空気の切れ目を実感したのは何度目だろう。気がついたら、私は全く見知らぬ場所にいた。潜んだ場所とは違う光景に驚くも、すぐに誰かの声がして体を震わせた。ここには隠れられそうな場所はない。部屋はシンプルで、豪華な調度品も無ければ寝具一つない。
視線をあちらこちらに飛ばしながら声がする方へ顔を向けると、窓の外から女性の高い声がした。聞き覚えのある声だ。
「黙ってたら分からないでしょ!?」
「落ち着いて・・・・・・もどうして・・・なく・・・たり・・・・・・」
最初の女性とは違う声が途切れがちに、何かを言っている。こちらからでは顔が見えないが、最初に聞こえたあの声は間違いなく先生の声だった。一瞬、私は先生も一緒に飛ばされてきたのかと思ったがどうも違うようだ。それなら、先生はここにどうしているんだろう。
「・・・だから・・・・・・・なん・・・・・・」
窓から覗こうとしても、角度が無いせいで見る事が出来ない。窓から首を出せば良いのだけれど、隠れている身ではそれもままならなかった。どうやら声の主達は外の真下にいるらしい。声が聞こえる高さなのだから、やっぱり元いた場所とも違う。
私は諦めて部屋へと視線を戻すと、またがちゃりと戸を開ける音がする。どきりと胸が跳ね上がった。悪戯が見つかる瞬間の、あの嫌な心臓の速さと安心に似ている。
戸から入って来たのは男女の一組だった。身構えた私を他所に、二人は部屋に入ってくるなり口論し始めた。
「何が不満なんだよ! お前が言ってるのは屁理屈だろ!」
「屁理屈だなんて・・・あの子が何の咎めも受けないなんておかしいって言ってるだけじゃない」
「それだって寝床が是としたんだ」
彼らを見て驚いたのも無理は無い。私に全く気付かない一人は先生だったのだから。もう一人は、短い赤髪に細身の青年だ。顔はあどけなさが抜けたばかりで年若い。たぶん私よりも一つ二つぐらいは下だろう。
先生なら私を知っているはずなのに、ここに私はいるのに彼らは気付かない。まるで見えていないかのように私を無視して口論を続けていた。
声をかけるのも躊躇い、彼らの周りを行ったり来たりしても、一向に気付く気配がなかった。そこで先生に『話しかけて』みても反応がない。彼らに私は見えていないのだ。それどころか、私がここに『いない』感じが彼らからありありと伝わってくる。
夢を見ているのかと疑ってみるけれど、手に触れるもの、聞こえるもの、全て現実的過ぎた。
「悪夢・・・」
口をついて出た言葉は、それでも彼らに拾われる事は無かった。これが夢なら、目覚めようとすればここから出て行くことが出来るだろうか。考えても考えても、思いのほど頭が働かず霧散していく。
どれくらいそうしていただろう。口論に疲れた先生が、ふっと息を零して苦々しげに呟いた。
「私達の代りなど幾らでもいる。私も、貴方もね。そして彼女も」
冷静というよりも温度を取り上げられたような声音にひやりとした。私に向けられた言葉ではないのに、心臓が冷えていく感じがする。
「どちらにせよ、導主に報告しないと。彼女なら扉から何か聞きだせるかもしれないしね」
「ああ、そうかよ! お前には心がないんだな。そうやって・・・」
そこで彼の言葉が途切れた。彼が口篭ったわけではなく、私に声が聞こえなくなってしまったのだ。現に、彼は雄弁に先生を非難しているはずだ。先生の細められた目がふいと彼からそらされたのだから。しかし、あれほどはっきりと聞こえていた音は、分厚い壁に遮断されたように全く聞こえない。
何とかして聞き取ろうと、読唇などしたこともないのに、彼らの口元を目で必死に追う。それなのに、無情にも視界はまたぶれた。
短時間のうちに、何度も場所を転移しているせいで目が眩む。それでも、目を閉じられずにいた。今度はステンドグラスがはめられた窓がある室内で、十代と思われる少女と鏡が何やら話していた。
「何も・・・・・・」
「そう。何もないのに君は突然にいなくなって、理由もなく帰ってきたわけだ」
鏡は淡々と少女を見据えた。二人の険悪な雰囲気が室内を底冷えさせている。いや、険悪なのは鏡だけだ。少女は鏡を見ておらず、視界に入れていなかった。二人に私が見えないように、少女には鏡も映っていない感じがする。
少し場所を移動し、彼らの表情が分かる位置に立つ。鏡が薄い灰とくすんだ緑に身を包んでいるのに対し、少女の服は真っ黒だ。まるで葬式を思わせる衣服は少女には似つかわしくない。
少女からは、見事な白銀の髪に稚い顔立ちだというのに、年老いた空虚さが滲んでいる。死んだ魚のようなというが、まさに少女の目は洞窟に見えた。興味半分で覗き見て身震いする。
鏡は溜息のような吐息をこぼし、少女を一瞥すると苦々しい顔をして部屋から出て行った。その間、少女は微動だにせず虚ろなままだ。
私は怖ろしくなって少女から顔を逸らした。それまで何も映していなかった目が私を捉えた。
「誰? そこにいるの?」
目には映っていないのかもしれない。それでも、私の服は体に張り付き、強張った足は一歩ずつ少女から遠ざかる。
「ねえ、いるんでしょう?」
猫なで声で距離を縮められていく。私の後ろにはもう隙間が無く、壁に押し付けられた背から足にかけて小刻みに震えている。あと一歩というところで、私のブレスレットが淡い光を放つのを感じた。
そして、今度こそという思いは断たれ、数百人は入ろうかという広間にいた。今までと違うのは、私が先にいて後から人が来ていたのに対し、あらかじめ大勢の人々で埋め尽くされていた。
部屋には門が幾つかあり、これから式典が催されるのが部屋の雰囲気から分かった。人々は左右に沿って立っており、最奥にある壇上を熱心に見ている。ここからでは何があるのか分からず、壇上前まで行くと先生と彼、鏡と先ほどの青年が壇上にいた。
「正しき光の内に安らぎの闇を纏い、移ろいの時を刻めん。ここに時の偽りを払い、定めに従い次の時に託す」
「己が内に光と闇を包み、己が時を果します」
青年の両手から緑の玉が光を湛えながら現れる。若々しい芽に似た色が、先生の手に渡ったとたんに赤々と燃えるように色を変えた。同時に割れんばかりの拍手と歓声に包まれる。私にもこれが晴れやかな式典なのが観衆の反応から分かった。
それなのに、当の本人達は浮かない顔だ。先生たちだけではない、彼も鏡も表情を曇らせ、早くこの場から去りたそうにしている。当たり前のように私に気付かない。私もこの場ではそれが有難かった。
「これにて式を終えます」
朗々と高い声が会場に響き渡り、人々は口々に挨拶を交わしながら、時には和やかな笑い声を立てながら去っていく。後に残ったのは、誰の目にも留まることのない私と、壇上の四人、そして式典の終わりを告げた女性だけだった。
「明日からの段取りを話したいんだけど良いかな?」
「構わない」
彼が先生に頷くと、青年が声を荒げて言った。
「ちょっと待てよ。それより春を探すのが先だろ」
先生を睨みつけている青年に、鏡が先生と青年の間に入り青年をやんわりと諭す。
「灯には自分の任がある。帳、君の気持ちも分からなくは無いが、探さないと言っているわけではないんだ。それに扉がいなくなったのは、灯に責任があるわけではないだろう?」
帳と呼ばれた青年は悔しそうに唇を噛んだ。私は、初めて青年が誰かをそこで知った。鏡が話した四人の特殊な力を持つ者達の存在。青年が帳と呼ばれたのは彼が『夏の帳』であり、時を支配するからだ。
「鏡、帳の気持ちを汲んであげて。あの子は私と貴方達二人で探しましょう。灯はいつもどおりに。でも、手を貸してもらえるなら嬉しいわ。貴方も」
女性が彼に向かって言う。彼はすぐに了承したが、帳は納得がいかないようだった。
「春がいなくなったっていうのに、どうしてそんなに悠長なんだ・・・・・・これだけ探しているのに見つからないんだぞ!」
「君は導主の言葉を聞いていたのか?」
鏡が帳へ鋭い視線を投げて、強い口調で正す。鏡に圧されて、不承不承に帳は女性と鏡に連れられて出て行った。最後にちらりと鏡が振り返り、視線を落として彼らに謝った。
「やれやれね・・・・・・帳の性格は分かっていたけれど、どうにかならないかな。自分だけが心配しているとでも思っているのかしら?」
三人が出て行った方向を眺めながら、先生が呆れた声で言う。彼もまた扉を眺めながら言った。
「扉がいなくなってふた月が経つ。委任式が行えず、帳が苦労したのは見ているはずだ」
「ええ、そうね。そして不完全なまま私の番」
彼を盗み見た先生の顔に陰がさした。
私は彼らのやりとりを聞きながら、その後ろで特別な四人の特徴を思い出していた。この世界で最も重要とされるのは、『光の導主』と『闇の寝床』の二人。鏡が言っていた二人の主だ。そして、四人は導主の従者で、四季を司るのだとも聞いた。
「夏の成長が思わしくなかったから、私の時にはもっと影響が出るでしょうね。このままでは貴方にも影響が出る」
「彼女も探しているようだが、手がかりらしいものさえない。このままでは難しいな」
「導主が見つけられないなんて・・・・・・」
「秋の、悪いが当面は俺も協力できないだろう。あちらに行って調べたい事がある」
ここでもまた、突如として彼らの声が、音が聞こえなくなってしまった。それでも、最初の訳も分からずいる状態よりは、ずっとましだと思う。少なくとも、冬の講義は役に立ったのだから。
二人はまだ何か話しているようだったけれど、聞こえないのではここに留まっていても意味が無い。私は開いている扉から出ようと、式場から片足を出したところで、ほんの少しの時間ですっかり馴染んでしまった光が私を包んだ。
今度は随分と長い時間、靄の中にいたように思う。それは、この短時間で詰め込まされた情報を整理するのに良かった。まず、鏡から教わっていた四人のこと。次に、先生が『秋の灯』であり、彼が『闇の寝床』であるだろうことと、『導主』と呼ばれた女性。
そこまで考えたところで私は首を捻った。どうにも何かがおかしい。もう少しでその答えにいきつくところで、急に視界が開けた。
先ほどよりは狭い場所で、円卓に彼を抜かした四人が座っていた。どの顔も沈んでいて、帳に至っては顔に色が無かった。
「任命された者がいなくなるなんて・・・・・・」
先生が信じられないといった顔で呟いた。帳は蒼白のままテーブルをじっと見つめて体を震わせていた。鏡も彼も導主を見つめ、一言も発しない。澱んだ空気の中、導主だけが思案気に口元に手を当てていた。
「明日の委任式にも姿を現さないのであれば、解任して他の者にすれば良いのでは?」
「それは出来ません。任命された力は、印を移さない限り有効であり、絶対です。律を覆すことは、私には無理なのです」
鏡の提案に導主が毅然と反する。導主の言葉に、ただ一人、彼だけが首を横に振った。
「最悪、春なしで式を挙げるしかない。帳、その心積もりで」
彼は導主を見た後に青年に静かに語りかけたが、帳は体を縮めて手を握るだけだった。彼の言葉に反応したのは帳だけではなく、先生もまた眉を寄せ、引き締めた口元から不安が覗く。
「見つからなかった場合、最悪はどうなる?」
帳は、ぼそぼそと呟くように彼に問うた。が、彼からの返答は無かった。それが全てだというように、導主が痛ましげに目を伏せる。
「導主、時間はどれくらいありますか? 彼女が戻ってきて、正常に戻るまでにはどれほど?」
「少なくとも一時は」
それが長いのか短いのか、私には判然としなかったが、彼らには思わしくない時間だったのだろう。質問した鏡が顎に当てていた手を額へと移し、息を吐き出した。憂いが濃厚な空気を変えたのは彼だった。
「時間があるなら、最善を尽くすべきだな。出来ることは多くないが、全くないわけでもない」
「何か方法が? そう言えば、君はあちらとも頻繁に行き来していたね。手がかりが見つかると思ってるわけか?」
彼は軽く頷いて、楽観は出来ないと言いつつも、微かな希望だがと告げた。同時に、それまで俯いていた帳が勢い良く顔を上げ、彼に懇願のまなざしを向ける。先生も彼をじっと見つめていた。そうして彼に視線が集中してから数秒の沈黙の後に、導主が口を開いた。
「お願いします」
たった一言が重く辺りに波紋し、溶けていく。導主の疲弊した声に彼が短く答え、彼の目が痛ましそうに細められた。
その時、私のブレスレットが光りだしたのに気付き、襲いくる脱力感から逃れようと体に力を込めた。不思議なことに光の靄に包まれながらも、彼らの声は鮮明に聞こえ続けていた。こうなった時は音という音が遮断されていたのに、今回は違うようだ。淡い期待に胸を躍らせて、私はまた時を越えた。
2009/07/17