元の場所に戻れるかと思っていたのに、また裏切られてしまった。思うようにいかないのは、いつものことだけれど、体が悲鳴を上げ始めていた。極度の疲れで足がふらついている。精神的にもギリギリだ。
それだけではなく、今まで部屋から出る事が無かった時空越えは、いつのまにか場所さえもままならなくなっている。本当に、もう元の場所に戻れないのかもしれない。
じわりと目の端から熱いものが頬を伝った。自分でも予想していなかった感情を揺さぶられていた。いつもあってもなくても変わらないと思っていた間違いに、首を這う雫の気持ち悪さで気づく。見回すと木々が鬱蒼として、手入れが行き届いていないのが一目で分かった。
家人を探し回ったが、辺りには人影らしきものは見当たらない。一人でいるせいか、木々の葉がこすれた音を出すだけで何度も首を振った。
「・・・・・・ま・・・」
足が止まりかけた頃、人声が耳に入り足早にそちらへと向かう。出来れば、私が知っている人であって欲しいと願いながら。
春がじっと一点を見つめていた。私が見つけた時には他に誰もおらず、それからずっと奇怪な空を眺め続けている。まさにおかしな光景だった。空中にひび割れた線が幾つもはしり、そこに倒壊寸前のビルと同じ空があった。
声をかけるかどうか迷っているうちに、春がその亀裂に吸い込まれるようにして姿を消してしまった。ひび割れは春を飲み込むと、徐々にひどくなっていき、最後にはとうとう亀裂同士が重なって小さな穴が出来た。
「何が」
声に出した途端、音が霧散していく。悪い夢でも見ているかのようで、私は何が何だか分からず混乱するばかりだ。その一方で、春がいなくなった瞬間を目の当たりにした恐怖にものまれていっていた。
「だれかに伝えないと」
― 誰に?
私以外の人間が見当たらない場所で、誰に助けを求めるというのだろう。それまで、どこか楽観視していた私だったのに、唐突に彼らに会いたいと切な願いが湧いてくる。
はっきりと思い描いたのが功を奏したのか、分からないまま投げ出された時と同じように、気が付いた時には元の部屋へと戻っていた。
それでも、安堵よりも恐怖が、不安が、私を支配していた。重い体で身じろぎしてベッドの中から這い出し、彼の部屋へと足を向けた。例の箱を抱えて。
意外にも、彼はまだ起きていた。軽く戸を叩くとすぐに彼から返事があり、私はさっき体験したばかりの出来ごとと共に、箱を彼へ差しだした。
「ブレスレットが光ったことと関係があると思うのですが・・・」
私の説明を聞きながら、彼は顎に手を当て黙り込んでいる。おかしいと思う点を幾つかあげながらも、彼が何の反応も返してこないせいで早口になっていく。これ以上は何もないという所まで話し、私は彼の様子を伺った。
「君がその体験をしたのは、この箱を開けてからなんだな?」
ふいに尋ねられ、私が頷くと彼は奇妙な顔をした。
「妙だな。この箱の中には何も入っていない。それはおろか、何かがあった気配すらない・・・・・・」
「でも! ・・・もしかして、開けてしまったからでは?」
パンドラの箱のように、全てが放たれた後ならば何もなくてもおかしくないはない。そう思ったけれど、彼はゆるく首を振った。
「もし、導主が何か意図していたなら、君だけの時に開けることが無いように言付けがあるはずだ。もしくは、君だけの時に開けるようにと言うか。そのどちらもないというのがおかしい」
「それなら、いつでも良かったってことはないですか? 貴方がいても、いなくても・・・・・・その、変わらなかった」
問うように見上げた先で、ゆるく首を振られた。
「俺たちが常に行動を共にしているのは、彼女も知っているはずだ。不確定な状況で事が起これば、君がパニックになるのは彼女だって想像出来るだろう。ましてや、君は俺たちが望んで連れてきているんだ」
ふっと息をつき、私は鈍い頭で座っていた椅子に体をもたれた。ひどく疲れている。彼もそんな私を見て、これ以上は無理だと感じたようだった。
「これはここに置いて、君はゆっくり休むといい。明日にはそちらに帰れるだろう」
はっきりとした予定は聞いていなかったが、私が予想していた滞在時間よりも短く驚いた。それが顔に出てしまったのだろう、彼は苦笑混じりに呟いた。
「元々、今回は急な要件だったせいで、何も君に合わせたわけじゃない。予定通りといえば予定通りなんだ」
彼の気遣いか、それとも本当にその通りなのかは私には分からなかった。ただ、この短い時間の中で私は混乱し、最初にこちらへ来た時のような意気揚々とした気分では到底ない。私は軽く首を振り、それ以上の言葉を募ることもせず部屋へと戻った。
ベッドに入ってからも、先ほどの足元から崩れるような恐怖が頭から離れずに、私は悶々とした時間を余議なくされる。箱は彼の部屋に置いたままだ。彼の部屋で感じた眠気さえ私を裏切り、私から遠ざかって近寄ってこない。このまま朝になるのではないかと思うほどの長い時間を過ごした後、闇へと落ちて行った。
爽快なというには程遠い、頭に鈍痛を抱えながら明るい日差しに起こされる。まるで昨日の事が無かったかのような温もりから離れがたく、用意に手間取ってしまった。部屋を出て、彼の元へ行くと既にマスターがお茶とサンドウィッチを摘まんでいた。
「おはようございます」
軽く会釈しながら薦められた椅子に座り、私もお相伴に与る。大好きなトマトが入っていて、瑞々しい野菜と厚切りのハムがとても美味しかった。
「昨夜は大変だったようですね」
やんわりとした声が耳に心地よかった。マスターが心配げに見てくるのを努めて平静に返す。あまり心配させてはいけないように思うから。
「初めてづくしだったせいで、神経が過敏になっていたのかもしれません。箱のことも、ちゃんと相談すれば良かったのに」
眠れない間に散々考え尽くした至らなさをマスターに告げると、ゆるく首を振られた。
「彼とも話しましたが、貴方に落ち度はありません。それに・・・・・・」
「君が来る、少し前に俺たちに渡された箱も確認してみたんだが、これがあるだけで君に聞いたようなことは起こらなかった」
彼がそういうと、手の中を開いて見せてくれた。小さめの石が一つあるだけで、私からみたら道端に転がっているのと大差ない。
「お守りです。少しばかり導主の力が備わっていますので、何かの役に立つかもしれません」
あまり期待していないとでも言うような口調でマスターが言った。聞けば、私が想像するお守りと違いないようだった。危険があれば、ほんの少しだけ幸運な結果になるらしい。狐に摘ままれたような顔になる。彼の手が私の頭を掠める。
「君の箱ももう一度確認してみたが、何も入っていなかった。おかしいので、すぐに導主に連絡を取って聞いてみたんだがな。君には何も用意していなかったと言っている。彼の人が嘘をついて渡したとも考えづらい」
スカルグを疑って何になるだろう。マスターも彼も、そう考えているようだった。けれど、私という不純物からしたら可能性はあるように思えた。もちろん、とても消極的な疑惑だ。
「貴方が信じられないのも無理はないのでしょうね。でも、あの人は本当に学者気質なんですよ、良く言えばね」
マスターに見透かされ、羞恥に顔が染まる。
「確かに。君だけに小細工をするような人じゃないな。やるなら徹底してやるだろう。それに、あの時に渡された書から面白い記述も見つかった。詳しい話は戻ってから話そう。そろそろ時間だ」
マスターが皿の上を綺麗にしたのを見届けて、彼が立ち上がる。来た順序を逆にして戻るのかと思っていたが、どうやら違うみたいだ。
別の部屋に行くと、マスターがどこからかウサギのぬいぐるみを取りだした。やはり帰りも必要なのだろうか。
「では行きましょうか」
彼からそっと手を差し出されて、気恥ずかしさを感じながら手を取った。神経を集中させながら、エッセを呼び出す感覚を思い出す。目をつぶりながらも、どんどん部屋の空気が濃厚なそれへと変わっていくのが分かる。思わず、手に力が入ると、そっと握り返される。
恥ずかしさに気が乱れると、更に繋いだ手の力が強くなり叱咤されたような気がした。
― まずい
不安定な足場でもがくように揺れる。
「だいぶ、上手になりましたね」
唐突とも取れる声を見やると、飾り物の目がキラキラと光っていた。
「あ・・・ありがとうございます」
可愛らしいウサギに焦点がしっかりと定まると、それまでの揺れがぴたりと止まった。なんとも絶大なるウサギ効果だと感心してしまう。彼と繋いだ手はそのままに、ふわりと力が緩められた。
「ごめんなさ・・・」
「謝るのはこちらですよ。二度目なんですから、もう少し配慮すべきでした。つい、貴方だと過信してしまうようです」
申し訳なさそうにウサギの耳が垂れる。私からくすりと洩れた声に、ウサギの耳がまたぴんと張った。
「もう少しです。あちらについたら美味しいコーヒーを淹れて差し上げましょう」
私から緊張が取れたのを見届けてから、ウサギは先を行くかのように姿を消した。ほんの少し惜しい気持ちになりながらも、肩の力が抜け自然と笑みがこぼれてくる。
それから暫くすると、すとんと地面に足がついた感触があった。そっと目を開けると、マスターのほっとしたような笑みが目に飛び込んでくる。あれからも心配していたのだろうか。
「出立してから、そう時間は流れてません。今日はもうお帰りになって、また明日三人で話しましょうか。彼女も呼びますか?」
マスターが彼に聞くと、彼は頷いてこう答えた。
「そうだな。彼女なら、あの箱の残留ファクターを追っていけるかもしれない。このまま無闇やたらと探るよりは良いだろう。あの人からの伝言も伝える必要があるだろう」
スカルグの顔が思い浮かぶ。先生とスカルグの間でどういったいきさつがあったのかは分からないけれど、仲違いをしていると言うのとは違うようだった。どういう顔をしたら良いのか分からずにいる私に、マスターが困ったような顔で言った。
「気づいていると思いますが、彼女はとても優秀な研究員でもあったんです。あの方が気に入るぐらいには。ただ決して人づきあいの上手い人間ではなかったので。戻ってきて欲しいという気持ちは、私達以上に強いはずなんですよ」
それほどまでに望まれている場所にいかずにいる先生の心境が私には理解できなかった。私のように誰にも欲されることのない身では仕方ないのかもしれないなと、頭の片隅で諦念に似た感情がよぎる。
頭をふり、今までの考えを捨てるように口を開いた。いつまでもここにいるわけにはいかない。明日もまた、朝がくるのだから。
「何だか、いろいろありすぎて・・・・・・整理したいと思います。今日はありがとうございました」
「いえ、こちらこそ。助かりました」
頭を下げた私に、おかしそうに笑いながらマスターが深々とお辞儀をする。彼は私の肩をそっと叩くと車を取りに行った。その背を見ながら、まだ夢のような心地でいる私にマスターがぽつりと言う。
「彼も優秀なんですよ、本当は」
誰に聞かせるでもない声音が広い室内に響いた。
2009/10/31