てのひらをかさねて
2) 5月
土曜の午後、珍しく、本屋ではないところへ行こうと、アルベルトが言った。
「どこ行くの?」
「少し、遠出になるかな。」
詳しいことは何も言わず、アルベルトは微笑んだだけだった。
ジェットは、少しばかり不思議に思いながら、けれど意義も唱えず、おとなしくアルベルトの車に乗った。
方向を確かめる様子すらなく、アルベルトは車を運転する。明らかに、走り慣れた道筋らしかった。
どこへ行くんだろうかと、何度か訊きかけて、そのたびに、アルベルトににっこりといなされ、ジェットは結局、そこに到着するまで、一体どこへ連れて来られたのか、教えてもらえなかった。
海沿いを走った後、周囲に家がなくなって、さらに少なくとも15分ほど走ってから、車は、大きな洋館の前で止まった。
洋館の左側はうっそうと木が繁り、右側は、少し離れて崖になっていた。
水の音が、すぐ近くに聞こえる。
「ここ、どこ、せんせェ?」
ジェットは、肩をすくめて尋いた。
「腕のメンテナンスに来たんだ。」
そう、ジェットを振り返って、アルベルトは答えた。
「腕のメンテ?」
すたすたと、慣れた様子で中に入ってゆくアルベルトを、慌てて追いながら、ジェットはまるで、お化け屋敷か何かのように、玄関の、大きなドアの上を見上げた。
アルベルトは、案内も乞わずに中に入り、入ってすぐの階段のそばを通り、もう少し奥へ行く。
ジェットは、アルベルトの後ろを追いながら、きょろきょろと周りを見回し、見慣れない様式の部屋の内装に、目を丸くしていた。
扉のない、大きな広間のような部屋の向かいに、ぽつんとドアがあった。
アルベルトが、そのドアに手をかけて、ジェットを振り返ってにっこりとまた笑った。
笑顔につられて、ジェットはつい頬を赤くする。
ドアは、きしんだ音を立てて、開いた。
薄暗く地下へ伸びる階段へ、アルベルトが先に足を踏み出す。3歩後を、ジェットはまた恐る恐る、首を縮めるようにしてゆっくりと追った。
階段を降り切ると、広い空間があって、ドアがまた、いくつか並んでいた。
アルベルトはためらいもせずに、そのうちのひとつを、静かにノックした。
「ギルモア博士?」
来たかね、とドアの中から、少し弾んだ、柔らかな声が返ってくる。
アルベルトはまたジェットを振り返り、促すようにして、ドアを開けた。
こじんまりとしたその部屋は、地下にも関わらず、ひどく明るかった。壁の白と、強い照明灯のせいらしかった。
ジェットは思わず、目の上に手をかざし、目を細めた。
部屋の中央に置いてある、何の飾りもない四角いベッドは、診療台なのか、白い、いかにも糊の固そうなシーツがかかっている。壁際には、大きなガラス扉の棚がいくつもあり、それから、銀色の大きなシンクと、白い小さな洗面台が、ひとつずつ並んでいた。
診療台の傍から振り返ったのは、小柄な、真っ白な髪と鬚の、老人だった。
まぶしそうにアルベルトを見た後、その後ろに立っている、背の高いジェットに気づいて、明らかに不審そうな視線を返す。
アルベルトは、またにっこりと笑って、お久しぶりですとだけ言った。
老人は、その笑顔に誘われたように、ジェットに向けた視線を反らし、それでも何か言いたげに、唇を少し開く。
「お元気でしたか?」
「キミの方こそ、変わりはないかね。」
言葉を交わすふたりの間に、入り込める様子もなく、ジェットはドアの傍に立ったままで、少しばかり肩をすくめて、診療台の方へ歩いてゆく、アルベルトの後ろ姿を見ていた。
「薬指の動きが、少しおかしいようです。」
機械の掌を、老人の方へ差し出しながら、アルベルトは、慣れた様子で診療台の上に坐った。
ふたりはもう、ジェットがそこにいることさえ目に入らないように、アルベルトの腕を間に挟んで、何やら小声で話を始めた。
ジェットはドアの傍の壁にもたれ、一体何をしに来たのだろうと、少しだけ唇を突き出した。
説明されなくても、これが恐らく、アルベルトの機械の腕を造った人物なのだろうと、想像はつく。
ギルモア博士と、アルベルトが呼んだそれ以上のことは、一切説明も紹介もない。
何なんだよ、せんせェ。
ジェットは、アルベルトの肩や腕に触れる、小柄な老人の背中に、少しばかり嫉妬していた。
ジェットの知らないアルベルトが、そこにいた。
ここへは、定期的に来ているのだろうか。アルベルトの腕も、車などと同じ機械なのだから、手入れや点検が必要なのだと、今初めて気づく。
これも、機械の腕を持つということに付随する、ひとつのことなのだと、今さらのように思い知りながら、ジェットはアルベルトをいっそう愛しく思った。
それでも、ここでひとりぼっちにされているのは、少しばかりいまいましい。
老人---ギルモア博士---が、何かアルベルトに言い、ちらりとジェットを振り返った。アルベルトは小さく笑って何か言い返し、それから、上着とシャツを脱ぎ始める
。
白っぽく、眩しいほど明かりの強い部屋の中で、アルベルトの裸身が、さらに白く浮き上がる。その中で、鉛色の右半身が、奇妙に生々しく見えた。
ジェットは、赤くなった頬を伏せ、慌ててそこから目を反らす。
服を脱ぐのに、ジェットがいてもいいのかと、恐らくそんなことを、ギルモア博士は言ったのだろう。笑ってアルベルトが、別に構いませんと言った声が、聞こえたような気がした。
老人の手が、また、機械の部分にゆっくりと触れる。
これを見せるために、ここに自分を連れて来たのかと、ジェットは思った。
ずっと、ギルモア博士以外の誰にも見せず、触れさせずに、アルベルトは機械の腕を隠していた。ジェットに出逢うまでは。
ジェットに心を開き、今は、隠すことさえやめようとしている。
笑顔さえ見せなかった、最初の頃を思い出す。
自分の中の何が、アルベルトを変えたのだろうかと、ジェットはふと思った。
好きだと、愛しいと思う気持ち以外、何の切り札もない。それでも、それがアルベルトを変えたことだけは確かだった。少しばかりそれを面映ゆく思って、ジェットはひとりでこっそりと照れた。
まだ、ジェットの知らないアルベルトがいる。
もっと以前出逢えなかったのかと思うと同時に、出逢っても、何ができたろうかと思う。
アルベルトが事故に遭って、腕を失った時、ジェットはまだ、10やそこらの子どもでしかなかった。ジェットはまだ、アルベルトが腕を失くした年齢にさえ、達していない。
はたちの自分を想像して、両親を失くし、腕を失った自分を、必死に想像しても、像すらうまく結べない。
人は所詮、他人でしかない。それでも、その隙間を埋めようと、一生懸命、心を繋げる努力をする。
自分はうまくやっている方だろうかと、ジェットは考えた。
多分。
そう思ってから、少しばかり反省する。
ムチャ言ってるもんな、オレ、たまに。せんせェ、困らせたりしてるし。ケンカとか、しちゃうし。もっと早く大人にならなきゃ、だめだよな、オレ。もっと、せんせェのこと、大事にしなきゃ、だめだよな、オレ。
ギルモア博士が、ゆったりとした足取りで、洗面台の方へ歩いて行った。
水の流れる音で、手を洗っているのだとわかる。
それをちらりと見てから、アルベルトが、ようやくジェットの方を見た。
診療台から下りて、アルベルトがまた服を着け始める。
ジェットは、慌てたようにそちらへ小走りに寄ると、取り上げた上着を、アルベルトに着せかけてやった。
手を拭きながら振り返って、ギルモア博士が、小さくため息をこぼす。
「どうやら、そろそろ、寿命らしいな。また、腕のことは、ゆっくり話をするとしよう。」
気落ちした声で、ギルモア博士が言った。
ええ、と、一向に変わらない笑顔のまま、アルベルトはうなずいた。
「ところで、その、キミの後ろの・・・」
ようやく機会を得た、と言いたげに、ギルモア博士がアルベルト見たまま、ジェットの方を指差した。
ジェットは自分のことを訊かれているのだと悟って、目を丸くして、慌てて自己紹介をしようと、口を開いた。
「オレ・・・じゃなくて、ぼく、先生の、元教え子で------」
「恋人です。」
ジェットの言葉の途中を遮って、アルベルトはあっさりと、その言葉を口にした。
「いずれ、また改めて、きちんとお話します。」
言葉は穏やかだったけれど、それ以上の質問は、今はしないでくれと、有無を言わせない口調だった。
言葉を失ったのは、ギルモア博士ばかりではなく、恋人だといきなり紹介されたジェットも、絶句したまま、半開きの唇を自分で指差したままでいた。
「行こう、ジェット。」
自分の後ろに突っ立ったままのジェットの腕を取り、もう、振り向きもせずに、アルベルトは部屋を出た。
腕を引っ張られ、まだ何が起こったのか正確に把握もできず、ジェットは車に乗るまで、一言も発せなかった。
ドアを閉めた途端に、アルベルトが、胸を押さえて、大きく息を吐く。
「・・・・・・心臓が、止まるかと思った。」
ジェットは唖然とした表情で、突然頬を赤く染めたアルベルトを、呆然と見やった。
「それ、こっちのセリフだよ、せんせェ。」
「悪かった・・・今日、言うつもりじゃなかったんだ。今日は、ただ、キミを会わせるだけのつもりだったんだ。」
もうひとつ、深呼吸をして、アルベルトは後ろの、たった今出て来たばかりの建物を軽く振り返って、それから静かに車を発進させた。
また、車は少しずつ、海に近づいてゆく。
ジェットは窓を開けて、腕を外に伸ばした。
「いいの? オレたちのこと、バラしちゃって。」
「いずれ、わかることだろうし、受け入れられないなら、それはそれでもいい。ただ、まあ、もう少しきちんと話はすべきだったと、思う。」
照れたように、アルベルトが苦笑いをこぼした。
つられて微笑みながら、ジェットは、アルベルトの右の掌を握った。
「オレ、せんせェのこと、まだあんまりよく知らないね。」
怪訝そうに、アルベルトがちらりとジェットを見る。
ジェットは、アルベルトの機械の指先に、軽く唇を当てた。
するりと、その手が、ジェットの頬を撫でる。あごをすりつけて、ジェットは目を閉じた。
「せんせェ、オレのこと、恋人だって、言ってくれた。」
途端に、唇を引き結んで、アルベルトが頬に血を上らせる。
「オレも、ねーちゃんに、せんせェのこと、恋人だって言いたいなあ。」
「明日、いきなり紹介するのは、勘弁してくれよ。」
慌てたように、アルベルトが言うと、ジェットが、くすりと笑った。
「あしたはムリだけどさ、でも、いつか・・・」
アルベルトの手を、膝の上で握りしめながら、ジェットは、まだ頬の赤いアルベルトの横顔に、笑いかけた。
窓から吹き込む、潮の香りのする風が、頬に気持ち良かった。
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