Another Sunday



 日曜の朝、珍しく、ぱっちりと目が覚めて、これも珍しくシリアルを食べて、シャワーを浴びても、まだ10時だった。
 乾いた音が、宇宙まで届きそうに晴れ上がった空を見て、ジェットは口笛を吹きたい気分になる。外へ出ようと、思ったのはその時だった。
 とんとんとんと、アパートメントの階段を降りて、今は人通りの少ない表通りを、足取り軽く通り過ぎて、人と車を避けるように歩いているうち、住宅街へ紛れ込む。
 日曜の朝の家々は、とてもひっそりとしていて、まだ開かないドアの向こうで、家族がわいわいと、パンケーキやフレンチトーストの朝食を一緒にとっている光景が、見なくても浮かんでくる。
 ちょっとだけ、それを思って首を傾け、ジェットはまた、弾むように歩き出した。
 道を曲がり、時々立ち止まって、強くなる日差しを、繁った木の葉の間に見上げ、若い夫婦が、子どもやペットを遊ばせている狭い芝生をちらりと横目に眺め、そろそろ引き返そうかと、そう思い始めた頃だった。
 週末には、珍しくもない眺めだった。
 舗道にはみ出すように並べたテーブルや、芝生の上に敷いた古い毛布やシーツの上に、ところ狭しと並べられた道具や、食器や、おもちゃや、人形や、本。古いレンガ作りの家の、重そうな木のドアから、ちょうど老女が、椅子を抱えて外へ出て来たところだった。
 ガレージセールか。
 口の中でつぶやいて、行き過ぎようとしたけれど、その女性が、大きな木の椅子を両手で抱えて、玄関前から芝生へ続く短い玄関前の階段を降りようとする足元が、見ていられないほど危なっかしく、ジェットは、くるりと体を回してそちらへ走り寄って行った。
 「オレが運んでやるよ。」
 いきなり声を掛けたジェットに、彼女は驚いたように顔を上げ、階段に下ろしかけた足を止めて、ほんのちょっと肩をすくめる。
 ジェットは、両手を体の脇に上げて、空手であることを見せながら、ゆっくりと椅子に手を伸ばした。
 そっと取り上げた椅子を片手で抱え、残った右手を彼女に差し出し、両手で手すりにすがっていた彼女は、その手とジェットの笑顔---なるべく、優しく笑ったつもりだった---を見比べ、ようやく震える手を出して、ジェットの掌に乗せる。
 しみの浮いた、細かなしわの刻まれた手は、頼りなく柔らかく、ジェットは壊さないようにその手を握って、階段を降りる彼女の足元を見守った。
 芝生に下りると、彼女は、舗道に近い、大きな木陰の下を指差して、
 「あそこに椅子を置きたいの。」
 思ったよりもしっかりした声で、ジェットに言った。
 「ひとりで店番か、誰か手伝いでも来ないのか?」
 常に変わらない気安い口調で、まだ彼女の手を引いたままそう話しかけると、2倍は身長のありそうなジェットを横目に見上げて、彼女が柔らかく笑う。
 「後で、妹の子どもたちが様子を見に来てくれるの。」
 声に、ほんの少しの淋しさが混じったのを、ジェットは聞き逃さない。
 年を取って、小さくしぼんでしまったような老女は、ジェットが置いた椅子に、そろそろと腰を下ろして、首をねじってジェットをにっこりと見上げた。
 「どうもありがとう。」
 「どういたしまして。」
 まだ人通りのない道を眺めて、彼女をここにひとりぼっちで残して立ち去ることができずに、ジェットは、椅子の背に手を置いて、芝生の上に並んだ品物を、ぐるりと見渡すふりをする。
 かすかに金色に見える髪は、おそらく白くなったものを染めているのだろう。耳が見える程度に、短く切ってある。耳には、小さな金色のイヤリングを着けていて、丸まった背中を包むのは、ベージュの薄いセーターだった。
 頬や首筋や、胸元の皮膚は、彼女が、おそらく70を越えていることは間違いないことを示していて、この家にひとりで住んでいるのだろうかと、ジェットはそんなことを思った。
 「クッキーとマフィンは、昨日でみんななくなってしまったの。」
 傍に立ったままのジェットを、もしかすると、ガレージセール目当てにわざわざやって来た、見慣れない隣人だとでも思っているのか、彼女が申し訳なさそうに首をねじる。
 ガレージセールで、立ち寄った人間に、手製のクッキーやコーヒーを振る舞うのは、よくあることだ。彼女は昨日もこうして、一日中外へ坐っていたのだろうかと、尋ねはせずに、ジェットは唇を軽くとがらせた。
 「別にいいよ。」
 椅子から手を外し、見知らぬ他人に関わってしまった照れくささと気まずさで、ジェットは彼女を見ないために、そこから離れて、品物の回りをゆっくりと歩き出した。
 ジェットが特に必要だと思うものはなく、どれも古い道具たちは、明るい日の下で、持ち主の手から離れてしまうことを、悲しんでいるように見える。
 リーダーズダイジェストの山に、一瞬心引かれたけれど、狭いアパートメントに、またゴミの山が増えるだけだと、指先で表紙を撫でるだけにとどめておいた。
 ぐるりと一周した、彼女の目の前近くにあるテーブルには、ずらりと台所用品が並んでいて、銀色に輝くトースター---おそらく、ジェットと同じくらいの歳だろう---と、透明なプラスティックが、少しくすんでしまっている、古いミキサーがあった。
 それから、テーブルの真ん中に、わざわざ浅いダンボールの箱の中に、一応は見えるように並べてある、食器の群れを目に止める。
 群れとは思っても、実際は、2客のコーヒー、あるいはティーカップと皿、マグがふたつ、まんまるのティーポット、スプーンが4つ、クリーム入れと砂糖入れ、シリアルかスープに良さそうな、これも皿つきの、丸いボールがふたつ。カップの口は、くるりと真っ直ぐではなく、波打っていて、そこに唇を寄せたら、とがった部分が痛そうだと、ジェットはくすりと笑いをこぼした。
 古いものらしいと知れたけれど、白い地は、目に眩しいほど真っ白で、そこに乗った絵は、深いくせに透き通るような、少しだけ暗い青一色の、花とも実ともつかないものだった。
 その色合いに、ふと思い出した顔があって、ジェットは目を細めて、気がつくと、カップの波打った口に、そっと指先を滑らせていた。
 つるつるとした手触りは、冷たく、けれど掌に乗せていれば、ゆっくりと温まって、人の肌---生身では、なくても---に馴染んでくれるように思えた。
 ひびも染みもなく、欠けたところも見えない。買ったのは随分前でも、たった今箱から出したばかりなのだと言われたら、そうかとそのまま納得してしまいそうだった。
 取っ手の部分が四角いマグをそっと取り上げて、顔に近づけて、長い間大事に使われていたらしいそれに、ジェットはコーヒーをいれて飲みたいなと、不意に思う。
 引っ繰り返したマグの底には、製造元のマークなのか、剣を2振り合わせたようなマークが、これも同じ青であった。
 「これも、売っちまうのか?」
 老女が、ずっとジェットを見ていたのか、表情を崩さないまま、けれど一瞬の間を置いて、浅くうなずく。
 「・・・老人ホームには、持って行けないもの。」
 マグを手にしたまま、ジェットは、何か慰めのようなことを口にしたいと、心の底から思って、けれどうまくは動かない唇を、ぱくぱくと2度開いただけだった。
 それでもようやく、いつもの人懐っこさを総動員して、彼女に対する敬意のために、マグを両手で抱えて、
 「じーさんと、ずっと一緒に使ってたんだろ?」
 あてずっぽうに言った瞬間、彼女の顔が、いきなり華やいで、そこが、金色の光に包まれたように、ジェットには見えた。
 70を過ぎたように見える老女ではなく、濃いブロンドの、紅い唇でにっこりと微笑む、ジェットより少しばかり年上の女がそこに現れ、そして、消えた。
 幻を追いかけるように、瞳を動かしても、若い女の顔は、もうどこにも見えない。
 「・・・あの人が亡くなってからは、飾ってあるだけだったけれど。」
 色のない唇が動いて、語る。
 「結婚して、10年目のお祝いに、あの人が買ってくれたの。最初はコーヒーカップだけで、それから毎年、ひとつずつ。そのマグは、15年目だったかしら。」
 老女は、若々しい笑みを、しわだらけのたるんだ頬に浮かべ、ジェットの手元をうっとりと眺める。
 「あの人も、とても背が高かったのよ。」
 彼女が見ているのは、ジェットではない。先に逝ってしまった、背の高かったという、夫だった。
 彼女から目をそらし、手元に目を伏せて、ジェットは考え込むように、数回瞬きをした。
 それから、マグをテーブルのダンボールの中に戻すと、少し慌てた仕草で、ジーンズのポケットや上着のポケットの中に、手を突っ込み始めた。
 「オレが買う。大事に使うよ。いくらだ?」
 老女が、弾かれたように真っ直ぐに顔を上げ、背を伸ばした。
 ぽかんと口を開けてジェットを見て、少しばかり困ったように、頬に指を添える。
 「あら・・・どうしようかしら・・・」
 何だよ、と彼女の方に1歩寄ると、
 「そんな古いもの、売れないだろうと思って、決めてなかったのよ。」
 ひざの上で、もじもじと指を組んではほどいている彼女の仕草が、とても可憐に見えて、ジェットはどきりとしながら、ポケットから取り出した紙幣を全部、その手の上に乗せた。
 「じゃあ、今決めてくれよ。」
 紙幣とジェットを見下ろして見上げて、老女はさらに困惑を口元に刷いた。
 「足りないなら、また後で来るから。」
 ひどくせっかちに、ポケットから取り出した小銭までそこに付け加えて、どうやら30ドルばかりになった金額に、ふたりは顔を見合わせて、それから、彼女が、消え入りそうに微笑んだ。
 両手に乗った金を、彼女は大事そうに抱いて、
 「・・・あなたの大事な人と、大切に、長く使ってね。」
 「ああ、約束する。」
 間を置かずに、穏やかな彼女の声の、静かな迫力に押されたように、ジェットはきっぱりとそう答えていた。

 
戻る     続く