Another Sunday #2
仕事から帰って来て、いちばんの楽しみは、実は留守番電話のメッセージを聞くことだった。
街を離れて、一日中トラックの中にいて、ひとりで暮らしている小さなアパートメントへ戻って、荷物も解かないまま、電話の傍の機械に手を伸ばす。
"電話に出られません、メッセージをどうぞ。"
必要がないとは思っていても、そう、ドイツ語と英語で、最初に自分の声---には聞こえない---が流れ、それから、いくつかの、誰かが残したメッセージが流れ始める。
滅多にはないけれど、仕事先からの、素っ気ない用件がほとんどの中、ぽつりぽつりと、世界のあちこちに散らばった、仲間たちからの、様々な言葉のメッセージが残されていることも、たまにある。
いちばん多いのは、英語の、大して意味もない、"何だよ、また仕事かよ。また電話する"という、機械を通すと、いっそう稚なく聞こえる声だった。
今日も例外ではなく、2週間近くも戻って来なかったせいか、ジェットは4件もメッセージを残していた。
"何だ、いないのか。また電話する。"
"何だ、まだいないのか? ハインリヒ? ハインリヒ?------ちぇ、仕事かよ。"
"まだ仕事かよ、いつ帰って来るんだよ。"
"ハインリヒ? アンタ生きてるか?"
勝手に人を殺すな。唇を突き出してから、聞き終わったメッセージを消そうとした手を、一度止めた。
声が、少しずつ切羽詰ってくるように聞こえるのは、ハインリヒの不在にいら立っているというよりも、何か用があるのだと、そんなふうにハインリヒには思えた。
それなのに、メッセージにはそれらしいことは、一言も残されていないのはどうしたことだろうかと、上着を脱ぎながら首をひねる。
時差を理由にして、疲れた頭と体で、ジェットの長電話に付き合う気には、今すぐはどうしてもなれず、ハインリヒはシャワーも浴びないまま、とりあえず寝ようと、脱いだ上着を片手に、ベッドルームへ向かう。
ベッドにもぐり込んで、枕に頭を落ち着けてから、すぐ傍に置いた、もう1台の電話に手を伸ばして、受話器からダイアルの音が聞こえることを確かめると、ハインリヒは、ようやく眠るために目を閉じた。
時差などおかまいなしのジェットが、とんでもない時間に国際電話をかけてくることは、決して珍しくはないけれど、受話器を取り上げた時には、部屋の中は真っ暗で、ハインリヒは寝ぼけた声で、もしもしと、向こうから怒鳴るように自分を呼ぶ声に応えていた。
「やっとご帰還かよ! 仕事仕事って、アンタ働きすぎだぜ。」
「・・・おまえが働かなさすぎるんだ。」
「オレは少なくとも、カローシの心配はないと思うぜ。」
勝ち誇ったような言い方をして、一体どこで覚えてきたのか、ろくでもない言葉を口にする。電話の向こうで、胸を張っているのが、目に見えるようだった。
ハインリヒは、やっとベッドの上に起き上がって、まだよく開かない目をこすりながら、ベッドサイドに手を伸ばして、小さなランプをひとつつけた。
午前3時38分。
目の前にいたら、撃ち殺してやれるのにと、受話器を左手に持ち替えて、今はここにはいないジェットに、見せつけるように、右手の指を揃えて、顔の横に、手の甲をあちらにむけて、ぐいと突き出してみた。
「おまえが働きすぎで死ぬようなことになったら、心配するな、骨くらい拾ってやる。」
「アンタ、オレのことはいいから、自分のこと心配した方がいいぜ。」
皮肉の部分がまったく通じていない、微妙にすれ違う会話に、ハインリヒは、いつものジェットだと、こっそりと苦笑する。
「で、なんだ? まさかと思うが、今ベルリンのどこからか電話してるなんて言うなよ。」
右手を眺めながら、まだジェットを攻撃する手はゆるめずに、話を振った。
「皿とか、カップとか、買ったんだ。」
「はあ?」
アパートメントの裏の駐車場にある、ゴミ収集所をうろついている野良猫が、子猫を生んだとか、ダウンタウンでいつも見かける浮浪者の男を、最近見かけないとか、ガソリンの値段が上がったのに腹が立つとか、そんなことをわざわざ言いに電話して来た時よりも、もっと素っ頓狂な声が出た。
「皿とカップがどうしたって?」
ハインリヒの反応に、ジェットが向こう側で、あごを引いて、むっと唇を突き出したのが、見えなくてもわかる。
「じーさんと、大事に使ってたとか言うのを、ガレージセールで買ったんだ。そのばーさん、老人ホームに入るって・・・」
「おまえの話は、さっぱりわからん。仕事から疲れて帰って来て、朝方に叩き起こされた人間に、きちんと話を聞いてほしいなら、最初から筋道立てて話せ。」
とは言え、おしゃべりが話し上手とはもちろん限らず、ハインリヒが軌道修正をしながらやっとジェットから聞き出したのは、先々週の日曜に、たまたま散歩中に見かけた老女が、ガレージセールをしていて、そこで、彼女が、昔夫一緒に大事に使っていた食器を、ジェットがまとめて買った、彼女の夫はとっくに亡くなったらしく、彼女は近々老人ホームへ入るらしい、ということだった。
「ばーちゃんのじーさん、オレみたいにかっこよかったんだってさ。」
社交辞令とか、世辞とか、そういう単語を知っているかと、訊こうとしてちらりと見た時計は、もう4時半になろうとしていた。
時間のことなど、ジェットが頓着するはずもなく、まだ飽きもせずに話し続けるのに、ハインリヒはまた耳を傾ける。
「ばーちゃんとじーさんがふたりで使ってたって言うからさ、全部ふたつずつあって、アンタが好きそうなカップとか、ティーポットとか、いろいろだぜ。」
「ふたつ・・・ってことは、子どもはいないのか。」
頭に浮かんだ疑問を、あまり深くも考えずに口にすると、いきなりジェットの声が低くなる。
「・・・いたら、ひとりでガレージセールなんか、やってねえだろ。」
「・・・まあ、そうだな。」
ジェットと同じほど、声を低めて、答える。
「愛着のあるものなんだろう、きちんと大事に使え。うっかり割ったりするなよ。」
「ばーちゃんにも、そう言われたよ。」
「どうやら、人を見る目は確かな人のようだな。」
少しだけ優しい声になって、そう言うと、もうひとつの意味は通じてないらしく---通じると、期待もしていない---、ジェットが照れたように、へへへと笑う。
かちゃかちゃと、食器同士を触れ合わせるような音が聞こえ、どうやらジェットが、その手に入れたというカップや皿に、触れながら話しているのだとわかる。
「・・・アンタに、何となく似てるんだ。真っ白で、青一色で花みたいなのが描いてあって、なんか、オレみたいなのがさわったら、割れそうな気もするのに、けっこう手に馴染むっていうか・・・」
真っ白に青一色、というのは、食器のデザインとしては珍しくもないさと、ハインリヒは、どくんと跳ねた人工心臓を右手で押さえながら、自分に言い聞かせた。
ジェットがいるのはアメリカだ。けれどあそこには、特にジェットのいるニューヨークには、ヨーロッパからの移民がたくさんいる。ドイツからの移民も、たくさんいるだろう。
けれど、そんなはずはないと、ジェットの話の続きを待とうとした。
普段使いの食器を、ふた組ずつだけ買う、ということは、あまりない。たいていは、4人分、あるいはもっと数の多いセットを買う。ひとり暮らしのハインリヒさえ、それがいちばん安価で、手軽だからという理由で、丈夫さだけが取柄の4人分のセットを、ひとり暮らしを始めた時に買った。
食器を、必要なだけ、欲しいものだけ買うのは、それが気安くたくさん買えない、高価なものだからだ。
老女の夫が、最初に祝いに買ってきた、と言ったと、ジェットが言ったのを思い出しながら、ハインリヒは、まだ自分の考えたことを否定しながら、ジェットに訊いた。
「製造元はどこだ? 裏に、名前くらいあるだろう。」
英語、スペイン語、あるいはどこかのアジア語の、聞いたこともない名前を思い浮かべた。
「名前はないけど、マークが・・・同じ青で、剣がふた振り、打ち合ってるみたいな---」
「おまえ、それに一体いくら払ったんだ!」
ジェットが最後まで言うのを遮って、思わず声が高くなる。向こうで、驚いたジェットが、ハインリヒの剣幕に、少しばかり気色ばんでいる。
「なんだよ、いくらって・・・」
「いくら払ったんだ? まさかただで手に入れたわけじゃないだろうな。」
「買ったって言ったろう? ちゃんと有り金全部渡して来たんだぜ。」
「だから、いくらだ。」
「30ドルくらい、かな。」
アンティークの食器に、どれほどの価値があるのか、ハインリヒにはわからない。友人で、美術評論家のゲオルグ辺りに、長く会っていないことを言い訳に、久しぶりに電話でもすれば、誰か骨董商でも紹介してくれるかもしれない。
ジェットの手元に、まとまった金があるはずもないから、自分が払ってやって、きちんと借用書を書かせようと、今は言わないまま決心する。
「・・・アンタと、一緒に使いたいと思ったんだ。あのばーちゃんが、ばーちゃんのじーさんとそうしてたみたいに。」
古い食器に無駄使いをしたと、ハインリヒが怒っているのだとそう思ったのか、ジェットが、言い訳するように細い声で言った。
「心配するな、近いうちに、俺がそっちへ行ってやる。」
え、とジェットが息を飲む音が聞こえた。
「俺が大事に使ってやるから、おまえは心配するな。」
え?え?と、ジェットが混乱した様子を伝えて来て、わけがわからないと、小さくつぶやくのが聞こえる。
「俺が行くまでに、その、食器を買った先の女性の居場所を突き止めとけよ。老人ホームに引っ越すなら、引越し先をだ。それから、絶対にその食器、割るなよ。傷でもつけてたら、おまえと絶交してやる。」
珍しく一気にまくし立てて、ジェットには一言も口を挟ませない。
一体その食器に、どれほどの値段がつくのか、まったく見当もつかない。それを、ほんとうにジェットが知らなかったとは言え、ただ同然で手に入れてしまったのは犯罪だと、ジェットにはまだ言わないでおこうと思いながら、その老女が目の前にいたなら、ジェットの代わりに頭を下げて謝りたい気になる。
せめて気持ちだけでも、少しはまとまった金を、食器の代金として渡せたらと、銀行口座の残高を思い出しながら思った。
それから、ふっと優しい気持ちになって、ハインリヒは口元に微笑みを浮かべた。
ジェットが、彼女に、死んだ夫を思わせたというのは、ほんとうなのだろう。ジェットは、馴染んだ家を出て、老人ホームへ行く老いた女に、そうとは知らずに、ひとときはなやいだ夢を見せたに違いなかった。
だからだ。
ジェットの、明るい笑顔や仕草を思い浮かべて、どれほど自分が、それに勇気づけられてきたか、老女の気持ちを、まるで掌に乗せて眺めるように、ほんの少し目を細めて、ハインリヒはひとりでうなずいていた。
芯から幸せな人間というのは、知らずに人を幸せにできる人間のことなのかもしれないと、柄にもないことを思って、そうして、微笑みをいっそう深くする。
その老女に会えたら、ジェットに似ていたという、亡くなった夫のことを訊いても、失礼に当たらないだろうかと、考えながらまたちらりと時計を見る。
そろそろ6時に近い。ゲオルグに朝一番で連絡を取るなら、徹夜でジェットに付き合う気がないなら、眠った方が良さそうだった。
「ほんとに、アンタこっちに来るのか?」
「ああ、なるべく早くだ。おまえはそれまで、言われたことだけしておとなしくしてろ。」
へーいと、ふざけた調子の返事が返って来て、電話を切る前に、ハインリヒは、いたずら心で、ジェットに質問した。
「おまえ、マイセンって、知ってるか?」
「まいせん・・・?」
初めて耳にする単語を、人が必ずそうするように、おうむ返しにつぶやいて、その声はまるで、鳥の姿をした宇宙人に、クイーンズ・イングリッシュで話しかけられたとでも言いたそうに聞こえた。
「知らないならいい。俺が教えるまで、知らないままでいろ。」
時計の針が、6時ちょうどを指して、秒針が12時のところを通り過ぎた。
「アンタ、なんだよ、一体全体---」
おやすみと、言い捨てて電話を切った。
無知ゆえの、素人の幸運に勝るものはないと、思いながらまたベッドにもぐり込む。
閉じたまぶたの裏で、ジェットと向かい合って、老女の食器で、ドイツ式にいれた濃いコーヒーを飲む自分の姿を想像して、それはとても楽しいことのように、ハインリヒには思えた。
窓の外で、日曜の朝が、明けようとしていた。
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