ここからふたりではじめよう


2) 笑顔

 珍しく、バスケットの練習のない日曜日、ジェットは遠慮のない寝坊をした。
 昼近くにようやく起きて、何か食べようとキッチンへ行くと、テーブルについた途端に、フランソワーズの声が飛んで来た。
 「何よ、今頃起きてきて。今日は家の中、全部掃除するつもりだったのに、午前中、何も出来なかったじゃない。」
 どうやら機嫌が悪いらしかった。
 彼女の夫、ジェットの義兄の島村ジョーが、まあまあとフランソワ-ズをなだめている。
 「仕方ないだろ、勉強とか、学生だって疲れてるんだからさ。」
 「アナタは黙ってて。」
 彼女ににらまれて、ジョーはさっさと尻尾を巻いた。
 この、フランソワーズと同い年の気の弱い男は、2年前に彼女と結婚し、今は1歳になろうとしている、イワンという息子がいる。
 普段は仲の良いふたりだけれども、彼がフランソワ-ズとけんかをして勝つことは、ほとんどない。
 ふたりがけんかをするたびに思うのは、一体この気の弱さで、どうやってフランソワ-ズを口説いたのだろう、ということだった。
 優しげな外見に似ず、彼女の気の強さは天下一品で、もちろん、母親を早く亡くして、家族を支えなければならなかったことを考えれば、そうならずにはいられなかったのだろうとは思う。
 フランソワ-ズとジェットは、実の姉弟だけに、時々遠慮もなく怒鳴り合いのケンカをする。それに怯えて、慌てて仲裁に入るのはジョーだった。
 兄弟のいない彼は、兄弟げんかというものがよくわからないらしく、ふたりの怒鳴り合いが、世界の終わりに見えるらしかった。
 それでも2年も同居した後では、それなりに、こういうものだと理解しつつはあるようだった。
 「あー、もううるせーな、ねーちゃん。久しぶりにのんびりしてるってのに、ギャーギャー朝から。」
 「何よ、その言い方。食べるものなんか、何もないわよ、こんな遅く起きてきて。」
 「あ、イワンが泣いてる。」
 ふたりの言い合いが、さらに険悪になりそうなのを悟って、ジョーが2階に視線を向けながら言った。
 2階に立ち去るその背を見送って、またふたりは続きを始める。
 「今すぐ掃除を手伝うか、それともどこかに出て行くか、どちらかにして。アナタがいるとジャマだから。」
 「ひっでー、実の弟を、追い出すか。」
 「実の弟なら、手伝いなさいよ、掃除くらい。」
 せっかくの休日を、姉に怒鳴られながら掃除をして過ごすというのは、あまりいい考えではなさそうに思えた。
 ちくしょう、と口の中で呟いて、ジェットは折れることにした。
 「わかったよ、出かけるよ。」


 日曜の街中は、どこも人だらけで、駅前の通りは、歩けないほど混雑していた。
 それを見て、とっととうんざりしたけれど、まだ家に帰るわけにも行かず、とりあえずジェットは、人を避けながら歩き出すことにした。
 「ピュンマん家にでも、行きゃよかったんだよな。することもねえってのに。」
 同じクラスの、バスケット部のキャプテンの顔を思い出して、舌を打つ。
 もっとも、ジェットと違って、生徒会長で学年主席の彼は、きっとせっかくの休日を、図書館かどこかで過ごすのだろうから、家に足を運んだところで、いるとは思えなかった。
 それでもふと、電話でもしてみようかと、体の向きを変えて、電話を探そうと視線を泳がせた。
 古本屋の、店先だった。
 正面のガラスの引き戸は開け放してあり、何にも遮られずに、店の中が見渡せた。そこに、彼がいた。
 本棚の、上の方を仰いで、少しばかり思案するような表情が見えた。
 銀色の髪、右手の手袋、あまり表情のない横顔、あの、新任教師に間違いなかった。
 考える前に体が動き、どうするとも決めないまま、ジェットはそちらに足を向けた。
 店に足を踏み入れた時、彼が、腕を伸ばして上に伸び上がったのが見えた。
 一番上の棚にある本を、取ろうとしているのだと悟って、そっと彼の後ろに立つ。その頭越しに腕を伸ばし、彼が取ろうとして届かない本に、指先を伸ばした。
 「どの本? これ?」
 弾けるように、彼が振り向いた。まるで、誰かに背後から襲われたとでも言うような、表情で。
 少したじろいで、ジェットは、不意に、その水色の瞳と見つめ合う羽目になる。
 「驚かした? 先生、そこに届かないみたいだったからさ。」
 言い訳するように言うと、ようやく、彼の表情が和んだ。
 「いや、ちょっとびっくりした。」
 学校で聞くよりも、いくぶん柔らかい声。笑顔が見えて、ジェットは突然ひるんだ。
 「せんせェ、そんな顔で笑うんだ。」
 考えるよりも先に、言葉が出て来る。思わず口元を、掌で覆いたい気分になった。
 彼も、そんな言葉に少々照れたらしく、慌てたように会話の矛先を変えた。 
 「買い物?」
 彼が---アルベルトが、尋いた。
 「いや、掃除するからって、ねーちゃんに追い出されて、ヒマつぶし。先生は?」
 「週末は、いつも本探しをすることにしてる。」
 それからふたりは、ようやくここにいる目的を思い出し、アルベルトが、本棚の上をまた指差した。
 「届くかな?」
 「どれ、青のヤツ?」
 「いや、2冊隣りの茶色の表紙の・・・」
 伸び上がり、ジェットは、アルベルトが示した本を、そっと抜き取って、彼に渡した。
 アルベルトは、それを大事そうに受け取ると、中をそっと開き、丁寧な手つきで、ページをめくる。
 その手つきに、ジェットはふと見惚れた。そして、アルベルトの右手に、視線を当てる。いつもと変わらず、でも今日は、黒の手袋だった。
 こんな間近で見るのは、初めてだった。
 フランソワ-ズの言う通り、見られたくない傷でもあるのかもしれない。一体何が、その下にあるんだろうと思った時、アルベルトが顔を上げた。
 「ちょっと待っててくれ、買ってくるから。」
 そう言って、店の奥へ入って行く。
 薄暗い店の中で、彼の姿が、鮮やかだった。
 薄いトレンチコートのすそが、ふわりと流れ、銀色の髪の先が、動きにつれて揺れる。きれいだと思って、目を細めてそれを追った。
 学校にいる時よりも、和やかな表情が見えた。あの、薄い空気の壁のような、硬い気配が、すっかり消えている。
 すいと肩を反らし、ジェットはあごを撫でた。ふん、と唇を突き出して、彼を観察している自分に気付く。
 こちらに、アルベルトが戻って来るのが見えて、ジェットは慌てて、本棚に視線を反らした。
 「高いところにあると、つい億劫で、買うのを諦めて、家に帰ってから後悔する。手が届いて助かったよ。」
 買ったばかりの、茶色い袋に入った本を見せながら、アルベルトは、ジェットに向かって微笑んだ。
 体の線はそう変わらないけれど、背のいくぶん高いジェットに向かって、やや首を伸ばしてから、アルベルトは、今気付いたとでも言うように、呟いた。
 「背が、高いんだな。」
 みなに言われることだった。チームの中にいれば、それほど自分の背が高いと、自覚する必要もないけれど、こうして、外の人の群れに入ると、いつも頭ひとつ突き出ることになる。
 アルベルトだって、けれど決して背の低い方ではなかった。180cmに、少し足らないくらいなら、並より高いと言えた。それでもジェットと並べば、どうしても実際よりも小柄に見える。
 「低かないけど、オレより高いヤツもいるぜェ。ジェロニモとかさ。」
 「ジェロニモ?」
 「うん、あいつはもう190、とっくに越えてる。」
 「ああ、あの、3組の・・・」
 廊下でたまにすれ違うことのある、縦も横も大きな、その生徒のことを思い出して、アルベルトはうなずいて見せた。
 「あいつ、目立つからな、どこにいても。ああデカいと、誰もあいつにケンカ売ろうなんて思わないもんな。」
 くすりと笑って、アルベルトは言った。
 「目立つだけなら、君だってそうだろう。」
 不意に湧き上がったうれしさに、ジェットは素直に戸惑った。
 この、つかみどころのない、ジェットに---いや、誰にも---内側を見せない新任教師が、それでも、自分のことを目に止めているらしいことが、素直にジェットにはうれしかった。なぜうれしいのかは、よくわからなかったけれど。
 こほん、と小さな咳払いが、店の奥から聞こえて、途端にアルベルトは肩をすくめた。
 「おっと、出よう。ここは立ち話をする場所じゃないんだ。」
 ここが本屋だと言うことを、急に思い出して、アルベルトは慌ててジェットの肩を押した。
 薄暗い店の中から、五月の陽がまぶしい外へ出ると、まだ街中はざわめいていて、午後もそろそろ遅くになるのに、一向に人並みが途切れる様子もなかった。
 さて、というふうに、アルベルトがジェットを見上げた。
 「もし、時間があるなら、お茶でも飲もうか。」
 「あ、ラッキー、オレ、腹へってんだ、実は。」
 遠慮もなく、笑顔でジェットが言うと、アルベルトは、初めて顔全体で笑顔を見せた。
 笑うと、無表情がうそのように、優しい顔になる。その変化に見惚れてから、ジェットはまた、そんな自分を不思議に思った。
 「本のお礼に、おごろう。」
 教壇の上から聞くよりも、耳に優しい、柔らかな声だった。


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 「何か、いいことでもあったのかね。」
 優しく、ギルモア博士が訊いた。
 必要な器具を棚から取り出して、ベッドの側の台の上に並べながら、ギルモア博士は、まるで祖父が孫を眺めるように、アルベルトを見やった。
 ベッドのふちに腰掛けて、準備が終わるのを待ちながら、ギルモア博士のその言葉に、アルベルトは部屋のどこかに答えを見つけようとするかのように、視線を漂わせた。
 最後に、床にようやく届いている爪先に視線を落として、
 「どうしてですか?」
と言った。
 白いワイシャツの袖をまくり上げながら、またギルモア博士が微笑む。
 アルベルトの前にやって来ると、そっと、彼の右腕を取り上げた。
 もう、シャツは脱いで、上半身は裸になっている。こんな風に体を晒すのは、もう長い間、ギルモア博士の前でだけだった。
 右腕、右肩、胸の右の部分---心臓に、ほとんど届きそうな辺り---は、明らかに普通ではない。形は、それらしいけれど、見た目は、鈍く鉛色に光る、金属だった。
 機械の腕。袖の短い服を最後に着たのは、一体いつだったろう。真夏だろうと、手袋を外したこともない。金属片は、首の右側の付け根をぎりぎりまで覆って、右肩の後ろ、肩甲骨を覆っている。首元の開いた服も、もちろん着ない。
 義手ではなかった。どういう構造なのか、ギルモア博士が、辛抱強く説明してくれたこともあったけれど、ほとんど記憶に留める努力はしなかった。
 失った体の部分を、機械の部品で補っているというのが、いちばん簡単な説明だった。
 ほとんど、生身と遜色のない程度に動く。痛みや熱さ冷たさは、生身ほどは感じない。痒みという感覚はない。けれど、誰かに触れる、何かに触れるという感覚だけは、ほぼ完璧に再生されていた。
 ギルモア博士は、機械の体を研究している、恐らく世界で唯一の科学者だった。
 アルベルトの腕を持ち上げ、指先から順に、一節一節、一本一本、ゆっくりと触る。
 以前は毎日のように、今は月に一度行われる、メンテナンスの作業だった。
 「今日は、ずいぶんとご機嫌じゃないか。」
 博士が、上目にアルベルトを見た。
 つられたように、アルベルトはくすりと笑った。
 「今日、街で生徒に会ったんです。」
 「生徒? キミのかね?」
 ええ、とアルベルトは答えた。
 「本屋で、欲しい本に、手が届かなかったんです。そうしたら彼が、後ろから来て、それを取ってくれました。」
 ほう、とギルモア博士は、手元に視線を落としたまま、相づちを打った。
 「背の高い、赤い髪の・・・クラスの人気者ですよ。私と違って、いつも笑ってる・・・。」
 「学校は、楽しいかね?」
 アルベルトの言葉尻を遮るように、ギルモア博士は訊いた。
 一瞬考えてから、アルベルトはうっすらと微笑みを浮かべた。
 「ええ、今のところは。誰もまだ、この腕のことは尋いてきません。学校が始まる前は、どうやって答えようって、せっかく練習までしたのに。」
 言葉の最後に笑いが混じると、つられてギルモア博士も笑った。
 それならいい、と言って、ギルモア博士は、アルベルトの右腕から手を離した。
 背中を向けながら、シャツを着るように促して、手を洗うために、部屋の隅にある、小さな洗面所へ足を運ぶ。
 水を流しながら、その音に紛れて、ギルモア博士は言った。
 「キミには、なるべく早く、幸せになってもらいたい。キミはもう、充分苦しんだ。」
 シャツのボタンを、ひとつひとつゆっくりはめながら、アルベルトは、機械の指先の動きを、少しばかり悲しい気分で眺めた。
 「ええ、わかってます。」
 そう言いながら、また気分が少し沈むのを、どうしても止められない。
 完全な生身の体でないのを思い知るのは、いつもメンテナンスの後だった。こうして、ギルモア博士が同じ繰り言を繰り返すのを、けれど聞き流しも出来ず、自暴自棄になっていた、以前の自分を思い出す。
 聞こえないように、溜め息を小さく落として、ベッドから下りると、ふと、せんせェという、ジェットの声が耳の奥に甦った。
 その声につられたように、小さな笑みが漏れる。思い直したように、アルベルトは明るい声で言った。
 「多分、大丈夫です。」
 その声に振り返ったギルモア博士の目元に、微かな驚きが見えて、アルベルトはまた笑った。