。既に関係が無いと言ったら、わざわざ関係を作って下さったんだ。有難いものだ」
白々しい響きは、すぐに床の絨毯に吸い込まれていった。私は導主さんという人がどういう人となりかが分かって苦笑する。
「老骨に鞭打つとはひどいですね」
マスターが潜められるだけ潜めた声で言ったのにスカルグにはしっかりと聞こえていたようで、スカルグにじろりと睨みつけられたマスターはこっそり私に舌を出す。旧知というだけあって定番化しているやりとりなのだろう。私から漏れた笑みにマスターは満足そうに頷いた。
スカルグが“預かり物”を持ってくる間、私達は先ほどの部屋で待つことにした。私はずっと箱の中身が気になっていたのだけれど、彼らの関心は別のところにあるようだった。
「私達には時間がないと会わなかったのに・・・彼女が物を誰かに託す事自体おかしい。相手があの人とはいえ妙な気がしませんか?」
「ああ・・・だが、時間が無かったのは本当だろう。此処のところ扉と常に一緒にいるらしいからな。そうでなければ彼女が俺達と顔を合わせない理由が無い。誰よりも律に・・・」
「それはそうですが・・・・・・」
彼らと親しくなるにつれて、私はどんどん耳ざとくなっていった。例えば店に来る客の噂話、例えば先生の呟き、例えば今のような彼らの会話。
彼らは秘密主義ではない。もちろん、SANKAという店に集う人々も先生も。聞けば答えてくれるのは容易に想像がついている。直接聞こうとしないのは臆病者の為せる業。悪趣味だ。分かっていても聞くのは怖く、聞かずにいるのは不安だ。
「待たせたね。どれ、本題に入るか」
それぞれ思考の沼にはまりかけた私達に、スカルグの声はやけに明るく響いた。
「先に君達が望んでいる物を。ところで、これがどういうものか知っているのかね?」
「ああ」
「ええ、なんとなくは」
「いえ、あの、すみません」
スカルグが呆れた顔をするのは無理も無い。三者三様の返事はどれも気に入る入らない以前の問題で。
「やれ、お前達は・・・お嬢さんに満足な説明も無しに連れてきたのか」
「失念していた」
彼が端的に返事をすると、スカルグはまた一つ溜息を零した。
「ならば、お前達の口からきちんと説明しなさい。それからぞんざいに扱うことのないようにな。もう一つはこれだ」
取り出された小箱は三つ。白く淡い色のリボンが何重にも巻きつけてある。プレゼントにしてはリボンが不恰好だった。
「導主様からのだ。しばらく忙しいと仰ったので預かったが、中身については各自が確認するようにとしか説明は受けておらん」
導主さんはおおざっぱなんだろうか。それにしては厳重すぎるリボンが珍妙だ。彼らも中身には思い当たらず小箱に首をひねっている。
「それでは有難く受け取っておきます」
スカルグに恭しく一礼したマスターに倣って私も頭を下げる。箱の中身が気になるが、ここで開けるのは無作法だろう。
「これからどうする予定だね?」
「一度、あちらに戻ります。私は店もありますしね。ああ、そういえば彼女が心配してましたよ。年寄りの一人暮らしは危な・・・」
「ふんっ、口の減らぬ小童が」
不機嫌さを隠そうともせずにスカルグは言い放つと彼に言った。
「君も向こうにばかり行っていては周りがうるさいだろう。律の変動がはっきりと分かるまでは、こちらにいたらどうだ?」
「そうしたいが彼女のこともある」
彼が私の背に手をあてるとスカルグは了承と諦めの吐息をついた。来た時に輝いていた月は未だ煌々としている。
「それと彼女から伝言です。アレらを処分して欲しいと」
スカルグの肩がほんの僅かに揺れた。そうかと低く呟いた声は、先ほどまでの覇気が消えている。スカルグの変わりようは不可解だったけれど、先生との関係はそう悪いものではないのかもしれない。スカルグの横顔から微かな情を感じるのは私だけではないはずだから。
「貴方もそろそろ塔から離れてはいかがですか? 役目が既に充分に終えられているのですから」
「老犬虚に吠えず。目に見えるものだけを信じる癖が直っとらんな」
鼻で笑いつつ目の奥にマスターへの憐憫が見て取れた。だから、マスターの目は伏せられた。
スカルグに別れを告げ、私達は再び塔へと戻った。私達を出迎えたのは先ほどの少女とは別の人物で、背の高い男性だった。
「もう遅いですから、ここで一晩過ごして下さい」
マスターに言われて、日帰りのつもりでいたから何も用意していないことに思い至った。調査というからには、それなりの日数がかかってもおかしくはない。いつもならそれくらい気を回せるのに、あの時は冷静に思えても相当混乱していたのだろう。
「いきなりでしたからね・・・でしたら、明日は一度戻りましょう。どちらにせよ、書の理解を深める必要がありますから」
分厚い本をめくっただけでは役に立たないのだと言う。書は律と定理、世界の三方向から書かれていて、各章の記述を照らし合わせながら、現状との関連を調べなければいけない。
「・・・・・・時間がかかりそうですね」
糸口と言うには心もとない。意図せずに沈んでしまった声に、マスターの口元がゆるやかに弧を描いた。
「そうでもありません」
「えっ?」
「彼が最も得意とする分野です」
「じゃあ・・・」
マスターは期待を膨らませた私に片目を瞑ってから、すっと顔を真剣なものへと戻した。
「とはいえ、過度な期待は落胆を強くします。今はまだ何ともいえません。それに導主から預かった物は書だけではありませんからね。彼も私も、貴女のそれも確認する必要があるでしょう」
私達はまだ小箱の中身を見ていなかった。三人とも同じとは限らないのだ。
「焦燥は目を曇らせます。綻びについて言及されなかったのですから、まだ最悪の事態には陥っていないのでしょう。あの方が構築家の任から遠ざかっているとはいえ、そこまで腕が鈍っていては師匠と仰いだ私達が哀れでなりません」
くすくすとどちらからともなく忍びやかな笑いが零れる。笑いが収まったところでマスターが部屋を出て行き、私の息遣いだけが部屋を満たした。
マスターがいた余韻が完全に無くなった頃、導主から預けられたという小箱の封をそっと開ける。マスターと話し、心の預けどころを与えられた私はそれまでの慎重さを忘れていた。
ふいにブレスレットが光りだし、気がついた時には当たり一面が靄に似た光で溢れかえっていく。霞がかった室内とは別に小箱の中だけは別だった。光にあてられたせいで、ぼやける目を必死にこらした先には何もない。
「・・・・・・何が」
からっぽの箱を見つめた。一度は歓迎の証として受け入れた光だった。今は膝が落ちそうな恐怖しか感じずにいる。
彼らに知らせなければ。焦りだけが募り、足はもつれて前に思うように進まない。それでも何とか扉の前まで来たときだった。ドアノブに手を伸ばした瞬間、私の視界を覆っていた光は遠ざかり、目の前が暗転した。
それからの数分間、私の意識は無くなっていた。気が付いた時には、扉の前にいたはずがベッドの中へと逆戻りしていた。それ以外におかしいことはなかった。
勘違いだと人に言われれば、私の気のせいだったと思えるぐらいの、些細な落ち着かなさがまとわりついて気持ち悪い。寝るのが良いと思えず、私はベッドから得体の知れない気持ち悪さに押し出された。
ふと扉を見ると、取っ手に付着している何かがきらりと光った気がした。恐る恐る扉に近づき、目を凝らして見ると取っ手の上についている鍵穴に何かがはめ込まれている。マスターが出て行った時に鍵をかけたはずだった。
「やっぱり・・・違う」
誰に言うでもなく発した声が震える。取っ手に手を掛けながら出られないかもしれない恐怖に怯えた。それでも、私の予想に反し扉は開いた。少しの安心を抱え廊下に出て、彼がいるであろう部屋を叩いた。彼ならまだ起きているだろうと思っていたのに返答はなく、今度はマスターの部屋の戸を叩く。
マスターからも返答は無かった。嫌な気分のまま自室へ戻ろうと取っ手を掴むと、今度は開かない。完全に混乱した頭で何度も取っ手を回し、それでも開かない事を確認すると、放した手は異様な程に濡れていた。
それから時間にしては数分足らずだったのかもしれない。こつこつとこちらへ向かってくる足音が心臓を逸らせた。どうしてか見つかってはいけないと思い、再び取っ手に手を掛けると、今度はすんなりと開く。不思議がる暇もなく、部屋に飛び込んで洋服棚に体を滑り込ませた。
完全に閉めてしまうのも怖いので細く、細く開けた隙間から目を凝らして様子を伺う。足音は段々と大きくなり、やがて扉が開かれた音がした。息を潜めて気配を追うと聞いた事のある声が耳に届く。
「あとはこれに頼るしかないね」
数時間前に私に親身な講釈をしていた声が今は遠い。惑いながらも外に出ようとした時、かたりと何かを動かす音に体を縮こまらせる。音の正体は隙間からも確認できた。私が入った時には無かった大きな姿見が現れて、鏡を映している。
「導主も・・・・・・」
遠く感じる声は案外に近い。部屋に敷かれた毛足の長い絨毯が音をほとんど吸い込んでしまっているようだ。小さな声が何かしらを告げるとふわっと鏡の中が揺らいだ。これもファクターを使った力なのだろうか。
私は鏡と言葉を交わしたのを思い出しながら、彼が珍しくも感情を揺らしているのが不思議だった。アルバイトがら人を観察するのは癖みたいなもので、鏡が内実はどうであれ感情を表に出さない人間だと思っていたからだ。今でも私の考えが間違っていると思っていない。
つまり、それだけ不測の事態が起こったのだろう。予期した事柄に心を乱すタイプではないはずだ。
はっとして息を呑む。鏡越しに目が合ったような気がして体を固くさせた。やましい事がなくとも隠れているというだけで怪しい。しかも、私の状況を上手く説明する自信はない。私がいた『あの場所』ではないのが確かで、いるはずのない鏡がここにいるなら、私が時の外を彷徨っているのだ。
「彼か・・・」
ひやりとした寒気が過ぎる。姿見に映っていたのは鏡ではない。私と同じ体質を持つ彼がマスターの店とおぼしき場所と一緒にあった。
「さてどうするかな」
鏡の独白は私に向けられてはいない。そう分かっていても体は硬直したまま動けず、息もままならない。潜めた息遣いさえ鏡に気付かれているようで気が気では無かった。
姿見越しに見る鏡は、私が会った時よりも疲労が濃く白かった。また何事かを呟くと姿見の中が揺らぎ、今度は私を映した。あまりのことに声が漏れるのを咄嗟に手で覆い隠す。幸運にも鏡は気付かなかったようだ。
ゆらりゆらりと揺れる姿見を凝視していた鏡だったが、急に私の方へと向き直りこちらに向かってきた。とうとう気付かれてしまったと血の気が引いていく。同時に隠れていずに済むとどこかで安心もしていた。理性的な鏡のこと、感情のままに事を荒げるような真似はしないと。
鏡がまさに私がいる戸を開けようとした瞬間、私はまた光に包まれた。
2009/07/03