the way i feel
(20)
トラックを駐め、ふたりは揃って家の中へ入った。
ドアを閉めた途端に、待っていたように同時に腕が伸び、閉めたばかりのドアにジェロニモを押しつける形になる。
血の匂いと獣の匂い、不思議なことに、ひとの汗の匂いもする。ベッドの中で感じるそれとは少し違う気がして、ハインリヒはジェロニモの首に両腕を回しながら、その匂いを、憶えておくために胸いっぱいに吸い込む。
「明日まで、もうどこにも行かない。」
滑って外れた唇の間で、ジェロニモがつぶやくように言う。
「・・・牧場から、電話があるかもしれないじゃないか。」
「さあ。」
珍しくとぼけた表情で、ハインリヒを抱き寄せたまま大きな肩をすくめた。
「・・・ほんとうに一大事なら、ここまで呼びに来るだろう。」
らしくもないジェロニモのそんな言い方に、ハインリヒはあっさりとうなずいて、また近く体を寄せる。
ここにひとりだったほんの数時間、ジェロニモが恋しくて仕方なかったのだ。
牧場で見たジェロニモを思い出す。牧場主は、ここの人間だ。ここでジェロニモと一緒に馬の世話をし、恐らく作ったコーヒーを一緒飲み、たまにはあの古びた家の修理もするのだろう。牧場主と同じほどくたびれた風のあの台所に、ジェロニモが大きな背中を丸めている姿が、はっきりと目の裏に浮かぶ。天井近くの戸棚に収まった、普段は使うことのない食器を、牧場主がジェロニモに頼んで取り出させている様子も浮かぶ。
あの獣医も、馬に何かあれば牧場へああやってやって来て、ジェロニモと話をするのだろう。様子がおかしいとか病気だろうかとか、あるいは今日のあの母馬のように、お産の手伝いにやって来るのだろうか。
何もかも、ハインリヒの知らないジェロニモばかりだ。彼らは、ハインリヒの知らないジェロニモをよく知っている。そしてハインリヒは、彼らのまったく知らないジェロニモをよく知っている。今まで交わることのなかったそれが、ここで今日初めて顔を突き合わせ、彼らはハインリヒの知るジェロニモの空気を嗅ぎ、ハインリヒは、彼らの知るジェロニモをちらりと眺めた。
世界の果てと果てにいるようなそんな距離を、自分は埋めることができるのだろうかと、ハインリヒは思う。
肌の色の違う人間たちとはほとんど付き合わずに、ここでひっそりと馬の世話をするジェロニモと、赤い防護服に身を包んで、ハインリヒたちの背中を護るジェロニモと、とても同じ人間とは思えないと思ってから、サイボーグだから当たり前じゃないかと、ハインリヒは自分の思考を心の中でこっそり嗤う。
同じサイボーグだから、そうやって始まったことだった。文字通りに、体の中身の隅々まで知っているふたりだ。今では別の意味で、もう見せていないところなどないように思えた。
ここに来るたびに、新しいジェロニモに会えるのだろうと思う。この、世界からわざとそう隔てられた土地に、慈しみを込めて根を下ろしたジェロニモに会いに来る。世界の誰よりもひとらしいジェロニモに会いに、ハインリヒはここへやって来る。ジェロニモを通して、ここに住む人間たちに会い、彼らを通して、自分の知らないジェロニモに出会ってゆく。自分にとって、それはとても大切なことになるに違いないと、ハインリヒには信じられた。
今ではもう、触れることに躊躇などないジェロニモの躯に、右手で触れてゆく。自分で上着を肩から滑り落としたところで、やっと少しだけ我に返った。
「・・・シャワーを浴びないか。」
ジェロニモがほんとうにひっそりとそう言ったのに、ハインリヒは慌てて少し躯を遠ざける。
「そうだな。」
そうしてやっと、ドアを後ろ手に閉めたものの、鍵はかけていなかったことに気づいて、ハインリヒは落とした上着を拾いながら、ノブの鍵をきちんと閉めた。
「・・・ついでだ、一緒に浴びないか。」
何がついでなのかと、自分で思いながら言う頬が、今さら少し赤くなる。ジェロニモもちょっと驚いたようにあごを引いて、けれどハインリヒの右手を取ってまた引き寄せながら、
「・・・いい考えだ。」
意見が一致すれば行動は早い。ハインリヒはソファに上着を投げて、さっそくバスルームへ向かう。
「どうせだ、湯をためよう。おまえさんも、お産に付き合った疲れを取る方が先だろう。」
もうバスルームの中へ頭だけ突っ込んでハインリヒが言う。ああ、とそれにうなずきながら、やけにてきぱきとした動作は照れ隠しなのだろうと思ったから、一緒にバスルームへ行くことはせずに、ジェロニモはとりあえずシャツを替えるためにベッドルームへ行った。
着ていたシャツを2枚とも手早く脱いで、部屋の片隅にぽつんと置いてあるふたつきのかごの中へ放り込む。
そう言えば、ハインリヒがここへ来て以来、外に出ることもなかったから汚れ物も増えていない。今日か明日、ハインリヒがここを去る前にまとめて洗濯もしようと現実的なことを考えてから、裏庭の物干しロープに、自分とハインリヒのシャツが一緒に並ぶところを想像して、その空想の眺めに、わずかの間心があたたかくなった。
ハインリヒはバスルームで湯がたまるを待っているのか、こちらへ来る足音も気配もない。
準備ができるまでにと思い、ジェロニモは乱れたベッドを整えることにした。また床にふたり揃って下りる羽目になるだろうけれど、それでもきれいに張ったシーツはいつだって気持ちが良いに決まっているから、ほとんど床にずり落ちた上掛けを取り上げようと腰を折った時に、ベッドのそばで奇妙な音がした。
小さくても、耳に障る人工音だ。目をやると、サイドテーブルの上で小さなディスプレイから青い光を発している、銀色の四角い塊まりが見え、ハインリヒが携えて来た携帯電話だとわかる。咄嗟に手が伸びて、二つ折りのそれを、その音を止めるためにジェロニモは目の前に持ち上げて開いていた。
──ハインリヒ君かね、どうしてるかと思って電話してみたんだが。
もしもしとも言わずに、すぐに話しかける声が始まる。コズミの声だ。
ハインリヒではないと答え損ねて、ジェロニモはそのまま小さな機械から聞こえるコズミの声を、ちょっと眉をしかめて聞き続けた。
──邪魔したなら悪かった。ジェロニモ君のデータが取れたかどうか気になってね。その点についてはあんまり心配はしとらんが、体に無理をさせんように、それだけ言いたくて──
大きな掌の中で、ジェロニモはぱたんと携帯電話を閉じていた。
「心配いらない。」
もう切れてしまっている携帯の、小さな画面に向かってつぶやく。それからジェロニモは、手の中で携帯をひっくり返し、意外に手際の良い動作で、本体からバッテリーを取り去った。
ふたつに別れた携帯とバッテリーを、まとめてサイドテーブルの引き出しに放り込む。ばたんと音を立てて引き出しを閉めた後で、今度は同じテーブルの上の電話を取り上げ、電話線を壁から引き抜いた。
いまだ番号を回す型のその重い電話機に長い電話線をぐるぐると巻きつけ、バスケットの選手の威勢の良いゴールと似た仕草で、再びふたを開けた洗濯かごの中へ放り込む。シャツの中に沈み込む、そこにいる限りはただの重石でしかない黒光りする電話と呼ばれる機械を数瞬眺めて、ジェロニモはばたんとふたを閉める。
それから、珍しく足音を立ててキッチンへ行くと、そこの壁に掛かっている電話も、電話線ごと壁から取り去り、今度はそれを冷蔵庫の中へ、牛乳とピクルスのびんの間に放り込んだ。
これもばたんと音を立てて扉を閉め、キッチンを出たところで、バスルームから顔を出したハインリヒを目が合う。
「・・・どうかしたのか?」
乱暴な足音に驚いたらしい顔で、ハインリヒは眉の間にしわを刻んでいた。
「何でもない。邪魔が入らないようにしただけだ。」
「邪魔?」
説明を求めようとしたハインリヒを、口を開く前に抱きすくめて、唇を重ねて黙らせた。
裸の背中に腕が回る。ジェロニモも、ハインリヒの薄いセーターの裾をまくり上げて、自分の手を滑り込ませた。
そう言った通り、明日まではどこにも行かない。一瞬も抱き合う腕をゆるめる気はない。
脱いだ服を床に転々と落としながら、抱き合ったままでバスルームの中へ消える。
バスルームの床は、ハインリヒが横になるには狭過ぎるだろうかと思いながら、次の時のためにも試しておくべきだと、ドアのノブに手を掛けて考える。すでに湯気のこもり始めたバスルームの中に、唇のこすれ合う、湿った音が満ち始めて、せっかくためた湯が冷めてしまうけれど、それをもったいないとは思わない。熱い湯などいらない、すでに熱いふたりの躯だった。
ドアの外に、足踏みするようにして脱いだジーンズを蹴り出して、ジェロニモはドアをきっちりと閉めた。
ハインリヒが何か言った声は、その向こうに吸い込まれて消えた。
それきり時間が止まったように、静まり返った家の中で、ドアの隙間からもれていた湯気はやがて薄れてゆく。時計が時を刻むささやかな音が、唯一の外の世界との繋がりのように、小さな小さな空間の中で、何をしているとも知れない気配だけが、ひそやかに続いていた。
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── 後書き ──
お疲れさまでした。やっと終わりました。ほぼ丸3年という、長丁場な連載になりましたが、最後までお付き合いいただき、ほんとうありがとうございました。
仕事で忙しくなり、500字でもいいから毎日進めよう!というのが当初の目標でしたが、それが達成できたかどうかはともかく、書き上げたことを褒めよう自分!ということでひとつ。
タイトルのThe Way I FeelはRemy Shandより。曲自体も、アルバム全部も気持ちのいい人です。
54好きの方々も増え、うれしい限りです。
そう言えば、書き始めたきっかけも54チャットだった記憶があります。調子に乗ってチャットをやると言い出したら、またお付き合いいただけたら幸せです。
相変わらず自分だけが楽しいあれこれですが、少しでも楽しんでいただけたなら何よりです。
連載はいつも楽しく苦しいのですが、書き上げた後の達成感がたまりません。
さて、次は何を書こうかな(と、長い長いリストを眺めつつ)。
最後に、もう一度、最後まで読んでいただいてありがとうございました!