うわさになりたい
その3


「夜」

 車から降ろして、腕を取って支えて、肩は揺れていたけれど、足取りはしっかりしていた。
 酔いのためなのか、頬と首に上がった血の色から目を離せず、けれどうつむいたままで、表情はよく見えない。
 ドアを開けて、自分で靴を脱ぎながら、何もない床の上でつまずいたハインリヒの体を、ジェロニモがまた、慌てて支えた。
 思いもかけずに真正面から抱き合うと、顔を上げて、酔いにうるんだ目が見上げてくる。その瞳を、のぞき込もうとするより一瞬早く、普通に見える左手と、革手袋の右手が、ジェロニモの上着の襟をつかんで、強く手前に引いた。
 音がしそうに、唇がぶつかって、酒の匂いに眩暈がしそうだと、思った時には、するりと舌が入り込んできていた。
 先夜の、毛をむしり取られた兔のようだったのは、一体どこの誰だったのだろうかと、舌を取られながら思う。
 覚えのある、ジンの匂いに、ジェロニモも酔っ払いそうだった。
 唇が離れると、目の前に、にやりと笑った、赤い顔があって、それから笑い声が立ち、ハインリヒは、ジェロニモから手を離して、コートの内側に手を差し込んだ。
 胸のポケットを探って、また手を抜き出すと、その手をジェロニモの胸に押しつけた。
 「ほら。」
 思いがけない強い声に促されて、その手の行方に目を落とすと、そこには、1ダースばかりのコンドームと、ローションらしい小さな容器があって、離れてゆくハインリヒの手から、それを受け取りながら、ジェロニモは、一体どんな顔をすればいいのか、わからなかった。
 することをするつもりなら、それなりの用意がいると言ったのはジェロニモだったけれど、まさかハインリヒが、こんなものを持って来るとは思ってもみなかった。
 常にそのつもりでいる連中は、こんなものを、いつも手元に置いている。そんなつもりのないジェロニモには、縁のない話だったし、ハインリヒも、こんなものを持ち歩くようにも見えない。
 だから、こんなふうに酔う必要があったのかと、問いはせずに納得しながら、受け取ったそれごと、またハインリヒを抱きしめた。
 何か言う間さえ与えずに、また、唇が重なってきて、ふたりで、何度も床に倒れそうになりながら、ベッドルームへ行った。
 ハインリヒは、ふらふらと、ジェロニモに支えられて歩きながら、隠す様子もなく服を脱ぎ捨て、まるで何かの目印のように、くしゃくしゃのコートやシャツが、床に点々と落ちてゆく。
 ベッドに倒れ込むと、ジェロニモが服を脱がすのを助けるために、素直に体を浮かせ、ハインリヒは、手足を投げ出して、声を立てて笑っていた。
 奇妙に陽気な笑い声は、胸やみぞおちを揺すり、ジェロニモは、つられてうっすらと笑うと、くたりと伸びたハインリヒの体をベッドの端まで引き寄せて、両足を抱え込んだ。
 ベッドには上がらず、床に膝をついて、開いた膝の裏に、驚かせないように、そっと唇を当てる。
 一体、どんな姿勢でいるのか、わかっているのかいないのか、ハインリヒはまだ、くつくつ笑い続けている。
 それでも、脚を取って肩に乗せ、唇を寄せると、息を飲んで、突然笑うのをやめた。
 ベッドの上で、体をねじって、唇を腕で覆って、頭を軽く振っている。
 また、そろりと唇で触れた。
 抱え込んだ脚が硬張って、抗うようにもがいたけれど、右腕が、ジェロニモの頬に伸びてきて、引き寄せようとさえする。
 その、硬い掌を、あやすように撫でてやると、ハインリヒが初めて、小さな声を上げた。
 片足が床へ落ちて、ジェロニモを蹴る。
 腿の内側を撫でると、体が浮いて、ベッドがきしんだ。
 もれる声に切れ目がなくなり始めた頃、ジェロニモは、ハインリヒが持って来たローションをそっと手に取って、掌の上であたためてから、驚かせないように用心しながら、指先を滑らせた。
 声が止まり、閉じようとする膝を、肩で優しく押し返して、そろそろと指を進める。
 じれったいほどの時間をかけて、ようやく指を増やしてから、唇を外して、やっとベッドの上に上がった。
 ローションを足して、また指を埋めると、そうしてのしかかるより先に、ハインリヒの両腕が、首に巻いて、抱き寄せに来る。
 ねだるように突き出された唇を、軽く噛むと、体が浮いて、濡れた舌が動くのが間近に見えた。
 ハインリヒの右手が、もう、隠そうとする気配もなく、ジェロニモの、腕や肩や背中を這い回る。
 決して、すべてがなめらかではないその掌の表面が、時折肌に引っ掛かる。そのたびに、ぞくりと背中に這い上がるものがある。
 音を立てて唇を合わせながら、ハインリヒは、全身をうっすらと血の色に染めて、もっと先を促すように---そうと、自分で気づいているのだろうか---、ジェロニモの手に腰を押しつけてくる。
 最初ほどの抵抗もなく、差し入れた指を動かせることを確かめて、ジェロニモは、ハインリヒの内側で指をほどいた。
 どうしようかと、一瞬逡巡して、正面から、ハインリヒの、開いた両脚の間へ滑り込む。
 後ろからの方が楽なような気がしたけれど、そんな姿勢は、ハインリヒがいやがるかもしれないと思った。大丈夫かどうか確かめるのに、顔が見えた方がいいとも思った。
 躯を押しつけて、それから、撫でるような穏やかさで、様子を探る。
 覚悟を決めたように、ハインリヒが唇を噛みしめたのを見て、傷つけないようにそっと、躯を繋げようとした。
 あごが天井を向いて、反り返った喉が、声を出さずに動く。
 先走ろうとする自分と、あきらめてしまおうとする自分と、その両方を同時になだめて、ジェロニモは、そうやって入り込んでゆくハインリヒの内側の熱さに、いっそういとしさが増すのを感じていた。
 明らかに、苦痛の方が勝る動きに、ハインリヒはそれでも耐えようとして、色のない唇がさらに白くなるほど、そこに歯列を食い込ませていた。
 ハインリヒを傷つけないことだけに腐心しながら、どんな表情も動きも見逃すまいと、ジェロニモは、その横顔にじっと目を凝らしている。
 つらいのは、ハインリヒだけではなかったけれど、痛みを与えているのは自分だと思って、何度も何度も、途中で進む躯の動きを止めた。
 そうして、ハインリヒの呼吸がおさまるのを待って、また少しずつ、前へ進む。
 自分を抱く、ハインリヒの腕に励まされて、まだ大丈夫だと、自分に言い聞かせながら、ようやく、体を前に倒して、ハインリヒと胸を重ねた。
 白くなった唇を撫でると、やっとジェロニモの方へ向いて、瞳が、ものも言わないまま、様々なことを語りかけてくる。ほんの少しだけ躯を動かして、また喉が反ったすきに、あごを軽く噛んで、開いた唇を、素早く唇で覆う。
 舌先を、あやすように甘噛みしながら、少しだけ強く、肩を動かした。
 喉の奥でもれた悲鳴が、頬の内側の粘膜を震わせた。
 あふれた唾液が絡む。躯の奥で熱を重ね合わせながら、ジェロニモは、そっとハインリヒの下肢に手を伸ばした。
 拒むように、一瞬もがいて、それから、溶けるように躯が開いた。
 苦痛と、そうではないものの混じった感覚と、どこまでは何なのか、ハインリヒにも、ジェロニモにも、もうわからなかった。
 差し出す舌が、ジェロニモの呼吸を奪う。唇がほどけ、声が上がる。
 ジェロニモはもう、それ以上、ハインリヒの中で動くことをやめた。
 ゆっくりと躯を引きながら、包み込んだ手を動かした。その手の動きに応えて、驚くほどあっけもなく、掌に熱があふれる。あふれた熱をそそのかすと、そこから先は、さらにあっけなかった。
 体をねじり、肩を喘がせるハインリヒの背に、穏やかに唇を落とすと、性急さを恥じるように、ハインリヒが体を縮める。
 汗に濡れた背中に、ジェロニモは、ふっと小さな笑いをもらした。
 必死なさまに、いじらしさが増して、だから、いとしくて、無理はさせたくなかったのだと言えば、もっと羞恥に頬を染めて、ここから逃げ出してしまうかもしれないと思った。
 ハインリヒが、ようやく見つめ返してくるのを受け止めながら、そこも汗に濡れた額に、唇を当てた。
 「あんたは・・・いいのか?」
 瞳が、下の方へ動く。口元が、心配そうに、下がる。
 ふたりで、同じ場所へ視線をずらしてから、ジェロニモはまた、ハインリヒへ視線を戻した。
 「心配しなくてもいい。」
 体を起こし、ハインリヒに背中を向けて、後始末をしながら、肩から振り向いた。
 「無理をして、もう絶対にいやだと言われる方が困る。」
 冗談めかして言うと、ハインリヒが、少しばかりの困惑を混ぜて、笑い返してくる。
 シャワーを浴びて来ようと、立ち上がるより一瞬早く、ハインリヒも体を起こして、ジェロニモの肩に、顔を乗せてきた。
 逃がすまいとするかのように、ジェロニモの腰に両腕を回して、そうして、首筋に、頬をすりつけながら、小さな声で言った。
 「・・・別に、いやじゃ、ない。」
 あんたとは、と間を置いて、続いた。
 胸と背中を重ねて、まだ冷え切らない体を、そうして抱き合ったまま、ふたりは、互いの呼吸の音だけを聞いていた。



「シャツと靴下」

 目覚めてまた、ひとりだった。
 けれど、伸ばした掌の先には、まだぬくもりがあって、慌ててベッドを降りると、床から拾い上げた衣服を、最小限だけ身に着けて、ジェロニモは部屋を飛び出した。
 その途端に、キッチンで、こちらに背を向けているハインリヒを見つけ、安堵とともに、その後姿に、思わず眉を寄せる。
 どう見ても、大きすぎる白いシャツはジェロニモのものだった---道理で、床の上に見当たらなかったのだと、思った---し、そこから伸びた素足に視線を下ろして、それもまた大きすぎるように見える、自分の靴下も見つける。
 キッチンの方へ近づくと、気配で、ハインリヒがこちらへ振り向いた。
 「ああ、起こしたのか、悪かった。」
 照れくさそうな、薄い笑みが浮かんで、それから、目元がうっすらと染まる。
 シャツの、肩の線が、少なくともあるべき位置から10cmは落ちている。カウンターを背に、こちらを向いた爪先には、余った靴下の爪先が見えた。
 両方が、自分のものだと、言わずに、子どもの、微笑ましいいたずらを見つけたような表情をつくって、白い襟に手を伸ばす。
 その手の行方を目で追いながら、ハインリヒがまた、ひと刷け照れを濃くする。
 「・・・自分の服が、どこにあるか、わからなかったんだ。」
 玄関から、服を脱ぎ散らかしながら、ベッドルームまで行ったことを思い出す。後ろの方へ目をやると、リビングのソファに、まとめて積み重ねられた、ハインリヒのコートは薄いセーターが見えた。
 「これは・・・?」
 素足の爪先を、まるでそれ自体がおしゃべりでもしているように動かして、ハインリヒの、余った靴下の爪先を踏む。
 それを見下ろして、困ったように、眉に指先を滑らせながら、ハインリヒが言葉につまる。
 「それは・・・」
 シャツだけでは、寒かったのだろうかと、いたって現実的なことを考えていると、ハインリヒが、うつむいて、顔を隠してから、小さな声で言った。
 「・・・随分と、体の大きさが違うもんだと、思っただけだ。」
 それが、言葉通りの意味だけではないのだと、ジェロニモも一瞬に悟る。
 ジェロニモは、言葉を探す間をごまかすために、また、靴下の爪先を何度も踏んだ。
 一度シャツの襟に伸ばした指を、今度は、ハインリヒの頬に伸ばす。あごに添えると、顔が持ち上がり、まだ視線を合わせてくれないハインリヒの瞳が、斜め下へずれる。
 中途半端に伸びた首のせいで、ボタンを全部とめない胸元から、鎖骨が見えた。
 シャツの襟の陰に、色の違う右肩が見える。明るいところでしげしげと眺めたことはまだない、右腕の接なぎ目だと思って、思った瞬間、そこへ指先を滑り込ませていた。
 反射のように、ハインリヒがその手をシャツの上から押さえる。けれどジェロニモは、力任せにシャツを肩から滑り落とし、ハインリヒの右肩を剥き出しにした。
 体を右によじったハインリヒを抱きすくめて、抗うのを許さずに、鉛色の右肩に唇を押しつける。
 そうしながら、ハインリヒの脚に触れて、シャツの裾から手を滑り込ませて、その下の、裸の腰に掌を乗せる。
 そうだと予想はしていたのに、触れたそこが素肌であることに、心のどこかで驚いて、左足に、手を添えて持ち上げながら、その足が、膝裏に触れた時、どこかで、何かが、切れる音がした。
 夕べ自分が言ったことも、夕べ自分が必死で戒めていたことも、すべて忘れていた。
 自分の動きに、必死でついて来ようとするハインリヒの、戸惑った様子には頓着することすらできず、持ち上げた足を、自分の足に絡めさせて、ジェロニモは、ひどく性急な仕草で、ハインリヒの奥を探った。
 少しでも、ジェロニモの目的を助けよう---自分が、楽であるために---と、ハインリヒが、膝をもっと高く持ち上げる。
 そうして、ジェロニモにしがみついてから、ぴたりと胸を合わせて、声には出さすに、あえいだ。
 ハインリヒもそうしたいのか、それとも、自分に合わせているだけなのか、ジェロニモは、確かめることさえせずに、確かめずにすむように、唇を深く合わせたままでいた。
 指に触れる熱さだけを頼りにして、ハインリヒの体を裏返し、キッチンのカウンターに押しつける。背中までシャツをまくり上げて、それから、乱暴ではなかったけれど、ひどく先を急いで、押し入った。
 つぶれた声が、ひび割れる。
 カウンターの端を握りしめる指が、震えているのが見えた。
 思いやりのないやり方だとわかっていて、止められずにいる。
 くぼんだ背骨の線を、指先でたどって、前へ進むたびに、それが波打つように動くのを、下目に見ていた。
 そのままでは、苦痛ばかりで、先へは進めないと悟ると、躯を外して、ジェロニモはまた、ハインリヒの体を、今度は仰向けに裏返した。
 抱え上げた腰を、カウンターに乗せて、まだ開かれたまま、閉じ切ってはいない、ハインリヒの内側へ、ひどく切羽詰った様で、入り込む。
 ジェロニモの腰に、ハインリヒの両脚が絡んだ。
 片手で、シャツのボタンを外して、その右腕の接なぎ目を、はっきりと晒す。白っぽく、明るいキッチンに、鈍く濃い鉛色は、不似合いな色合いではあった。
 右胸の、半分を覆う金属片に掌を乗せ、なめらかな、けれどわずかな凹凸を、指の腹に確かめる。
 こんなふうに、突然躯を繋げたいと思ったのは、それ自体が目的なのではなく、そうやって、自分のものなのだと、この手の中に、確かにとらえているのだと、自覚したかったからなのだと、不意に気づく。
 放っておけば、すぐに背中を向けて、立ち去ってしまいそうで、姿を見失えば、もう永遠に会えないような、そんな恐ろしさを味わいたくはなかったから、傷つけない気遣いよりも、突然湧き起こった独占欲が、自制も利かずに先走る。
 自分の中に、そんな醜い衝動があるのだとは、思ったことすらなかった。
 まるで、羽を広げて、ピンで刺された標本の蝶のように、ゆらゆらと、ジェロニモの動きに合わせて肩と頭を揺らすハインリヒを見て、ようやく、身内のどこかが冷え始めた。
 押し潰されたように、もう、声すら出さないハインリヒの首筋に、汗の吹き出た額をこすりつける。今さら、傷つけないようにそっと躯を引いて、同時に、ハインリヒの下腹の上に、止める間もなく果てていた。
 苦い自己嫌悪に襲われながら、けれど、繋げた内側の熱さを反芻しながら、自分が、ひどくわがままな子どものように思えた。
 顔を上げられず、ハインリヒの右肩に、顔を埋めたままでいると、やがて、ハインリヒの両腕が、まるであやすように、ジェロニモの頭を抱き寄せようとした。
 ハインリヒの、義手の接ぎ目で、はっきりとしたくぼみのある胸で、ごろごろと頭を左右に振り、ジェロニモはやっと顔を上げて、体を引き上げて、ハインリヒの頭を抱え込む。
 背中をぽんぽんと叩かれ、胸に、湿った、大きく吐き出した呼吸がかかり、ハインリヒが、そこで、苦笑を混ぜて声を上げた。
 「重いんだ、いい加減にどいてくれ。」
 言われて、慌てて体を起こし、自由になってもまだ、ハインリヒは、キッチンのカウンターの上に、背中を伸ばしたままでいる。
 さすがに、シャツの前をかき合わせ、ジェロニモの視線から、体を隠しながら、億劫そうに肩をよじるだけだった。
 「・・・う、ごけるか。」
 間の抜けたタイミングで声をかけると、ハインリヒが、横顔で、唇の片側だけを吊り上げる。
 ひどく抗われた覚えはないけれど、動くうちにずれたらしいジェロニモの靴下が、かろうじて爪先に引っ掛かって、ハインリヒの足から、ほとんど脱げそうになっていた。
 それを引っ張って、取り去ってしまい、もう一方も、膝に手を添えて、脱がしてしまった。
 ようやく、自分に向かって、腕---右の---を伸ばして来たハインリヒが体を起こすのを手伝って、まだカウンターの上に坐ったままのハインリヒと、正面から抱き合いながら、ジェロニモは、言葉で謝る代わりに、ハインリヒの背中を、何度も何度も、大きな手で撫でた。
 「バスルームに、連れてってくれ。」
 そう言われて、床に落とした靴下を蹴ってから、ジェロニモは、腕と膝の下に両腕を差し入れて、ハインリヒを、そっと抱き上げた。
 ジェロニモの首に両腕を巻いて、肩に頬を乗せて、バスルームの方へ視線を流して、何がおかしいのか、ハインリヒは、くつくつ、小さく笑い続けていた。



「知る」

 やっと、きちんと服を着けて、何度も、ミルクのたくさん入った紅茶を---ふたりで交代で---いれて、その日のほとんどを、ソファの上で過ごした。
 ハインリヒが、何となく億劫そうに動くのを、自分のせいかと、数え切れないほど繰り返し思いながら、つい、いたわるように肩を抱き寄せる。
 今は、それ以上は先へ進まないように用心しながら、小さなキスを何度も交わして、その合間に、紅茶を飲む。
 まるで、犬か猫のように、肩や腕や足を常に触れ合わせて、驚くほど素早く、時間が過ぎてゆく。
 誰かと時間を過ごすというのは、そう言えば、こういうことだったと、ジェロニモは懐かしさに、何度もそれを口にしてしまいそうになる。
 目が合うたびに、かける言葉を探すように瞳が動いて、それから、見つめられた方が、相手に向かって唇を近づける。
 口づけは、それ以上でもそれ以下でもなく、もっと---近く---触れ合っていたいと思いながら、けれど急ぎすぎない方がいいと、互いにわかり合っている。
 キッチンでのあれは、特別だと、ジェロニモは自分に言い聞かせる。
 一度なら、間違いですむ。繰り返せば、愚行になる。
 無理をすれば、文字通り、ハインリヒを壊してしまいかねなかったから。人を傷つけるのは、性に合わない。
 バスルームから出て来たハインリヒに、苦笑を投げられて、許されたのだと知った。それに、甘えるべきではなかった。
 ソファに、並んで腰を下ろして、坐る姿勢と位置を変えながら、抱き合ったり、腕を絡め合ったりする。
 ふたりとも、素足だった。
 ハインリヒは、右手を出したままでいた。
 何度も、その手を取って、口づけた。いつ触れても、その右手は冷たくて、かすかに、金属の味と匂いがする。それでも、それがハインリヒの一部なのだと思うと、触れずにはいられない。
 素足の爪先を、互いに重ねて、足指を絡めて、くすぐったさに小さく笑う。
 ふたりきりで、他の誰もいないせいなのか、夜を、親密に分け合ったせいなのか、ハインリヒから、あの、ぴしりと空気を凍らせるようなよそよそしさは消え失せ、代わりに、くつろいだ様子で、薄い唇に笑みが浮かぶ。その笑顔を、ずっと見ていたくて、ジェロニモは、またハインリヒの素足をつつく。
 子どもか、猫か犬のように、ふたりでそうしてじゃれ合っている。
 いつの間にか、ここから帰したくないと、思い始めていた。
 もう何度目か、ハインリヒを抱き寄せて、それから、両脚を、自分の膝の上に抱え上げた。
 そうして、右手を取って、これも何度目なのか、指先に唇を当てて、ふと思いついて、訊いた。
 「右手は、どうしたんだ。」
 ハインリヒが、ジェロニモの横顔に視線を当てて、肩をすくめる。
 「10年くらい前に、骨の病気になって、そのまま死ぬか、腕を切るか、選べと言われた。」
 「選択の余地のない話じゃないのか。」
 右手を握ったまま、ジェロニモは、唇を少し引き結んだ。
 ハインリヒがまた肩をすくめる。それから、淋しげに、笑んで見せた。
 「俺は、その頃、ピアノを弾いてたんだ。」
 すぐには、返す言葉が見つからず、うっかり、その右手を、強く握りしめていた。
 まるで、ジェロニモを慰めるように、ハインリヒが、右手を握ったその手を優しく撫で、力をゆるめさせると、するりとそこから、右手を去らせる。
 微笑みは、いっそう淋しげに、消えないままだった。
 「同情してくれなくてもいい。今はもう、大したことじゃない。」
 さり気なく、体の脇に引き寄せられた右手の行方を、視線だけで追って、ジェロニモは、その微笑みに応えるように、うっすらと笑う。
 大したことではないというのは、うそだろうと思いながら、今はそれ以上、問いを重ねるのをやめた。
 膝に乗せた、ハインリヒの脚を撫でて、その手を、そのまま頬へ伸ばして、顔を近づける。
 それは、小さなキスではなくて、口づけだった。
 欲しくて、欲しがる口づけではなくて、体温だけを分け合うような、穏やかな接吻だった。それでも、長く深く、そうやって、言葉ではなく、唇の湿りとあたたかさでおしゃべりをするように、ふたりは目を閉じて、わかり合うために、唇を重ねていた。
 口づけの合間に、呼吸を途切れさせて、ふとまた、そのまま先へ進んでしまいたくなる。
 その気配を察したのか、ハインリヒが喉を伸ばして、唇を外して、顔を横へ向けた。
 ふたりで、頬を染めて、まだ、物足りなさげに、ほどけた唇があえぐ。
 ハインリヒを抱いたままの腕を止めるために、ジェロニモは、思いついたことを、考える前に口にした。
 「今でも、ピアノは、弾くのか。」
 予想もしない質問だったのか、ハインリヒが、素直に驚きを口元に刷いて、慌てたように首を振る。
 「今は、遊びでしか弾かない。」
 ほんものではない手で、まだピアノを弾けることが、ハインリヒにとって幸せなことなのかどうか、ジェロニモにはわかりかねた。
 そうかとうなずいて---良かったなと、付け加えるのはやめにした---、また抱き寄せようとした時、ハインリヒが足を床に下ろして、ソファから立ち上がった。
 「暗くなる前に、帰る。」
 怒ったようではなくそう言って、見下ろすハインリヒの右手を、引き止めるために、思わず握った。
 言われて、窓の方を振り返れば、もう夕方になりかかっていて、もうそんな時間なのかと驚いて、つられてジェロニモも、ソファから立ち上がっていた。
 「・・・どこかで食事をして、それからグレートの店に行こうと、思ってたんだが。」
 一緒に、とはあえて言わない。
 少しだけ、考え込むような顔つきになって、けれどハインリヒはまた、軽く首を横に振って見せた。
 「帰りが、遅くなる。あしたから仕事なんだ。」
 自分を、ひどく不様だと思いながら、ジェロニモは語尾を引き取っていた。
 「明日の朝、間に合うように、送って行く。今夜も、泊まっていけばいい。」
 言ってしまってから、しつこくすれば、相手は逃げるに決まっていると、わかりきったことを、自分に言い聞かせる羽目になる。
 困ったように笑ってから、ハインリヒは、もう一度、もっと大きく首を振った。
 「居心地が良すぎると、仕事に行くのがいやになる。」
 冗談めかしてそう言われ、ジェロニモは、ようやくハインリヒの右手を離した。
 少なくとも、筋の通った、悪い方向ではなさそうな反応だと思って、自分を慰める。
 「順調なら、木曜か、金曜には戻る。」
 重ねてそう言われた途端、いきなり、大事なことを思い出して、ジェロニモは、ハインリヒをそこへ残して、ベッドルームへ行った。
 待っててくれと言って、それでも、ハインリヒがさっさと帰ってしまわないうちにと、急いで、クローゼットへ入れた、昨日着ていたスーツの上着を探す。
 目当ての胸ポケットを探って、名刺入れとペンを取り出すと、ハインリヒのいるリビングへ戻った。
 ハインリヒは、もうすっかり身支度を整えて、ジェロニモを待っていた。
 「戻って来たら、電話をくれ。」
 取り出した名刺の裏に、電話番号を書いて渡すと、ハインリヒが、照れを浮かべて、何か言いたげに唇を動かした。
 丁寧な仕草で、その名刺をコートのポケットに入れながら、ジェロニモの方を見ずに、ぼそりと言う。
 「俺の、電話番号。」
 今は革手袋に包まれた右手を差し出され、ペンと名刺入れをそのまま渡すと、一枚抜き取った名刺の裏に、ジェロニモがそうしたように、ハインリヒも、さらさらと番号を書き記す。
 右利きなのかと、不思議な気分で、ハインリヒの、丁寧な筆跡を眺めた。
 「戻って来たら、電話する。」
 「わかった。」
 あいさつの代わりのように肩をすくめて見せて、ハインリヒが、玄関の方へ向かう。
 ドアまで行けば、また引き止めてしまいそうな気がして、ジェロニモは、そこから動くのをやめた。
 壁の陰に、消えそうになったコートの裾を見て、思うより先に、唇が動く。
 「アルベルト。」
 呼びかければ、まるで待っていたように、背中が動きを止め、肩からこちらを振り返ってくる。
 「なんだ。」
 名前を呼んで、引き止めて、もうひとつ、訊いてみたかったことがある。
 けれど、それを口にすることはできず、ジェロニモは、いきなり頬を染めて、開いたままの唇を慌てて掌で覆い、何でもないとでも言うように、軽く首を振って見せた。
 ハインリヒが、唇を歪めて笑い、からかうように、右手を振った。
 「電話する。」
 ドアが開き、閉まり、壁の向こうを、足音が歩いてゆく。
 長くは続かないその物音に、耳を済ませて、ジェロニモはまだ、赤く染まった頬の熱を、ひとりで持て余していた。
 消えてゆく足音を、目線で追いながら、去ってゆくハインリヒの、見えない背に、心の中でまた、声をかけた。
 いつか、ピアノを弾いて、聞かせてくれ。
 訊かなかったことだった。