「静謐」 - あらし序章


2) Green Horn (世間知らず)


 酒を飲む量が、少しばかり増えていた。
 夕べも酔っ払ったまま、自分で車を運転して帰り、そうしてたどり着いた家の中で、寝室へなだれ込むことはせずに、ソファに坐ってもう1杯やった。そうして、そのまま寝た。
 上着は脱いでいたけれど、シャツはしわだらけだし、ネクタイはよれていたし、何しろまだ息が酒臭い。
 グレートはだらしなくあくびをして、もう腕時計を見ることもしなかった。時間を確かめても仕方がない。仕事に遅れたところで、経営者---雇われではあるけれど---に文句を言う誰もいるはずがない。
 こんな調子でも、仕事は何とかうまく行っているし、近頃は愛想笑いもうまくなった。
 コーヒーメーカーにスイッチを入れた後で、熱いシャワーを浴びた。湯気の中で、湿る皮膚をごしごしとこすって、そうして、何とか酒の痕跡を自分の体からこそげ落として、グレートは、ひげを剃る前に、鏡の中で、いつも店で使う愛想笑いを作ってみた。
 目が笑っていないのはご愛嬌だ。どちらにせよ、殺気さえ隠せば、あまり人に警戒される顔つきでもない。薄い肩、丸まった背中、つるりと見事に禿げ上がった頭、ぎょろりと大きな目と、薄くてほとんど見えない眉毛、赤ん坊が見て、にこにこ笑ってくれるようなご面相ではないけれど、かと言って、見合った瞬間に誰かに殴られるような顔でもない。
 それでも、仕事---もちろん、大声では言えない方の---となれば、はしばみ色の瞳が冷たく冴え返り、人を寄せつけない気配が肩の辺りにただようのだと、きちんと知っている。人殺しの貌など、普段は隠しておくに限る。そして、それを使うことが二度となければ、もっといい。
 近頃、飲みすぎだ。グレートは、ようやく湯気の薄くなった鏡を撫でて、自分に向かって小さくつぶやく。
 飲まなきゃやってられるもんか。同じ口が反論する。
 店で働く女たちをなだめすかして、この店の経営者と親しいんだと、やたらと態度に現したがる客たちの相手をし、グレートの次くらい---いや、いちばんかもしれない---に苦労の多いバーテンダーたちをねぎらって、そして店を通してグレートを知っている大半の人間たちが、グレートが女の裸を始終見ていたいからこんな商売をしているのだと思っているという素晴らしい誤解に、もう苦笑しかこぼせない。それでも、それを面と向かって口にされる時、そんなことはないさねと、返さない程度の処世術も身に着き始めている。にやにやと卑屈な笑みを精一杯浮かべて、頭の後ろでも撫でていればいい。大切なのは、相手---それが誰であろうと---をいい気分にさせることだ。
 若くないというには、もう数年は残っていそうなグレートは、りっぱに働き盛りだ。だから女たちも、グレートをそういうふうに扱う。何しろ、経営者に気に入られて損はない。どんな世界でもそうであるように、店の中だって弱肉強食だ。体がきれいなだけでは生き残ってゆけない。だから、使えるものは何だって利用する。
 女たちの媚びは、鬱陶しいだけだ。顔には出さない。それこそ、必死の愛想笑いで、女たちの機嫌を損ねないように、丁寧にご辞退申し上げる。酒を飲むのは、酔っ払っていれば役に立たないという言い訳が、女たちにできるからだ。そしてもちろん、それは酒を飲むための言い訳でもある。
 男たちの媚びは、もっとわかりやすくて、だから可愛らしい。一緒に酒を飲んでやれば、頼まれたことは忘れたと言い訳できるから、差し出されるグラスを拒まない。
 言い訳だらけの人生だ。なるほど、殺し屋の人生の方がよほど単純だ。言い訳もない。失敗すれば自分が死ぬだけだ。その単純さを、グレートは一瞬だけ、心底懐かしいと思った。
 慌てて首を振って、そうして、少し黒くなった目の下を指先で拭って、
 「もう、人殺しはごめんだな。」
 本気で言ったつもりだったのに、声が、湿ったバスルームの中で、ひどく空ろに響いた。


 さすがに迎え酒の誘惑には打ち勝って、たっぷりとコーヒーを胃の中に注ぎ込んで、ミルクをいれた紅茶の香りを懐かしがりながら、グレートはギルモア邸へ向かう。
 恩人であり、長い友人である張の期待をこれ以上は裏切れないと思ってから、ようやく不承不承仕事に打ち込み始め、そうなれば必然的に、ギルモアの元へ通う回数は減り、それでも連絡を入れることは欠かさない。
 アルベルトはもう、ベッドから出て、ひとりで歩き回れるほどに回復し、健気に、片手で生き抜こうとする素振りさえ見せている。
 まだ言葉はうまく通じない。それでも、グレートの好意はきちんと伝わるのか、会うたびにアルベルトが向けてくれる無邪気な笑顔が、今はグレートの唯一の救いだった。
 殺しの世界ほどではないにしても、店の中も充分に殺伐としていて、そこから逃げるために、酒を飲むよりは少なくとも、アルベルトに会いにゆく方が体にはいい。アルベルトがグレートに微笑みかけるのは、あれは決して媚びなどではないから、グレートもアルベルトに愛想笑いを返す必要はなく、言葉のわからないアルベルトに、それを承知で、子どもの頃の楽しかった昔話など聞かせることもあった。
 片腕のないアルベルトを抱き寄せて、アルベルトが自分をじっと見上げるのに、少しばかりの罪悪感をともなう視線を返しながら、グレートは、アルベルトのいる真っ白で清潔な部屋の中に、ずっととどまれたらと、そんな夢を抱いて、それでも、そこへとどまってしまえば、騒がしい外の世界が恋しくなるに違いない自分のことを、よく知っている。
 ギルモア邸へ着く前に、たまに立ち寄るコーヒーショップへ寄って、チョコレートのかかったドーナッツをひとつだけ買った。
 中国人の、グレートよりも少し年下に見える男---きっと店主だ。彼の妻らしい中国人女性が、カウンターにいることもある---が、手際よくドーナッツを小さな紙袋に入れて、グレートに差し出してくれる。一緒に手渡そうとしてくれた小銭を、手を振って辞退して、グレートは彼の笑顔に見送られて店を出た。
 彼の英語の訛りに、張の顔を思い浮かべながら、グレートはまた車を走らせた。
 重くてぶ厚いドアをいつものように叩いても、中から何の反応もない。
 ギルモアが留守だったことは、これまで一度もなく、3度叩いて待った後で、グレートはそっと取っ手に手を掛けた。
 これも重たげな真鍮の、くるりと丸まった取っ手は、柔らかな手応えをグレートに返して、扉は、ぎぎっと音を立ててゆっくりと開く。
 無用心というような、治安の悪いこの辺りでもない。グレートは肩をすくめ、ドーナッツの入った紙袋を片手に、音をさせずに扉の中に滑り込んだ。
 「ギルモア博士?」
 近くへ用足しへ出掛けたのか、それとも、そんなものがあると知らされたことはないけれど、何となくあるらしいと知っている、地下の診療室にでもこもっているのかもしれない。
 厚い絨毯に足音を吸い込ませて、グレートは2階のアルベルトの部屋に上がって行った。
 ギルモアがいないことに気を使って、ドアを小さく2度叩いて、アルベルトに自分の来訪を知らせる。
 「誰じゃ?」
 中から、ギルモアの声がした。
 「なんじゃ、おまえさんか。」
 ドアの隙間から顔だけ差し込むと、ギルモアがベッドの傍から肩越しに振り向いてくる。その向こうに、ちらりとアルベルトが見えた。
 診察中だったのかと、ギルモアが素早くアルベルトの体を、ゆったりとした手術着で覆うのを、グレートはドアの傍で視線をそらして待った。
 「返事がなかったんでね、勝手にお邪魔させてもらった。」
 「ちょうど終わったところじゃ。」
 首の後ろで、手術着のひもを結んでやり、おとなしくされるままになっているアルベルトの頭を撫でて、ギルモアがドイツ語で何か言う。アルベルトがそれに返事をして、うなずいて、ベッドの端に腰掛けたままで足をぶらぶらさせた。
 ギルモアはグレートの傍までやってくると、
 「下におるよ、帰る前に、おまえさんに話があるから、声を掛けてくれんか。」
 「話? なんだ、あの子のことかい?」
 「ワシとおまえさんの間で、他に何の話があるって言うんじゃね。」
 グレートが、アルベルトの保護者としてそれなりの振る舞いをしているということは認めてはいても、ギルモア博士の皮肉のこもった態度は相変わらずだ。
 ギルモアはちらりとアルベルトの方を見て、とても優しい笑みを口元に刷いた。それに、アルベルトもはにかんだような笑みで答えて、
 「あんまり長居はせんようにな。」
 グレートに、これも相変わらずの釘を刺すことは忘れず、ギルモアは、ちょっとグレートに、上目ににらむような視線を投げかけて、やっと部屋を出て行った。
 ドアが閉まって、足音が静かに階下へ去って行くのを確かめてから、グレートはまだドアの傍に立ったまま、肩をすくめて首を振った。
 相変わらず食えねえじいさんだぜ。
 そうして、そこで心を切り替えて、グレートはようやくアルベルトの方へ顔を向けた。
 「元気だったか。」
 顔いっぱいに子どもっぽい笑顔を浮かべて、ぴょんとベッドを飛び降りたアルベルトが、自分に向かって両手を開いたグレートに、小走りに駆け寄ってゆく。
 「グレート!」
 それだけはきちんと英語の発音で、アルベルトはうれしげにグレートの名を呼んで、片腕だけでグレートに抱きついた。
 ここに初めて連れて来られた頃に比べれば、血色も良くなって、少し体重も増えたようだ。飛びつかれれば、少々腰の辺りに響き始めたアルベルトの体を抱き止めて、グレートは優しくアルベルトの銀色の髪を撫でる。
 切り落とされた腕の傷口には決して触れないように、注意しながら、前の時よりもいっそう厚みを増したように思えるアルベルトの背中を探って、グレートは、会えなかった時間の長さをひとり計っている。
 もっと頻繁に来てやればよいのだと思いながら、そうすれば、現実の世界に身が入らなくなると、そう思うから、今だけでも最大限のいとしさをこめて、グレートはアルベルトを抱いている。
 「腕の傷はもういいのか? 庭にも出てるそうじゃないか。」
 アルベルトがわかろうとわかるまいと、かまわずに話しかけて、ふたりで一緒にベッドへ戻る。
 肩を並べてベッドに腰掛けて、それから、グレートは、ドーナッツの紙袋をアルベルトに差し出した。
 あ、と声を立てて、それを受け取ったアルベルトは、がさがさと片手を袋の中に差し入れて、中のドーナッツをつまみ出そうとした。
 手がうまく抜けずに、紙袋が膝から浮くのを、グレートが押さえて取ってやった。
 ギルモアの、医者としての腕は信用しているし、付き添っている看護婦も、アルベルトに、充分に親身だと知っている。16になるらしいというのに、もっと幼く見える体つきは、長い栄養不良のせいで、そのために、アルベルトの食事には細心の注意が払われていた。体重は順調に増えている。身長も、少し伸びたようだ。頬の辺りも、ようやく健康そうにふっくらとし始めて、ここでアルベルトが、とても大事にされているのだと、誰にでもわかるだろう。
 厳重に管理されているアルベルトの食事の中に、菓子というものが含まれているはずもなく、別にそれを不憫に思ったわけでもなかったけれど、会えない分を、甘やかしで埋め合わせようと思うのは、誰しも同じことだ。
 初めてここへ持ち込んだドーナッツはふたつ、アルベルトにひとつ、自分にひとつのつもりだったのに、あっという間にドーナッツを胃に収めてしまったアルベルトの勢いに驚いて、グレートが思わず、自分の分を差し出したのだ。
 たまに行く、中国人の夫婦がやっているコーヒーショップで買ったのだと、夢中でふたつ目のドーナッツにかぶりつくアルベルトにした説明は、グレートのひとり言に終わった。
 菓子自体にあまり良い顔をしなかったギルモアは、それでも、ひとつだけならと、グレートが、ここへ来るたびにアルベルトにドーナッツを持って来ることを許してくれた。
 アルベルトの膝の上の紙袋から、一緒に入っていたナプキンを取り出して、アルベルトの唇の端に残るチョコレートを拭いてやる。アルベルトは、久しぶりの甘味を惜しがって、まだ唇を舐めている。その唇も、今はごく普通に赤みが差している。
 「今度はどれがいい? 中にカスタードクリームの入ったのがいいか? それともブルーベリーのジャムが入ったのがいいか。」
 何を言っても、うんうんとアルベルトがうなずくだけなのに、別に気を削がれることもなく、グレートはアルベルトの顔と指先をきれいにしてやると、ナプキンと紙袋をまとめて片付けて、またアルベルトの髪を撫でた。
 「髪も伸びたな。じきにおれより背が高くなる。」
 同じ年頃の少年たちに比べれば、今はずっと背の低いアルベルトだけれど、もう少し栄養が行き渡れば、肩も首も厚くなって、見上げるような身長になるだろう。そうなってくれた方がいい。腕がないという引け目を感じずにすむように、せめて、誰が見ても魅力的な青年に成長して欲しいと、グレートは思う。
 近頃は、日に1度、1時間ほど庭に出しているとギルモアが言っていた。陽の光を浴びて、新鮮な空気を吸うためだ。木陰に小さな毛布を敷いて、ラジオをお供に、流れている音楽が何であろうとかまう様子もなく、ぼんやりと空を見上げているという。
 アルベルトは、ここで守られている。
 やっと、誰にも怒鳴られず、誰にも殴られず、誰にも強姦されたりもせずに、失った片腕の代わりに、ようやく安息の時間を手に入れて、そうして、アルベルトの安息は、そのままグレートの安息だ。
 まだ、自分の吐く息に、酒の匂いが残っているかもしれないことを気にしながら、グレートは、両手でそっとアルベルトの頭を引き寄せた。壊れやすい卵のように、両手にそれを収めて、そうして、石けんの匂いのする銀の髪に、グレートはそっと口づける。
 アルベルトが、ちょっと肩をすくめて、床に届きそうな爪先を、そこでぶらぶらさせた。


 キッチンで本を読んでいたらしいギルモアは、ぶ厚い本を閉じて、その上に老眼鏡を置くと、グレートに椅子を勧めた後で、紅茶を出してくれた。
 「仕事が忙しいのはけっこうじゃが、あの子の身の振り方だけはきちんとしておいてもらわんと困る。」
 大きなテーブルに、向かい合わせに坐って、ギルモアは組んだ両手をテーブルに乗せて、ちょっと身を乗り出す。
 グレートは、ちょっとだらしなく両足を床に投げ出して、横向きに椅子に腰掛けていた。
 紅茶の香りに誘われて、値の張りそうなカップに、ちょっと驚きの視線---ギルモアに、歓待されている!---を当てて、グレートは今日最初の一口を、とてもゆっくりすすった。
 「おれに何かあっても、金だけは残るように張大人に頼んである。悪いようにはせんさ。」
 ギルモアが、ギャングの言い草なんかこれっぽっちも信用していないという目つきで、ふんと鼻を鳴らした。
 「で、おれに話ってのは?」
 グレートはさっさと紅茶を半分にして、華奢なカップの縁を、指先で撫でながら訊いた。
 白くてふさふさした眉の片側を、ちょっと考え込むように持ち上げて、ギルモア博士が重いため息を吐く。言いにくそうに、テーブルの下の方を眺めているふりをするその仕草を、グレートは物珍しげに見ていた。
 行儀悪くテーブルに肘をつき、指先で頬を支える。聞いてるぜ、という態度を示してから、グレートは特にそれ以上は先を促さずに、待った。
 2度ほど指先をほどいて、組み替えて、もう一度グレートの方へ体をちょっと乗り出して、ようやくギルモアが口を開く。
 「あの子を、これからどうするつもりじゃ。」
 グレートは、ほとんど見えない眉を寄せた。
 「どういう意味だいそりゃ。」
 愛想のない相手に、愛想を返す必要もないので、ぞんざいな口調で訊き返す。
 「あの子を、学校へ行かせるとか、そういうことを考えておるのかね。」
 まったく意外な質問だ、ということを伝えるために、グレートは珍しく大袈裟な動作で、両手を大きく開いて肩をすくめて見せた。
 「博士、あの子はまだ16だ、16の子どもが行くべきところはどこだ? 学校だ。今は無理でも、いずれ勉強はさせなきゃなるまい。おれが、あの子をうちの下っ端にでもして、使い捨てにするつもりとでも?」
 「まだ15じゃよ。」
 グレートの、少しばかり怒りを含んだ皮肉な口調を、ギルモアがさらりとかわす。
 「ああわかったさ、あの子は15だ、15だろうと16だろうと、あの子の体が大丈夫なら、おれはあの子を学校に行かせてやりたい。あの子が片腕だからって、別に遠慮することはないだろう。」
 些細な間違いを指摘されて、グレートはちょっとこめかみの辺りに血管を浮かせる。ひどく気が短くなっているのは、まだ酒が残っているせいだ。きっとそうだと、自分に言い聞かせながら、グレートは、ギルモアにわからないように、静かに深呼吸をした。
 皮肉っぽい視線を消してから、ギルモアが、じっとグレートを見つめて、少し火花の散ったこの場の空気が落ち着くのを待って、そうして、冷静に言葉を続ける。
 「あの子を、いずれ外の世界に出すつもりなら、あの子が五体満足の方が、いいとは思わんかね。」
 言葉の意味はわかる。けれど言っている内容と、その意味がうまく繋がらず、グレートはまた眉をしかめて、ギルモアを見た。
 「なんだって?」
 ここのキッチンは、とても明るい。シンクのところの大きな窓から、裏庭の一部が見える。古い屋敷だけれど、中はきちんと手入れがされている。兄弟の多い家族が住んだなら、とてもにぎやかに楽しく暮らせるだろうと、グレートは、まるで逃避のように考えている。
 「あの子に、義肢を着けてはどうかと、そう言ってるんじゃ。」
 「ぎし?」
 聞き慣れない言葉を口移しに繰り返すと、ギルモア博士が、その時だけは学者の貌を取り戻して、自分の右腕を指し示した。
 「義手じゃよ。あの子は右利きじゃ。左手が使えるようになるなら、それに越したことはないが、もし義手で右手が使えるようになれば、少なくとも外見上は、あの子は普通になれる。」
 「義手ってのは、あれだろう、掌の部分が鉤みたいになってる---」
 グレートは、自分の右手をその形にして、少ししどろもどろに言った。
 片腕よりは、少なくともいろんなことが便利になるかもしれない。けれど、そんなものを、あの子が着けたがるだろうかと、グレートはうろたえながら考えている。
 「・・・ワシの友人で、義肢の研究をしておるのがおって・・・普通の腕とまったく変わらんように動く腕を造れるそうじゃ。」
 ギルモアの、あまり弾んだ調子でもない言い方に、グレートはちょっとあごを引く。うますぎる話には、必ず何か裏がある。喜び勇んで、尻尾を振って飛びつくのは、大馬鹿のやることだ。グレートは、慎重に次の言葉を選んだ。
 「それで、その義手ってのは・・・いくらくらいするもんなんだ。」
 グレートは、殺し屋という点で充分に人でなしだったけれど、今だけは、金の話で、アルベルトの未来を握りつぶしてしまうろくでなしだとは、決して思われたくはなかった。特に、このギルモアには。
 ギルモアがちょっと首を斜めに傾けて、さり気なくグレートから視線を外す。
 「金は・・・かからんよ。まだ研究段階で、試作品じゃからな。」
 「なんだって?」
 そこだけむやみに低くなったギルモアの声を、グレートは聞き逃さなかった。
 また、こめかみの辺りに、血管が大きく脈打つ。
 「あんたらは、ようするに、あの子を実験に使いたいって、そう言ってるってわけか。」
 「装着後もきちんと面倒を見るし、何かあればすぐに新しいものと取り替える、あの子の成長に合わせて、義手の長さも大きさも変える、向こうはそう言っておる。ワシの長い友人じゃ、信頼できる、それだけは保証する。」
 早口に言いながら、けれど確かにギルモアの口調は確信に満ちていて、それがグレートを説得するための振りだけなのかどうか、グレートにはわからなかった。
 テーブルの上に置いていた手を、グレートは強く握りしめて、そして、意味のない薄い笑みを口元に刷くと、真正面を向いて、ギルモアに横顔を見せた。
 「ギルモア博士、おれは元々人殺しで、そしてあんたの言う通り、あの子をあんな目に遭わせた下衆どもの仲間だ。だがな博士、あの子をそんなことに使おうとしてるあんたも、同じくらい下衆な人間だ。」
 言いながら、声が震える。怒りではない、今は淋しさが、グレートの全身を満たしている。
 なぜ、利用されるという目にばかり、あの子は遭うのか。誰かの快楽のために使われて、挙句、エスカレートした快楽のために殺されかけたあの子は、今度は救われるため---と信じてもいいのだろうか---に、腕の欠けた体を差し出せと言われている。欠けた腕を取り戻してやる、だから、黙ってモルモットになれ。おい、戦争はとっくに終わっちまってるよな? ナチスは絶滅したんじゃなかったのか? 人体実験なんて、一体いつの時代の話だ。
 冗談のように、頭の中で声が渦巻く。
 グレートは、頭痛を覚えて、額の辺りを指先で押した。
 「・・・ワシは少なくとも、あの子を助けたいと思っておる。おまえさんたちとは違ってな。」
 低い声で、ギルモアが反駁した。グレートは、もう言い返す気分にはなれず、黙ったまま口元を掌で拭う。
 投げ出していた足を引き寄せて、開いた膝の間に頭を垂れ、十数秒、グレートは考えていた。
 紅茶はまだ残っていたけれど、それがぬるくなってしまっていることとは関係なく、もうそれを飲み干す気力すらなかった。
 椅子から、まるで重病人のようにのろのろと立ち上がりながら、グレートはもう向こうを向いて、ギルモアに答える。
 「・・・あの子のことは、ギルモア博士、あんたに任せてある。腕のことは、あの子に訊いてくれ。あの子がそうしたいと言うなら、おれに反対する理由はない。」
 玄関に向かって体を回して、ギルモアがそれ以上何か言うのを聞きたくなくて、グレートは前に足を踏み出していた。
 ギルモアも、それを追うように、椅子から立ち上がった。
 「あの子のために長生きしたいなら、酒は控えた方がいい。」
 背中に投げられた言葉に、グレートは思わず足を止める。殺し屋が長生きしたいなんて、そりゃ一体何の冗談だ。けれど、確かに、アルベルトのために、グレートは生きなければならないのだ。アルベルトを救ってしまったから、グレートはもう、短い生を夢見てはいけないのだし、そして、それを後悔などしていないはずだ。
 何もかもわかりきっていることを、ギルモアにすべて指摘されてしまう自分の愚かさと浅墓さを、グレートは心底憎んで、そして、そんな自分を、腹の底から憐れんだ。
 憐れみながら、ギルモアの方へ振り返った。
 コートのポケットに両手を差し入れたまま、腕を開いて見せる。肩をすくめて、おどけた素振りをしながら、けれど目の奥が熱い。
 「ギルモア博士、おれだって、あの子を救ったんだ。おれが何をどれだけ犠牲にしたか、あんたにはわかりっこない。」
 たっぷりと胸元を覆うギルモアの白いひげが、わずかに揺れた。
 ギルモアに比べれば、自分などまだ青二才なのだという事実に突然気がついて、グレートは、自分を恥じる気持ちを、けれど奥歯を噛みしめて、耐えた。
 恐ろしいほど深い憐れみをたたえて、ギルモアの、もう華やぎなどどこにも見当たらない瞳が、そんなグレートをじっと見ている。