「静謐」 - あらし序章

4) The answer is a lemon (あかんベーだ!)

 それはやはり若さ──あるいは、幼さ──なのか、グレートやギルモアの心配をよそに、アルベルトは順調に回復して行った。
 部屋を出て、ギルモア邸の中を、叱られない程度に歩き回り、雨の日以外は外に出て、裏庭にじっと坐っているわけではなく、大きく育った木に登りたそうな素振りさえ見せる。腕のせいでそれはかなわないから、最後には淋しそうな表情を浮かべるけれど、近頃では概ね笑顔でいると、ギルモアが時折連絡をくれた。
 慣れるに従って、生来の気の小ささのせいで仕事をいい加減にすることができなくなり、グレートはどんどん忙しくなっていた。
 店に雇われているわけではなく、そこで踊る契約を個々に結んでいる流れ者の女たちひとりひとりに、それなりに気遣いの目を向け、もちろん自分の知らないところで何かやっていないか──目立つやり方の薬の売買や、たちの悪いチンピラの情夫に強いられた行き過ぎた売春行為など──とひそかに目を光らせて、従業員たちには、酒や売り上げをこっそり懐ろに入れればすぐにばれるぞと態度にだけ表し、そうなれば副支配人も、お飾りの上司以上の扱いをしてくれ始める。
 店の女に強引に迫り、自分の馴染みの銃の売人と寝るようにと言っていたらしいバーテンダーのひとりを、少し前にグレートはあっさりと馘にした。
 グレートに逆恨みをしたその男が、すぐ後に閉店後の店を少し荒らした──確かな証拠はなかったけれど──り、柄の悪い男たちを数人客として送り込んだりしたけれど、グレートはためらわずに張に連絡を取り、もっと恐ろしい見てくれの男たちが、元バーテンダーも含めてすべての迷惑をあっと言う間に払い去ってくれた。
 こんな処置を取るのにも、それなりの才覚は必要だし、その手の男たちをあっさりと動かせるし、動かすのに躊躇しないという噂は、立てば一般人としてのグレートの評判を傷つけはするけれど、その世界に属する人間としての格は上げてくれる。
 店を守るために手早く取った行動が、自分へ向かってそんな風に跳ね返って来ることを、グレートはちっとも喜んではいなかったけれど、少しずつ仕事がやりやすくなることは確かにありがたかった。
 女たちは安心して裸を晒し、男たちはグレートの顔色を窺ってそれなりに真面目に働き、客も無茶をせずに、楽しそうに酔っ払っている。副支配人はいっそう無口に、媚びた態度は一切出さずに、以前よりも明らかにグレートの判断に重きを置き始めていた。
 必死に働くのは、何もこの仕事が楽しいからではない。何かしていれば気が紛れる、もう人殺しではないグレートには他にすることもなかったし、できることもなかった。そして、こうやって働いていれば、仕事で認められて自分のわがままが通りやすくなる。
 安心して安全に遊べる店と思えば、客も増える。客筋がそれなりになれば、女たちも腰を落ち着けて働く。女たちが踊るだけで充分に稼げるようになれば、他で金を稼ぐ話にはなかなか乗らなくなる。金を持った女たちを狙ってやって来るハイエナのような外の男たちには、できる限り店側が目を光らせ、自分たちの知らないところで薬のやり取りや売春の取引があってはならないように、何となくそれをしにくい空気が、店の中に自然に漂うようになっていた。
 グレートの性に合う仕事ではないけれど、店の売り上げは確実に上がり始めている。張はそのことで、近頃とても機嫌がいい。
 やっと恩返しの様になって来た。グレートはひとりごちる。つるりと髪の毛のない頭を撫でて、体は疲れているけれど、確かに成果が目で見えるというのは気分が良いものだ。
 女たちに向かって声を荒げたり、へまをした従業員を人のいるところで責めたりはしないグレートは、客たちには腰の低い──黙っていると、支配人だと誰も気づかない──偉ぶらない男だと思われていて、グレートの悪口を言う女たちもあまりいないせいか、店の中を見回していると、気安く声を掛けて握手を求めて来る客もいる。
 やあ、調子はどうだい。悪くはないな。楽しんで行ってくれよ。女の子たちの機嫌は損ねないでくれよ。もちろんさ。アンタも1杯どうだい。
 飲めという客の誘いはただの社交辞令と取って、下戸でねと、さらりと交わすことにしている。その時に浮かべるはにかんだようなグレートの微笑みに、たいてい誰も微笑みで応えてくれるし、酔いの度が過ぎてグレートに絡みに掛かる客がいれば、さり気なくあちこちに立って店の中を見張っている用心棒たちの誰かが、
 「おれが代わりに飲んでやってもいいぜ?」
と大きな手で客の肩を叩きに来る。それでいつも話は終わった。
 店の人間たちすべてに好かれているとは思わないけれど、グレートを殴り殺したいほど憎んでいそうな誰もいない。それなりに気分良く働いてくれるのはありがたいことだと、グレートは素で思う。
 張がある時、中国料理の夕食に誘ってくれた席で笑いながら言った。
 「ブリテンはん、アンタはん、人を使うのが上手いアルね。」
 グレートは、うまく使えずに苦心していた箸の先から鶏肉をぽろりと落とし、ぽかんと張を見つめた。
 張はいたずらっぽく肩をすくめ、グレートは何と答えていいかわからずに、まったく同じように肩をすくめた。
 「好かれようとも嫌われようともしないのは、案外難しいアルよ。」
 「そんなもんかい。」
 張がスープの器を持ち上げて、湯気の向こうから続ける。
 「好かれたくて媚を売る、好かれないなら嫌われた方がいいと傍若無人になる、そのどっちでもない人間は、案外といないアルね。」
 鶏肉をつまみ上げるのを諦めて、グレートもワンタンスープの器に手を伸ばした。
 「おれは単に、そういうことに興味がない人間でね。殺されるくらい憎まれなきゃ何でもいいさ。」
 ずずっと熱いスープを慎重にすすってから、張が意味ありげに笑った。
 殺されるというのは、グレートが言う時にはそのままの意味だ。けれど考えれば、人殺しを生業にしていた時も、恨まれはしても、嫌われたことはなかったかもしれないと思い出す。それでもその嫌われないというのは、誰もグレートに興味を抱かなかったという意味だ。好きだ嫌いだと言うのは、相手に興味を持っているから湧く感情で、ほとんどの場合、人間というのは他人には無関心だ。冷淡という意味ではなく、ほんとうに単に興味など湧かないものだ。
 あるいは、この無関心は、殺す対象に心を動かされないために、グレートがごく自然に身につけたものなのだろうか。
 他の人間たちは、もっと心の内を波打たせて、周囲の人間に好奇の視線を向けているのだろうか。
 箸からフォークに持ち替えて、グレートはやっと鶏肉を口の中に放り込む。醤油と焼いた油の香りを舌の上に乗せて、歯の間でゆっくりとほぐれる肉の感触に、心がアルベルトへ飛んでゆく。
 殴られないために、殺されないために、媚を売る、足元に体を投げ出して、こちらを喜ばせようと必死になる、あれもまた、身についてしまったことだ。
 会いに行くたびに、グレートにうれしそうに笑いかけ、グレートに抱きつき、グレートが何を求めているのかを必死に探り出そうと、言葉もまだよくわからないのに、一生懸命見上げて来る。別れる時間になれば、心底名残り惜しそうに、まだ体が痛むだろうに、構わずグレートを力いっぱい抱きしめて来る。
 そんな風にする必要はないのだ。自分になど、そんな風に振る舞う必要はないのだ。グレートに見捨てられたらおしまいだと、あれは思い込んでいるに違いない。見捨てはしないし、できるだけのことを充分にしてやりたいと、グレートが思うのはそれだけだ。
 それをどれだけ言葉で伝えても、言葉そのものが通じない。そしてあれは、言葉がまったく意味を持たない世界を生き延びて来たから、グレートはただひたすら、抱きついて来るアルベルトを抱き返して、アルベルトの喜ぶ菓子を与え、アルベルトの笑顔に笑顔で応え続ける。
 ふっと、張との会話の記憶から我に返って、グレートは店に出る直前にいつもそうするように、今は自分のものになっている大きな両袖の机の、いちばん深い引き出しから、ウィスキーのびんとグラスを取り出した。
 今日辺り、ギルモアから電話があるかと、少し早く店に来て待っていたけれど、もう夜のシフトが始まっている。そろそろ上に行った方がいい。
 親指の幅ほどウィスキーを注いで、グレートは一気にそれを喉に流し込んだ。
 この程度ではもう、胸が焼けることもない。もう1杯と、誘惑と戦うのもいつものことだ。きっちりと蓋をしめて、また引き出しにしまい、それから、酒の匂いを消すためにガムを口の中に放り込む。
 部屋を出る時に、グレートはもう一度、机の上の電話を振り返った。黒光りする電話は、いつもよりしんとして、それが鳴らないことを、グレートは今だけ残念に思う。


 手ぶらでアルベルトを訪ねることにしたのは、ギルモア博士にちくりと言われたからだった。
 虫歯は、ワシにも治せんからな。
 その通りだ。たまにしか会えないからと、むやみに甘い菓子で甘やかすのは良くない。成り行きでアルベルトの面倒を見ているギルモアにしてみれば、たまにやって来るグレートが、その場限りの無責任でアルベルトを猫可愛がりするというのは、迷惑以外の何ものでもないだろう。
 素直に反省して、今はアルベルトの躾けをしているギルモアに敬意を払い、いずれはその役目は自分のものになるのだと、グレートは改めて気を引き締める。
 いつも、どれを買うかと迷う菓子はない空手で、アルベルトを少し可哀想だと思った自分を戒めるために、グレートは昨日から1滴も酒を口にしていない。
 酒の抜けた、素面の清々しさはと言うよりは、何か物足りない感じを拭えず、グレートはそれでもいつもよりは明るい気分で、ギルモア邸の玄関をくぐった。
 鍵の掛かっていない扉を、閉めた後できちんと施錠する。いつの間にか、これを不用心と思わなくなったこの静かな辺りで、それでもつい体は勝手に動く、もう勝手知ったる他人の家のギルモア邸だ。
 「おれだが。」
 中へ向かって、大き過ぎない声を投げる。反応はない。2階の、アルベルトの部屋のドアが開く気配もない。
 その代わりに、少し先へ進んだ辺りから、甲高い子どもの声が数人分聞こえ、そちらへ足を向けた時、廊下の奥にあるキッチンから、ギルモアが顔だけ突き出して、勝手に中へ入れと手で招いた。
 音のする方へ向かうと、夕食の後に家族だけでくつろぐためのような、小さな居間へたどり着く。
 入って真正面には、葉の生い繁った枝に覆われた窓があり、右手の壁際にはテレビ、左手の壁に沿って大きなソファ、そのちょうど真ん中で、床にぺたりと坐ったアルベルトが、熱心な横顔でテレビに見入っていた。
 自分にまだ気づかないアルベルトの傍へ、グレートはそっと足音を忍ばせて近寄り、銀色の頭に手を伸ばしながら床に向かって膝を折った。
 「グレート!」
 Rの音が巻き舌気味になる。それでも、グレートがそう教えた通りに発音して、ドイツ語訛りは消せないまま、アルベルトがうれしそうに目を見開いた。
 長いコートの裾を腰の下に敷きこんだまま、グレートはアルベルトの傍へ坐る。アルベルトはグレートに抱きつき、まずは挨拶代わりのキスを頬に降らせて来る。
 「ああ、元気そうだ。」
 アルベルトをそっと抱き返し、前に来た時よりも、アルベルトの右腕の力が増しているように思えること、自分の体への添い方がより自然になっていること、ひとつびとつをさり気なく確かめながら、銀色の髪を撫でて、お返しに額にキスをしてやった。
 抱けば、まだグレートの腕の中にすっぽりと収まる、薄い体だ。それでも、最初の頃に比べれば確かに厚みは増しているし、身長もわずかではあっても伸びている。
 傷と体力の回復に栄養をほとんど取られているに違いないとは言え、伸び盛りのアルベルトは、やっと充分に食べられるようになって、本来の健やかさに少しずつ近づいている。
 まだ浴びる太陽の量が足りずに青白い肌をしているけれど、これもそのうちもう少し健康そうになるだろうと、床に折り曲がっている、洗いざらしの白い術着の裾から出ている骨ばった足を見下ろして、グレートは思った。
 「何を見てるんだ。」
 訊いたグレートの方へ顔を向ける。残念ながら、問いの意味を理解するようになっても、答える語彙をまだ充分持たない。だからアルベルトは、言葉を探して唇を半開きにしたまま、ぎこちなくテレビの画面を腕──左腕だ──を振るように何度も指差しす。
 やや棒読み気味に台詞を言う子どもたち、ゆっくりと明瞭に、明らかにカメラを意識してしゃべる大人たち、そこへ混じる、毛の長い色とりどりの人形たち、どれもぎょろりと目を剥いて、少し自分に似ていると、なぜかグレートは思った。
 子ども向けの、グレートも知っている、国語のためのような番組だ。文化やら道徳やら、そんなものをなるべく洗って綺麗にして、この世がまるで微笑みだけですべて解決できると夢見ているような、それでもふと、信じたい気分にさせてくれる、そんな内容だ。
 また熱心に見入るアルベルトにつられたように、グレートも、やけに明るい画面に目を凝らした。
 カーペットが敷いてあるとは言え、クッションもない床にじかに坐るアルベルトよりも、自分の腰が先に痛くなりそうで、グレートは後ろのソファに振り返った。
 その時、
 「コーヒーでもどうかね。」
 廊下から、ギルモアが声を掛けて来る。こっちへ来いと手招く手つきに、何か話があるらしいと悟って、グレートはアルベルトの頭を撫でて立ち上がる。
 どこへ行くんだと上向いたアルベルトの不安そうな表情に、
 「コーヒーを取って来るよ。」
 コーヒーという単語はさすがにもうわかるだろうと思ったけれど、カップを口元へ傾ける仕草をわざわざ見せると、アルベルトはわかった大丈夫だと、何度も小さく首を振る。
 立ち上がったついでに、すでに痛み始めている腰を伸ばしながらコートを脱ぎ、ソファの上に放ってから部屋を出た。
 キッチンにはもう、コーヒーの匂いが立ち始めていた。
 細い口が優美に波打つ薬缶から、ギルモアが少量の湯をゆっくりと上から注いでいる。大きなキッチンテーブルを隔てているグレートにも、フィルターから形良く盛り上がった湯に蒸れたコーヒーの粉が見え、その手つきの丁寧さと優しさに、ギルモアの医者としての腕の確かさを見たような気がして、グレートは何か美しい演技でも見ているように、そこに立ってギルモアの手元を眺めていた。
 「あれは、あんたが見せてるのか。」
 「あれ?」
 湯を注ぐ手を一瞬止めて、ギルモアが振り向く。
 「テレビだよ、人形やら音楽やら。」
 薬缶がまた傾き、涙ほどの湯が、あくびの出るほどの速度で、またコーヒーに降りかかる。
 「ワシと一緒におる時に見つけて、それから毎日見ておるよ。番組表で時間を確かめてやったら、きちんと覚えて自分で見に行っておる。数字はわかるようになったし、たまに一緒に歌って楽しそうにしておるよ。」
 そうか、と、つたなく歌うアルベルトを想像して心があたたかくなったところで、ひとりで、と付け加えることを止められないグレートだった。
 術着の短い袖から出た鉛色の腕は、明るい部屋の中ではますます異様に見える。白いアルベルトの姿が、光の中でより白く浮き上がる分だけ、あの腕は黒々と艶を増して、アルベルトのはかなさに比べれば、よほど現実感のある重量をその輝きが伝えているのが、グレートの目にはひどく物悲しく映る。
 その腕を抱えたアルベルトが、床にぺたんと坐り、顔だけは真剣にテレビの画面に向けて、言葉を覚えたばかりの子どもたちのための番組に合わせて、まだよく回らない舌を動かして歌う。
 白痴ではない──そのはずだ──から、いずれ普通に歳相応の番組も見るようになるだろうし、本も自分で読み始めるだろう。そうなるまでに、案外と時間は掛からないかもしれない。子どものいないグレート──子守りすら、ろくに経験がない──には、子どもの成長というものが具体的によくわからず、それに対してどんな手助けが必要なのかもわからない。
 人殺しは、リスクは大きいけれど気楽な生き方だったかもしれないと、ギルモアが差し出してくれたコーヒーを、腕と体を伸ばして受け取りながら、グレートはふと考えた。
 いい香りだ。大きな、飾り気のないカップを口元に近づけて、唇が触れる前に、胸を大きくふくらませる。
 焦がされ砕かれ削られた豆が熱湯責めに遭う、この香りのための犠牲が、拷問に繋がって、またアルベルトの鉛色の腕に繋がってゆく。ここにいると、どうしてもそこから心が離れない。切り落とされた腕から滴っていた血めいた鉄の味が、なぜか舌の奥にまで感じられた。
 カフェインよりは酒の方が、やはり自分にはいいようだと思って、グレートは表情を消して、やっとコーヒーをすすった。
 「床に坐ってるのは、別にあんたがそうさせてるわけじゃないんだろう?」
 クリームを入れたコーヒーをかき回していたギルモアが、心外だと言いたげにあごを引いて、それからふっと、やるせない表情に唇の両端を下げる。
 「椅子にもソファにも慣れておらんで、坐る時には床と思い込んでおる。テレビを見る時にはソファに坐るように言ったんじゃが、どうもくつろげんようでな、好きにさせておるよ。そのうち、敷物か大きなクッションでもと思ってはいるがね。」
 「まったく持って、悲しい話だな。」
 「その通りじゃ。」
 なるべく他人事(ひとごと)のようにつぶやいたグレートが、きちんと当事者としての自覚を心に刻み込んでいるのを知っているくせに、ギルモアは、グレートがそちら側の人間だということを決して忘れさせまいとでも言うように、責めるトーンを隠さずにうなずく。
 それにややうんざりしながら、それでも言い争う気など毛頭なく、そろそろギルモアが、ここへグレートを呼んだ目的──淹れたてのコーヒーだけではなくて──へ近づいているのを感じて、グレートはコーヒーをこぼさないようにしながら、胸の前で軽く両腕を組んだ。
 グレートの心の準備が整ったのを察したのか、ギルモアが少し厳しい口調で口火を切った。
 「あの子を外へ出すには、おまえさんの想像以上の手間が掛かる。言葉や知識だけじゃない、あの子の身に起こったことを、周囲にわざわざ吹聴はせずに、けれどきちんと気遣ってもらえるように、あの子に必要なのはそういう環境じゃ。」
 「そんなことは百も承知だぜギルモア博士。」
 「おまえさん、それであの子をどうしようと思っておるのかね? 体の傷は待てば治る。それでも、あの子に起こったことは誰にも変えられん。それを背負って生きてゆくのはあの子自身じゃ。その傷まで全部、おまえさんひとりでしょい込む気かね?」
 「じゃあどうしたらいいってんだ? おれはあの子を引き取るって決めた。おれが親だ。あんたから見ればその資格はないろくでなしかもしれないが、少なくとも、あの子を直接傷つけたのはおれじゃない。死に掛けたあの子をここに運んだのはおれだ。あの子の手当てをして面倒を見てくれてるのは、ギルモア博士、今はあんただ。あんたには心底感謝してる。あんたがあの子のために必要だって言うんなら、おれは大抵のことは全部飲み込むつもりだ。」
 思わず、声が高くなった。組んでいた腕が外れ、必要もないのに、ギルモアを威嚇するように大きく伸びて広がる。カップの中のコーヒーがわずかにこぼれて、カップの縁から茶色の筋が短く滴った。
 「あの子を、普通に学校に行かせるのは無理じゃ。先に言っておくが、おまえさんが24時間傍にいられないなら、あの子を引き取るのも無理じゃな。」
 「じゃあ子守りでも何でも雇うさ。あの子のために、どこかの面倒見のいい女と結婚しろとでも言うのかいギルモア博士。」
 過去に結婚していたかどうかは知らないけれど、今現在ギルモア博士に伴侶らしき相手がいないと同じような理由で、グレートもまた、結婚には決して向かない。まともな形の家庭を持つなど、グレートは想像したことすらない。
 アルベルトに、母親役の女を与えてやるというのもひとつの手だ。けれど、ろくでなしはひとりで生きてひとりで死んで、後には何も残さないのが正しい生き方だ。アルベルトがこれからずっと生きてゆくために必要な分だけグレートが残そうとしているものの中に、母親というものは含まれていない。
 幸いに、その点ではギルモアも、グレートと同意見らしかった。
 「あの子に必要なのは、子守りじゃない。」
 「手短に、あんたの意見を言ってくれ。他の回りくどい説明やら言い訳やらはいらんよギルモア博士。」
 わざと鬱陶しそうに手を振り、やっと高くなっていた声を元に戻す。ギルモアも、やや憤りの混じる仕草は隠せずに、けれど冷静さでそれをきちんと抑えた素振りが見えた。
 「寮のある学校がある。金は掛かるが、生徒の面倒をきちんと見ることだけは請け負っておる。週末に、おまえさんやワシのところへ戻りたければそうできる。たくさんではないが、言葉が不得手の外国育ちの子どもたちも受け入れておるし、基本的には躾けのいい、金持ちの子ばかりが行く学校じゃ。親が忙しく過ぎて子どもらが戻る家が空っぽという以外には、問題のない子ばかりが集められたところじゃ。」
 「・・・校長が、もしかしてあんたのお友達かい?」
 ギルモアの無言が、それを肯定した。
 「なるほど、あの子はきちんと面倒を見てもらえる、勉強もできる、あんたやおれにも会える、言うことなしじゃないか。」
 揶揄するように言った声音の奥に、やはり信用はされていないのだと言う悲しさが混じるのを止められない。
 確かにそうだ、ギルモアの言う通りだ。アルベルトをここから引き取って、何とか学校へ入れて、その間グレートはあの店で働き続けなければならないし、昼間も夜もろくに家にはいない。アルベルトの相手は、相変わらずテレビだけだ。
 助けなしに、アルベルトが学校でうまくやれるとはとても思えないし、あの腕のせいで、不良ども──どこにでもいる、グレートたちと同類のろくでなし予備軍たち──に絡まれないとも限らない。それを親身に心配してくれる教師でも見つかればいいけれど、それもまた、何の確証もない単なる希望だ。
 グレートには、親になる覚悟はあっても、親としての経験が足らない。グレートでは、アルベルトの親にはなれない。せいぜい、情け深く懐ろのあたたかい保護者として、アルベルトが必要なものを滞りなく揃える役目が精一杯だ。
 おれはほんとうに、心底無能の役立たずだな。
 仕事が順調になり、それで少しばかり浮かれていたのだと、今初めて気づく。
 必死に働いて、金を稼いで、アルベルトを引き取った時には少しばかり時間に融通が利くように、張に言っておく時期を見計らっていた自分が、今ほど愚かに思えたこともない。
 ギルモアがそう考える前に、グレートだって一生懸命考えていたのだ。どうしたらいいか、どうするべきか、アルベルトの親として、自分に何ができるのか、ない頭を絞ったところで、ないところからは何も生まれない。グレートは、いつだって生み出す側ではなく、終わらせる側だったからだ。
 おれが親なんて、茶番もいいところだ。
 ギルモアの、気に入るかどうかはともかくも、極めて現実的な意見の前に、グレートはただうなだれるしかない。
 にらみ合うように重ねていた視線をふっと外し、グレートは自分の負けを認めて、残りのコーヒーを、上向いて一気に飲み干した。
 「ごちそうさん、うまかったよ。」
 やわらいだ声で、反対などないことを示して、グレートは空になったカップを、とんとテーブルに置いた。
 「学校でも何でも、あんたがいいようにしてくれ。金のことは何とでもする。」
 ギルモアはもう何も言わなかった。安堵の様子も、憤った様子も、どちらもグレートの目にはあらわではなく、ただ少なくとも、アルベルトを憐れに思っている気持ちだけはグレートと一緒だと、キッチンを出る前に一瞬だけ重なった瞳の色に、それだけが窺えた。
 アルベルトのいる居間に戻りながら、ギルモアの言ったことを反芻する。
 ギルモアの知人と繋がっているなら、そこへアルベルトを送り込んでも、グレートは確かに安心していられる。不満や不安があるなら、すぐに辞めさせればいいだけの話だ。
 グレートの、修羅場で培って来た直感が、ギルモアの判断が正しいことを告げている。この家に、昼間施錠が必要ないと同じに、アルベルトは間違いなく安全なところできちんと守られるだろう。
 主にはアルベルトのために、また今夜から必死に働くさと、それしかできない自分を自嘲気味に笑って、グレートはひとり廊下で肩をすくめた。
 相変わらず床に坐ったままのアルベルトが、真っ赤な人形が耳に突き刺さりそうな声で歌うのに合わせて、楽しそうに笑っていた。
 張への借金の額が増える懸念は、可愛らしいメロディーにまぎらわせて、今だけは忘れることにした。
 その背を抱きしめて一緒に笑うために、グレートは床に向かって膝を折る。その口元には、すでに微笑みが浮かんでいる。

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