てのひらをかさねて


11) 2月

 「誕生日に何が欲しいか、ちゃんと考えておいてくれよ。」
 そう言われたのは、1月の半ばで、言いながら、アルベルトの頬は、なぜか赤かった。
 うん、と答えてから、その頬の赤みを訝しんで、そうしてようやく、去年の誕生日のことを思い出した。
 ああ、そうか、と思い当たって、ジェットも頬を赤らめる。
 初めてだったんだ、せんせェとオレ。
 オレ、まだ、高校生で。せんせェ、痛そうで。大変だったけど。
 抱きしめた、アルベルトの肩の大きさを、掌に思い出す。冷たいままの、金属に覆われた右肩と、ジェットと同じに熱い、生身のままの左の肩と。
 首筋、背中、腰と、脚と、それから、と思って、ジェットはそこで考えるのをとめた。
 うつむいて、また、頬をさらに赤く染めた。
 自分の肩に、しがみついていた、アルベルトの右手の硬さと冷たさ。
 それとは裏腹に、体は、ふたりとも熱かった。
 ジェットは、静かなまま立ち上がると、こちらに背を向けているアルベルトを、抱きしめるために、キッチンへ行った。
 そう言えば、とまた思い出す。
 あの時も、こうして、後ろから抱きすくめた。
 今、抱きしめて、キスしたら、怒られるかな。
 それとも、今ジェットが、ひとつびとつを思い出しているように、アルベルトも、あの日のことを思い出しているのだろうか。
 こちらからは見えないアルベルトの頬が、まだ赤いような、そんな気がする。
 熱くなった体を、ぴったりと、アルベルトの背に重ねるために、ゆっくりと腕を伸ばす。


 「で、一体何が欲しいんだ?」
 半月も、同じ問いを繰り返され、そのたびジェットは、はっきりした答えを言わず、さあ、まだわかんないと、いつも曖昧にごまかし続けていた。
 明日は、その誕生日当日だと言うのに、ジェットはまだ、何が欲しいとはっきり言わず、アルベルトが、いつもよりもほんの少し深く、眉を寄せているその辺りを、なぜか照れくさそうに眺めていた。
 「何も言わないから、何も準備してないし、何もないからって、怒るようなことは、やめてくれよ。」
 教師の、硬い声。
 ジェットが教え子でなくなって、もう10ヶ月になると言うのに、アルベルトはまだその声音を、ジェットに向かって時々使う。
 いつもは、そんなことが、少しばかり神経に障るのに、今日はそんなことさえ、アルベルトへのいとしさを、再確認する術にしかならない。
 少しだけ腹を立てた表情で、自分を見ているアルベルトに視線を当て、ジェットは、自分の頬の辺りが、ひどくなごんでいることに気づかなかった。
 オレ、こんなにせんせェのこと、好きなんだ。
 初めてそうなってから、1年経った今も、変わらずアルベルトを好きでいる自分に、少しばかり驚く。
 変わらずに、前よりも、もっと深く。
 18歳---明日には、19になる---という年齢なりに、稚なさを隠せないとしても、この世界の誰よりも、アルベルトを想っていると、そう思える。
 心の底からそう思える自分を、ジェットは幸せだと思った。
 いとしくて、大事で、好きだという単純な言葉では、到底表しきれない、だからこそ、その言葉でしか表せない、自分の気持ちを、できる精一杯で、常にアルベルトに示したいと、そう思う。
 子どもっぽい、一時の情熱だと、誰かが言ったとしても、少なくとも17から2年経つ今も、ジェットは、変わらずにアルベルトをいとしいと思う。
 だから、そのいとしさを大事にするために、自分がもう、高校生の、子どものジェットではないのだと、自分で確認する必要があった。
 オレさ、とようやくジェットは言った。
 「ずっとさ、考えてたんだけど・・・。」
 何を、という表情で、また眉が近く寄る。
 それを見て、ジェットは少しひるんだように、あごを胸に近く引いた。
 知らずに胸の前で組んだ指を、意味もなく動かし、やっと口に出来る今になって、口ごもる。
 「せんせェが、いやなら、別にいいんだけど・・・。」
 「何が?」
 ぴくりと、アルベルトの、右の眉がつり上がった。
 また、何をろくでもないことを言い出すつもりだろうかと、身構えた気配が、口元に浮かぶ。
 アルベルトの心の動きが、そんなかすかな表情に、すべて読めてしまう今の自分を、大人になったと思うと同時に、少しばかりいまいましくも思う。
 言っちゃえ言っちゃえ、別に大したことじゃなんだから。
 心の中で声がする。
 もっと別の、おそらくアルベルトが、とんでもないと思うようなことなら、もっと気楽に口に出来るのに、冗談にさえならない、この誕生日の願いを、ジェットは、大したことではないからこそ、口にできない。
 両手の指の腹を合わせ、胸の前で押す。
 ここにバスケットのボールがあれば、そのままジャンプして、遊んでいるふりで、ここから走り去ってしまえるのにと、下らないことを思う。
 「チェロキーが欲しいなんて、言わないでくれよ。」
 ヴォルクスワーゲンの調子が、ちょっとおかしいとこぼしたことを思い出したのか、慌てたように、アルベルトが言う。
 買い替えるんなら、チェロキーにしようよ、せんせェ。
 やけにうれしそうに、冗談めかして言ったのはジェットだったけれど、そんなことを今思い出さなくても、と、ジェットは少し唇を突き出した。
 そりゃ、チェロキー欲しいけど・・・。
 そんなものは、いつか自分で買える。そんなものではなくて、もっともっと、大事なこと。
 ジェットも、アルベルトに負けず劣らず、物欲はあまりない。
 欲しいものはと聞かれれば、あれこれと数えることはできるけれど、買ってやるからと言われれば、いらないと言ってしまえる程度のことだった。
 だからこそ、アルベルトが、ジェットが何が欲しいのかと、半月も、しつこく尋き続けていたのだけれど。
 金出して買うもんに、あんまり興味ないし、オレ。
 それよりも、せんせェと、もっと一緒にいたいなあ。
 またさり気なく、一緒に暮らす話を持ち出したつもりだったけれど、相手にはされなかった。
 それはまた、いつか。いずれ。
 焦る必要はない。大学に入ったばかりの頃は、週に一度はその話を持ち出して、アルベルトをよく怒らせたけれど、今は、このまま一緒にいられれば、いつか、一緒に暮らす話を、真剣にできる日が来るさと、穏やかに思える。
 だって、オレ、せんせェのこと、すげェ好きだもん。
 だから、欲しいものが、ある。
 唇を舐め、聞こえないように深呼吸をして、それからやっと、言った。
 「せんせェのこと、名前で呼んでもいい?」
 アルベルトの表情が、一瞬消える。
 耳に届いた言葉と、意識が拾った意味が、うまく繋がらない、その間に落ち込んでしまった、そんな表情が、ゆっくりと浮かぶ。
 「・・・アルベルトって、呼ぶ練習、しても、いい?」
 繋がらない間を、繋げようとしているアルベルトのために、ジェットはもう少し、言葉を費やすことにした。
 「そんな、こと、いちいち、断らなく、ても。」
 唇と舌の動きが一致しないのか、あえぐように、アルベルトが言った。
 額に、うっすらと浮いた汗が見える。頬を全部赤くして、ジェットを真っ直ぐ見れずに、視線があちこちをさまよっている。
 少なくとも、腹を立てているのではないのだと、それだけはわかる。どちらかと言えば、照れだなと、ジェットは思った。
 「だって、せんせェ、ずっとせんせェだったし、もしかして、せんせェ、オレに名前で呼ばれるの、いやかなって・・・」
 「・・・・・・いやなわけ、ないだろう。」
 ジェットの、消えそうになった語尾を引き取って、アルベルトが、少し強い声で言った。
 「いやなわけ、ないじゃないか。」
 今度は、ジェットの方が、面食らう番だった。
 もっと、他のことにすれば良かったかな、誕生日のプレゼント。
 アルベルトが、ろくでもないと思う類いの、さまざまなことが、頭のすみをよぎって行った。
 それはまた、アルベルトが忘れてくれた頃に、ゆっくりねだることにしようと決めて、ジェットはようやく素直に、うれしさを口元に刷いた。
 「じゃあ、オレ、せんせェのこと、アルベルトって、呼ぶ練習、始めるから・・・明日から。」
 「好きにしてくれ。」
 素っ気なさが、照れをよけいに強調する。
 「・・・そんなことでいいなんて、せっかくの誕生日なのに。」
 赤らめた頬でうつむいて、アルベルトがつぶやく。
 自分のために、何もすることはないとわかって、少しだけ失望しているのだと、半分だけ見える横顔でわかる。
 「安上がりだな、君は。」
 揶揄するように言ったはずなのに、口調が、すねて聞こえた。
 いきなり子どもっぽく振る舞うアルベルトに、ジェットは少し困惑して、機嫌を直してもらうにはどうすればいいかと、慌てて頭をひねる。
 せんせェだって、素直じゃないくせに。
 「・・・せんせェいれば、オレ、なんにもいらないもん。」
 腕を伸ばした。伸ばして、肩を引き寄せた。
 「せんせェのこと、オレが、世界でいちばん好きだから。」
 多分、と、正直に付け加えそうになった部分を、飲み込んで、もう、何も言わずにすむように、力いっぱい抱きしめた。
 背中にゆっくりと回った腕が、熱さと冷たさの両方を、シャツ越しに伝えて来る。
 呼吸を数えながら、目を閉じて、耳元に唇を寄せた。
 息を止めてから、そっと、アルベルトと、初めての名前を、ささやいた。
 ふうっと、湿った吐息が、かすかに肩にかかった。