森の中で


6) 冬将軍

 ハインリヒが、毎日、集めたブルーベリーや、村の畑でとれたきゃべつやにんじんを、ジェロニモのいる穴に運んでいる間に、ブルーベリーやクランベリーの繁みは、どんどん森の中に少なくなってゆきました。
 新しい実がなるのは、きっと冬が終わった後なのだろうと思って、ハインリヒは、少しずつ悲しくなりながら、それでも一生懸命、新しい繁みを探します。
 「ここも、もう、ないね。」
 寒い寒いと、羽を丸くふくらませながら、頭のてっぺんに止まっているジェットも、ハインリヒの手元をのぞき込んで、ちぇえっと舌を打ちました。
 「ブルーベリーはもう、あきらめなきゃな。」
 ジェットが、少しふてくされたように言います。
 ハインリヒの、たれた大きな耳を、片方取り上げて、くるりと小さな自分の体を包むと、はあっと息を吐いて、くちばしでハインリヒの頭をつつきました。
 「山犬なんかに食わせるから、自分の分がなくなるんだぜ。」
 「ボクはいいけど・・・」
 まだ空っぽのかごをちらりと見てから、ハインリヒはつぶやきました。
 村では、あれからもう一度、収穫がありましたが、前よりももっと小さなきゃべつと、細い短いにんじんが、ほんのちょっぴりとれただけで、村のみんなは、ほんとうにがっかりしていました。
 いつもは、にこにこしているコズミさんも、少しばかり心配そうな顔をすることが多く、ハインリヒに、碁をやろうと言うことも、最近はありません。
 「今年の冬は、たいへんそうだって、コズミさんが言ってたけど・・・」
 「一体、どうしちまったんだか。」
 ジェットが、ため息をつきながら言います。
 ハインリヒの暖かな耳にくるまれて、ぶるりと肩を震わせて、文句を言うように、ちいちいさえずりました。
 「山犬さんのジェロニモに持って行くクランベリーもないし・・・」
 ジェットがまた、大きなため息をこぼします。
 「いいかげんに、自分のことも考えろよ。冬の食料がないって、たった今言ったばっかりだろう。」
 「でも、ジェロニモも、おなかをすかせてるよ。」
 「腹がすいてるのは、あいつだけじゃないだろ?」
 ハインリヒは、ジェットに怒られて、黙り込みました。
 村のうさぎたちは、近頃、冬の食料のために、いつもおなかをすかせています。
 子どもたちが、泣いてひもじがれば、大人たち---特に、ハインリヒのように、若くて元気なら---は、自分たちの分をがまんして、子どもや老人に、自分たちの分け前をあげてしまいます。
 ハインリヒは、森のブルーベリーやクランベリーを、できるだけたくさん、村にとって帰っていましたが、それもどうやら、そろそろおしまいのようです。
 しゅんとなって、足元を見下ろして、ハインリヒは、こっそりため息をつきました。
 今日はどうやら、ほんとうに、ジェロニモに持って行く分も、村に持って帰る分も、何も見つけられそうにありません。自分の穴にあったきゃべつもにんじんも、コズミさんのところへ、昨日戻してしまったばかりです。
 寒がりなジェットに頼んで、一緒にブルーベリーを探しに来てもらったのも、徒労に終わってしまいそうで、ハインリヒは、肩を落として、途方に暮れていました。
 ジェットが、言いすぎたと思ったのか、ハインリヒの耳を外して、慰めるように、またつついてきます。
 そんなジェットに笑いかけようとして、上を見上げた時、鼻の先に、ふわりと冷たいものが当たりました。
 「・・・雪だ。」
 ジェットが、小さな声で言いました。
 「そろそろ、春まで、お別れだな。」
 「そうだね。」
 雪が降ると、凍えて羽の動かなくなってしまうジェットは、雪解けまで、どこかへ姿を消してしまいます。
 ジェットのおしゃべりが聞けなくなるのを、ハインリヒは、とても淋しいと思いました。思って、たれた耳を、ぴくんとさせました。


 ジェットと別れて、ブルーベリーとクランベリー探しを諦めたハインリヒは、空のかごを下げたまま、ジェロニモのいる穴へゆきました。 
 ジェロニモは、地面に横になっていて、ハインリヒの足音に、のろのろとこちらを向きました。
 初めて会った時に比べると、ジェロニモはすっかりやせてしまい、近頃は、穴から外へ出ることもありません。体を起こすのも大変そうで、茶色の毛も、乾いて、触ると痛いほどでした。
 ジェロニモの顔の前に、ぺたんと坐ると、空のかごに、あごを振って、ハインリヒは悲しそうに、ジェロニモを見下ろしました。
 ジェロニモは何も言わず---もう、しゃべることさえ、億劫なのかもしれません---、ただ、いつもと変わらない優しい瞳で、ハインリヒを見返して、うっすら微笑みました。
 ジェロニモの頬に手を伸ばして、ハインリヒは、慰めるように、撫でました。
 「雪が降ったよ。」
 ジェロニモの瞳の光が、すっと弱まります。
 「ボクの村に、行こうよ。ここにいたら、動けなくなっちゃうよ。」
 もう、何度も言った同じことを、ハインリヒは、泣き出しそうになりながら、また繰り返しました。
 ジェロニモは、いつもと同じように、それにはうなずかず、ただ黙って、ハインリヒを見返します。
 「雪が降ったら、ボク、ここに来れなくなっちゃうよ。」
 雪が積もれば、森の中へは、入って来れなくなります。そうなれば、ジェロニモは、ここで、ひとりきりで冬を越さなければなりません。そんなことができるとは、とても思えませんでした。
 ジェロニモの大きな肩---すっかりやせて、骨張っています---を、ハインリヒは両手で揺さぶりました。
 ハインリヒに、されるままになりながら、ジェロニモはそれでも、うっすらと微笑んだまま、ハインリヒを見つめていました。
 ジェロニモが、大きな手を伸ばして、ハインリヒの耳に触れました。
 「おれ、もうすぐ死ぬ。心配ない。」
 ハインリヒの、水色の瞳から、涙があふれました。
 「いやだよ。」
 言いながら首を振ると、こぼれた涙が散って、ジェロニモの手を濡らします。
 「いやだよ。」
 もう一度、言いました。
 今度はジェロニモが、ゆるゆると首を振ります。ハインリヒの、柔らかくて長い大きな耳を撫でながら、目の前で泣き出したハインリヒを慰めるように、微笑みは絶やしませんでした。
 「おなかがすいてるから、死ぬの?」
 ジェロニモの、大きな手に、両手を添えて、濡れた頬をすりつけながら、ハインリヒは訊きました。
 困った顔をして、ジェロニモが、ゆっくりと瞬きをしました。
 「村にゆけば、食べ物があるよ。そうしたら、死なないよ。」
 おなかをすかせている、村の大人たちのことを考えながら、それでもハインリヒは、そう言わずにはいられませんでした。自分がもらうはずのにんじんやきゃべつを、全部ジェロニモにあげてもいいと、そう思いました。
 ジェットの怒った顔が、目の前に浮かびましたが、目の前で、弱々しく微笑んでいるジェロニモを見れば、きっとジェットもわかってくれるだろうと、そう思いました。
 ジェロニモがまた、ゆるゆると首を振りました。
 「山犬、きゃべつやにんじん、ほんとうは食べない。だから、もうすぐ死ぬ。」
 ハインリヒは、泣くのを一瞬やめて、ぎゅっとジェロニモの手を握ります。
 「・・・山犬は、うさぎや小鳥をくうの?」
 ふたりの間でそれは、決して口にはしないことでした。
 涙を止めて、じっとジェロニモを見つめて、ハインリヒは、唇を真横に結びました。
 ジェロニモが、まるで、眠るように、長く瞳を閉じて、開いて、大きな茶色の耳を、ぴくぴくと動かして、ようやくハインリヒに答えました。
 「山犬、おそろしいいきもの。いきもの殺して、食う。」
 ハインリヒは、もう、泣くことも忘れていました。
 ハインリヒの小さな手を握り返して、ジェロニモは、その大きな口を、ゆっくりと動かします。
 「おれ、山犬。でも、いきもの殺さない。殺したくない。だから、群れ、離れた。その時、ケガした。この森に逃げて来た。おまえ、助けてくれた。」
 ハインリヒはまた、水色の瞳から、涙を流し始めました。
 「おれ、おそろしいいきもの、だから、おまえの村には、行けない。」
 「でも、このままじゃ、死んじゃうよ・・・。」
 どうしていいのかわからず、ブルーベリーが見つからなかった時よりも、もっと途方に暮れて、ハインリヒはただ、ジェロニモの手を、ずっと握りしめていました。
 ジェロニモは、山犬だけれど、おそろしいいきものではないのだと言ったら、コズミさんはわかってくれるだろうかと、そんなことを考えて、もし、自分のきゃべつやにんじんを諦めたら、ジェロニモは冬を越せるだろうかと思って、突然、思いついたことがありました。
 ジェロニモの手を握ったまま、ハインリヒはまた、涙を止めて、こくんと喉を鳴らしました。
 「・・・ボクを、食べる?」
 言った途端、たれた耳が、そう言ったハインリヒを応援するように、ぴんと立ち上がりました。
 「ボクを食べたら、元気になる?」
 おなかをすかせて、ジェロニモよりももっとやせっぽっちだから、あまりおいしくはないだろうけれどと、ちょっぴり残念に思いましたが、それはとても素晴らしい思いつきに思えて、ハインリヒは必死になりました。
 「ボクを食べたら、きっと元気になるよ。」
 ジェロニモのおなかが、いっぱいになるとは思えませんでしたが、少なくとも、きっと立ち上がって、この穴から出て行けるくらいには力が湧くだろうと思って、ハインリヒは、今すぐにでも、ジェロニモに自分を食べて欲しいと思いました。
 ジェロニモは、呆気に取られた顔で、握られた手と、ハインリヒの、ほんとうに真剣な表情を交互に眺めて、無言のまま、そんなことを何度も繰り返してから、ようやく、低い声で、ありがとうと言いました。
 「ともだち、食べない。」
 首を振って、きっぱりとジェロニモは言いました。
 「おれ、死ぬ。でも、いつもおまえとともだち。」
 「死んじゃったら、もう、一緒にブルーベリーもクランベリーも食べられないよ。」
 ジェロニモがまた、うっすらと笑います。
 握られていた手を取って、ハインリヒの胸の辺りを指差すと、信じられないほど力強い声で言いました。
 「おれ、死ぬ。でも、いつもここにいる。いつも、一緒にいる。」
 ジェロニモの指先を見下ろして、ハインリヒは、こっくりとうなずきました。
 ジェロニモの言っていることが、何もかもわかったわけではありませんでしたが、何か、とても大事なことを伝えようとしてくれているのだと、それだけはわかりました。
 大切なことを伝えるために、ジェロニモが、最後の力をふりしぼっているのだと、それだけは、確かでした。
 ジェロニモを見つめていると、また、涙があふれてきました。
 水色の目を、ごしごしとこすって、自分に微笑みかけているジェロニモに、笑い返すことができないまま、ハインリヒは、たれた耳の陰に、濡れた頬を隠しました。
 「毛づくろい、するね。」
 もう、体を起こすことさえできないジェロニモの、乱れた毛並みを、少しでもきれいにしようと、ハインリヒは、立ち上がって、ジェロニモの背中の方へ行きました。
 ばさばさに乾いた背中の毛を、両手で撫で、一生懸命舐めました。
 骨張った肩の毛をきれいにして、耳の後ろを舐めると、ジェロニモが、気持ち良さそうに、目を閉じているのが見えます。それを見て、ハインリヒは、耐え切れずに、声を上げて泣き出しました。
 ジェロニモが、肩を回して、ハインリヒの方へ向き直りました。
 泣いているハインリヒの頭を撫で、自分の胸に抱き寄せました。
 「大丈夫、心配ない。」
 しゃくり上げながら、耳を震わせて、ハインリヒは、いつまでもいつまでも、ジェロニモの胸に顔を埋めたまま、泣き続けました。