Happy Birthday, Jet



 年を数える必要がなくなってから、誕生日のことを口にはしなくなった。
 何年経とうと、姉のように振舞うフランソワーズは、
 「誕生日ね、おめでとう。」
と、電話なり、カードなり、あるいは、面と向かって直接、そう言葉をくれる。
 けれど、他は男ばかりの仲間同士で、わざわざ、そんなことを祝うことは滅多となく、だから、アパートメントのドアを開けた向こうに、ハインリヒを見つけた時には、心臓が飛び上がるかと思うほど、驚いた。
 「アンタ、なにしてんだよ、こんなとこで。」
 こんなところで、というのは、いくつかの意味に取れた。
 アメリカに、という意味か、ニューヨークに、という意味か、それとも、ジェットの住む、少しばかり治安の悪い地域にある、このアパートメントに、という意味か。
 どれに対して答えをくれるだろうかと、一瞬考えてから、ハインリヒを中に招き入れるために、ジェット一歩わきへ寄った。
 最低限の冬支度に、小さなトランクひとつの軽装は、いつもの旅慣れた様子だったけれど、長い滞在の予定ではないと、ジェットにも知れる。
 もしかして、と、まさかと、心の中で頭を振りながらも、ジェットは思った。
 アンタ、オレに会いに来たのか。
 誕生日なのは、偶然ということにしておこうと、思わずいつもの、ハインリヒに対する自衛のブレーキがかかる。
 中に入り、トランクを足元に置いてから、唇の片側だけを吊り上げるいつもの笑みで、ハインリヒは、長いコートのポケットに手を入れたままで、照れくさそうに、肩を揺すった。
 「ハッピーバースディ、ジェット。」


 寒い夜には、酒に限る。
 アメリカのビールが好みではないのは知っているけれど、いきなり来られて、準備もへったくれもない。
 よく冷えたバドワイザーを手渡すと、突然の訪問者は、珍しく文句も言わずに、早速プルトップを開けた。
 ソファに向かい合って坐り、何となく緊張の見える、ハインリヒの肩の線を、ジェットは穏やかに眺めている。
 「どこから来たんだよ、ドイツか、日本か?」
 「ドイツだ。」
 会話の続く気配もなく、ただ、ぽつりぽつりと落とす言葉を、気が向けば拾い上げる、そんなふうに言葉を交わして、ふたりは、時折視線を絡ませながら、ほとんど無言のまま、ビールを飲んだ。
 2月の夜は、寒い。
 ジェットは、いつものように、肩から袖のない薄いシャツに細身のジーンズで、靴下もはかない裸足だった。
 ハインリヒは、きっちりと、首の高いタートルネックの黒のセーターに、もう少し深い黒の、コーデュロイのズボンをはいている。脱がずに中に入って来た靴は、登山靴のような、底の厚い、重そうなブーツだった。右手の革の手袋を、まだ外さずにいるのに、ジェットは少しだけ、ほんの少しだけ、傷ついている。
 壁で、周りを覆って、ジェットがいるのに、ジェットを見ない。
 誕生日おめでとうと、言ったくせに、それが突然の訪れの単なる口実なのだと、普段の彼には珍しく、隠す様子もない。
 ソファに体を投げ出し、足首を重ねて、目の前のコーヒーテーブルに乗せた。
 足裏の、生身なら土踏まずになる部分にある、ジェットの噴射口が、ハインリヒの方へ向く。
 少しだけ、挑むように、で、とハインリヒを見た。
 「なんか、あったのか、アンタ。」
 別に、とまた素っ気なく首を振る。
 長い付き合いで、ハインリヒの気難しさには慣れっこだけれど、誕生日だからと訪れた相手に、いくらなんでも失礼だろうと、さすがのジェットも、少しばかり腹が立つ。
 それでも、理由がなければ、こんな態度は取らないことはわかっていて、ジェットが苦手な、腹の探り合いに、むりやり参加させられる羽目になる。
 「アンタ、泊まるとこ、決めて来たのか? それとも------」
 言いかけたジェットを、遮るように手を振って、ハインリヒが、ジェットの方へ、少しだけ体を前のめりにした。
 それから、目を伏せて、横顔を向けて、言いにいくそうに、言った。
 「・・・・・・おまえのベッドに、泊まりに来た。」


 口に運びかけたビールを、胸の前で止めて、ジェットは、ぽかんと口を開けた。
 照れ隠しなのか、ハインリヒは、バドワイザーの缶を口元に当てて、まだ横を向いたまま、けれどその頬が、赤く染まっている。
 これは、ドイツ人が、世界に通用すると思い込んでいる、冗談のひとつなのだろうか。
 急で、ホテルが見つからなかったんだ。だから、おまえは床で寝ろ。
 そう続けて言われれば、ジェットも冗談めかして、泊めてくれる女のひとりやふたり、ちゃんといるんだぜと、軽く返すことが出来る。けれどハインリヒは、それ以上は、何も続けなかった。
 「アンタ、オレのこと、わざわざからかいに来たのか・・・?」
 「・・・冗談で、こんなことが言えるか。」
 ようやく、会話らしくなる。
 ジェットは、顔をしかめた。
 「オレの誕生日に、わざわざ、オレのベッドに泊まりに来たって、アンタ、オレが言葉通りにしか取らない、バカなヤンキーだって、わかって言ってんのか?」
 バドワイザーの缶が、掌の中で汗をかいている。ジェットの掌も、汗をかいていた。
 「そのバカなヤンキーのために、もっとわかりやすく言ってほしいのか?」
 つっかかるように、ハインリヒが言う。
 そうか、聞いた通りのことなのかと、冷静に思ってから、人工心臓が、跳ね上がった。
 かきんと、思わず握りしめたビールの缶が、ジェットの掌の中でひしゃげた。
 「アンタ、本気か?」
 もう一度、冗談ではないのだと、確かめるために、ハインリヒの方へ顔を突き出して、真剣な声で、尋いた。
 「うるさい、しつこく訊くな。」
 ほんとうに、本気だ、と思ってから、叫ばないために、舌を噛んだ。


 「アンタ、なんでまた、オレと寝てくれる気になったんだよ。」
 右手の、革の手袋を外しながら、わかるように説明してくれるとは、とても思えなかったけれど、問わずにはいられない。
 「じゃあ、どうしておまえは、オレと寝たいんだ。」
 外した手袋を、普段に似ない丁寧な仕草で、ベッドの傍の小さなテーブルに置いた。
 「そりゃ、アンタに惚れてるからに決まってるだろ。」
 ベッドの傍で抱き合って、キスのために唇を近づけようとしながら、なかなか、そんな雰囲気にならない。
 腰を抱き寄せても、ハインリヒの腕はだらりと垂れたままで、自分からジェットに触れようとはしない。
 「好きだって、何度も言ったろ、オレ。」
 何度言っても、頭を冷やせ、このバカと、冷たく返すだけだったくせにと、心の中でそっとごちる。
 ふん、とハインリヒが、鼻で笑った。
 「そんなたわ言、いちいち真に受けるほど、ガキじゃない。」
 「じゃあ、愛してるとでも、言えばよかったのか?」
 そう言ってしまうのは、少しむちゃだと、自分で思いながら、ジェットは言った。
 「・・・悪い冗談だな。」
 唇に浮かんだのは、苦笑でも、冷笑でもなく、どうしてなのか、自嘲だった。
 笑われるのは、オレの方だろう、と思ってから、どこか噛み合わないちぐはぐさに、腰に巻いた腕を、そっと外す。
 「アンタ、ヤケとかでオレと寝るわけじゃ、ないよな・・・?」
 尋かなくても、いいはずのことだった。
 誕生日の記念に、好きな相手が寝てくれると言うのなら、自分の幸運だけを信じて、抱き寄せればいいだけなのに、憐れみや自暴自棄や気まぐれに付き合わされるのなんかごめんだと、普段はあると気づきもしないプライドが、いきなり頭をもたげる。
 ハインリヒは、顔を背けて、また、小さな嗤いを口元に刷いた。
 「・・・・・・普段は、回らない頭が、どうしてこういう時にだけ、回るんだ、おまえは。」
 ジェットは、かすかにため息をこぼした。
 指を伸ばし、ハインリヒの、鉛色の手を取った。
 「アンタみたいに、プライドの塊みたいなのが、そんな簡単に落ちるわけ、ねえ。」
 「鉄屑の塊の、間違いだろう。」
 ジェットの語尾をすくい取って、口調の軽さとは裏腹に、暗い自虐を込めて、ハインリヒが返す。
 握られた手には逆らわず、そこに視線を落としたハインリヒの、震えるまつ毛を、ジェットはじっと眺めていた。
 今度こそ、遠慮もなく、聞こえる大きさで、ため息を落とした。
 「・・・あきれたか・・・?」
 声も、震えていた。
 指を強く握ると、握り返してくる。すがるような、その仕草に、ジェットは少しだけ苦笑いした。
 「いや、そういうアンタも、かわいいよ。」
 うつむいた髪の間で、くっと、唇が笑った。
 「・・・かわいい・・・おまえだけだ、そんなの・・・」
 額が、胸に当たった。
 そうされて、抱きしめても構わないのかなと、思わず上げた腕を、宙にさまよわせる。
 うろうろと迷った右腕を、ようやくそうっと、肩に回した。
 握っていた左手を離して、それも肩に回すと、おずおずと、ハインリヒの両手も、ジェットの背中に回った。
 やっとそれらしくなって来たなと、少しだけ安心して、肩に回した手に、力を込める。
 さて、このまま、目の前にあるベッドに押し倒してもいいものかと、ちらちらとそちらを眺めながら、自分の腕の中におさまって、動かないハインリヒを、下目に見た。
 「俺の、どこがいいんだ・・・?」
 低くなった声が、胸元に、湿った呼吸になって当たる。
 また跳ね上がる心臓を抑えながら、ジェットは、ごくっと喉を鳴らした。
 こんな時に、洒落た一言で、ハインリヒを黙らせることのできるグレートを、心底うらやましいと思う。あるいは、理路整然と、自分の感情を説明できるピュンマか、じっと見つめるだけで、相手を納得させてしまうジェロニモ、にっこり笑えば、すべて許されてしまうジョー。
 言葉足らずの自分の言葉を欲しがるハインリヒを、ほんの少し恨んでみる。
 「・・・アンタが、アンタだから、だろうなあ。」
 自分で言いながら、なんだそれは、と頭をひねりたくなる。
 「おまえが思ってる俺が、おまえが思った通りの俺じゃなかったら、どうするんだ?」
 「はあ?」
 思わず間の抜けた声を上げた。
 顔を上げたハインリヒの唇が、ゆるい逆Vの字に歪んでいて、苛立ちをあらわにしているのを見て、ジェットは慌てた。
 「・・・もうちょっと、わかるように言ってくれよ、アンタ。バカなヤンキーにも、わかるように。」
 苛立ちが、いっそう濃くなる。
 ああ、また怒らせたかなと、思った時に、ハインリヒが口を開いた。
 「俺は、おまえに、失望されるのが、怖い。」
 間の抜けた声さえ、今度は出なかった。
 その代わりに、瞳を天井に向かって押し上げ、ハインリヒを抱いた腕から、ほんの少しだけ力を脱く。
 それからまた、大きくため息を降りこぼした。
 やっぱり、ソファで眠ることになりそうだと思いながら、自分の胸に飛び込んで来た、いとしい相手の肩を、そっと押す。
 力なく、ハインリヒの腕が、ずるりと背中から滑り落ちる。
 「俺なんかと寝て、何が楽しいんだ。こんな、人間の感触も、ない、のに。寝て、つまらなかったら、おまえ------」
 俺のことはいらなくなるのかと、まだ言わない部分を言わせずに、ジェットは、ハインリヒの肩を引き寄せ、唇をふさいだ。
 最初の予定にはない、成り行きのキスだったけれど、初めて、殴られる心配なく触れる、唇だった。
 不意のことに、頬を赤らめて、ハインリヒが、視線を反らすことも忘れて、真っ直ぐにジェットを見上げる。
 その瞳に向かって、ジェットは優しく笑いかけた。
 「人間の感触がないのは、お互いさまだし、それに、人間の感触だけで誰かと寝たいんなら、どっかで生身の女でも口説くさ。」
 もちろん、そんな気はないけれど。
 今度こそ、離さないつもりで腰を抱き寄せ、もう一方の手で、ハインリヒの頬と髪の生え際を撫でた。
 「オレは、アンタが、アンタだから、アンタと寝たいんだ。」
 抵抗する様子のないハインリヒに、軽く触れるだけのキスを落として、また、笑って見せた。
 「寝て、つまんなきゃ、つまるようにするさ。やる前から、そんなこと気にしても、仕方ねえ。」
 硬い頬の線が、ほんの少しだけ、やわらぐ。
 うっすらと微笑んだその顔に、ジェットは、思わず見惚れた。
 また、恋に落ちる。
 何度目だろう。何度も何度も、恋に落ち直す。
 こうしてハインリヒが、ふとした拍子に、こんな素顔を見せてくれるたびに、前よりももっと深く、ジェットは恋に落ちる。
 アンタが、好きだよ。
 額に唇を当てて、それから、ふっと、小さく笑いをこぼして、腰に回っていた腕を外した。
 「ゆっくり寝ろよ、明日の朝は、起こさないからさ。」
 「どこ行くんだ、おまえ。」
 慌てたように、ハインリヒが、ジェットの腕をつかむ。
 「ソファで寝るさ。アンタは、ここで寝ればいい。」
 そう言った途端に、失望と安堵の入り交じった色が、ハインリヒの瞳に浮かんだ。
 安堵の方に、少しだけ傷つき、失望の方に、思わずゆるみそうになる唇を引き締めて、ジェットは、できるだけ感情を込めずに、静かに言った。
 「オレの誕生日に、オレと寝てもいいって思うくらいには、アンタ、オレのことが好きだろう?」
 うなずきはしなかったけれど、ハインリヒの頬の赤みが、ジェットの言うことが正しいのだと、伝えていた。
 それで充分だと、思った。今は、少なくとも。
 「アンタが、いつか素直に、オレにそう言えるようになるまで、待つさ。」
 もう、体半分、ドアの方へ向かいながら、引き締めた表情を崩さず、口元だけ優しくなごませて、ジェットは長い足を踏み出した。
 ドアに手を掛けるまで、ハインリヒの方へは一度も振り返らず、心を変える前に、部屋の外へ、一歩。
 「ジェット。」
 名前を呼ばれ、ぎくりとなりながら、恐る恐る振り返る。
 「ハッピー・バースディ。」
 誕生日おめでとう。何の変哲もないフレーズが、ひどく意味深く、耳の中に流れ込んできた。
 好きだと、決して素直に口にできない彼の、精一杯だと、わかったから、微笑んで、
 「サンクス。」
 ドアを、そっと、ゆっくりと閉めた。
 ジーンズの後ろのポケットに両手を突っ込んで、背中を丸める。
 バレンタイン・デーがあるさと、負け惜しみを、口の中でつぶやいた。
 唇に、指を伸ばして触れ、夢を見るくらいは許してもらえるだろうと、リビングのソファのクッションの固さを思い出しながら、もう一度ドアを振り返る。
 ハッピー・バースディと、自分に向かって、ささやいた。


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