てのひらをかさねて
1) 4月
ただいま、とジェットが帰って来る。ただいまと帰れば、ジェットがおかえりと返す。
ジェットが大学に入って、すでに1月が過ぎようとしていた。
アルベルトの教職は相変わらずで、今年は、2年生の半分のクラスを受け持たされた。
体の大きさはそう変わらなくても、去年1年生だった生徒は、やはり幼い。ふと、ジェットと較べている自分に気づいて、授業中にそっと苦笑をもらすこともしばしばだった。
当のジェットは、最初は違和感のあった私服姿も、今はすっかり目に馴染み、また少し肩が広くなったように見える。卒業式に見た横顔が、さらに大人っぽくなって、アルベルトは、ふとどきりとすることがある。
17歳と18歳は、こんなにも違うのかと、アルベルトは、まだ充分子どもっぽいジェットの長い腕の中で、時折ちらりと見える大人の貌に、ひとりで戸惑っていた。
子どもとして出逢った少年が、青年になり始めている。
それでも、新しい教科書に顔を落として、必死にわからない漢字を読もうと解読しようとしているジェットは、アルベルトが出逢った、あのジェットのままだった。
大学に入って、家族---つまり、姉のフランソワーズ---の束縛が若干ゆるくなったのか、時間さえあれば、ジェットはアルベルトの家にいた。外泊も、思いついた時に、今日、泊まるから、と言って、別に自宅に電話を入れるでもない。
そのために、ジェットはすでに、2、3日分の着替えを、ベッドルームの片隅に置きっ放しにしていた。
「たまには家に帰ってくれよ。」
今週は、まだ一度も自宅に戻っていないジェットに、アルベルトがあきれたように言った。
「帰ってるよお、おとといも教科書取りに帰ったし。」
「あっちで食事もしてないし、大体、向こうにきちんと泊まってないだろう。」
ジェットが、ノートから顔を上げて、唇をとがらせた。
「お姉さんに、どこにいるって言ってるんだ、ところで?」
訊きたくて、何となく尋くのがためらわれていた質問を、アルベルトはようやく口にした。
「友達んとこって・・・一人暮らしで、勉強教えてもらえるからって。」
うそではない、確かに。
アルベルトは、食器を洗い終わったキッチンを振り返って、大げさに吐息をこぼす。
「オレがいるのがそんなにヤなら、帰るよ。」
いきなり、すねた横顔で、ジェットがばたばたと教科書を閉じ始めた。
「帰れって言ってるわけじゃないんだ。ただ、ちゃんとお姉さんとけじめをつけてって・・・」
「ねーちゃんなんか関係ないじゃん。別に文句言われてるわけじゃないしさ、オレ、ここでちゃんと勉強してるし。」
「それでも、自宅に住んでるなら、そっちが家だろう。」
「じゃあ、オレ、ねーちゃんに話して、家出るよ。」
またこの話だ、とアルベルトは思った。
まだ、大学が始まって1ヶ月にもならないのに、ジェットはもう、自宅を出る話を何度もしていた。まだ、姉のフランソワーズには言っていないようだったけれど、アルベルトには、言外に、ここに住んでもいいかと、それらしいことを何度も口にしていた。
アルベルトはそのたび、まだ早すぎると、それ以上は何も言わせずに、ジェットを黙らせていた。
「出るのは君の勝手だ。でも、ここに転がり込ませる気はない。」
「別にここに来るなんて、言ってないじゃん、オレ。」
そう言って、目を伏せるのは、もちろんそのつもりだった証拠だ。
ジェットのそんな表情を見ると、まるで、小さな子どもをいじめているような気になる。
ちくりと、罪悪感が胸の辺りを刺した。
必死で、ジェットとのことを隠していた、ジェットの在学中と違って、今はもう少し、ふたりとも自分たちのことにオープンになっている。まだ、人に触れ回ることはしていないけれど---アルベルトには、一生無理かもしれない---、夏にはふたりだけでどこかへ行こうと、そんな話をしていたりもする。
けれど、その分、ふたりきりでいる時間が増えたからなのか、些細な口げんかも増えた。
こんなふうに、深刻なけんかには発展はしないけれど、ふたりで口を閉じた後、しばらく気まずい雰囲気と戦う羽目になる。
アルベルトは、自分のためにため息を小さくこぼした。
若さゆえの不器用さと、世間知らずなための不器用さと、どちらがどれだけたちが悪いのだろう。
右腕のせいで閉じこもっていた時間を、近頃、ひどく疎ましく思う。あの頃時間を無駄にしていなければ、もう少し、器用に人と付き合えたのだろうかと、少しだけジェットに申し訳なく思う。
もっとも、そうでなければ、教師になって、高校生のジェットと、出逢うことなどなかったのだろうけれど。
面倒くさい。正直に胸の中につぶやきを落として、アルベルトは、またもうひとつ、ため息をついた。
「オレ、明日は家帰るからさ・・・今夜は帰らなくてもいいよね、せんせェ?」
いつの間にか、後ろの立っていたジェットが、そろりと両腕を、アルベルトの胸の前に回す。
その手を、軽く叩いて、ああ、とアルベルトはうなずいた。
ジェットが、舌先を甘く噛んだ。
いつの間にそんなことを覚えたのか、そうすると、アルベルトの躯が、少しばかり柔らかくなるのを知っている。
キスは、際限もなく深くなる。息が苦しくなるほど、長くなる。
こうしてジェットに馴らされて、今では、ジェットの前に裸体を晒すのに、あまり抵抗を感じなくなっていた。
服の上からでさえ、触れられることを、あんなに長い間拒んでいたのに。
あんまり強くしがみつきすぎて、ジェットの膚の上に、不用意に傷を残すことを恐れて、アルベルトはいつも、右手をシーツの上に遊ばせている。それでも我を忘れる瞬間には、時折、ジェットの背中や首筋に、赤い筋を残すことがあった。
都合よく、そんな時には、ジェットが自宅に帰らないと、ほっとする。
子どもくせに。アルベルトはよく、ジェットの掌を皮膚の上に感じながら、心の中でそう毒づいた。
そう、はっきり口に出せば、ジェットはもちろん傷ついた顔を見せるから、じかに言うことはしない。それでも、そんな子どもに翻弄される自分に対するかすかな自己嫌悪を、アルベルトはまだ止めることが出来ない。
ジェットの掌が、優しくアルベルトを包んだ。
他人の手。秘やかに触れる。こんなに、暖かな生身の手に慣れてしまったら、一体どうなるのだろう。時折、不安になる。
目を閉じて、アルベルトはジェットの首に両腕を巻いた。
ふくらみのない平らな胸は、すきまもなく重なる。鼓動が、互いの胸の皮膚に伝わる。いつもより、速く、深い、鼓動。
アルベルトは、大きく息を吸い込んだ。
痛いほど、ジェットに向かって開いた、躯のすみずみ。神経も皮膚も、ジェットを欲しがって震えている。
まるで、乾いた布が水をするりと吸い込むように、ジェットのすべてを飲み込もうと、アルベルトのどこかが貪欲に、渇いた喉を大きく開いている。
薄い、腿の内側の皮膚に、ジェットが軽く歯を立てた。
ジェットの残す、紅いあと。いつの頃から始めたのか、ジェットはいつも、同じ場所に唇を当てて、必ずそこに同じしるしを刻んだ。前のが消える前に、新しいしるしを重ねる。柔らかく、皮膚を唇の中に吸い込んで、軽く歯を立てる。
痛みと言うには、あまりにも甘く、アルベルトは、知らずに腰を浮かせていた。
指先で、もうアルベルトの躯が、開ききっているのを確かめてから、ジェットが躯を繋げにきた。
尖った息が、喉を刺す。
「せんせェ・・・」
耳に、息を吹き込むように、ジェットが囁いた。
胸を反らして、浅い呼吸を繰り返す。
大きく開いた脚の間に、ジェットの熱が当たる。中に入れば、もっと熱い。
ジェットの、肩の動きに合わせて、息を吐きながら、アルベルトは必死に体の力を脱こうとした。
押し込まれて、思わず唇を噛む。それをジェットが見とがめて、少しだけ声を低めた。
「せんせェ、そんなに強く噛んだら、血が出るよ。」
声を出せと言われているのだとわかっていて、それでも、遠慮のない声を放つには、羞恥がまだ先に立つ。
ジェットの伸ばした舌先が、ちろりと、その噛みしめた唇を舐めた。
生暖かい、湿った唾液の感触に、思わず唇が開いて、アルベルトはその舌先を、何も言わずに絡め取った。
思わず浮いた体を、ジェットの片腕が、しっかりと支えてくれる。
アルベルトは、ジェットの、そこだけまだ少年くさい、薄く細い腰に両脚を絡みつかせ、まるでジェットのひょろりと背高い体にぶら下がるように、シーツから浮かせた体を、必死でジェットに添わせた。
ふたり分の体温に、アルベルトの機械の腕さえ、生暖かくぬくもっている。
ジェットが、声を上げた。
ふたつに折り曲げたアルベルトの体を、ジェットが、自分の下に敷き込んだ。
ジェットの胸の重さに、息を詰まらせながら、アルベルトは、暖かい体液を、重なった膚の間に放っていた。
「誰も、まだナニも言わない、これのこと?」
ジェットが、アルベルトの肩に頭を乗せ、機械の腕に触れながら言った。
「始業式で、校長がわざわざ、"見かけの違う人を差別するのは、卑しいことです"って、ぶってくれたせいだろう。生徒は何も言わないよ。キミらだって、結局何も言わなかったろう。」
「オレらん時はだって、せんせェ、手袋してたからさ。」
ジェットの卒業式の日に宣言した通り、アルベルトは新学期になって以来、手袋で手を隠すのを止めていた。
さすがに、それが年齢のせいの順応性の高さなのか、生徒は、アルベルトの手を、それはそういうものとして、受け入れたらしかった。もちろん、気持ちが悪い、という小さな囁きが耳に入らないわけではないけれど、それは思ったよりも小さく、数も少なかった。
むしろ大人たち---同僚の教師たち---の方が、背を向けては何やら、聞こえてはまずい話をしているらしかった。
以前なら、そんな態度に傷ついたはずなのに、今は、好きに言ってくれと、半ばなげやりに、半ば冗談をこめて、彼らに少しばかり皮肉を含んだ笑顔を返せるようにさえなっている。
大した変化だと、自分でも驚いている。
少なくとも、この世にひとり、自分自身以外の誰かが、この腕を含めて自分を好きだと言ってくれているのが、こんなにも気を強く持たせてくれるのかと、アルベルトは、ジェットにつくづく感謝する。
「受け持ちの生徒が、先生かわいそうって、手紙くれたかな。」
くすりと笑って、アルベルトは言った。
「生徒って、女の子?」
ああ、とうなずくと、ジェットが、アルベルトの首に腕を回して、首に顔を埋めた。
「心配だなあ、オレ。せんせェ、母性本能くすぐるタイプだから。」
「キミにも母性本能があったのか?」
茶化すように言うと、ジェットの腕が、また強く巻きつく。
アルベルトは、ジェットの赤い髪を、鉛色の掌で、優しく撫でた。
「せんせェ、オレの? オレだけの?」
「下らない心配しなくていいから、勉強してくれ。」
「ずるいよ、ちゃんと答えてよ、せんせェ。」
奇妙に自信に満ちたやり方で、アルベルトを抱きしめるジェットと、これが同じジェットかと、アルベルトは少しばかりおかしくなる。
ジェットの背中に両腕を回し、アルベルトは、ジェットの耳に口づけた。
「心配しなくてもいいって、何度言ったらわかるんだ。」
ジェットが肩をずらし、アルベルトの唇に触れた。
それから、首と鎖骨に唇を滑らせ、手を、もっと下に伸ばす。
アルベルトは、慌ててジェットの肩を押した。
「何の真似だ?」
へへっと、ジェットが笑う。
「明日はだって、オレ、家に帰っちゃうからさ。」
明日の分も、とその笑った口元が言っていた。
「冗談だろう、明日は一時限目から授業が------」
最後まで言わせずに、ジェットが唇を重ねてきた。手が、するりと下の方へ絡みつく。
ジェットの舌先に、抵抗も解けてゆく。
いつの間に、こんな手練手管を使うようになったのだろうかと、アルベルトは、言うことを聞かない自分の躯を恨めしく思う。
「あんまり、むちゃはしないから、せんせェ。」
甘えるように、ジェットが言った。
うそをつけと、心の中でつぶやいてから、アルベルトは、うれしそうに額に触れるジェットの背中を、自分から抱き寄せた。
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