ここからふたりではじめよう


1) 新任教師

 「本当に、教師になるつもりかね。」
 はい、とアルベルト・ハインリヒは、はっきりとうなずいた。
 やや背の曲がり始めた老人は、どこか淋しそうな目で、目の前の青年を見やると、ほう、っと小さく息を吐き出した。
 「ワシの元にいてくれれば、それでも構わんのだがね。キミ自身の研究もあるし、助手か秘書という手もある。」
 アルベルトは、微かに微笑んで、首を振った。
 「助手なら、専門の方がいるでしょう。秘書は性に合いません。」
 白い長いあごひげを撫でながら、老人は、わかったと、細い声で言った。
 「まあ、せっかく大学にも行き直したんじゃから、それも悪くはないかな。」
 納得したというよりも、自分自身に言い聞かせるように、ゆっくりと老人は言った。
 アルベルトは、話が終わったことを示すために、微笑んだままで静かに椅子から立ち上がった。
 「就職先に当てがあるなら、連絡をよこしなさい。ワシから一言入れておこう。」
 「ありがとうございます、ギルモア博士。」
 軽く頭を下げ、青年は音も立てずに部屋を去った。
 老人は------ギルモア博士は、椅子に深々と体を沈め、閉まったドアを凝視しながら、もう一度ため息をついた。


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 先生、と呼ばれるのに、なかなか慣れない。
 ものを教えるのも、子ども---とは言え、高校生なら、もう体だけはりっぱに大人だったけれど---たちと接するのも、思ったほど苦痛ではなかった。
 ただ、先生と呼ばれるのに、どうしても慣れなかった。
 黒板に伸ばした右手に、クラス全員の視線が集まるのを、見る必要もなく、背中に感じる。
 白いチョークを使うので、わざわざ白い手袋を使っているけれど、それが何色であろうと、素手でないということは、生徒たちの好奇心を、いやでもかき立てるらしかった。
 アルベルトは、まだ誰も、それについて質問をして来ないのを、少しばかり不思議に思っている。
 他の教師たちは、校長から、それとなく話を聞いているらしく、わずらわしい質問に付き合わずにすんでいるけれど、生徒たちからの反応は、今のところこっそり凝視する、という程度に留まっていた。
 この年頃の、好奇心はあるけれど、羞恥心の方がそれに勝るという、可愛らしさではあった。
 この高校に着任して2週間。1年生と2年生を、それぞれ2クラス、そして何故か3年生を1クラス、受け持っている。
 新任教師に、3年生を受け持たせる例はあまりないはずだけれど、ひとつはアルベルトが新任とは言え、すでに30近いことと、今年は国語教師不足とかで、校長に拝み倒される形になった。
 断るつもりはなかった。難しいかもしれないとは思ったけれど、忙しさに気を紛らわせたい気持ちの方が、強かった。
 チョークを置いたところで、先生、と背後から声がかかった。
 「その字、読めません。」
 またか、と振り向くと、すでに見慣れてしまった顔が、口元をへの字に曲げて、こちらを見ている。
 「良心の、なんとか、って、上から5行目の・・・」
 思わず、溜め息と苦笑が、一緒に漏れる。
 黒板を振り返り、その生徒が指した辺りを見上げて、
 「呵責、かしゃく、だ。」
 と短く伝える。
 クラス中が、くすくすと小さく笑う。
 それにまるで気付かない様子で、彼は、ああ、とひとりで合点が行ったと言う表情で、ノートに顔を落とした。
 鮮やかに緋い髪が見える。成長期の少年には、すでに小さ過ぎる机に、アルベルトよりずっと大きな体をむりやり押し込めている彼は、その長身と髪の色のせいか、目立つ生徒だった。
 屈託のない笑顔で、最初の授業から、アルベルトに話しかけてきた。
 授業中に、必ず一度はこうして、読めない字を質問する。最初は、からかわれているのかと思ったけれど、朗読をさせると、確かに文章を読むのが、あまり得意ではなさそうだった。
 誰にでも好かれるタイプというだろう。何をしても嫌味にならない、そういう生徒だった。勉強の出来不出来はともかく、教師にすれば、扱いやすい生徒だった。
 板書の最後を指して、説明し終わったところで、計ったように、チャイムが鳴る。
 教科書を閉じると、生徒たちが、やれやれと言うような表情で椅子から立ち上がる。今日はこれが最後の授業だった。
 わらわらと、それぞれが勝手に立ち上がって、教室から出て行こうとする中で、赤い髪の生徒が、アルベルトの方へやって来た。
 「せんせェ、オレ、これ、質問し忘れたんだけど。」
 新任教師だからなのか、それとも誰に対してもそうなのか、敬語もへったくれもない。けれどそれをいちいち訂正する気にもなれない。そうさせない何かが、彼にはあった。
 「どの字だ?」
 思わず、からかうように尋く。
 彼が唇を突き出して、少しばかり傷ついた顔をした。
 「ひでェ、オレが字ィ読めねェからって、そういう言い方ないよな、先生。」
 大きな、お世辞にもきれいとは言い難い字が、乱雑にノートに並んでいる。指し示された字の読みを教えると、それにいちいち振り仮名を振る。
 大きな体をかがめて、けれど横顔はまだ、子どもだった。
 「自分で、辞書で調べる習慣をつけた方がいい。試験の時に困るぞ。」
 「バスケやるのに、辞書いらねーもん、オレ。」
 おどけたように言ってからノートを閉じ、それでも、サンキュ、と短く言って、彼は教室から出て行った。


 ジェット・リンクと言うのが、その赤い髪の生徒の名前だった。
 バスケットをやっているというのが素直にうなずける長身で、身振りも声も大きく、どこにいても、彼の姿はすぐに目に入る。
 いわゆる人気者、という存在で、バスケットボールの方も、キャプテンではないものの、主力選手のひとりらしかった。
 最初の日、リンク、と名字で呼ぶと、即座に名前で呼んでよと、屈託なく言われた。
 リンクなんて、ドコのどなたさま、って感じだろ。
 彼がそう言うと、クラスみんなが笑いながら、そうそう、とうなずいた。
 4年前に出逢ったなら、言葉をかけるのもいやだったかもしれない、とアルベルトは思う。
 天真爛漫な、屈託なく笑う、少年。少年と言うには大人びた、けれど青年にはまだ少し間のある、アルベルトにはひどくまぶしく感じられる、存在。
 あんな風になれたらと、秘かに思う。
 自分が奪われた、手に入れられなかったすべてのものを、持っているように見えた。
 失われた時間を思って、アルベルトはふと、右手を握りしめた。


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 「なーんかさ、変って言うか、引っ掛かるって言うか。」
 夕食の準備に余念のない姉のフランソワーズの後ろで、ジェットがさっきから、ぶつぶつと呟き続けていた。
 「その、新任の国語の先生?」
 振り返らずに、手を動かしながら、フランソワーズは言った。
 「そう、その新任教師。みょーに静かで、新任のクセにオドオドしてなくてさー、そのクセ、何か後ろに引いてるっつーか、よくわかんねえ。」
 「アナタとは、全然逆ね。」
 姉らしく、遠慮もなく、彼女が言った。
 「ねーちゃん、そういうこと言うか。」
 鼻白んで、ジェットが声を上げた。
 マグを持ち上げて、砂糖とミルクのたっぷり入ったコーヒーを、ジェットは一口すすった。
 キッチンのテーブルの上には、もう皿がいくつか並び始めていた。
 「どうせオレは、うるさくて目立ちたがりだよ。」
 「あら、わかってるんじゃない。」
 フランソワーズは、顔だけ弟の方へ振り向けて、笑顔を見せる。
 キッチンには柔らかく湯気が立ち、暖かかった。
 オレンジ色のシャツの、長い袖をひじまでまくり上げ、テーブルに頬杖をついて、ジェットはフランソワーズの後ろ姿を眺めていた。
 優しい、いかにも女性的な曲線。背中を半分覆う、濃い金色の髪。誰もが美人だと言う姉を、けれどその優しさゆえに、ジェットは深く愛している。
 母親が早くに亡くなって、まだ幼かったジェットを代わりに育ててくれたのは、他でもないフランソワーズだった。
 母親が亡くなった時のことを、ジェットはよく覚えていない。覚えているのは、ずっと泣いていた父親の背中を、辛抱強く撫で続けていた、フランソワーズの硬い横顔だった。
 「別に、いい先生なんでしょ?」
 フランソワーズが、手を止めずに、またジェットに話しかけた。
 「まあ、そうかなぁ、オレが下らねぇこと言っても怒んねぇし。」
 「じゃあ、いいじゃない、別に。何がそんなに気になるの、その先生の?」
 ジェットは、つと、唇を固く結んだ。
 言ってもいいかどうか、少しばかり迷う。この2週間、みんなが考えていて、けれど口に出すのが悪いような、そんな気がしていたことだった。
 「手袋、してんだよ、右手。」
 「手袋?」
 フランソワーズの声が、少し上がった。
 白い、手袋。ゴルフか何かをする人間がするような、少し厚めの、革らしい手袋。もし他の場所で見たなら、見過ごしたかもしれない。けれど、学校の中で、板書をする手が、そんなもので覆われているのは、奇妙だった。
 しかも、何故か、そのことには触れてはいけないような、そんな気に、彼はさせる。静かな威圧感とも言える、そんな雰囲気が、あのおとなしそうな教師にはあった。
 「もしかして、手の甲に傷があるとか、アザでもあるとか。」
 フランソワーズが言った。
 ふん、とジェットは鼻を鳴らしてそれに応えた。
 色素の薄い、輪郭はぼやけているくせに、その回りの空気は奇妙にくっきりとした、彼の姿。おとなしいせいか、実際より線の細く見える肩や、首筋の線。
 人の目を見ないわけではないのに、視線の方向がわからない。一緒にいても、するりとかわされているような、そんな気になる。
 人を、拒んでいるわけではないけれど、寄せつけない雰囲気が、彼にはあった。
 どうしてだろう、とジェットは思う。
 言葉にするのは得意ではなくても、初めて会った人間の人柄は、たいてい直感できた。
 好きか嫌いか、いい奴か苦手なタイプか、知り合い程度にしかなれない相手か、友人と呼べるようになるかどうか、人目見れば、いつも予想がついたし、外れることはほとんどない。
 けれど、彼は例外だった。読むのが難しそうな相手でもないのに、きちんとつかめない。実体ではなく、影を相手にしているような、そんな感じ。
 もどかしくて、つい、フランソワーズに手袋のことも口にしてしまった。
 ちぇっ、と聞こえないように舌を打つ。
 ほとんど料理を終わったらしいフランソワーズを手伝うために、ジェットはテーブルから立ち上がった。