the way i feel


(3)

 ふっと、思わず息がもれた。ひどく淫靡なその音を、聞かれたかと、ハインリヒはジェロニモの肩口から顔を上げて、赤く染まった頬に刺青の線をすりつけられてそれから、まるでそのハインリヒの喉をふさいでしまおうとでも言うように、唇が重なって来る。
 唇が重ねて、そちらに気をそらすようにしながら、遠慮がちに、ジェロニモが触れて来る。ハインリヒも、まだためらいを残しながら、ジェロニモの方に手を伸ばした。
 具体的に、どうしたらいいのか、知っているはずもなかったけれど、快楽を追うだけなら、さほど難しく考える必要もない。他人の手に触れられるというのは、久しぶりだということを差し引いても、奇妙な感覚だった。
 生身ではなく、サイボーグだったから、こんなこととは、もうずっと無縁なのだろうと思っていたから、こすり上げようとするその手指が、人工の皮膚に包まれた、金属でできたにせものだとわかってはいても、触れ合うことが可能なのだと互いに実感──証明──していることに、ふたりはひどく昂ぶっている。
 一体どこまで生身の体が再現されているのか、確かめる機会もなかったし、確かめようとする気持ちもなかった。戦う機械に、他人との触れ合いなど、必要とは思えなかったので。
 ふたりの掌の中で、確かな質量の熱が、大きさをさらに増して、上掛けの中にこもった体温は、体内の冷却装置が壊れでもしたように、上昇する一方のように思えた。
 「もう少し、ゆっくり・・・」
 ハインリヒから手を離さないまま、どこか怯えたような響きで、ジェロニモが小さくそう言った。
 「どうにか、なっちまいそうだな。」
 唇の片端だけを上げる笑い方をして、赤らんだ頬と汗に濡れた首筋の辺りをジェロニモの肩にすりつけながら、自分たちの暴走ぶりに照れたように、ハインリヒは名残り惜しげに、ゆっくりとジェロニモから一度手を離す。
 それから、ジェロニモの両手を取ると、体の位置をずらして、ジェロニモの上に乗りかかった。
 ぶ厚い腹をまたいで、ずり下がった上掛けは、もうハインリヒの躯を隠すには役に立たず、それにはかまわずに、ジェロニモの肋骨の辺りに、そっと両の掌を乗せる。
 ごく自然な仕草で、ジェロニモが、ハインヒリの腰の辺りに両手を添えた。
 「サイボーグになってから、おまえさん、誰かと試したか?」
 ほとんど間を置かずに、ジェロニモがゆっくりと枕の上で首を振る。
 「だろうな、俺もだ。」
 言いながら、自分の体を見下ろす。装甲が剥き出しのこんな体で、一体誰と抱き合えと言うのか。人工皮膚できれいに覆われたとしても、生身である誰かと、こんな風に抱き合う気にはとてもなれないだろうと、ハインリヒは思った。
 ジェロニモの方には、また別の理由があるのだろうと、そう思いながら、そんなことも、いずれはあけすけに話せるようになるだろうかと、濡れた舌をわずかに覗かせて、薄く開いた唇を、ジェロニモの頬の刺青の線にかぶせてゆく。
 空気に触れた剥き出しの皮膚は、少しだけ冷え始めて、それからまた熱くなる。ジェロニモの大きな体の上に、自分の重くて熱い躯を伸ばしながら、ハインリヒは、力いっぱいジェロニモを抱きしめていた。
 胸と肩を合わせて、ごく自然に下腹の辺りが、ややすれ違ってこすれ合う形になる。ジェロニモの耳のそばで、うっかり湿った息を吐いては、ハインリヒはそうとは気づかずに物欲しげに、熱で乾いた唇を、ちろちろと舌先で何度も舐める仕草をしていた。
 ハインリヒの腰に添えていた掌を、ジェロニモがゆっくりと下へ動かす。かろうじて生身そのものの脇腹の辺りから、背骨のつけ根の辺りをさまよった後で、もう少し下へ降りて、そうして、そこからじきに機械の部分が剥き出しのままになる、腿の裏側の辺りで、ゆっくりとその手が止まった。
 まるで、ガラス細工をいとおしむようなかすかさで、ミサイルを装備するための装甲の、さまざまな凹凸や小さな溝を、ジェロニモはゆっくりとなぞった。
 あやうく滑りそうになる指先を引き止めて、じかに触れ合うのを、もう少しだけ先延ばしにして、ジェロニモは、機械そのもののようなハインリヒの体を、自分の皮膚で確かめている。人工の皮膚を剥いでしまえば、ふたりとも似たような姿になるだけだ。サイボーグであることの悲しさを、今はどこか遠くへ置き去りにして、他人の体温をただ懐かしみたいと、それだけを思う。
 それでも、ハインリヒの息の熱さに煽られて、いつもは鉄のような理性が、今はすっかり溶けてしまっていた。
 もう少しと、そう思いながら、もっと近く触れたいと思うのを止められずに、ハインリヒを上に乗せたまま、弾かれたように体を起こす。普段にない性急な動作で、ハインリヒを両腕の輪の中におさめて、力いっぱい抱きしめた。
 そうしても心配のない相手だということが、今はひどくありがたかった。
 喉を伸ばして、あごをジェロニモの肩に乗せているハインリヒが、合わせた胸の心臓の位置を重ねるためのように、もっと近く体を寄せて来る。
 坐り込んだ形で正面から抱き合ったまま、ジェロニモは、必要ないと知っていて、両足首を重ねながら、その中にハインリヒを囲い込んだ。逃がさないようにだと、気がついたのは、今度こそ間違えようもない昂ぶった声をハインリヒが上げたのを、自分の唇で吸い取ってしまった時だった。
 ぴったりと躯を合わせて、そうして、片腕でハインリヒを抱きしめて、もう片方の手で、触れた。
 絡んだ舌と同じほど熱くて、生身の時と同じように、ぬるぬると指先が濡れた。ハインリヒのそれと、自分のそれと、触れ合っている。ゆっくりと指先を滑らせていると、ハインリヒの、鉛色の右手も、じきにジェロニモの掌に重なってきた。
 もう、抱きしめている必要はなくなって、呼吸を忘れたように重なったままの唇と、掌と、それから張りつめた濡れた皮膚が、ふたりを繋げていた。
 色違いの、生身に見える手と鋼鉄の手が、確かに親密さを分け合っていた。
 開いた唇を合わせて、その中で、濡れた舌を絡ませる。喉の奥まで、時々舌先を伸ばして、無我夢中で貪った。そうしながら、触れるジェロニモの手の下に、いつの間にか自分の指先を滑り込ませて、他のことは何も考えられずに、ただぬるぬると滑る指先をそこで絡め合う。
 必死で、先走りそうになるのを押しとどめて、タイミングを計りながら、いっそう近く、ジェロニモに躯を寄せていた。
 我慢の限界が近づくと、唇を合わせていることさえできなくなって、互いに、互いの肩に頬や額を押し当てて、熱く息ばかりを吐いた。
 何がどう勝ち負けというわけでもなかったけれど、相手のことを優先していたと言えば聞こえが良く、ごく自然に、ジェロニモにはハインリヒが触れ、ハインリヒにはジェロニモが触れていた。
 濡れた感触にこすり上げられるのに勝てずに、ハインリヒは、外した左手を、しがみつくようにジェロニモの背中に回した。そうして、先に達してしまったのはハインリヒで、その鉛色の掌の感触のせいだったのかもしれないけれど、ジェロニモはそのしばらく後で、ゆっくりと躯の力を抜いた。
 呼吸はすぐにはおさまらずに、互いに、互いの肩や首筋に頬をすりつけて、抱き合った体に汗が吹き出すのを、互いの掌がゆっくりと撫で上げてゆく。
 大きな息のせいで、ジェロニモのぶ厚い腹筋が動いて、何度かハインリヒのみぞおちの辺りに触れた。
 やっと、視線を交わす余裕ができて、それからまた、唇が重なった。
 再び両腕の中に抱き寄せられて、ハインリヒは、もうためらいもなくジェロニモの首に両腕を巻きつけ、ぬるつく下腹の辺りが触れるのにもかまわず、少しの間、2度目をねだっているような仕草で、うっかり投げ出していた両脚を、ジェロニモの腰の辺りに絡めさえする。
 そんなハインリヒをあやすように、うなじの辺りを、ジェロニモの大きな掌がそっと撫でた。
 それから、唇を重ねて、ハインリヒを抱きしめたまま、蹴り寄せられてしわだらけになったシーツを手探りで引き寄せ、剥き出しの下肢をそっと覆う。
 そのシーツを、静かに胸の辺りまで引き上げながら、ハインリヒを上に乗せる形で、その下に横たわって、やっと唇が離れた。
 上と下で、20cmほどの距離で見つめ合って、上気した頬を隠す術もなく、ハインリヒは言葉を探しあぐねて、照れ笑いを浮かべる。それを引き取ったように、ジェロニモもうっすらと笑みを浮かべて、今度はただ優しさだけを込めて、ハインリヒの乱れた前髪に口づける。
 息が整うのを一緒に待って、その間も、頬や耳の辺りに、互いに心づけの口づけを落としながら、次第に熱の治まってゆく躯を、ふたりはまだ近く寄せていた。
 カーテンを引いた部屋が、いくら薄暗いとは言え、今はまだ昼間だ。家のどこかに──イワンとギルモア以外はいないと、ジェロニモは知っているけれど──、この気配が伝わってはいないかと、ふと心配になって、ふたり一緒に息をひそめる。
 とても静かだ。さっきまで、ひどく騒がしかったような気がするのに、こうして黙り込んでしまうと、今度は言葉を見つけられずに、交わせるのは照れ笑いと苦笑ばかりだった。
 ようやく、ジェロニモの上から体をずらして、ごく当り前のように、硬い二の腕が自分の首の下に添えられたのに逆らわず、ハインリヒは、ジェロニモの鎖骨の辺りに、そっと頭をもたせかけた。
 「おまえさんは、帰らなかったのか。」
 ジェロニモが、ちょっと首をすくめたのが、わかった。
 「・・・きちんと直るまで、見届けたかった。何かあれば、おれの体の中身を使える。」
 わずかに目を見開いて、天井を見上げているジェロニモの、かすかに刺青の線の見えるあごの辺りに、視線を当てる。おそらくそんなことだろうとは思っていたけれど、そう思っていた通り、待っていたのだと言われれば、素直にうれしさが湧いた。
 「・・・今日は、誰がいるんだ。」
 左手を、ジェロニモの胸の上に乗せながら訊く。
 その手に、ジェロニモの掌が重なった。
 「ジョーとフランソワーズは、張大人の手伝いに行った。多分遅くまで帰らない。ギルモア博士は、イワンと一緒に地下の研究室にいる。」
 そうかと、小さくつぶやいてから、ハインリヒはジェロニモの肩から体を起こし、そっとドアの方をうかがった。
 「フランソワーズがいないとなると、今夜はおまえさんが食事当番なんだろうな。」
 そう言ったハインリヒに、ジェロニモが微笑で応える。
 名残り惜しさを振り払うように、横顔に笑みを浮かべてから、ハインリヒはそのままベッドから両脚を下ろした。
 「リハビリも兼ねて、おまえさんを手伝うのが筋なんだろうが、悪いが夕食の前に一眠りさせてくれ。」
 床に散らばった服を取り上げて、手早く身支度を整える背中に、ジェロニモが控え目に提案する。
 「ここで寝て行けばいい。」
 もうすっかり、機械の体を服で覆ってしまってから、ハインリヒはベッドの方へ振り返った。
 「・・・魅力的な案だが、久しぶりに、自分のベッドで寝たい。」
 少しばかり申し訳なさそうに、笑みが苦笑になっていた。
 「夕食には、起こしに来てもらえるとありがたい。」
 「もちろんだ。」
 こんな時に、ひと時の別れを惜しむためのキスをするような間柄ではまだなかったし、手を握り合うことも何となく場違いな気がして、ハインリヒは両手を後ろのポケットにわざと入れたままにし、ジェロニモも、膝の上に置いた手を、そのまま動かそうとはしなかった。
 うっすらと笑みを浮かべて、
 「じゃあ、後で。」
 「ああ。」
 そうお互いにうなずき合って、包み込むようなジェロニモの視線を、ようやく引き剥がし、ハインリヒは足音を立てずに部屋を出た。
 後ろ手にドアを閉めてから、その手で、ゆるみかける口元を慌てて覆う。自分の部屋へ向かいながら、けれど頬の赤みは消せなかった。


 久しぶりの仲間たちとの夕食は、静かににこやかなまま進み、イワンの世話にもっぱらなジェロニモとは、二言三言交わしただけで、これと言って、誰かに何かあったと、悟らせるようなものではなかった。
 疲れたと早々に部屋に引きこもったギルモアを見送って、その後で、イワンにあれこれと修理の終わった体の調子を訊かれ、ジェロニモはキッチンの片付けに忙しく、結局その夜は、お休みと声を掛けただけで終わってしまった。
 翌日の午後に、やっと戻って来たジョーとフランソワーズに会い、散歩と風呂の終わったばかりのイワンを手渡して、その夜は、人の数が増えた分だけにぎやかな夕食になった。
 その次の日は、ハインリヒの無事を祝いたいと言ったフランソワーズが、その言葉通りに張大人に連絡を入れて、わざわざ大量の食材を手に出向いて来た張大人の大盤振る舞いになる。
 「栄養のあるもの食べて、早く元通り元気になるアルね!」
 「サイボーグに栄養も何もあるもんか。」
 店の厨房に比べれば、ままごとのようだろうギルモア邸のキッチンで、張大人は大きな中華包丁を振り回しながら、手伝いに野菜の皮を剥くハインリヒに、諭すように言う。ハインリヒは、ちょっと唇の端を下げて、困ったようなふりで言葉を返す。
 ああ、ほんとうに元通りだと、焼ける中華なべの匂いに鼻を鳴らして、さっきイワンを散歩に連れて行ったジェロニモが消えた、裏庭の奥の森の入り口へ目をやって、ハインリヒはひとり微笑んでいた。
 少なくとも、1週間は様子見に、まだこのままここにいるようにと、ギルモアから言われている。ハインリヒも、今すぐドイツに発とうとは考えてはいなかった。ひとつは、自分の体のために。そしてもうひとつは、ジェロニモのために。
 ジェロニモも、きっとじきにアメリカへ帰ってしまうのだろう。それなら、それまでここにいようかと、そう考えている。ばらばらに、ばらばらな場所へ住んでいる仲間たちは、たとえ全員ではなくても、滅多とこうして集まることはない。それなら、たまにはこうして、こうやって仲間とのんびりするのも悪くはないだろうと、そう思う。
 地下の研究室に横たわっていたままの2週間ちょっとは、振り返れば、確かに人恋しいばかりの時間ではあった。眠っているか起きているか、それだけしかないけじめのない時間の中で、考えるのは、自分の体が動くようになったらと、そんなことばかりだった。
 自分の足で歩き、自分の手でつかみ、きちんと服を着て、日に3度食事をする。ただそれだけのことが、ひどく懐かしかった。不様に横たわるしかない自分の姿を、誰にも見せたくないと思う強さだけ、早く誰かに、まともな姿になって会いたいと、ひそかにそう思っていた。
 その誰かが、常にジェロニモだったのだということに、ハインリヒは今さら気づき始めている。
 野菜の皮を剥く手を止めずに、張大人が話しかけてくるのに、適当な相槌を返しながら、ハインリヒはジェロニモのことばかり考えていた。
 何が一体どうなってあんなことになったのかは今もわからないけれど、それを恥じる気持ちも後悔もなく、触れれば不自然な体のことを、気にせずにすむ相手がいたのだということに、今さら思い当たったことに、素直に驚いている。
 なぜもっと早く考えつかなかったのか。そんなことはとうに諦めていた。それは確かだ。そんな気にもなれなかった。それもほんとうだ。けれど何より、あの、自身が精霊のようなあの男に、そんなふうに触れることに、それは禁忌だと、心のどこかで思っていたのではないかと、大きな包丁を器用に使いながら、ハインリヒは、こっそりとひとり思いに沈んでゆく。
 ジェロニモに対する敬意だ。そしてそれが、今は、もう少し違う形に変わっている。
 触れたいと、そう思っていたのが、自分だけではなかったのならいいと、まるで逃げ道を探すように、ハインリヒは思った。
 これきりでなければいい。もう1度。あるいは、これからも、ずっと。
 初めて恋を知った稚ない少年のように、ひそかに祈りながら、きれいに皮を剥き終わった人参を、水を張ったボールの中へぽちゃんと落とした。
 その水音に呼ばれたのか、裏口から、のっそりと大きな体を折り曲げて、イワンを片手に抱いたジェロニモが、いつもの無表情でキッチンへ入ってくる。
 「ジェロニモお帰りアルね!」
 愉快そうに張大人が声を掛ける。それに、あごを引いてジェロニモが応える。ハインリヒは、まだ声を掛けないまま、ふと眩しさに目を細めるように、じっとジェロニモに目を凝らす。ふたりにだけわかる、ひそかな熱を込めた視線で、ジェロニモが、ハインリヒの水色の瞳を見返している。