森の中で
7) お別れと
外は雪でした。
積もらないほど、淡い雪でしたが、寒くて外に出る気にもならず、穴の中で、凍えそうな両手に息を吹きかけていると、外からコズミさんがやって来ました。
「やあ、ハインリヒ、碁でもしに来んかね。」
コズミさんは、白いたっぷりとしたひげを撫でながら、ハインリヒを誘います。ハインリヒは、穴にひとりでいる気にならず、はいとうなずいて、先に立って歩き出すコズミさんを追いました。
コズミさんの穴は、ハインリヒの穴よりも、少しだけ暖かく、ハインリヒを先にテーブルに坐らせて、いい匂いのする葉っぱを煮出したお茶をいれてくれました。
お茶は、熱くておいしくて、ハインリヒは、両手でカップを抱えて、少しずつお茶を飲みました。
小さなテーブルの上に、碁盤を置いて、コズミさんが向かいに、腰を下ろします。
白と黒の石を使って、その石を、碁盤の上の、決められた位置に動かして置きながら、ふたりは、時々お茶をすすって、真剣な面持ちで、ゲームの成り行きを見守っています。
コズミさんの方が強いのですが、どうしたのか、今日は、ハインリヒの方が勝っています。
ふたりとも、時々、うなったり、小さく笑ったりしながら、碁盤の上に、真剣な視線を注いでいました。
最初はコズミさんが勝ちましたが、2回目はハインリヒが勝ち、お茶がすっかり空になった頃には3回目が始まり、それもまた、ハインリヒが勝ってしまいそうでした。
コズミさんは、いつもならしないような、小さなミスばかりを繰り返していて、どうしたんだろうと、ハインリヒは思いました。
3回目も、ハインリヒが勝ってしまいました。
コズミさんは、いつものくせで、白いひげを撫でながら、ほんの少し困った顔を見せます。
「ふむ、どうやら今日は、無理なようじゃな。」
何が無理なんだろうと、思っていると、コズミさんは椅子から立ち上がって、
「お茶のおかわりはどうかね?」
と、ハインリヒに訊きました。
うなずく代わりに、空になったカップを両方取り上げて、穴の奥へゆくコズミさんと肩を並べます。
たくさんの箱が並んだ、反対側の壁際には、小さな石をぐるりと積んだ中に、小さな火が燃えていました。
コズミさんは、薬缶の中に葉っぱを少し放り込んで、火にかけました。
「このお茶も、そろそろ終わりじゃな。」
ひとり言のように、コズミさんが言いました。
あちらの壁際に並んでいる箱も、いつもの冬なら、どれにもたくさん、きゃべつやにんじんやブルーベリーが詰まっているはずなのに、今年の冬は、もう、それも空っぽなのだと、村のみんなは知っています。
今年の冬が寒いのは、いつもお腹が空いているからなのだと、どこかの母親うさぎが話しているのを聞いたのは、先週のことです。
あとどれほど、村に食べるものが残っているのか、ハインリヒはよく知りません。一日に一口か二口だけ、二度かじるにんじんと、いつも森へ持ってゆくかごの中に、ブルーベリーが半分くらい、それも多分、あと10日もすれば失くなってしまうでしょう。
自分の食べるものが失くなることに、あまり不安はなく、けれど、村のみんながどうなってしまうのだろうかと、ハインリヒはいつも考えていました。
村の大人や、子どもや、コズミさんは、一体どうするのだろうと、そんなことばかり考えています。
誰もかれも、不安だから、口には出さず、ただ黙って、残り少ないきゃべつやにんじんを食べています。
薬缶の口から、白い湯気が吹き出し始め、コズミさんは、ハインリヒの手にあるカップに、こぽこぽとお茶を注いでくれました。
「・・・みんな、冬を越せますか?」
コズミさんが、傾けていた薬缶をまっすぐにして、ハインリヒを見つめました。
ぱちぱちと火の燃える音だけが聞こえ、急に、しんと静かになります。コズミさんにも、わからないことがあるんだなと思って、それ以上は聞かずに、テーブルの方へ戻ろうとすると、コズミさんが、ようやくぼそりと言いました。
「・・・どうじゃろうな。冬は長い。ここを出て、どこか別のところへ、もっと食べもののたくさんあるところへ、移動した方が、いいのかもしれん。」
「移動?」
「ほかのところなら、食べるものも、きっとある。」
コズミさんは、まるでハインリヒを励ますように---ほんとうは、きっと、自分を励ますために---そう言いました。
「まだ、みんなが元気なうちに、ほかのところへ、行った方がいいかもしれん。」
コズミさんの、暗くなった横顔を見ながら、ハインリヒは、手の中のカップを傾け、お茶をすすりました。
カップの影に隠れた瞳が、ほんの少しうるんでいるのを、コズミさんに、見られたくなかったのです。
「さあ、もう一勝負しようか。」
黙り込んでしまったハインリヒの---そして、コズミさん自身の---気持ちを引き立てるように、そう、少し明るく言ったコズミさんに、ゆっくりとうなずいて、ハインリヒは、こぼれそうになった涙をがまんするために、こっそりと一度、大きく瞬きをしました。
雪の積もった森の中は、しんとしていて、さくさくと、雪を踏みしめる音だけが聞こえます。
ハインリヒは、いつものかごを肩にかけ、白い息を吐きながら、雪に埋もれた爪先を持ち上げながら、ゆっくりと森の中を進んでゆきます。
雪道を歩くのに慣れておらず、何度目か転んで、ハインリヒは、体を起こして、頭をぷるぷると振りました。雪をかぶった耳が大きく揺れて、白い湿った雪が、回りに飛び散ります。
顔から雪を払って立ち上がり、また、歩き出しました。
冬の初めに、最後に来た時よりも、長い長い時間をかけて、ようやくたどり着いたのは、倒れていたジェロニモを見つけた、あの木の根元でした。
ハインリヒは、かごを肩から外して、木の根元にうずくまりました。
ぽんぽんと、積もった雪の表面を軽く叩いて、それから、さくりと、前足を雪の中に差し込みます。
冷たい雪を、揃えた両前足で、ゆっくりとかき起こし始めました。
雪は、思ったよりも固く凍っていて、時々爪を出して、表面をひっかきながら、はあはあと、白い息を吐いて、堀り進んでゆきます。
目の前にできた、雪の穴に、顔が全部埋まってしまうようになった頃、やっと、黒い地面が、指の先に当たりました。
あ、と声を上げて、大きく前足を振って、雪を全部かき出します。
底を広げた穴の、いちばん下に現れたのは、ちょこんと置かれた、ハインリヒの揃えた前足ほどの大きさの石でした。
「あった・・・」
かき出した雪でできた、小さな雪山の傍から、さっき置いたかごを引き寄せ、ハインリヒは、中から、ほんのひとつかみほどのブルーベリーを取り出しました。
前足を伸ばし、穴の底、石のすぐ傍に、そのブルーベリーを、ころんと置いて、それから、くふんと鼻を鳴らします。
もう一度前足を伸ばして、石の表面を撫でながら、ハインリヒは、ぎゅっと目を閉じました。
ついに雪が降って、積もって、溶けて、また雪の降るその合間に、ある日ハインリヒは、背中を押されるように、森の中へ入ってゆきました。
しんと空気の冷たい森には、もう、探すものなどないのに、いつまた雪が降り出すか、わからないのに、夢中でハインリヒは、森の中を走りました。
胸がどきどきして、耳の奥がきーんと痛くて、早く早くと、どこかで声がしていました。
誰かが呼んでいると、そう思いながら、もう、何度も来たことのある森の道を走り、そうしてたどり着いた、グランベリーの繁みの傍の穴に、ジェロニモの姿は見当たりませんでした。
「ジェロニモ!」
穴の中に、声が響いて、ハインリヒの大きな耳は、痛みにぴくぴく震えました。
外に出て、辺りを見渡し、それから、走りながら、またジェロニモを呼びました。
返事はなく、やみくもに走り回った森の中で、初めて出会った木の根元に、大きな、茶色い体が、横たわっているのを見つけた時には、ハインリヒの耳も顔も、冷たい空気に真っ赤になっていました。
「ジェロニモ・・・?」
一体、いつ、ここへ来たのか、ジェロニモの体は、冷たくて固くて、閉じたまぶたは動かず、大きな足は投げ出されて、どんなに呼んでも応えてはくれません。
肩の辺りを揺さぶっても、がくがくと揺れるだけで、起きてはくれません。
ハインリヒは、その体の傍に、ぺたんと坐り込んで、開かないまぶたを、じっと見下ろしました。
「行っちゃったの・・・?」
触れなくても、はっきりと見える、肩の骨の形に手を伸ばして、撫でながら、声がかすれるのを止められません。
「戻って来ないの・・・?」
もしかすると、今にも目を開いて、のそりと起き上がるのではないかと、ハインリヒは、しんぼう強く待ちました。
肩を揺すって、耳をつまんで、じっと、閉じたままのまぶたを見つめて、ハインリヒは、待ちました。
冷たい風が、ぴゅうっと吹いて、ハインリヒの、大きなたれた耳を揺らして、寒さにふるりと肩を震わせても、ジェロニモは、目を覚ましませんでした。
ねえ、と、小さな声で言いました。
「・・・ボクを、くえば、よかったのに。」
ぼそりと言って、ころんと涙がこぼれました。
最初の涙が、ジェロニモの、茶色い体の上に落ちると、あとからあとから、ぽろぽろと涙があふれてきます。
泣きながら、ハインリヒは、いつもそうしていたように、ジェロニモの耳の後ろを、毛づくろいし始めました。
乾いて、ちくちくと舌に刺さる茶色の毛が、ハインリヒの涙に湿って、塩からくて、それを、おかしく思えば思うほど、次から次へと涙がこぼれます。
「ひとりぼっちは、やだよ・・・」
しゃくり上げながら、そう言いました。
前足で、傷だらけのジェロニモの顔を撫でると、どうしてか、口元が、ほんの少し、微笑んだように見えました。
石の下には、ジェロニモがいます。
ジェロニモのいる場所を、忘れないように、石を置いたのは、ハインリヒでした。
春になったら、きゃべつやにんじんを、たくさん持って来ようと、そう思っていたのに、今日、ほんの少しのブルーベリーしか持って来れなかったことを、申し訳なく思いながら、ハインリヒは、石に向かって頭を垂れました。
「あのね、別のところへ行くんだって。あの村には、いなくなっちゃうんだ。」
コズミさんが、村のうさぎみんなに、そう言ったのは昨日のことでした。
食べものが失くなってしまうその前に、どこか別の、食べもののまだたくさんあるところへ移動しようと、コズミさんは、村のみんなに伝えました。
大人たちは、不安気な顔つきで、けれど誰も、それ以上いい考えも浮かばず、弱々しくうなずいて、それから、騒ぎ始めた子どもたちをなだめながら、いつ、村を出て行くのか、みんなで相談し始めました。
「あさって、村を出るんだって。」
また、前足を伸ばして、石を撫でました。
「だから、もう、会いに来れないと、思う。」
撫でる石に、ぽとんと、涙が落ちました。
くすんと鼻を鳴らして、目をぎゅっとつぶると、耳がふるふると震えます。
「ごめんね、もっとたくさん、食べもの持って来れればよかったのに。」
ハインリヒの穴に残った、これが最後の食べものでした。
こぼれる涙をぬぐいながら、石を撫で、ハインリヒは、ジェロニモの、あたたかくて、大きな腕を思い出していました。
前足が、涙でびしょ濡れになって、くしゃくしゃになった顔を、ハインリヒは、大きな耳で、ごしごしぬぐいました。
耳で顔を隠したまま、小さな小さな声で、ハインリヒは言いました。
「・・・ずっと、一緒に、いたかったのに・・・」
そう言った途端、また涙がにじんで、あの日、動かないジェロニモを、ここで見つけた時のように、止まらない涙をどうしようもなくて、ハインリヒは、濡れてしまった耳を、ぺろぺろと、毛づくろいするふりをしながら、なめ続けました。
もう、戻ってくることのないだろう森の中で、ハインリヒは、いつまでもいつまでも、ひとりで泣き続けていました。
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