the way i feel


(19)

 家の外へ出ると、納屋の入り口の前に初めて見る車が駐まっていた。
 ごく平凡な、深い灰青色とも暗い灰緑とも言いがたい車体の、この国の大きな車だ。その大きさを無駄だと咄嗟に感じて、その深海を思わせる色に仲間のことを思い出して、ハインリヒはふっと現実に引き戻されそうになった。
 車を横目に見ながら納屋の中へ入ると、子馬と母馬のいるいちばん奥から、何やら女の声がする。この土地の訛りにひしゃげた英語だ。グレート辺りと話をさせると、とても同じ言葉とは思えないその響きに、ハインリヒは思わずジェロニモの声を探して首を伸ばした。
 「呼吸もしていたし、自力で立ち上がった、今のところおかしなところはない。」
 女の声に応えるように、やっとジェロニモの声が聞こえる。ハインリヒはようやく安心して、コーヒーカップをふたつ抱えたまま、また奥へ向かって足を進める。
 これが連絡を取ったという獣医かと歩きながら見当をつけていたから、声の若々しさには似ない外見かと、勝手に白衣を着た中年を過ぎた女を想像していたら、自分より少し年下に見える、ごく普通の普段着を着た髪の黒い白人の女をジェロニモのそばに見つけて、ハインリヒは一瞬面食らって足を止める。
 頬で無雑作に切り揃えた髪がうつむいた目元を隠していたけれど、子馬を藁の上に寝かし、まだ細い首を撫でて腹の辺りを探っている獣医の真剣らしい顔つきに、ハインリヒは咄嗟に邪魔をしてはいけないと、そこで足を止めたまま女とジェロニモが自分に気づくのを黙って待った。
 ジェロニモも、女の手つきを心配そうに見守って、母馬の方へ、気遣うように顔を上げ、そうしてやっと後ろにいるハインリヒに気づいてそっと立ち上がる。
 「・・・もう少しで終わる。もうおれの手はいらない。」
 「子馬は、大丈夫なのか。」
 「産道で少し長くかかったが、今のところは大丈夫のようだ。」
 言いながら差し出されたコーヒーを、ジェロニモは受け取ってすぐに後ろを振り向いた。
 「先生、コーヒーだ。」
 差し出されたコーヒーに、女が上向く。髪を振り、そうして、あら、と言う風に口元をちょっと動かして、ハインリヒを一体誰かと訝しがる表情を素直に浮かべる。
 コーヒーを受け取るために子馬のそばに立ち上がり、わざわざ子馬と母馬の間を通らずに、壁際に寄ってからこちらへ足を向ける。その所作を、動物を扱う人間として当然の振る舞いだろうとは思ったけれど、ハインリヒはさすがだと心の中で感心して、この若い獣医に対する態度を少し改める気になった。
 子馬は人間たちの心配をよそに、今では少し安定した足つきで母馬のそばに立ち上がり、早速また母馬の腹の下に鼻先をもぐり込ませる。
 「心配なら、二頭ともウチに連れて行くわ。母親の方は縫った方がいいかもしれないけど、どうせ薬は飲ませられないし、子どもと引き離すときっと怒るから、連れて行くなら一緒の方がいいわ。」
 獣医がすぐにコーヒーに顔を近づけながら言う。
 「他の馬が一緒にいるのを警戒するようならそうしよう。今日1日様子を見た方がいい。下手に動かしても体に障る。」
 「そうね。そうして。」
 あっさりとジェロニモが言うのに同意してから、やっと獣医はハインリヒの方を見た。
 「そちらは?」
 牧場主とは違い、きちんとハインリヒに興味を示して彼女が訊く。声音に、初対面の女からたまに向けられるその類いの好奇心が聞き取れて、ジェロニモが彼女を見下ろして、ちょっと困ったように苦笑したのが見て取れた。
 「ジェロニモの友人だ。」
 わざと名乗らない。この場でだけの出会いだと知らせるために、握手の手を差し出す気配も見せず──まだ持ったままのもうひとつのコーヒーカップが役に立った──、ハインリヒは彼女に向かって礼儀正しく微笑んで見せた。
 「ああ、しばらく仕事を休むって言ってたのはそのせいだったのね。」
 医者という仕事柄、人とも動物とも付き合いが深いせいなのか、女はさっさとハインリヒの意図を悟ったらしく、さり気なくカップを両手で抱える仕草をして、ハインリヒの無礼を咎めるいたずらっぽい視線を、ずっと上に上向いてジェロニモに向ける。
 ジェロニモはさらに困った顔をして、ああ、と短く答えると、
 「まだ、休みの最中だ。」
 言いながら、ハインリヒにだけわかる意味を込めた視線を投げて来た。
 獣医はずずっと小さく音を立ててコーヒーをすすると、馬たちの方を振り返って、
 「わたしはもう少しここにいるわ。ついでに他の馬の様子も見て行くわ。」
 ジェロニモのそばでいっそう小柄に見える彼女は、今は服の汚れの方が気になるという仕草で自分の足元を見回して、もうハインリヒから視線をそらし、それは気遣いなのかどうか、ジェロニモに、もう行ってもいいと付け加える。
 ジェロニモは素直にその申し出を受け取り、馬たちのために、いつもよりもゆっくりとした足取りで彼女のそばを通り抜け、やっと区切りの中から出て来た。
 「じゃあまた。」
 ふたり一緒に、彼女が軽く手を振る。もう馬の方へ近寄りかけている彼女に、ジェロニモも軽く手を上げて応えた。
 短い言葉のやり取りの間に、ジェロニモの、彼女に対する信頼が窺えて、生まれたばかりの子馬と母馬を、彼女ひとりの手に任せるのにまったく不安がないらしいジェロニモの様子に、ハインリヒはかすかに嫉妬を覚えている。
 居留地と呼ばれるこの辺り一帯それ自体がハインリヒにはよその世界だけれど、ジェロニモが働いているこの牧場で、ハインリヒは完全に外の人間だった。
 納屋を出て、ジェロニモがもうすっかり明るい空を仰ぎ、まぶしさに目を細める。それを見て、ハインリヒは自分の手に合ったコーヒーのことをやっと思い出し、今さらと思いながらそれをジェロニモに差し出した。
 「おまえさんの分だ。」
 ああ、と、まるで目が覚めたばかりのような声の後で、カップに手が伸びて来る。
 「帰ってシャワーを浴びたい。」
 ひと口でカップを半分空にして、ぼそりとジェロニモが言った。
 「少し寝た方がいいんじゃないのか。」
 明るい外で見ると、白いシャツの血らしい汚れや、今は肩に掛けている脱いだシャツの獣の匂いが気になる。それほど疲れている様子は見えないけれど、馬たちの無事を気にしていた気疲れの方をハインリヒは心配していた。
 「・・・帰ってから決める。」
 肩をすくめ、空の方を見たまま言って、ジェロニモは残りのコーヒーを一気に干した。


 「すぐ戻る。」
 空になったカップを片手に、ジェロニモはそのまま牧場主の住居の方へ向かった。
 ひとりになって、また納屋の中へ馬の様子を見に戻る気にはならず、ハインリヒはそこに立ったままジェロニモを待った。
 手持ち無沙汰に、獣医の車に視線を移して、そう言えば体が元通りになって以来車の運転をしていないことに気づく。忘れたはずはないけれど、トラックの運転はいろいろと厄介だ。そろそろ体を慣らしにかかった方がいい。
 気まぐれにここへ来て、ジェロニモの、ここでの普段の姿を見て、改めてジェロニモにはジェロニモの生活があるのだと思う。
 サイボーグとして皆といる時とは、少し違うジェロニモの素顔だ。居留地に住み、同じ仲間と一緒に、馬や他の動物の世話をする。どこへいようと、風や土の声を聞こうとする仕草は変わらないけれど、ここでは確かに、ジェロニモはいっそう土地の空気の中に溶け込んでいるように見えた。
 馬に乗りに来いと、牧場主は言った。ここの人間になれるはずもないハインリヒは、けれどたまに訪れる旅の人間としてなら、いつでもあたたかく迎えてもらえるのかもしれない。
 照れ隠しにひとりで薄く笑いながら、そうして、ほんとうに久しぶりに、自分のいるべき場所を恋しいと感じた。
 長い間ドイツを離れることは別に珍しくはないけれど、今回は少しばかり事情が違う。もういっそ、アメリカのどこかへ引っ越して来ようかと、そう考えていたことに気づいて、そんな自分の身軽さを、その時はありがたく思ったのだと思い出す。
 今は違う。自分のその身軽さを、少し淋しいと感じていた。
 ここは、ジェロニモの場所だ。
 思いがけなく始まってしまったことだけれど、ジェロニモと一緒にいたいということとここにいるということは違う。一緒にしてはいけない。
 自分には、帰るべき場所があるのだと思った。
 ジェロニモが、シャツを羽織りながらこちらに戻って来る。それを見やって、ハインリヒは微笑んだ。
 「帰ろう。」
 ハインリヒの背中を押してジェロニモが言う。少し近づいた呼吸に、飲んだばかりのコーヒーの香りが立った。
 歩いて来た道は、トラックの窓から見ると違う道のように見える。砂利を噛むタイヤが埃も巻き上げ、シャワーを浴びた方がいいのはジェロニモだけではなさそうだと、後ろに流れてゆく道と家並みを眺めてハインリヒは思う。
 開けたままの窓から入る風に目を細めて、タイヤのきしみの合間に、やっとハインリヒは口を開いた。
 「・・・明日、コズミ博士のところへ戻ろうと思う。」
 そう予想していた通りに、ジェロニモが驚いた顔をハインリヒの方へ向ける。ハンドルに置いた手に、力が入ったのが見えた。
 「明日?」
 「ああ、少し長居し過ぎた。おまえさんにも仕事がある。俺もそろそろドイツが恋しくなった。」
 前を向いたままでジェロニモが訊く。
 「ここにいるのは退屈か。」
 ちょっとだけ眉の間を開き、ハインリヒはジェロニモの質問の意味を考えて、それから口を開いた。
 「いや、そういうわけじゃない。いられるならずっといたいが、俺はここにいるべき人間じゃない。ここは、おまえさんの場所だ。ここで俺がおまえさんを独り占めしてるのは不公平だろう。おまえさんにはおまえさんの生活があるし、俺にも俺の生活がある。俺たちは元々、別に一緒に暮らすためにサイボーグにされたわけじゃないんだ。」
 わざとサイボーグと言う言葉を口にして、ハインリヒは自分がすでに引き戻されかけている現実を、ジェロニモの目の前に放り出す。熱に浮かされたようなこの数ヶ月のことが永遠に続くわけではないのだということを、そうとははっきり言わずに、ジェロニモに伝えようとしたつもりだった。
 1分近く黙り込んだ後で、ジェロニモが不意にぼそりと言う。
 「・・・それなら、頼みがある。」
 「頼み?」
 「戻るなら、明日ではなく、明後日にして欲しい。」
 一言一言を、ゆっくりと区切るように、そう告げることが苦痛で仕方ないという表情を、ジェロニモは隠さなかった。
 ジェロニモの、そんな剥き出しの表情を、ハインリヒは心の底からいとおしいと思って、思わずジェロニモの膝に手を伸ばす。
 「そうしよう。」
 言ってから、また窓の外へ視線を戻した。
 ジェロニモの家がそろそろ見えて来る。窓から半分顔を出し、ちょっと透かすように喉を伸ばすと、ハインリヒは車の音にまぎれればいいと思いながらつぶやいた。
 「・・・馬に乗りに来いと言われた。」
 誰にとわざと言わなかったけれど、当然のようにジェロニモはそれを瞬時に理解して、あっと言う間に口元を薄い微笑みにゆるめて、
 「そうすればいい。」
 うれしそうに言うのが、ハインリヒがまた戻って来る意志があると確かめられたからなのか、どうやら偏屈らしいあの牧場主が、ハインリヒをまたここへ呼び寄せるようなことを言ったからなのか、どちらかとわからないまま、ハインリヒもつられて微笑んだ。
 「あの子馬が一人前になる頃に、また戻って来るさ。」
 「ああ。」
 間を置かずにうなずいたジェロニモが、ちょうどハンドルを右に切り、家の前に車を入れようとしたところだった。