うわさになりたい
その4
「アルベルト・ハインリヒ」
デザイナーとしての仕事は、微々たるものでしかなかった。この腕のせいで、人嫌いになって以来、ひとりでいることが当たり前になって、だから、ひとりで大型トラックを運転して、あちらへこちらへと、走り回るのは苦にはならない。むしろ、運転席にいる限り、人の視線を気にする必要もなく、自分には、これほど合う仕事もないと、心の底から思う。
家に戻るのは、トラックの中だけで、一生を過ごすわけにはいかないからだ。まれに入るデザイナーの仕事のためにも、ただ坐って、何かを作り出す空間は必要だった。
ただそれだけの、住居という空間だった。
小さなアパートメントは、リビングに当たる部分は広かったけれど、後は、小さなベッドルームとキッチンがあるだけだった。
家にいれば、寝ているか、リビングで本でも読んでいるか、どちらかでしかない。自分のために料理をするほど、まめでもない。
リビングには、寝そべるためのソファと、片隅に、机と本棚がある。キッチンまでの、わずかなスペースに、小さなステレオを置いて、流すのはクラシックやオペラがほとんどだった。
まるで、金のない学生の、質素な住まいのようだった。
トラックに乗り込んで、家を恋しがることは、ほとんどなかった。デザインの仕事がない限り、家にいる理由がない。
それなのに、今日は、古いヴォルクスワーゲンを走らせて、うっかりスピード違反をしかけている。
午後、少し遅く。帰ったらすぐ、シャワーを浴びて、少し眠る。けれど眠る前に、電話をする。いなくても---平日の午後に、いるわけもない---、伝言くらい残せるだろう。夜になった頃目を覚まして、また電話を入れる。
グレートの店で会おうと、あの、体の大きな、自分と同じほど口数の少ない、まだ、何者ともよくわからない、あの男に言う。
お帰りと、言ってくれるだろうか。待っていたと、会えば、うれしそうに微笑んでくれるだろうか。
グレートの店で、何度か見かけたことのあった、あの男と、まさかピュンマのパーティーで、友人だと紹介されるとは、思ってもみなかった。
いつ見てもひとりきりの、けれどそれは、周囲の人間を拒否しているようではなく、ただ、ひとりでいるのが性に合っているだけだと、気負う気配すらない背中には、奇妙なあたたかさがあった。
人を拒む自分とは、違う種類の人間だと思って、そうして、その背に話しかけたら、返事を返してくれるだろうかと、秘かに思っていたことは、誰にも言わずにいた。
グレートの店は、相手を探すための場所ではなかったし、たとえそんな場所であったとしても、そんなこととは無縁だと、信じ込んでいた。
誰かと抱き合うには、この体は特殊すぎて、まずは説明から始めなければならないと思うだけで、すべてが億劫になる。
ただでさえ、相手を見つけるために、特殊な手続きが必要だと言うのに、それをさらに複雑にすると思えば、いっそ何もなくてもいいと、そんな投げやりな気分にもなる。
それでも、過去に数人、片手に余るほど、その複雑な事情を乗り越えようとした人間が、いないわけでもなかったけれど、その誰とも、2度目はなかった。
正直なところ、あまり思い出したくもない、それにまつわるあれこれを、心のすみに押しやって、ハインリヒは、アパートメントの駐車場に車を入れると、自分の部屋へ向かって、階段を2段飛ばしに駆け上がった。
衣類の入ったかばんを放り出し、それをより分けて、コインランドリーへ持って行かなければならないということは、すっかり後回しにして、電話へ飛びつく。
留守番の赤いランプが、ちかちかと点滅していた。
再生のボタンを押すと、機械の音声が、新しいメッセージの有無を告げて、それから、聞きたかった声が流れ始めた。
電話をしている時間を告げて、それから、言いにくそうに、ほんの少しの間を置いてから、急に出張が入って、2、3日家には戻らないと続き、すまないと、声を低めて付け加えて、戻ったらすぐに電話を入れると言って、メッセージは終わった。
もう一度再生して、同じメッセージしか流れないことを確かめて、思わずがっくりと肩を落とす。
床に坐り込んで、仕事の疲れが、一気に、肩と背中に甦る。
電話のあった日から3日間なら、あさって頃かと、戻って来るだろう日を数えて、戻れば、すぐに会えると思っていた自分を、心の中で笑った。
思い切り、大きく舌を打って、のろのろと立ち上がって、もう一度、メッセージを再生した。
録音が始まった最初に、アルベルトと言ったのを、もう一度聞いて、止めて、そこだけもう一度繰り返して、また舌を打った。
シャワーも浴びないまま、眠るために、ベッドルームへ向かう。
目が覚めると、もう翌日の朝で、疲れている自覚もなかったのに、12時間以上寝たのかと、とりあえずはシャワーを浴びた。
それから、汚れた衣類を分けて、冷蔵庫の中身を調べた。
覚えていた通り、中は空っぽで、ばたんと乱暴に扉を閉めてから、髪はまだ、洗ったばかりで湿っていたけれど、かまわずに外へ出ることにする。
車で2分も走れば、店のたくさん並んだ通りに出る。
まず、汚れた衣類を片付けるために、コインランドリーへ入った。
平日の午前中は、中はがらんとしていて、ポケットから取り出した小銭で、小さな箱に入った洗剤を買って、大した量もない洗濯物を、特に色分けもせず---色落ちするようなものもなく、染まって困るものもない---に、大型の洗濯機へ放り込んで、いつものようにセットしてから、機械が動き出すのを待って、それからまた外へ出た。
こんな時間でも、それなりに人の多い通りを、車を残して歩き出す。
近くのコーヒーショップで、熱い紅茶を買って、その隣りの店で、新聞を買って、ゆっくりとした足取りで、コインランドリーへ戻る。
紅茶を飲みながら、新聞をすみからすみまで読む。
洗濯機が止まるまでには、そう時間はかからず、読みかけの新聞を置いて、脱水された洗濯物を、今度は乾燥機へ放り込む。時間を計算して、コインをいくつか放り込んで、くるくると回り始めた衣類に、じゃあなと笑いかけて、その場で紅茶を飲み終わった。
新聞を抱えて、今度は、朝食のために、小さなレストランへ入る。
卵を3つスクランブルで、ソーセージかベーコンか、それからトースト、ジャムをつけるかどうかは、その日の気分次第だった。
素朴に味付けされた、ころころとした、ゆでた後に軽く炒めたポテトから、まず口に運ぶ。
行儀の悪いことだと知っていて、つい、食べながら新聞も読む。
誰かが向かいにいれば、そんなことはしないと、思って、思わず向かいの空いた席を眺めた。
彼はもう、仕事をしているのだろうと、そんなことを考えてからまた、新聞へ視線を戻した。
朝の忙しい時間は、もう終わっている。昼食には、まだ少し時間がある。レストランは空いていて、ウエイトレスは、キッチンと大声で話をしている。
乾燥機が止まる時間を見計らって、レストランを出た。
新聞はまだ、もう少し残っていて、すでに止まっている乾燥機から、きれいに乾いた洗濯物を出し、他には誰もいないコインランドリーから、足音もさせずに出て行く。
まるきり、いつもと同じ、時間の過ごし方だった。
アパートメントに戻ると、留守電の赤いランプが、また点滅していた。
え、と思わず声を出して、持っていたすべてをその場に落として、電話の方へ走ると、まさかと思いながら再生のボタンを押した。
"まだ、帰ってないのか? じゃあ、仕方がないな。戻ったら、また電話する。"
アルベルト、アルベルトと、呼ぶ声が、最初に入っていた。
深い、やわらかな声は、電話を通すと、細く聞こえる。
なんてタイミングだよと、電話を殴りたくなった。
持ち帰ったばかりの洗濯物を、たたんでクローゼットにしまわなければならないのに、ふてくされて、そのままベッドルームへ行った。
何もする気が起こらず、目が覚めたら、今夜はグレートの店に、ひとりで行こうと思う。
肩を巻いた腕を、恋しいと思って、胸に乗った大きな体の重みを、反芻して、ひとり頬を染める。
アルベルトと、声が耳の奥に甦ったけれど、今は何も考えずに、ただ寝てしまおうと、頭を振った。
「電話」
ひとりで時間を過ごすのには慣れっこだった。
ピアノを弾いていた頃は、ピアノさえ弾いていれば幸せだったし、ピアノを弾けなくなってからは、好きな音楽を聴いて、本を読んでいれば、たとえ1月、誰とも言葉を交わさなくても、平気でいられた。
人と関わることが、ハインリヒにとって重要だったことはほとんどなく、むしろ人は、いれば面倒な存在でしかなく、好ましいと思える相手が、いないわけではなかったにせよ、そこから一歩踏み出すために、まずは自分のことを説明しなければならないという鬱陶しさを、越えさせてくれるほど切羽つまった気持ちは、数えるほどしか味わったことがない。
何もすることのない休日を、本を読んで過ごしながら、心が、ページの上ではなく、別のところへさまよい出すのを、ハインリヒはもう何度目か、強く瞬きをして、止めた。
そうしてまた、何度目か、知らずに、頬を染めていた。
考えているのは、ずっと、あの男のことばかりだ。
外へ出れば、頭ひとつ周りから飛び出す自分を、抱きしめてなお余る腕の長い、胸の厚い、そのくせひどく優しい瞳の、あの男のことばかりだった。
優しく扱われることの心地良さを、何度も反芻しては、自分を巻く、自分のものではない体温を思い出して、そのたび、それを恋しがっている自分に気づく。
誰かが、自分に触れたいと思うこと、自分も、誰かに触れたいと思うこと、あまり馴染みのないそんなことに、戸惑いながら、胸の内側が、暖かく満たされてゆく。
会いたいと、そればかり考えていて、そこから気持ちをそらすために、必死で紙の上の活字を追いながら、けれど気づけばまた、過ごした時間を反芻している。
ああ無口なのは、誰に対してもなのだろうか。あまり笑うことがないのも、珍しいことではないのだろうか。
一緒にいたくもない人間を、もう少しいろと、引き止めるはずもないと思いながら、それでも、自分が思うほど、相手も自分のことを思っているのかどうかは、確かめる術もなく、仕草や言葉や、そんなものを思い出しては、ひとつびとつに、良い意味と悪い意味と、両方を見つけ出して、ひとりでため息をこぼす。
そうやってもう、何十時間をひとりで過ごしているのに、まだ飽きもせずに、同じことを繰り返し続けている。
変わった風貌の、変わった名前の、どこから見ても、普通とは思えない男だけれど、どこへいても、その場へするりと溶け込んでしまう、あの身にまとった空気は、どこからやって来たものなのだろうかと、思う。
溶け込んでしまうことが、つまり無視されるということではなく、その場の空気に交じり込みながら、けれどそれは、完全に同化してしまうということではなく、彼という人はそこに在りながら、それは決して、その場の空気を乱すことはない。
なぜか人の神経を、そこへいるだけでささくれ立たせる自分とは、まるで違うと、ハインリヒはまたため息をついた。
ほとんど内容の頭に入らないまま、ハインリヒは、次のページをめくった。
残されていた伝言通りなら、今日辺り電話があるはずだった。
それを待って、外にも出ず、朝からずっと、ここで時間をつぶすために、本を読み続けている。
食欲もなければ、何かをしたいとも思わない。
会いたいと、思うのは、ただそれだけだった。
電話が鳴って、慌ててソファから体を起こした。
急ぎすぎて、足元をよく見ていなかったせいか、前へ滑らせた爪先で、ひどくソファの足を蹴った。
がつっと、信じられないほど大きな音がして、髪の毛が逆立つほどの痛みが走り、それでもそれをかまうよりも先に、電話へ手を伸ばす。
取り上げた受話器から、ずっと待っていた声が流れてくるのを聞いた瞬間、後回しにしていた痛みが、脳天へ突き抜ける。
久しぶりだと、かすかに笑いを含んだ声に返す声が、うっかりとくぐもった。
「どうかしたのか。」
一瞬で、笑いを消して、怪訝そうにひずんだ声に、ハインヒリは、痛みのせいでなく顔を歪めた。
「どうもしない。今、爪先で、ソファをけっとばしたところだ。」
見えないのをいいことに、床に坐り込んで、痛む爪先を、左の掌で包んで、撫でる。
小さな爪の、どれも割れたり欠けたりしていないことを確かめて、けれどまだ、痛みに眉を寄せたままだった。
「帰って来たのか。」
心配そうなあちら側に、いちばん知りたいことを訊いた。
「いや、まだだ。多分、明日の朝には、家に帰れる。」
不満を口にも声にも出さず、けれど、硬い右の人差し指で、かつんと受話器を叩く。
ハインリヒが黙ると、ジェロニモも、何も言わずに黙り込んだ。
まだひりひりと痛む、足の小指をそっと撫でながら、ハインリヒは、ジェロニモの、もう一回り大きな足のことを思い出していた。
シャツも靴下も、どこも余るほど大きかった。
もしここにくれば、部屋の半分は埋めてしまうのだろうと思って、その時、唇が勝手に動いていた。
「・・・会いたい。」
息を止めた気配があって、どうしてか、表情まで、目の前にはっきりと見えるような気がした。
驚いて、見開いた目を細めて、それから、頬の線がなごんで、唇が動く。
「ああ・・・おれもだ。」
今度は、ハインリヒが、ひとりで目を見開いた。
明日まで、何時間あるのだろうかと、思って、意味もなく自分の手を眺める。
言葉を交わさなくても、そうやって、ただ繋がっていたいのだと、そう思っているのが、受話器の向こうから、息遣いに混じって、伝わってくる。
ゆっくりと瞬きをして、かすかな呼吸の音に耳を澄ませて、電話を通すと、自分の声も変わるのだろうかと、あちら側の、ほんの少し細くなる声を、耳の中で繰り返しながら思う。
「足は、大丈夫か。」
声が、心配そうに低くなる。
「大丈夫だ。大したことはない。」
「靴ははいてないのか。」
「家の中じゃ素足だ。靴も靴下も嫌いなんだ。」
早口でそう返すと、向こうがくすりと笑った。
「人の靴下ははいてたくせに。」
あげ足を取られて、額を小突かれたようにあごを引いて、ハインリヒは、見えないのに唇をとがらせる。
それでも、反論はせずにまた、言葉のないやり取りの中へ、心を落ち着かせてゆく。
そうやっているうちに、静かに浮かんでくる言葉を、ぽつりぽつりと送り合うだけで、けれどどちらからも電話を切れずにいる。
ハインリヒは、少しだけ、弾みをつけて言った。
「紅茶の味が、違うんだ。自分でいれると、うまくない。」
「それは仕方がないな。」
あっさりと返事をしながら、けれど、言葉の間の間(ま)が、言いたいことはわかっていると言っている。
ハインリヒはにやりと笑って、ジェロニモのいれてくれた、あたたかなミルクティーの香りを思い出していた。
静かに交わされる言葉のひとつびとつを、きちんと覚えておこうと思いながら、ハインリヒはもう、明日までの時間を数え始めていた。
「触れ合って眠る」
もう、何度目なのか、向かい合って、見つめ合って、くすくすと笑う。
まるで子どものように、ふたりで、笑い合っては、唇をこすり合わせる。
体は、冷える間さえなく、シーツの中で、ふたり分の体温にぬくめられ、時折、指先や掌がかすめるたび、ふっと目を細めて、けれどそこから先へは、決して進まない。
互いに腰を抱き寄せて、足を絡めながら、ただ、熱い皮膚を重ねて、抱き合うだけでそうして、もう1時間も過ごしていた。
ハインリヒはもう、自分の右腕のことを、すっかり忘れていた。
全裸で、触れる腕の硬さや冷たさは、それはそれだけのことなのだと、ジェロニモの瞳が、繰り返しささやき続ける。人の体は、晒してしまえば、どれも同じほどみっともないものだから、自分のそれを恥じることはないのだと、素直にそう思えるような気がして、ハインリヒは、もう遠慮もなく、冷たい右腕を、ジェロニモの首に巻いていた。
鼻先をこすりつけ、また唇を重ねて、互いが、ここにいるのだと思いながら、抱き合う腕はほどかない。
会いたかったと、また、ジェロニモの唇がつぶやいた。
店を出て、階段を見上げたところで、駆け下りて来たのは、ジェロニモだった。
あまり物音をさせない---ハインリヒが知る限り---彼には珍しく、大きな足音と、転げ落ちそうなほどの歩幅で、階段のいちばん上から飛び降りて来たのかと思うほどの勢いで、ハインリヒの目の前に現れた。
コートの肩が乱れていて、ひどく真剣な面持ちに気を飲まれ、一瞬うろたえて、その場で立ちすくんだハインリヒを、ジェロニモは階段の陰に引きずり込んだ。
グレートの店の扉と、向き合う形だったけれど、視界も体もすべて、ジェロニモにふさがれて覆われ、腕を、背中や肩に回さない限り、ハインリヒの姿はどこからも見えないように思えた。
「会いたかった・・・。」
電話では、ハインリヒが先に言った台詞を、今度は、ジェロニモが言った。ひどく、せつなそうに。
この男も、こんな声を出すのかと、驚いて、静かに息を止める。
切羽つまった仕草で、唇を奪われて、恋しいと思っていたその暖かさを、ハインリヒは全身で吸い込もうとした。
抗う気はなく、抱きすくめられて、素直に首を伸ばし、軽く爪先立ちになりながら、自分を求めるその舌先にさらわれて、待っていたのは、自分ひとりではなかったのだと、改めて思い知る。
こんなふうに求められたことはなかったし、こんなふうに受け入れたこともなかったと思いながら、接吻の熱さに足元をすくわれて、ここがどこか、一瞬忘れかけていた。
ふたりはそうして、長い間抱き合っていた。
口づけはいつまでも終わらずに、終わらせることが惜しくて、唇が離れるたびにまた、次に接吻が始まる。
グレートの店が、人の出入りが少ない場所で良かったと、こっそりと思ったのもふたり一緒だった。
地下の階段の陰は、地上よりもいっそう冷えていて、ふたりが抱き合うそこだけが、暖かい。
背の高いジェロニモを、見上げすぎていて、痛みを訴え始めた首の後ろに手を添えて、ハインリヒはようやく、革靴のかかとを、コンクリートの床に戻した。
突然、性急さを恥じるように、ジェロニモが横を向く。
こんなところでと、かすかに動いた唇が、諌める---彼自身を---ようにつぶやいた。
うっすらと赤らんだ頬はどちらも同じで、ようやく呼吸をおさめて、それから、ハインリヒはまた、ジェロニモの頬へ右手を伸ばす。
いつ誰が刻んだのか、いつか訊きたいと思いながら、白い刺青の線に、鋼鉄の指先を沿える。
また首を伸ばし、かかとを持ち上げた。
一瞬だけ元に戻った接吻を、すぐにほどいて、見上げて、熱い息のままささやいた。
行こう。
ハインリヒの右手を握りしめて、ジェロニモが階段の方へ歩き出した。
一緒にいられれば、それでいいのかもしれない。
ジェロニモが紅茶をいれる間、ずっと、ハインリヒはジェロニモの左手を握っていた。
ソファに坐って、ふたりで紅茶を飲んでいる間も、ずっと手を握っていた。
泊まって行けるんだろうと訊かれて、ためらいもなくうなずいて、促されてやっと、手をほどく。それでも、ジェロニモも、名残り惜しそうに、バスルームへ消えるハインリヒを、ずっと見ていた。
水の匂いに隔てられて、けれどそれはすぐに、ふたりの熱で消えた。
両方の掌を重ねて、ベッドの中で、肩に顔を埋め合い、同じ石鹸の匂いをかぎながら、まるで、動物が、互いの匂いをすりつけ合うように、全身をこすり合わせて、また、首筋に顔を埋める。
ふたりだけれど、ひとりなのだと、ふたりで一緒に思うために、そうやって、膚を重ねて、けじめもなく溶け合わせる。
口づけだけが、永遠に続くように思われた。
笑い合いながら、ささやき合いながら、抱き合って、互いの腕の中にいた。
ふたりは無口で、語ることがあまりうまくはなかった---と、そう思い込んでいる---から、指先や膚や、もう少し奥深いところで、言葉ではないおしゃべりをする。
互いを、もう少し深く近く知るために、言葉を交わすよりも、体温を重ねることを選んだふたりだった。
髪に触れ、頬に触れて、肩や首筋に掌を沿わせ、近々と見つめ合って、耳の先の冷たさに、ふたりで一緒に、苦笑いをこぼす。
少なくとも外見に、共通点のあるふたりではなかった。
膚の色も、手触りも、髪の色も、しなやかさも、瞳の色も、その深さも、違うことを確かめながら、けれど、その内側にある小さな何かが、ひどく近しいのだと、ふたりで伝え合う。
何もかもが違いすぎるふたりだから、まるで背中合わせで世界に向かっているように、伸ばせば届く指先がある。
触れ合い、こすり合わせる皮膚に、互いの色が溶け混じる。
赤銅色の膚に、銀色を帯びた白が重なり、銀色を透けさせる青白い膚に、赤く溶けた鉄が流れる。
掌を合わせて、握りしめて、全身を重ねてまた、ふたりは口づけた。
交わさなければならない言葉よりも今は、ふたりがそこに在るのだというあかしの、溶けて形を失くした、注いでも注いでも尽きることのない体温の名残りの方が、大切なように思えた。
睡魔に負けたのは、ジェロニモの方が先だった。
ハインリヒを抱きしめたまま、うつらうつらとし始めると、肩や首筋に頬をすりつけていたハインリヒが、苦笑いをこぼして、するりとジェロニモの腕からすり抜けてゆく。
引き止めるよりも早く、離れた体の間に、ひやりと冷たい空気が、初めて流れ込んでくる。
触れ合ったまま眠るのは嫌いなんだと、言ったハインリヒの低い声を思い出しながら、ジェロニモは、伸ばしていた腕を自分の胸に引き寄せ、眠りかけたままで、それでもかすかに微笑んだと思った。
そうして、眠りの中へ落ち込みながら、くるりと寝返りを打つ。
ハインリヒに背を向けて、体を伸ばして、ひとりきりで眠りに落ちる。
夢の中にいるのだと思って、ちょうど、ぷつんと意識の途切れるその直前に、背中に、暖かな膚が触れた。
腕が伸びてきて、みぞおちに掌を置いてから、その手が、自分の掌に重なるのを、ジェロニモは夢だと思いながら、逆らわずにいた。
手の甲を、骨の形をなぞるように、指先がなぜ、指の間に指が滑り、そうして、掌の位置を変えて、強く手を握る。
うなじに触れたのは、ハインリヒの唇だったのだろうか。
間遠になる呼吸が、ゆっくりと重なって、背中で、少し遅れて眠りに落ちるハインリヒに、アルベルトと呼びかけたのは、もう夢の中でのことだったのかもしれない。
背中に、ぴったりと胸が重なり、手を握って、そうして眠りに落ちたのが夢ではなかったのだと知るのは、翌日の朝のことだったけれど。
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