the way i feel


(2)

 こちら側は日常に戻り、集められた仲間たちのほとんどは、すでに自分たちの住む場所へ帰って行ってしまっていた。
 万が一何かあれば、自分の体を使えるからと、ジェロニモはハインリヒが直るまではここにいると決めて、だからと言ってギルモアや助手のジョーを急かすつもりもなく、ただ待つだけの時間を過ごしている。
 特にフランソワーズのためというわけではなかったけれど、ここにいてできることと言えば、もっぱらイワンの世話だったから、ミルクをやり、おむつを替え、散歩に連れ出し、風呂を使わせて、眠るまで一緒にいる。抱いた腕の中でゆっくりと眠りに落ちるイワンの、安らかな表情を見下ろして、ハインリヒもこんなふうに、穏やかに眠っているのならいいと、日に何度も考えた。
 ジェロニモの心の動きがわかる──わざわざ、読むことをしなくても──のか、イワンは時々笑いながら、心配性ダナアと言った。それに、苦笑を返すことしかできずに、ジェロニモはイワンに同意して、ああと小さくうなずく。
 張大人の店を手伝うからと、フランソワーズとジョーが連れ立って出掛け、ギルモアとイワンは地下にこもっていた日の、午後のことだった。
 ひとり遅く終わらせた昼食の後片付けのために、流れる水を見下ろしていて、不意に、静かな足音と気配が、背後にあった。
 キッチンの入り口に、照れくさそうに立っている、普段着のハインリヒがいた。
 「久しぶりだな。」
 濡れた手を拭うことも思いつけず、水だけは止めて、ジェロニモは体半分だけそちらに振り返り、思わずまじまじと、ハインリヒの全身を眺める。どこに傷らしいものも見当たらない──とは言え、ハインリヒは普段滅多と肌を見せない──、胸の前で組んでいる腕の、右手はいつも通りにマシンガンの手だ。確かあの時は、頬から口元の辺りに大きなこすれた傷があったと思い出しながら、おそらく取り替えたばかりの人工皮膚なのだろうハインリヒの白すぎる肌の色に、ジェロニモは、濃い茶色の瞳をじっと据えている。
 「もう、いいのか。」
 「ああ、やっとちゃんと歩けるようになった。」
 肩をすくめて、ハインリヒがにやりと笑う。
 歩けるようになったというのが、傷のせいだったのか、それとも取り替えた部品の調整のためだったのか、それを訊きたい気持ちを抑えて、ジェロニモはようやく固い笑みを浮かべる。
 「中身をほとんど入れ替えたらしい。ガタが来るのが早すぎるって、ギルモア博士に散々お説教だ。」
 軽口を叩く明るい声に、空気がぬくもっていくようで、ジェロニモはやっとハインリヒの方へ正面を向き、それから1歩前へ足を踏み出した。
 何をどうすると思ったわけではなくて、ハインリヒに向かって伸ばした腕の行く先に迷い、よかったと聞こえるように小さくつぶやきながら、その腕を自分の方へ引き戻す。
 「おまえさんに、ずいぶん心配を掛けたな。」
 「・・・そんなことはない。」
 肩をすくめて、またはにかむようにハインリヒが笑う。まるで、何十年かぶりに会って、戸惑いばかりの先に立つ古い友人同士のように、ふたりは少しの間、向かい合って薄く笑い合うばかりだった。
 いつもなら、腹は空いていないかとか、お茶でもいれようとか、そんな風にさらりと言えたのだろう。ジェロニモは、ハインリヒに掛ける言葉を探し続けていた。待っている間に考えていたことが、重要でもないことばかりだったはずなのに、それについて口にしたくて仕方がない自分を、ジェロニモは必死で抑えつけていた。
 おかえりと、そう言ってしまうほどではないだろうし、そんなことを言えば、愉快でもない修理のために施術室に閉じ込められていた時間の長さを、ハインリヒは思い知るだろうし、無口な自分が言葉を使わなくても、それを訝しがられることもないはずだと、ジェロニモは珍しく、あれこれと頭の中で考えていた。
 そうして、考えている間に、勝手に口が動いていた。
 「・・・体を、見せてくれないか。」
 自分でそう言ったと自覚したのは、ハインリヒが面食らった顔で、あごを引いたからだ。
 表情を変えずに、ジェロニモは言葉を重ねた。普段にない、流暢な口調で。
 「ちゃんと直っているかどうか、見せて欲しい。」
 唇の端を下げて、ハインリヒが妙な表情を浮かべる。それでも、自分のあの有様を間近で見たジェロニモなら、それを確かめたがるのも無理はないとあっさり納得したのか、腹の辺りを右手で撫でながら、
 「なら、おまえさんの部屋にでも行こう。」
 自分の背後を親指で指し示しながら、軽く答える。
 ジェロニモが足を踏み出すと同時に、ハインリヒは、肩をそちらの方へ回した。


 ハインリヒの部屋以上に簡素なジェロニモの部屋で、窓には、今は薄いカーテンが掛かっているだけだったから、明かりをつける必要はなかった。
 やけに丁寧に部屋のドアを閉めて、中へ3歩入ったところで、ハインリヒはシャツの裾をズボンのベルトの辺りから引き抜いた。
 薄い黒のタートルネックのシャツは、肩や首が抜けにくくて、少し力任せに頭を抜くと、髪がばさりと散る。そんなハインリヒを、ジェロニモが黙って見ている。
 シャツを片手に、少し肩を斜めに傾けて、ハインリヒは照れ隠しのために、わざと投げやりな位置に爪先を伸ばす。
 相変わらずの機械の体だ。損傷は、確かにきれいに直されている。右腕のマシンガンは、胸元から装甲が剥き出しのまま、きっとミサイルを搭載している両膝の辺りも、人工皮膚はかぶせられてはいないのだろう。
 互いの体の中身は熟知している。最低限、最悪の場合に、互いに修理し合えるようにだ。けれどこうやって、何もない体を見るのは初めてだ。ジェロニモと違って、それは元々の性格なのか、ハインリヒは肌を見せることをひどく嫌った。
 こんな風にまじまじとハインリヒの体を見るのは、とても珍しいことだ。
 ジェロニモは、音を立てずに爪先を滑らせ、ゆっくりと、そっと、腕を伸ばした。
 「頬は・・・?」
 伸びた腕の行方に、少しばかり戸惑ったように、ハインリヒが逃れるように首を傾ける。
 「皮膚が、剥がれていた。」
 ああ、とハインリヒがうなずくと同時に、するりと指を銀色の髪の下に滑り込ませ、ジェロニモは首とあごの線を剥き出しにする。ちょうど反対側に傾いて伸びた線が、焦げた跡や剥がれた跡も見せずに、健やかさばかりを表していた。まるでほんもののようだと、ジェロニモはうっかり目を細めて、接いだ跡などもちろんないその白い皮膚に、指先をそっと触れさせた。
 「ちゃんと直ってるだろう? 心配ない。」
 やけに真剣なジェロニモの表情に、ハインリヒが、少し茶化したような苦笑を浮かべる。
 ジェロニモは、それにつられることもなく、まだ真剣な表情のまま、ハインリヒの頬の辺りから指先を外さない。
 ハインリヒは、首の傾きを元に戻して、まるで自分からその大きな手に添うように、顔の位置を真っ直ぐにする。やや下目に、すくい上げるようにジェロニモを見て、今は剥き出しの肩をわずかにすくめると、
 「背中も、見るか。」
 疑問形になりきらずに、語尾が中途半端に上がる。その声が、なぜかかすれた。
 数秒、考えるように唇を引き締めた後で、ジェロニモが低く、これもかすれた声で、ああとうなずく。その唇が動くのに目を凝らしてから、ハインリヒは、ジェロニモから視線を引き剥がすことが目的のように、ゆっくりと肩を回した。
 ハインリヒの白い背中は、胸と同じように、やはり3分の1近くが装甲が剥き出しになっていて、わざと隠さない接ぎ目の部分が、どうしてかもろく見える。ジェロニモは、深くも考えずに、吸い寄せられるように、そこに指先を伸ばした。
 鉛色の部分が、予想していた体温よりも低いように感じられるのは単なる錯覚なのだろうかと、皮膚の部分に触れるのをためらう自分に戸惑いながら、ジェロニモは、数瞬、指先を境い目から外さずに、体のこちら側はどんなふうに傷ついていたかと、あまりはっきりとはしない記憶を、手探りで引き寄せようとしている。
 きちんと直っていることは確かだ。傷も焦げた跡もない。きちんと何もない、ハインリヒの白い背中だ。
 肩越しに、ハインリヒが振り向いた。
 「何か、面白いものでもあるか。」
 唇の端に、薄く笑みが浮かんでいる。
 いや、と小さくつぶやいてから、ようやく手を引き戻して、またゆっくりと回るハインリヒの肩先の動きを、じっと目で追った。
 その滑らかな動きを眺めて、そうして、やっと、ハインリヒが戻って来たのだと、そんな自覚が湧いてくる。
 正面を向いたハインリヒを、なぜかすぐには真っ直ぐには見れずに、さっき床に投げ捨てられたハインリヒの、黒いタートルネックの、くたりとした姿へ視線を移していた。ふくらみのない、動く気配のないそれは、身動きできずに自分の腕の中にいた、傷ついていたハインリヒの姿を、ジェロニモに思い出させた。
 ふと無言になったことに、照れたようにハインリヒが、ふっと笑みをこぼす。それに、片方の眉の端をわずかに上げて応えて、ジェロニモはかすかに目を細めた。
 わざわざ体を見せてくれたことに、どうやって礼を言おうかと、心の中で迷う。ハインリヒが脱ぎ捨てたセーターを拾い上げて、手渡すついでのように、あっさりと口にしてしまえばよいことだったけれど、ありがとうと感謝の言葉を使うのは、何か場違いなような気がして、ジェロニモはこっそりと、この場に相応しい語彙を探していた。
 ふたりでいるからと言って、互いにおしゃべりでもなく、沈黙は苦にならないふたりだった。それでも、自分の気持ちをさらけ出すことの滅多とないふたりにとっては、心配していたとか、ありがとうとか、それをあからさまにするだけでも、照れを含んだ奇妙な親近感が湧いて、一緒に、それに戸惑っている。
 その戸惑いが、ふたりをいっそう無口にする。
 ハインリヒが肩をすくめて、ちょっとだけ体を斜めに傾けた。
 「俺だけ裸なのは不公平だろう、おまえさんの体も見せてくれ。」
 両腕を開くようにしながら、軽い口調で言うその唇が、いつものように、皮肉笑いに似た形に曲がっている。
 一瞬、ハインリヒの提案に面食らってから、確かに正論だと、ジェロニモは思わず後ろに引きかけた肩の位置を、そっと元に戻した。
 狼狽している自分に、実のところは驚きながら、こんな時には滅多と感情を表さない自分の気性をありがたく思って、反論など論外だという表情を、同意というつもりで浮かべてから、ジェロニモはゆっくりとシャツのボタンに指先を掛けた。
 大きな指先が、驚くほどなめらかに動いて、シャツのボタンを外してゆくのを、ハインリヒはじっと見ている。
 同じ機械の手指──ハインリヒの方が、それがあらわだというだけの話だ──だと言うのに、ハインリヒのそれよりも、ずっと器用そうに動く。力を入れることもなく砕いてしまえるだろう、その小さな丸いボタンを、ジェロニモの指先が優しく扱う様が、なぜか秘め事のように思えた自分の心の動きにうろたえて、ハインリヒは、数秒、さり気なくそこから視線を外した。
 いつだってハインリヒなら悪態をつかずにはいられない袖口のボタンも、ジェロニモには、長年の友人のように素直な態度を見せるらしい。穏やかな無表情を崩さずに、くたりと開いた袖口を引っ張って、そこに、大きな手を隠してゆく。そんなジェロニモの、ひとつびとつの動きに、ハインリヒは今は目を凝らしている。
 ぶ厚い肩と胸が剥き出しになった。
 両腕も抜いてしまったシャツを片手に、それをどうしようかと思案するように、ジェロニモが足元に視線を落とす。そうしてから、そこに、そっとシャツを置くように、手から離した。
 裸になれば、いっそう大きなジェロニモの体だった。
 装甲が剥き出しの、直視するには少々痛々しい見かけのハインリヒの体と、胸も腹も、いたるところが傷だらけのジェロニモのその体は、どこか見た目の印象が似ている、そんな気がした。
 盛り上がったり軽くえぐれたりしている、大小さまざまな傷跡は、そのどれの原因も、きちんと本人が記憶しているのかどうか怪しいほど、数が多い。
 小さな子が、薄くすり剥いたひざ小僧を見下ろして、涙を浮かべて唇をとがらせているのを目にした時のように、ハインリヒは、微笑ましさとせつなさをない混ぜにした表情を、ジェロニモに向かって浮かべていた。
 触れて確かめたかったのは、すっかり馴染んでしまった自分の体と同じほど、ジェロニモの体も、機械とあからさまにわかるように硬くて冷たいのかと、そんなことだった。
 逡巡を含んで伸ばすその手を、ジェロニモが、わずかに目を細めて見下ろしている。困惑とも、不安とも取れるその目に浮かぶ色を、ちらりと上目に見上げて、伸ばしているのがマシンガンの右手のせいだろうかと、ハインリヒはいつものように考える。
 それでも、触れてしまっても、ジェロニモは逃げたりはしなかった。
 きちんと生身に見えるその体は、見かけのほんものらしさを裏切らずに、あたたかな体温を、ハインリヒの鉛色の指先に伝えてくる。皮膚のなめらかさと、傷跡のつるりとした感触が、交互にやってくる。左の肋骨の真ん中辺り、脇腹に近い、やや正面寄りの、ひときわ大きな傷跡で、ハインリヒは指の動きを止めた。
 「・・・ひどいな。」
 嫌悪ではなく、その範囲から、傷を受けた当時の痛みを想像して、うっかり眉をしかめてから、まるでいたわるように、傷跡をそっとなぞる。
 苦笑するような表情で、ジェロニモが、ハインリヒの指先と傷跡を、ゆっくりと肩口にあごを埋めるような仕草で見下ろした。
 「昔の傷だ。」
 だからもう痛むことはないから大丈夫だと、口調と声音に言わせて、この傷跡の原因に対して、恨みも怒りも憤りもないことを、ジェロニモの表情の穏やかさが表している。
 ハインリヒは、ジェロニモを見上げて、両方の眉を上げた。
 「どうして、消してもらわなかったんだ。」
 生身を完璧に再現することが目的──下らないと思える、科学者たちのこだわり──だったろうとは言え、こんな無残な傷跡まで、すべて残しておくことはなかったのではないかと思いながら、その後何度も人工皮膚を替える機会があったにも関わらず、ジェロニモがそれをしなかったということは、それは何か理由があって、ジェロニモ自身の選択だったのだろうと、そこまで思いついても、ハインリヒは、痛めつけられた跡に覆われたジェロニモの浅黒い皮膚に、憤りしか感じられない。
 「傷も刺青も、おれの一部だ。」
 まだ傷跡に触れたままのハインリヒをとがめる素振りもなく、ジェロニモは、静かな、けれどきっぱりとした口調で、珍しく言い聞かせるように、ゆっくりと言った。
 うっすらと、驚きに、頬の辺りを軽く叩かれたように、ハインリヒは小さく何度か瞬きをする。
 それから、ジェロニモを見上げたまま、やや呆れた表情を浮かべて見せてから、唇の両端を上げた。
 「おまえさんらしいな。」
 ハインリヒの苦笑を写したように、ジェロニモも、薄く微笑んだ。
 ふたりの笑みは、思ったより長続きしたけれど、その後に続く言葉を、なかなか見つけられない。何か言いたいことがあるような気がするのに、それをうまく口にできずに、けれど言葉にしてしまえば、何もかもが台無しになってしまいそうな、そんな予感がしていた。
 同じようなことを感じて、考えているのだと、なぜか理解し合っていて、そうして、言葉の足らなさを補うために、ひどく重要な決心をしながら、ひときわ穏やかな仕草で、ゆっくりと先に動いたのは、ジェロニモの方だった。
 右手を、ハインリヒの、首筋からあごにかけての線に馴染ませて、指先にわずかに触れる銀色の髪を、まるで絡め取るようにわずかに動かしてから、ようやく思い切ったように、掌でハインリヒに、顔を上げるように促す。
 ハインリヒの唇は、もううっすらと開いていた。
 そうと、待ちかねていたわけではないだろうと思ったけれど、場合によっては、言い訳の立たない状態になるはずだったから、頬に触れたままの自分の手に、ハインリヒが左手を重ねて来るのを、何も言わずに背中の方へ引き寄せた。
 誰かをこんな風に、力の加減も考えずに抱くのは、もうずいぶんと久しぶりのことだ。
 ハインリヒが、爪先と膝と背中を伸ばして、ジェロニモの巨(おお)きな体に添おうとして来る。さっきから重なったままの唇が、そうする間にもほどけてしまわないように、顔の角度を変えて、繋がりを深くすることが今は目的ではなく、ただ触れ合い続けていたいだけだった。
 戦闘のために、理不尽に強化改造された体も、こんなところは生身の頃のままやわらかく、子どもの頃、無邪気に誰かと、試すように重ねた口づけの幼さを思い出しながら、ジェロニモは、知らずにハインリヒを抱く両腕に力を込めている。
 戸惑うように動くハインリヒの腕を気にして、ジェロニモは、ほんの少しだけ理性を取り戻した。
 ほんとうに、きちんと直っているかどうか──ギルモアを信用していないと、そういうわけではなくて──、それを確かめたかっただけだったのに、一体どこからこんなことになってしまったのかと、事の成り行きに驚きながら、ハインリヒがまだ抗いもしないことに、実はもっと驚いている。
 無下にもできないと、そんな気遣いかと、ハインリヒの優しさに甘えるのもいい加減にしろと、珍しく胸の内で自分を叱りつけて、ジェロニモはやっと、抱きしめたハインリヒの背中から腕を解く。
 離れようとするジェロニモの腕の下から、自分の腕を抜いて、ハインリヒが、いっそう近く伸び上がってきた。
 驚いて、無意識に体を引こうとしたジェロニモを、今度はハインリヒが、その首に両腕を回して引き寄せる。
 ジェロニモの首と肩の盛り上がった筋肉に、添うようにハインリヒの鉛色の右手が乗った。冷たいはずのその手と腕が、今はひどく熱いような気がして、最初の口づけに励まされたように、けれどまだわずかにためらいながら差し込まれるハインリヒの舌先を、ジェロニモはもう逡巡もなく受け止めていた。
 機械の体が、熱を持っている。冷却装置がうまく作動していないのかもしれない。この、ひどく深くて切羽詰まった口づけのせいで、体のどこかがおかしくなっているのかもしれない。
 刺青の線をなぞるように、ハインリヒの両手が、代わる代わるジェロニモの頬を撫でる。ジェロニモは、ハインリヒの髪の中に両手の指を差し込んで、ハインリヒを放すまいとしていた。
 生身の時だって、こんな風に、何かに急かされたように、誰かを求めたことはなかった。
 呼吸が行き交ううちに、濡れて湿った唇の間で、時折、せつなく吐息がもれて、それを覆い隠すように、また唇と舌が深く絡む。赤みを増したように見えるハインリヒの唇に、時折軽く噛みついて、耳朶の後ろの、あごと首の線の出会う、皮膚のやわらかい辺りで、アルベルトと、うっかり呼んでいた。
 まるで、それが合図だったように、ふたりの足はどちらからともなくゆるゆると動き出して、すぐ後ろにある、ジェロニモのベッドの方へ向かっていた。
 倒れ込むように腰を下ろしたベッドの上で、膝の上にハインリヒを乗せる形で、ジェロニモは必要もなく軽く上を見る。赤く火照ったハインリヒの頬の辺りに視線を据えた後で、柄にもなく、一緒に赤くなってから、それを隠すように、ハインリヒの胸元に顔を押し付けた。
 いつになく子どもっぽいジェロニモのそんな仕草に、ハインリヒも照れて、けれどそれを押し隠して、ジェロニモのあごの辺りに両手を添えると、自分の方へ軽く持ち上げる。
 そこでまた、唇が重なった。すぐに湿った音がして、ハインリヒは背中を丸め、もう自分の息の音だけを聞いている。ジェロニモの片腕が腰に回り、抱え上げるには少々難儀するはずのハインリヒの体を、難なく横倒しにしながら、ぶ厚い胸の下に敷き込む位置に、体を重ねてくる。
 ハインリヒは、物も言わずに、その背に両腕を回した。
 探る掌の下に、ジェロニモの体中に散った傷跡が触れる。汗の湿りと熱は、自分も同じことだろうと思って、一瞬だけ息を止めた。
 ふと、その一瞬に、同時に我に帰って、額の触れそうな位置で、不意に見つめ合う羽目になる。ふたりとも、ためらいながら、けれど目をそらさなかった。
 浮かんだ言葉より先に、舌先があえいだ。舌の奥の痛みに、喉を上下させて、ハインリヒは、何か言うために開きかけた唇を、そのまま閉じようかと、瞬間、迷う。
 「・・・俺たちは、何をしてるんだ・・・。」
 問いの形を取っていて、けれどそれは問いではなく、迷う語尾とは裏腹に、両腕は、しっかりとジェロニモを抱きしめたままだ。
 ハインリヒの頭を抱え込んだままで、1秒足らずの間に、ジェロニモが眉を寄せるように、すっと目を細めた。
 「・・・わからん。」
 短く、一言だけ、まるで言い捨てるような、彼には珍しいその言い方だったけれど、切った語尾は、ハインリヒの舌の奥へ吸い込まれた。
 ふたりは、しっかりと互いを抱いて、手と足を絡め合って、ベッドのきしみにもかまわずに、上へ下へ、何度も体の位置を変えた。
 湿った唇の薄い皮膚が、融け合ったように重なったままだった。
 説明できない焦燥感ばかりが、喉の奥から突き上げて来る。そこから生まれた熱が、歯車や奇妙な形のねじに囲まれた、機械仕掛けの内臓の中を、音でも立てそうにかき回している。
 ジェロニモは、それを、せつない感覚だと理解してから、もっと強くハインリヒを抱いた腕の輪を締めつけた。
 力を込めても、壊す気遣いのない相手ということに、今改めて感謝しながら、応えるように自分を抱き返してくるハインリヒの額に、心ばかりの感謝の意味で、小さくひとつ口づけを落とす。
 ふたり一緒に、熱の塊りになっている。吐く息も、重ねている膚も、何もかもが熱い。乱れたハインリヒの髪さえ、熱っぽく思えた。
 ここから先、一体どうするつもりなのかと、自問しているのもふたり一緒だったけれど、それを口にすれば、まるでこんなことになってしまったことで、それぞれ互いを責めているように響く気がして、ふたりはことさら口をつぐんでいる。
 ハインリヒは、こっそりと古い記憶を手繰り寄せ始めていたし、ジェロニモは、ハインリヒのそれよりももっと微かな──そして数も少ないだろう──思い出を頼りに、そろそろと、互いの下肢に掌を添わせるタイミングを計っていた。
 汗で滑ったふりをして、ハインリヒは、ジェロニモの背中を抱いていた腕を、するりと腰の方へ落とし、背骨の終わる辺りに指先をさまよわせた後で、そこにあるベルト通しに右手の人差し指を引っ掛け、下に軽く引きながら、
 「・・・全部、脱がないか。」
 精一杯、声が震えて消えてしまわないように、みぞおちの辺りに力を入れて、真っ直ぐに言った。
 こんな時に恥をかくことだけは避けたかったけれど、ここまで来て、ジェロニモが拒むとは思えなかったし、何より始めたのはそっちじゃないかと、言い訳もちゃんと用意してある。
 少し驚いたように、わずかに目を見開いてから、ジェロニモは、まるでなだめるように、ハインリヒの前髪の辺りを、大きな掌で撫でた。それから、音もさせずに体の位置をずらすと、持ち上げた上掛けの下に爪先を滑り込ませてハインヒリに背を向け、言われた通り、まだ身に着けているものを全部、静かに剥ぎ取り始めた。
 ハインリヒも、慌ててベッドから降りて上掛けの下にもぐり込み、ジェロニモがまだこちらを向かないうちに、乱暴に脱いだ服も下着も、ばさばさと音をさせて、手近な床の上に放り出す。
 改めて向き合えば、照れくささばかりが先に立って、ハインリヒはいっそう赤くなった頬を隠すために、ジェロニモの首筋に両手を添えて自分の方へ引き寄せると、硬い鎖骨の辺りに額を乗せた。
 裸の脚が、清潔なシーツを滑って、互いの膝頭や爪先に触れる。しばらくためらった後で、抱き合う距離をもっと縮めて、頬やあごや肩口に唇を落とし、そうしながら、胸と腰を重ねた。
 もう隠しようもない熱さに、互いに、びくりと肩の辺りを震わせてから、けれど、触れ合うことにはまだ躊躇している。
 少しばかり理性を取り戻した頭の中で、けれど冷めることはない熱に浮かされたまま、もう引き返せないのだと自覚を深めながら、ジェロニモは、ハインリヒのうなじの辺りから指先を滑り込ませ、そこで、柔らかな髪をかきまぜた。
 先をためらいながら、けれど一向に後悔は湧いては来ないことを、もう不思議には思わなかった。