「静謐」 - あらし序章


1) Yellow Dog (野良犬)

 見下ろした手が、血に濡れていた。
 それを訝かしむことも、恐れることもせず、ああ、困ったなと、グレートは平坦に思った。
 手を洗うか、拭うかしようかと、辺りを見回すと、視線の先に、死体が、雑に並んでいる。並んでいるというよりも、それぞれが勝手にそこにいたのを、誰かがその場で殺したような、そんな感じだった。
 死に顔は確かに、見覚えのあるそればかりで、殺したのは自分なのかと、死体と掌を、交互に見る。
 それよりも、自分がやったなら、ここからすぐに離れなければと、いつもの、殺し屋としての警戒が、頭の隅をよぎった。
 逃げようかと、思った時に、並んだ死体の中心に、見るからに頼りなげな、白い裸身が浮かんで見えた。
 乱れた銀の髪の向こうから、弱々しく視線を送ってくるそれは、明らかに---まだ---死体ではなく、けれど血まみれの上半身は、そこにあるどの死体よりも、凄惨に見えた。
 死んでいる誰よりも、青白い膚、生気の輝きのない、うつろな水色の瞳、くしゃくしゃの銀色の髪には、赤黒い血が絡まりついている。
 肉が弾けたような、あちら側に見える右肩の辺りは、明らかに酷く引き裂かれた跡のようで、ちぎり取られた右腕は、死体の山を越えて、向こうの方へ、ぽつんと転がっている。
 色のない唇が、震えていた。
 血と肉の、生命だけのないその山の上で、かすかに命を繋ぎ止めて、晧い身体は、死の直前に立ち止まっている。
 血に濡れた両手を前に差し出し、グレートは、死体の山の方へ寄った。
 自分が命を断っただろう死体を踏み込え、生き延びている体に、腕を伸ばす。
 胸の前に抱き上げれば、羽のように頼りなく、軽かった。
 宙に浮いた体が、胸に寄りかかってくる。乱れた髪の間から、水色の瞳に、真っ直ぐに見つめられ、グレートは思わず息を飲んだ。
 どこか、暗い虚に引きずりこまれるような、一瞬の目眩に、ふるりと頭を振って、そうして、もう、かくりと首を折って、今度こそほんとうに、気を失ってしまったのか、ついに息絶えたのか、グレートの腕の中で、不意に重みを増した薄く細い体をまだ抱いたまま、グレートは、ちぎり取られてしまった右腕の方へ、視線をやった。
 あれを、拾って行かなければ。
 またさらに、死体を踏み越えて、ころんと転がる、ねじくれた右腕へ足を進める。
 不意に、その足に、誰かの腕がすがりついた。
 グレート。
 甘い、ささやくような、声だった。
 額に穴の開いた、そこから流れる血に、今は汚れた顔のジョーが、どうしてか笑みをたたえて、グレートを見上げている。
 地獄で会おうって、言ったのに。
 にたりと唇が笑う。誰もが、口づけせずにはおれないだろうと、そう思った、形のいい唇だった。
 消えることのない、かすかな怒りと、それから、妬みが、知らずに声に混じった。
 「予定が、変わっちまったんでね。」
 憐れみの色が、流れた血の向こうの、薄茶色の瞳に浮かんだような気がしたのは、気のせいだったのだろうか。
 グレートは、ジョーの視線を受け止め、それ以上は力の入らない死者の腕の輪の中から、足を引き抜いた。
 転がった右腕の方へ、もう一歩進んで、死体の山を後にして、もう、振り返らなかった。


 口の中が苦いのは、夕べの酒が残っているせいだろうか。
 殴られた左のこめかみの辺りが、見てわかるほどに、青く腫れている。殴った男も、きっと今頃、拳が痛んでいるだろうと思って、くつくつ、おかしくもないのに、ひとりで笑った。
 酒を飲む場所で喧嘩など、珍しくもない。
 けれど、若い女が、ほとんど裸に近い姿でうろうろしている場所なら、客同士の喧嘩で、女が傷つくのは、充分すぎる迷惑だった。
 発端は何だったのか、恐らく、始めた当人たちさえ、一晩明けた今、もう覚えてすらいないだろう。それだけの、つまらない理由に違いなかった。
 口汚い言い争いが、つかみ合いになり、それから、殴り合いになる。
 店にいる、体の大きな男が、それを止めようと割って入ったのだけれど、喧嘩をしている当人たちの、どちらかの連れの男が、その止めに入った店の男の頭に、ビールびんを振り下ろし、店の中で流血騒ぎになった。
 店の男は、頭を数十針縫う傷を負い、喧嘩の当人たちは、事の次第に眉をひそめた、他の常連たちに取り押さえられ、けれど、警察が来るというので、フロアにグレートが顔を出した途端に、ひとりが羽交い締めの腕を振り払って、怒りにまかせて、飛び掛ってきた。
 腕っぷしがあまり強いわけではなく、殴り合いの喧嘩に慣れてはいないグレートは、つかみ掛かって来た男に、その場で押し倒され、こめかみを1度殴られ、幸いに、2度目が来る前に、男はまた、店にいた連中に押さえつけられ、グレートは、壁の傍に固まって怯えていた女たちのひとりに、みっともなく抱え起こされる羽目になった。
 やって来た警官たちに、喧嘩の当人ふたりと、ビールびんの連れは逮捕され、頭を割られた店の男は、バーテンダーが付き添って、救急車で病院に運ばれた。
 その場で、事情聴取のために、そこにいた全員が足止めを食らい、血だらけの店の中で、酒の匂いと、奇妙な熱気に包まれたまま、みな憮然と、それぞれが耳目にしたことを、ぼそぼそと警官に語った。
 事情聴取の合間を狙って、本来の経営者である張に、グレートはもちろん、速やかに連絡を入れた。
 「喧嘩だ。ひとり、病院に行ってる。客が3人、逮捕された。」
 受話器の向こうの沈黙が、まるで、店での揉め事を、うまくさばけないグレートの不器用さを、咎めているように聞こえた。
 ネクタイをゆるめ、煙草に火をつけて、その沈黙をやり過ごしながら、言いたいことだけを伝えるために、ふうと煙を吐き出す。
 「ひとり、体がでかいのを、明日よこしてくれないか。それから、フロアが血だらけなんだ。掃除に、誰か今すぐよこしてくれ。」
 「騒ぎは、迷惑アルね。」
 短く、遮るように、張が言う。
 殴られた、左のこめかみが、ずきずきと痛んだ。
 「わかってるさ、そんなことは。」
 神経が、ざりっと音を立てて、逆立った。
 ついでに、新しい支配人もよこしちゃどうだい。
 言いたい台詞を飲み込んで、まだ二言三言言葉を交わして、明日、また連絡を入れることを約束させられて、電話は終わった。
 警官が去ると同時に、さあっと人も姿を消し、何かぶつぶつと文句を言っている女たちを帰し、そんなことをしている間に、見慣れない若い男が、片付けのために、張のところからやって来たと言って、店の中に現れた。
 その若い男が、黙々と店の中を片付け始めると、まだ残っていた、もうひとりのバーテンダーを、もう帰ってもいいと追い払い、カウンターの中から、酒のボトルとグラスを取って、壁際の席に、掃除の邪魔にならないように、腰を下ろす。
 1杯、2杯と、まるで水のように流し込んで、酔いが、勢い良く全身を浸すのを、思う存分味わった。
 明日は、もしかすると、誰も出て来ないかもしれない。女もいなければ、バーテンダーもいない空っぽの店で、グレートだけが、ぼんやりと飲んだくれているかもしれない。
 ここに足を踏み入れた客---騒ぎのことなど、何も知らないに違いない---は、きっと、店が潰れたのだと思うだろう。
 若い男は、薄汚れたTシャツに、穴の開いたぼろぼろのジーンズをはいていて、気だるそうに、床の血を、モップで拭き取っている。
 どうせ、明日には客のいなくなる店に、そんなことは無駄だと、思わず言ってやりたくなって、ああ、おれは酔っているなと、グレートは思った。
 ジョーならきっと、こんな騒ぎも起こさずに、あの、輝くような甘い笑顔で、こんな店も、難なく仕切ってゆくのだろう。
 思考が、過去形でないことに、酔った頭は気づかないまま、自分の前に、この店の支配人だったジョーのことを考える。
 店の女たちは、ジョーが消えて、グレートが新しい支配人になったことを、心のどこかでは不満に思っているに違いないと、グレートは思う。
 そう、はっきり言われたことは、まだないにせよ、女たちの、打ち解けないよそよそしい素振りは、元々やる気のないグレートの気をそぐには充分だった。
 もっとも、女たちは、打ち解けずに、よそよそしいのは、グレートの方だと言うに、違いないのだけれど。
 酒を飲む男たちのために、ステージに上がって、裸になって踊る若い女たち。男と女の駆け引きと、すれ違いと、勘違いと、そこから起こる、小さな争いや揉めごとをうまくさばくために、グレートはここにいる。そしてそれは、グレートの、もっとも苦手とする類いのことだった。
 殺し屋として、もっと別の形で、別の種類の揉め事を解決しては来たけれど、たとえば、胸を触らせたのに、くれた金が少なかったとか、金を渡したのに、頼んだことをしてくれなかったとか、女と男が、生々しく、ささやかに争う場に首を突っ込んで、まあまあと、したり顔でなだめるなど、どの面下げて、と自分で、穴を掘って埋まってしまいたいほどだった。
 ようするに、殺し屋や用心棒ばかりやって来たのは、それ以外に、何の能もないからだ。
 ジョーに、能無しの朴念仁だと、自分のことを評したのは、謙遜でも嘘でもなく、それがほんとうに事実だったからだ。
 人殺しの自分の腕を欲しがったジョーは、確かに、人を見る目はあったのかもしれない、その意味においては。
 何杯目か、もう定かでもなくなりながら、酒をただ喉に流し込んで、酔ってるなと、また思う。
 ジョーを殺して、得たのもは何だったのだろう。ジョーの後釜に坐ろうと、思ったわけではもちろんなく、こんな成り行きになるなどと、思ってあの時、引き金を引いたわけではなかった。
 張の、秘蔵っ子を殺して、ただですむとは思っていなかったけれど、殺される代わりに、まさか、ジョーの仕事をそのまま引き継がされるとは、思ってもみなかった。
 むしろ、殺された方が、ましだったかもな。
 くくっと、喉の奥で、笑い声が鳴った。
 静かなフロアに、その声は、思いのほか高く響き、何かと、テーブルを元の位置に戻していた若い男が、グレートの方を振り返った。
 怪訝そうなその顔に向かって、何でもない、気にするなと手を振って、また、酒のグラスに唇を寄せる。
 若い男は、店の奥に何度か姿を消し、戻って来ては、気だるそうに、あちこち歩き回り、床の近くに体を伏せ、それからやっと、ここへ来た時のように空手で、グレートの目の前にやって来た。
 「終わりました。帰ります。」
 意外と、礼儀正しく、そうグレートに声をかけると、ぼさぼさに伸びた髪の奥で、鈍く目を光らせた。
 貧相な体つきと、表情の暗い口元のこの青年に、帰って、眠る家はあるのだろうかと、脈絡もないことを思う。
 「ああ、助かった。ありがとう。」
 酔いをわきにやって、しっかりとした声で礼を言うと、男は、軽く頭を下げた。
 男が、薄い肩を回して、入り口へ向かうより一瞬早く、ポケットから取り出した百ドル紙幣を、2枚、ふたつに折って、黙って差し出す。差し出された金と、グレートの、酔いで赤く染まった顔を交互に見て、男が、戸惑ったように口元を歪めた。
 「心配しなくていい。金が失くなったなんて、文句は言わんさ。それほど酔っちゃいない。」
 男の、伸びて汚れた爪の先が、おずおずと紙幣に触れた。その指先に、押し付けるように金を渡し、ありがとうと、もう一度、しっかりした声で、グレートは言った。


 のろのろと起きて、シャワーを浴び、吐く息がまだ酒臭いのを気にしながら、歯を磨く。
 夕べのことを思い出すうち、食欲は失せ、あごを動かすとこめかみが痛むと、自分に言い訳をして、朝食---昼食と言う方が、より正しい---を抜くことにする。
 食欲が失せたのは、夕べの店での騒ぎのせいだけではなく、酔っ払って見た、死体の山の夢のせいでもあったのだけれど。
 病院に行った男と、付き添ったバーテンダーと、それから張に、朝一番で連絡を取るべきだとわかっていて、どうしてもそうする気になれず、何もかもを投げ出してしまいたい気分に、口の中がいっそう苦くなる。
 店に顔を出せば、すべきことはいくらでもあるはずだったけれど、そちらには足が向かず、グレートは、車の向きを、別の方向へ変えた。
 重い木の扉を開けたギルモアは、青く腫れたグレートの眉の端の辺りを見咎めて、口を開く前に、顔をしかめた。
 「喧嘩かね。」
 尋ねると言うよりも、確認のためのように、語尾が下がる。
 グレートは、肩をすくめただけで、特に返事はせず、自分よりも背の低い、幅は倍ほども広いギルモアの傍をすり抜けて、扉の中へ入る。
 「そんな傷なら、ワシが診るほどのこともなかろう。」
 渋い顔で、あごと胸元をふさふさと覆う、白いひげを撫でながら、わかりきったことを、皮肉っぽく言うギルモアを振り返って、グレートは、2階に向かって肩を揺すった。
 「あまり長居はせんでくれ。やっと動けるようになったばかりじゃからな。」
 またこれも、もう何度もグレートに言い続けていることを、重ねて言う。
 老人の皮肉な口調に、斜めの視線だけを送り、グレートは、まるで、身だしなみを気にしでもするように、頭髪のない頭を掌で撫で、目の前の階段を、ゆっくりと上がって行った。
 階段を上がり切って、ふたつ目のドアの前に立ち、ここに来るたび、いつもそうするように、呼吸を整えて、静かに静かに、ドアを開ける。
 きいっと、きしんだ音を立てて開いたドアの向こうに、ベッドがひとつきり、ぽつんと置かれた、柔らかく白っぽい部屋が現れる。
 ベッドには、銀色の髪の少年が、こちらに横顔を向けて、まるで、呼吸さえしていないかのような静かさで、横たわっていた。
 ドアをまた、静かに閉めて、ベッドに、足音を消して近づく。ベッドより3歩手前で、名前を呼んだ。
 「アルベルト。」
 びくんと、シーツの上に出ていた左腕が、震える。睫毛が持ち上がって、顔が、こちらを向いた。
 口元ではなく、水色の瞳に、笑みが浮かぶ。
 自分に向けられた、ひどく真摯な視線に、グレートは思わず口元をほころばせた。
 壁際に置いてあった椅子を引き寄せて、コートは脱がないまま、腰を下ろす。
 ギルモアに言われた通り、長居をする気はなかった。
 「元気そうだ。髪が伸びたかな。」
 必死に、グレートの唇の動きを読もうと、アルベルトの瞳が、忙しく動いた。
 アルベルトはまだ、英語がほとんどわからない。それでも、話しかければこうして、真っ直ぐにこちらを見て、わからない言葉を理解しようとする。
 必死に、自分を見つめるアルベルトに、グレートは、固くもつれていた神経が、柔らかく解きほぐされていくような気がして、思わず、胸の奥で深く息をこぼした。
 3日続けて顔を出すこともあれば、2週間近く、訪れないこともある。右腕を失くして、ここに運び込まれて以来、アルベルトの、自分が唯一の外との繋がりだと自覚していて、それがふと、重荷になる瞬間もある。
 助けると決めて、仲間---友人では、決してなかった---を殺してまで救ったこの少年のために、背負い込む羽目になった責任の重さが、時々、グレートの足取りを重くする。
 守るべきものなどいらないと、そんなものは欲しくないと、ひとりすべてに背中を向け続けてきて、今さら、身寄りもない、言葉も通じない、今は五体満足ですらない、外国人の少年を抱え込んで、ふと、途方に暮れる。
 自分は一体、何をしているのだろう。一体、何をしてきたのだろう。一体、これからどうするのだろう。
 どれにも答えられずに、黙ってうつむいて、そうしていれば、問いの方が、どこかへ去ってくれるだろうと、受け身に信じているふりをする。
 惨めな負け犬だなと、自分のことを思った時、アルベルトの手が、グレートの額に触れた。
 色の薄い眉を寄せて、どこかが痛む時のような表情で、手の触れた辺りを見ている。
 グレートの、これも、色の薄い眉の端の辺りに指を滑らせて、痛そうな顔をつくる。
 「ああ、心配ない。大した傷じゃない。」
 殴られて腫れた、青い痣を見つけて、心配してくれているのだと気づいて、グレートは思わず、アルベルトのその手に、自分の掌を重ねた。
 チェーンソーで、右腕を切り落とされた少年に、殴られた傷を心配されている、いい大人の、自分の滑稽さが、ひどく出来のいい冗談のように思えた。
 ここに来るたびに、泣き出したくなるのは、どうしてなのだろうかと、目の奥の熱さを持て余しながら、グレートは思った。
 悲しそうな表情で、自分を見ているアルベルトの左手を両手で挟んで、指先に優しく唇を当てる。
 「また、明日、会いに来る。」
 左手を、ベッドに戻して、髪の散った額を撫でて、グレートはゆっくりと椅子から立ち上がった。
 自分を見つめるアルベルトと、視線を合わせたままでドアに向かいながら、店に行く前に、ここから張に電話をしようと思った。


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