てのひらをかさねて


12) 3月

 いつものように、週末の古書店めぐりをしようと言うと、ジェットが、
 「じゃあ、迎えに来てよ、せんせェ。」
 珍しく、そんなことを言った。
 少しだけ、その珍しさを訝しがりながら、それでも、深くは考えずに、じゃあ、と時間を決めて、電話を切った。
 木曜日の、夜のことだった。


 秘かに、考えていることがあった。
 ジェットは、とうに口にしていることで、今さら秘密でも何でもないけれど、半袖のシャツを買おうと、アルベルトはこっそりと決心していた。
 着てみたいとか、着れたらいいな、ではなく、今度こそ着ようと、心に決めていた。
 ジェットの卒業式に、手袋を外してから1年経ち、剥き出しの右手が、気にならないと言えばうそになるけれど、思ったほど、気持ちの悪い好奇の視線に晒されることもなく、晒されても、そちらを平然と見返せる程度に、したたかになった自分に、いちばん驚いている。
 半そでのシャツ着て、海に行こうよ。
 もう、2年近くも、そんなことを言い続けているジェットのためにも、夏までには、手だけではなく、腕も、人目に晒すことに慣れておいた方がいいと、思う。
 海水に浸けても、大丈夫かどうかを、次のメンテナンスの時に、忘れずに尋かないと。
 クローゼットから服を取り出しながら、心のかたすみにメモを忘れない。
 今日は、古本屋めぐりを、少し早めに切り上げて、ジェットを誘って、シャツを買いに行こうと、決めていた。
 ジェットに選ばせてもいいけれど、どんな色を選ぶつもりか、少し不安がある。深くは考えずに、何なら、ただのTシャツでもかまわないな、とも思う。
 だったら、ジェットに合わせて、ジーンズもはいてみようか。底のぶ厚い、ランニングシューズだって、はいたってかまわないかもしれない。
 そろそろ、いかにも教師らしいという、自分のそんな普段の姿を、少しくらいくずしてもいいかもしれないと、思う。少なくとも、ジェットの前では。
 スタンドカラーの白いシャツを出し、少しグレーがかった濃い目のベージュのズボンを合わせ、それに色を揃えた、薄いジャケットをはおる。
 外は暖かそうだったけれど、つい、いつものくせで、黒のトレンチコーチ---もちろん、薄くて軽い、春先の---を取って、時計を見上げた。
 もう、出掛ける時間だった。


 奇妙に寒かった冬も、ようやく終わりそうな気配が、外には満ちていて、長い間、暖かな冬に甘やかされて、寒い冬中、機嫌の悪かった車も、何となく今日は、調子が良さげに思えた。
 手を伸ばして、ラジオをつける。流れて来たのは、ジェットが好きで合わせたステーションで、慌てて別のところへ飛んだ。
 ラップやポップスは、以前は吐き気がするほど嫌いだったのに、いつの間にか、耳に馴染んで、それほどは気にならなくなっている。それでも、自分ひとりの時くらいは、別の音を聞きたいと思って、あちこちステーションを探しながら、右手でパネルをいじっていた。
 不意に、男の声が流れ、弾むような、繊細なくせに太い、透き通っているくせに力強い声が、流れてくる。
 アル・ジャロウだ、と思って、思わず、パネルに一瞬視線を奪われる。
 懐かしいと思って、それから、音が古くさくなっていないことに、素直に驚く。
 歌詞を必死で追って、一緒に口ずさもうと努力したこともあったけれど、なぞることはできても、とても一緒に歌うことなどできそうにない、音の流れと言葉の連なりと、それでも、頭の中には、覚えた歌詞が、曲と一緒に流れてゆく。
 9月の雨を憶えている、木々の葉は茶色で・・・弾むように、そう歌う声を追って、アルベルトは、今、車の中でひとりであることを、ひどくありがたく思った。
 うっとりと、半ば目を閉じて、覚えている歌詞を、少しもたつきながら口ずさんで、自然に気分が昂揚してくる。
 キーボードのソロに、まるで絡んでゆくような---実のところ、彼の声の方が、勝っている---、スキャット。リズムに合わせて、ハンドルを軽く叩きながら、どこかで、この曲の入ったCDでも見つかるだろうかと、胸の中の、買い物のメモの、半袖のシャツのとなりに、アル・ジャロウと書き加える。
 曲が終わったところで、次に流れてきたのは、「コーリング・ユー」だった。女声の、「バグダッド・カフェ」の主題歌に使われていたバージョンだと、すぐにわかる。
 あれも、いい映画だったと、少し黄色がかった、うっすらと砂嵐越しに眺めるような、スクリーンを思い出す。監督は確か、ドイツ人だったと思うけれど、どうだったろう。
 あそこにも、真摯な愛情と、友情があった。異端を、最初は冷たくあしらい、それから、暖かく迎える。黒い肌と白い肌、異なる言葉、違う年齢と、思惑と、それでも、求め合う、人々。
 春だ、とアルベルトは思った。
 ジェットは、こんな映画は嫌いだろうか。退屈して、眠ってしまうだろうか。アル・ジャロウのすごさは、素直にわかってくれるだろうけれど、映画の方には、あまり期待できないかもしれない。それでも、もちろん失望も腹立ちもなく、いつか一緒に、この映画を見ようと、心に決めた。
 いつもなら、比較的平坦な気持ちのラインが、信じられないほど跳ね上がっていて、この勢いなら、水着だけで海にだって行けるかもしれないと、冗談まじりに思い始めた頃、ジェットの家の前に着いた。
 クラクションを軽く鳴らすと、待っていたようにジェットが中から走り出して来て、けれど、助手席には行かずに、運転席の窓を叩く。
 窓を下ろすと、中に首を差し入れて、ジェットが、これもまたなぜか、昂揚した色を、頬と口元に浮かべていた。
 春だなと、また思う。
 「せんせェ、ちょっと降りて。」
 ドアを開けながら、ジェットが、腕をつかんできた。
 今にも駆け出しそうなジェットの様子に戸惑いながら、首を伸ばして、腕とジェットを、交互に見る。
 「早く。」
 急かすように言われ、まるで、背中を押されるように、ジェットに引かれて、車を降りた。
 そのまま、つかまれた腕を引っ張られ、家の中に連れてゆかれる。
 え、と思った時には、すでに中に上がり込んだ形になり、ちょっと待ってくれ、とようやく唇が開いた時には、リビングらしい空間の入り口に、ジェットの背中に、隠れるようにして立っていた。
 ジェットが動いて、アルベルトの右に立つと、背中の後ろに隠すよりも早く、剥き出しのままの右手を握って来た。
 いかにも、家族の空間に見える、リビングのソファに、若い男女が並んで坐り、男の方は、銀色の髪の赤ん坊を膝に乗せていた。
 言われなくても、これがジェットの姉夫婦だとわかる。
 逃げ出そうとするのを、止めようとするかのように、ジェットがまた、さらに強く右手を握りしめた。
 どこに視線を当てていいかわからず、アルベルトは、わざとらしいと思いながら、部屋のあちこちに目を泳がせ、ジェットが何か言い出すまで、口は閉じていようと、口元を引き締める。
 アルベルトの方を、ジェットが指差した。
 何が起こるのだろうかと、じっとふたりに視線を注いでいる、姉とその夫に向かって、ジェットが口を開いた。
 「この人、アルベルトって言うんだ。」
 姉の方---そう言えば、名前を尋ねたことは、あっただろうか---が、そう、と言いたげに、柔らかく微笑む。
 「この人---アルベルト、オレの、恋人だから。」
 間髪入れずにそう言ったジェットに、みなが視線を寄せ、驚きに目を見開いた。アルベルトも、もちろん、例外ではなく。
 「オレが大学出たら、一緒に暮らすから。」
 握った手が、ジェットの胸に引き寄せられた。
 アルベルトは、知らずに頬を赤く染め、ジェットの家族に、視線を投げることもできずに、ただ、ひどく真面目な顔つきのジェットの横顔を、呆然と見上げている。
 どうして、こんな大事なことを、いきなり、こんなふうにやってしまうのだろう。
 そう思ってから、自分も、ギルモア博士に告げた時には、そう言えば何の前触れもなくて、ジェットを驚かせたことを思い出す。
 それでも、せめて一言くらい言ってくれれば、もう少し、何かやりようがあったのではないかと、今さら思っても仕方のないことを思う。
 せめて、この右手を、今は隠しておくくらいのことは。
 「話あるなら、あとで聞くけど、反対しても、ムダだよ、ねーちゃん、ジョー兄。」
 ジョー兄と呼ばれた、若い男の方が、ぼんやりとした表情で、口を開いた。
 「・・・反対は、別にしないけど、でも、あんまりそんな、急に・・・」
 優しいげな外見に似た、柔らかな声で、心ここにあらずと言ったふうに、ようやく言葉が滑り出る。
 姉の方は、いきなりの弟の告白に、まだ頭がついて行かずに、ジェットとアルベルトと、胸の前で握ったままの手を、視線で行ったり来たりしている。
 大人たちの、尋常でない雰囲気を読み取ったのか、不意に、赤ん坊が、泣き出した。
 それをあやすために、夫婦ふたりが赤ん坊の方へ視線を向けた瞬間、
 「じゃ、オレら、出掛けるから。」
 言いたいことだけを言ってしまうと、入って来た時と同じ唐突さで、ジェットはまた、アルベルトの手を引いた。
 ばたばたと足音を立てて去るジェットに、引きずられるように部屋を出て、外へ出て、結局、ジェットの家族と一言も、自分では口を聞かなかったことを思い出す。
 次に会う時に---そんな時が、もしあるなら---は、一体どんな会見になるのだろうかと、アルベルトは、かすかに頭痛を覚えた。
 車に乗り込んでから、すぐには車を動かす気にはならず---ふたりとも、違う意味で、ひどく興奮していたので---、ふたりは、それぞれシートにおさまって、しばらく、黙り込んだままでいた。
 窓から、外の風景を眺めながら、昂揚した気分が、まだそのままであることを感じながら、春だなと、また、アルベルトは思った。
 「・・・せんせェ、怒ってる?」
 ジェットが、おそるおそる、口を開いた。
 もし、ここへ着く前に、車の中で、アル・ジャロウや、「コーリング・ユー」を聞かなかったなら、きっと今頃は、ひとりで走り出て、ジェットを置いて去ってしまっただろうと思うと、いきなり笑い出したくなる。
 今日は街へ出て、半袖のシャツを買おう。それを着て、今度はきちんと、ジェットの家族に挨拶に来ようと、そう思った。
 ジェットの方へ向いて、うっすらと微笑みを浮かべて、首を振って見せた。
 「ホントに怒ってない?」
 心配するくらいなら、こんなこと、しなければいいのにと思いながら、そのジェットの一途さに、あふれるほどの感謝と、いとしさがわく。
 「怒ってない。」
 笑顔のままそう言うと、ジェットが、やっと安心したように、口元を安堵でほころばせた。
 「オレ、本気だから。大学出たら、一緒に暮らそうよ、せんせェ。オレ、働き始めたら、せんせェと共働きだから、きっと家も買えるよ。オレ、頑張って、自分でチェロキー買うから。」
 「・・・その頃までには、せんせェは、やめてくれよ。」
 ジェットが、言葉を失ったように、唇を半分開いたまま、目だけを大きく見開いた。
 まだ、ジェットが大学を卒業するまで、3年もある。何が起こるかわからないけれど、それでも、10年後も、きっとこのままなのだろうと、予感がする。
 親の残してくれた遺産で、実のところ、家でも、ジェットの欲しがっているチェロキーでも、今すぐにでも買えてしまうのだということは、まだ言わないでおこうと思った。
 「ジェット・・・」
 いとしさだけを込めて、名前を呼んだ。
 外は明るくて、ここが、天下の公道だということは、都合よく忘れていた。停めた車の中で、けれど、外からは、いくらでも中のことが見えるのだということは、今は埒外だった。
 右手を伸ばして、ジェットの頬に触れた。引き寄せるように、指を滑らせると、ジェットも、アルベルトの頬に、指先を添えてきた。
 目を閉じながら、ジェットが、唇に、吐息の触れる近さで、
 「・・・アルベルト。」
 名を呼んだ。
 唇を重ねて、空いた方の掌が、自然に、ふたりの間で重なった。
 指を絡め、握り合って、いつまでもそうして、唇と掌を重ねていた。
 春だなと、また思った。