「静謐」 - あらし序章


3) Red Cent (価値の無い)


 数度、簡単なやり取りがあって、それから、アルベルトの腕の手術の日取りが決められ、その数日前に、少し長い時間会いに行った時に、体が落ち着いたらすぐに会いに来るからと、グレートはそう言い残した。
 アルベルトは、ギルモアの説明に納得しているのかどうか、やや不安げな目でグレートを見上げ、珍しく行かないでくれと、あからさまな仕草で、グレートの上着の袖を掴んで、長い間離さなかった。
 残った左腕で、グレートの右腕を抱え込み、ふわふわと不安定に揺れる白い手術着の右肩が、グレートの目には、いつもよりもずっと憐れに映る。
 次に会う時には、そこにはしっかりと腕や肩の形が見えるはずなのだと思うと、不思議な気がした。
 グレートは、両手でしっかりとアルベルトを抱きしめ、心配はないと、何度もささやいた。そうしながら、まだ肉の薄さの目立つ背中を何度も撫で、右肩の傷には触れないように気をつけて、自分の胸に顔を埋めているアルベルトの髪をくしゃくしゃにし、ほんとうにこれでよかったのかと、改めて、自分が決めてきたことに対して、かすかな疑問を抱く。
 この少年を助けたこと、守ると決めたこと、新しい義手を与えること、一体自分に、そんなことを決定する権利があったのかと、アルベルトの不安を自分の内側に取り込みながら、けれどそれがほんとうは自分自身の不安なのだと、気づくのが恐ろしくて、グレートは目を閉じて、アルベルトの髪に、黙って唇を押し当てた。
 大丈夫だ。終わればすぐに会いに来る。
 涙を浮かべて自分の名を呼ぶアルベルトを、振り払うようにして、部屋を出た。振り返らずに階段を下りて、アルベルトが、部屋を飛び出して自分を追って来ないことに、安堵しながら失望もしていた。
 そうして、誰よりも自分勝手な自分を、殺したいほど憎んだ。
 手術の当日に連絡はなく、日長一日時計を見上げて、いらいらとギルモアからの電話を待つ。
 手紙で報告でも寄こすつもりかと、そんな冗談めいたことを考えながら、もしかしたら何かあったかと、悪い予感ばかりするのがひどく不愉快な1日だった。
 こんな日に限って、いつも扱いに手こずる女のひとりが、驚くほど機嫌よく仕事をしてくれ、バーテンの男にチップだと20ドル紙幣を残して行った。明日はきっと赤い雪が降ると、店の男たちが笑うのに、グレートもつられて笑った。
 客も、ひとつももめごとを起こさず、遅刻する誰もおらず、刑事らしい男の顔も見えず、店の外で騒ぐ若い連中もいない。こんなことは滅多とない。
 普段は思い出すこともない神とやらが、粋な計らいをしてくれているのだろうかと、そんなことを思って、店を閉めた後で、グレートは自分の懐ろから金を出して、皆に酒を1杯ずつふるまった。
 この仕事を始めて初めての、とても順調な、穏やかな夜だった。
 明日からがまた恐ろしいと思いながら、結局素面のまま、ひとり家へ帰る。
 あの子は、まだ麻酔で眠っているのだろうかと、ベッドへ入りながら考えた。夢も見ずに、朝まで眠った。


 ひどく疲れた声でギルモアから電話があったのは、店に入ったばかりの午後遅く、女たちの顔ぶれと、男たちの顔ぶれを確かめるためにばたばたと慌しい、あまりゆっくりと話をしていられる時ではなかった。
 「無事に終わったよ。」
 確かめたかったのはそれだけではなかったけれど、この店で自分の次---ということは、この世界では、グレートよりもはるかに先輩ということだ---の位置にいる男が、先月から怪しい振る舞いをしていたバーテンダーが、今日は顔を出していないということで、呼び出しをかけるべきか、それとも放っておいてクビにする言い訳にするべきか、グレートの意見と決断を仰ごうと、爪先をこつこつ鳴らしながら待っているので、ゆっくりとアルベルトの様子を訊くこともできない。
 「動けるようになるのはいつだ。」
 口早に訊くと、ふむと、ギルモアが考え込む沈黙を送って来る。ひげでも撫でているのだろうなと、ちょっと後ろの男を振り返って、愛想笑いを浮かべながら、グレートは待った。
 「2、3日はかかるじゃろうな、多分。」
 今日は水曜日だ。店がいちばん暇になるのは、たいてい月曜日の辺りだ。来週の初めに会いに行けば、きっとちゃんと会えるだろうと、そう思って、
 「日曜か、月曜の昼間に顔を出す。あの子に、そう言っておいてくれないか。」
 「伝えておくよ。おまえさんも、それまではあんまり無茶はせんようにな。」
 まるでねぎらうようなギルモアの口調に、グレートはちょっと面食らって、後ろを気にしながらあごを引く。受話器を掌で丸く覆いながら、
 「あんたもな、ギルモア博士。」
 誰にも聞かれないように、名前をささやいた。あちら側で、ギルモア博士が微笑んだような気配があって、それから、そっと電話は切れた。
 さて、と振り返って、現実へ引き戻される。今日の戦争の始まりだ。女たちが、笑顔で楽しく仕事をしてくれるように、男たちが、鬱陶しい客に対して癇癪を起こさずに、気を長く付き合ってくれるように、警察の連中が、今日もグレートたちを放っておいてくれるように、そして客たちが、女たちに馴れ馴れしくしすぎたり、バーテンダーたちをからかいすぎたり、表に立っている用心棒たちにケンカを吹っかけたりせずに、ただ楽しく酔っ払って女たちの裸を楽しんでくれればいいと、そう心の中で願う。とにかくも、グレートが口出しせずにすめば何よりだ。ただ地下の事務室へ坐って、ぼんやりしていればいいだけになれば、何よりありがたい。
 張大人のところにいる税理士に、そう言えばあれこれ渡す書類の準備があったと、事務室の大きな机の引き出しに、あふれんばかりになっている領収書やら請求書やら、その他あれこれの紙の束のことを思い出す。
 確か先々月、きちんと、せめて週に1度は整理をしておけば、月末近くなって青くならなくてすむからと、そう心に誓ったことなど、すっかり忘れている。
 秘書とやらが欲しいなと、グレートはちょっとだけ考えた。そして、アルベルトが、もし大きくなってそんな気になったら、自分を助けてくれるようにならないかと、ほんとうに夢のようなことを考えた自分を、グレートは心の中で笑った。笑ってから、淋しそうに、口元を引き締めた。


 週末が終わってから会いに行くと、そうギルモアに伝えたのは大正解だった。
 書類の束に埋もれて、事務所にあたる部屋にひとり閉じこもるつもりだった日に、女たちが大喧嘩をやらかした。
 全員ではなかったけれど、体を張って生きている女たちは、総じて気が強く、弱みを見せればたちまち食い殺されるところに生きているから、負けることなど絶対に受け入れない。その日のそれは、自分の男に色目を使ったとか、ひどいけなし方をしたとか、何だかそういう事情だったらしい。わめき散らす女たちを引き離すのに、店の男たち全員の手が必要だった。
 舞台の裏手になる、女たちの控え室は、鏡が全部割れ、椅子が数脚壊れ、女たちの私物である化粧品やら何やら、もうめちゃくちゃで、服やらステージでの衣装---裸を強調するための、小さな布きれ---やらだったらしい残骸も色とりどりに散らばり、そんな場所で上になり下になりの殴り合い掴み合いを演じた女たち---と、止めようとした男たち---は全身傷だらけで、数人が、一応のために病院へ送られた。
 グレートは、幸いにも怪我は逃れ、気の利く例の副支配人が、素早く表の用心棒を呼び、さらに休みだった別の用心棒を呼び出し、グレートが騒ぎを聞きつけて駆けつけた時には、全身切り傷とひっかき傷だらけの女たち数人は、その倍の数の男たちに取り押さえられて、それでもまだ、互いに向かって、長い爪の手を伸ばし続けていた。
 他の女たちは、その騒ぎを遠巻きに眺め、自分の被害分に顔をしかめ、男たちはもう、畜生としかつぶやけなさそうな、そんな顔をしていた。
 グレートは、気の進まないまま、喧嘩をしていた女たちに、少しの間店に出て来ないようにと言い渡して、彼女らを押さえてる男たちの傷の具合を素早く検分して、半数ほどに、病院へ行っておけと言った。
 女たちは、まだわめいていたけれど、それぞれひとりずつ、別々に呼ばれた車に、それぞれ店の男と乗り込んで、そうして、店の中は急に静かになった。
 「今日は、早仕舞いした方がよさそうです。」
 副支配人---正式ではないけれど、実質そうである---は、とても不愉快だという表情でグレートにそう告げて、グレートはゆるめたネクタイと同じように背中を丸めて、ズボンのポケットに両手を突っ込んだまま、すっかり破壊された部屋の真ん中で、うなずくと一緒にため息をこぼす。
 ここでの騒ぎを聞きつけた客たちも、少なくとも数人以上がすでに店から姿を消していたし、少々図々しい客は、ひとりでは心細くても数が揃えば度胸もつくのか、許可もなく控え室のそばまで入り込んで、半裸で素の顔を剥き出しにしている女たちを、面白がって眺めている。明日には、面白おかしくこの騒ぎを、街中に吹聴してくれることだろう。
 今日が休みのはずだった用心棒は、気の毒なことに、とばっちりの傷がいちばんひどそうに見えたから、きっと明日も---明日こそ---休みだろう。
 病院へ送った女たち以外にも、腕やら肩やらから血を流しているのがいる。裸を見せるのが商売の女たちにとって、それは致命傷だ。ガーゼやら包帯やら絆創膏やらを見せながら、裸で踊るわけにも行かない。女の体についた傷に興奮する類いの男たちもいるだろうけれど、この店に来る連中には、そういう趣味はなさそうだった。
 さて、この修理にかかる金は、きちんと経費扱いにしてもらえるかと、来週辺りに連絡を取る予定だった、フランス語らしい名前の、背はあまり高くはないくせに、妙に威厳のある、件の税理士のことを考える。修理代を給料から差っ引かれるのは痛くもかゆくもないけれど、あの税理士に、ねちねちと嫌味を言われるのは業腹だったし、何より、張大人に迷惑を掛ける羽目になるのが、いちばん鬱陶しかった。
 「今日はもう閉めちまえ。いっそもう、辞めちまえ。」
 グレートは、鏡の破片の散らばる真ん中に立って、ぼそりとつぶやいた。
 「何か?」
 副支配人が、怪訝そうに、とがった声でグレートに聞き返す。
 肩をすくめて、振り返りもせずに、
 「いや、何でもない。電話をしなきゃな。」
 地下の事務所へ閉じこもって、誰にも会いたくないと、子どものようなことを考えた。
 女たちの控え室の鏡が、全部新品に取り替えられ、新しい椅子やその他のものが運び込まれた翌日、数日姿を見かけなかったバーテンダーが、薬物過剰摂取で死んで発見されたと、警察から連絡が入った。
 「無断欠勤てわけでもなかったし、クビにする手間も省けたってわけだ。」
 不謹慎を承知で、八つ当たりで、グレートはひとりごちる。
 どんな男だったか、もう思い出せないような、ひどく印象の薄い男で、薬物常用者だったと言われれば、そうかと思い当たることもあるようなないような、グレートよりも長くここで働いていたにも関わらず、よく覚えていないということは、彼の働きぶりがそれほど熱心ではなかったということの、証拠のように思えた。
 売り上げの金を少々ごまかしているらしいとか、他のバーテンダーへのチップを、こっそりポケットに入れているようだとか、彼が働いている時に限って、高い酒のボトルが、1本2本と消えていることがあるとか、副支配人がグレートに耳打ちしていたけれど、どれも確たる証拠もなく、はっきり言えば、そういう些細なこと---支配人として、あるまじき発言とは百も承知で---にかかずらわるのが面倒くさく、どうせそんな男なら、じきに勝手に問題を起こして辞めてくれるか、掌いっぱい分の金を盗んで姿を消すかどちらかだろうと、そう思って、グレートは放っておいたのだ。
 結局、どちらでもないとも、どちらでもあるとでも言えるような、そんな結末だった。
 人を殺すことに、必要である限りは、さして心は痛まないグレートだけれど、自分と関わりのないところで、若い男がそんなふうに命を落とすというのは、あまりにもみじめで、不愉快なほど痛々しいと思う。
 生きることに、醜悪なほど執着する人間もいれば、命を落とすことになど頓着もせず、目先の快楽を何よりも大事にする人間もいる。そして、生きたいと思っても、それが許されない人間もいる。
 店の方は、そろそろ騒がしくなる頃だったけれど、グレートは、事務所の椅子にだらしなく体を投げ出して、腹の上に両手を組んで、胸元にあごを埋めるような姿勢のまま、もう何もしたくないと、深いため息を吐いた。
 人の人生に関わるというのは、ひどく面倒くさいものだ。人殺しというのは、人の命を奪うことただひとつを目的としていて、そこで人生が終わるということは、ある意味、殺す相手の人生には一切責任を持たなくて構わないと言う気楽さがあるということに、グレートは今さら気がついていた。元々の、ひどく怠惰な性質ゆえに殺し屋になったのか、それとも、殺し屋になったからこそ、人の人生に責任を持つということが煩わしいのか、一体どちらだろうかと、グレートは、またため息をつきながら考える。
 自分の分はわきまえている。自分の力量を見極めているからこそ、こんな仕事はまったく自分には向かないのだと、きちんと承知している。あの副支配人の方が、よほど支配人らしい。けれど張は、別にお飾りとしてグレートをここに置いておきたいわけではないらしく、グレートがきちんとこの仕事でそれなりの成果を上げることを、はっきりと求めていた。
 人殺しが人殺しを辞めたら、一体何ができるんだと、改めて、自分の能のなさを嘲笑う気分になった。
 きっと張は、グレートのこんなところを見抜いていて、用無しの殺し屋が、無気力のアル中にでもなって、ろくでもないことをしでかす前に、とっととどこかへ押し込めて、それらしい役につけておこうと、そう考えたのだろう。
 薬のやり過ぎで死んだ若い男のことをまた思って、張がまだ自分を、仕事のないまま殺し屋として手元に置いていたなら、遅かれ早かれ、あんな風に薄汚い変死体になったのだろうなと、ふっと唇の端に苦笑を浮かべる。
 どこかの薄暗い路地で、酔っ払ったあげくに脳の近くの血管を破裂させて、きっとひどい痛みを感じるのは一瞬だ。銃で撃たれた傷の方が、きっと苦しいに違いないくらいの、奇妙に安らかな、そして滑稽な死。どこかの名もない宿無しが、ごみと同じになってしまったというだけの、ただそれだけの死。
 腹の上に組んでいた掌をほどいて、椅子の肘置きに腕を乗せ、だらしない姿勢で頬杖をついた。
 髪の毛のない、つるりとしたこめかみが、掌に妙に湿って温かい。かすかに感じるのは、間違いなく鼓動だ。死を掌の上で玩びながら、グレートは今確かに生きている。死を羨ましがりながら、けれど、自ら死を選ぶようなことはないだろうと、深い確信がある。
 何しろ、護るべき者がいる。まだ死ぬわけにはいかない。現世に、大して未練があるわけでもなく、昔から執着心というのは薄い人間だったけれど、この地にしっかりと足をつけて、生きてゆこうと今思うのは、あの右腕のない少年のせいだ。五体満足ですらない、言葉もろくに通じないあの少年は、何度も何度も死ぬ目に遭いながら、生き延びてきた。それが、彼自身の運の強さか、生への執着の深さゆえか、グレートには今は知る術もない。
 この醜い世界に、グレートは鬱々とした日々を過ごしながら、常に場違いであるという気分を抱えてばかりいる。それでも、水がどんな器にも添うように、いずれは、こんなことにも慣れてしまうのだろう。一体それまでどれほど時間がかかるのか。グレートが諦めてしまうのが先か、張が呆れてしまうのが先か。それとも、案外と、突然性に合っていると気がついて、死ぬまで---どんな死に方にせよ---、女たちの肌の匂いと、男たちの吐く酒臭い息に埋もれて、様々なひとの生き方と死に方を、眺めて過ごすことになるのかもしれない。
 誰にも、同じほど価値がない。その中でも、自分はさらに価値の低い類いの人間だと、グレートは、冷静に思った。
 価値もない。能もない。それでも、あの少年がいる。元人殺しのおれが、養い親だと。一体どんな冗談だ。
 死んだバーテンダーの葬式へ、自分で顔を出すつもりはなかったけれど、バーテンダーのひとりを、金を持たせて送ろうと思った。最後の給料を、受け取ることもしないままだった青年の両親へ、悔やみの言葉を伝えるくらいは、せめて人として、故人はとてもよく働く、優しい青年だったと、そう伝えるのが義務のように思えたので。
 死なせるつもりで育てたわけではなかったろうに。薬で死んだ彼に、ふとかすかな怒りが湧いた。死んだ自覚すらなく、薬で腐った脳にはもう、痛みを感じる神経すらなかったのかもしれない。それでも彼は親に愛され、健やかに生きてくれと、願われたのだ。
 同じように、願おうと思った。あの少年が、たとえ不自由はあっても、健やかに育ってくれるように。過去に何があったにせよ、これからは、何も怖がることはないし、あんな目に遭うようなことは、もう絶対に起きないと、起こさせないと、グレートは、今はあごの下に組んでいる両手の指先に、力を入れた。
 それが、おれの価値だ。
 青年の葬式の話をするために、上へ行こうと、投げ出していた両脚を引き寄せて、それから、ゆっくりと、背筋を伸ばして立ち上がった。


 いつの間にか、ここへ来ると、ほっとするようになっていた。
 重くてぶ厚いドアの、黒光りするその艶は、以前は傲然としているように見えていたのに、今では暖かくグレートを迎えてくれているような気がして、グレートは、ドアに向かって微笑んだ後で、ノックをする前に、ドアの表面をそっと掌で撫でた。
 ああいい色だと、口元の微笑みを自然に深くして、奇妙に機嫌が良いことに気がつきながら、グレートはこんこんとドアを叩く。
 緩慢な悪夢のような週が明けて、ようやくアルベルトに会えることに、気分がやわらいでいる。俗っぽい現世を離れて、浮世離れしたここは、まるで優しい夢の世界のようだ。
 肺の組織を引き伸ばすような深呼吸をして、ドアが開くのを待った。
 「ひどい顔色じゃな。ちゃんと食べておるかね。」
 言った本人も、疲れの色の濃い表情で、いつもよりもいっそう老人めいて見える。
 「死なない程度にはね。酔う暇もなくてね。」
 「・・・まあ、幸いじゃな。」
 いつものようにくるりと背を向けることはせずに、後ろへ一歩引いて、グレートを中に入れてくれた。
 ギルモアは、わざわざ押さえるようにしながら静かにドアを閉めると、肩から振り返って、
 「腕はもう、動くようになっておる。もちろん、ちゃんと使えるようになるのは、もっと先の話じゃがな。」
 「もう動かせるのか? 無理する必要はないんだぜ。ゆっくり養生させて、体を元通りにするのが先だろう。」
 グレートの前を歩き出して、ギルモアは、いつものように軽く丸めた背中の後ろで、両手を組んだ。
 「あの子は、ワシやおまえさんを喜ばせようと、必死なんじゃ。」
 わずかに揺れるその丸い肩を目で追って、ようやく足を前に出す。アルベルトの部屋へ向かって階段を上がりながら、ギルモアはぼそぼそと話を続けた。グレートは、老人の背中に視線を当てたまま、その低い声に耳を傾けた。
 「この間、ラジオで聞き覚えた歌を、ひとりで歌っておった。ワシが与えたドイツ語の絵本を、飽きもせずに繰り返し読んでおるよ。右利きじゃから、まだ字を書くのは無理じゃが、腕が使えるようになったら、きちんとドイツ語と英語の読み書きを教えるつもりでおる。賢い子じゃ、苦しいとも嫌とも、一言も言わん。おまえさんがいつも持って来る菓子を、いつじゃったか、ひとつ隠しておって、それをワシが叱ったら、なんと言ったと思う?」
 階段の途中で足を止めて、ギルモアは横顔だけで振り返った。それに合わせて、グレートも足を止め、2段上のギルモアを、じっと見上げる。
 手すりに置いた手に、知らずに力がこもっていた。
 「何でも言うことを聞くから、言われた通りにするから、二度とこんなことはしないから、許して、ごめんなさいごめんなさい。許して下さい。ワシは、叱ったつもりもなかったんじゃが、あの子は本気で怯えておった。」
 子どもっぽい口調を真似して、そして、アルベルトのドイツ語が、年よりもはるかに幼いのだということを付け加えて、ギルモアはまた階段を上がり始めた。
 「たかが菓子ひとつのことで。」
 ギルモアが、まるで自分自身を責めるように、暗くつぶやく。
 足におもりでもついているような足運びで、ようやく2階にたどり着くと、まだそこへは上がりきらないグレートを、今度は全身で振り返り、ギルモアは、白い眉の間にしわを寄せてグレートをにらんだ。
 グレートも、まっすぐにその視線を受け止めて、目元を険しくした。
 「ワシは老いぼれじゃが、あの子の手助けくらいはできるじゃろう。そこから先は、おまえさんの仕事だ。もっとも、人を生かすことがおまえさんにできるかどうか、ワシは知らんがね。」
 皮肉なその口調は、決してグレートだけに向けられた怒りによるものではなかった。アルベルトがあんな目に遭った世界全部を、この老人は憎んでいる。同じ世界が、いつだって弱者を踏みつけにしているのを、長い間見つめ続けてきたのだろう老人は、そしておそらく、彼自身が、その弱者だったこともあったのだろうこの老人は、世界と弱者の間をうろうろと這い回り、己れの利益ばかりを勘定しているグレートたちのような人種を、心の底から憎悪している。そして、今は、主にはそんな輩に関わることで飢えを満たす---空腹、というだけのことではなく、学者としての、さまざまなエゴ---生き方をしている自分自身を、誰よりも何よりも憎んでいるに違いないのだと、グレートは、もうきちんと読み取ることすらできない、深い悲哀と怒りに満ちたギルモアの瞳を、じっと静かに見返していた。
 片足を上げかけたまま、ギルモアの肩越しに見えるアルベルトの部屋のドアへ、そっと目を細める。
 ひと息、グレートは呼吸を止めた。
 「おれは確かに人殺しでろくでなしだが、それでも、大事なものがひとつくらいはあってもいいだろう。おれにとっては、多分それがあの子だ。」
 グレートの答えに納得したのかどうか、ギルモア博士は何も言わないまま、またドアへ向かって足を進め始めた。
 丸まった背中が、わずかに硬さを失くしたように見えて、その背を見つめながら、自分の言った言葉を、グレートは胸の内で反芻している。
 「おまえさんも、あの子の様子を確かめたいじゃろう。あの子の腕を見せよう。」
 ドアの前に立って、まるでひとり言のように、ドアに向かってつぶやいてから、ギルモアは、中へ、優しい声を掛けた。
 「アルベルト、入るよ。」
 小さなノックの直後に、いつものことなのか、アルベルトの返事は待たずにギルモアがドアを開ける。半分開いたドアの向こうに、白いベッドの上に坐った、皓い背中が見えて、その形が歪み、こちらを向いたのが見えた。
 こちらへひねっているのは、体の左側だ。右腕も右肩も、体の陰に隠れて見えない。けれど、いつもよりも安定して見えるアルベルトの体の線は、確かに何かが違っていた。
 アルベルトが、ギルモアの後ろにグレートを認めて、弾むような動きで、向こうへ垂らしていた両脚をベッドの上に乗せてくる。そうして、ふわふわと体にまといつくだけの手術着の裾を跳ね上げながら、骨張った膝を丸出しにして、今にもベッドからそのまま飛び降りたそうに、けれど行儀良く足を揃え、こちらに向かって坐って、きちんと姿勢を正した。
 ギルモアの体に隠れて、すべては見えないけれど、確かにアルベルトの右肩は、そこに在った。手術着の肩の形が、両方同じように揃っている。どこか照れたように、爪先を触れ合わせて、アルベルトは、すくい上げるような視線をグレートに送ってくる。
 ドイツ語で、ギルモアが何か言った。アルベルトがうなずいて、はにかみもあらわに、ちょっと両肩をすくめて見せる。
 ベッドとドアの、ちょうど半分辺りの位置に立って、グレートは、驚きを隠しきれずに、ギルモアの背中と肩越しに、アルベルトの動きを追っていた。
 ギルモアがそう言った通り、ほんとうに、本物の腕のように見える。まだ上手くは動かせないらしかったけれど、そうやって静かにしていれば、アルベルトが右腕を持たないとは、誰も思わないだろう。
 さっきまでグレートに向けていた険しさは一体どこへ消えたのか、まるで孫を目の前にしたような穏やかさで、ギルモアは、アルベルトの首の付け根や耳の後ろの辺りを、両手で包み込むように探っている。
 ふたりのささやくような会話は、グレートには内容はわからず、ギルモアの問いに、ぽつりぽつりと応えるアルベルトが、こっそりと送ってくる視線に、グレートは優しさだけを込めて応えていた。
 ようやく、ギルモアが触診を終えたのか、アルベルトの首の後ろに指を伸ばして、手術着の結び目をほどく。何の抵抗もなく、薄い軽い布はアルベルトの体を滑り落ちて、アルベルトは、左手だけを動かして、それを脱いだ。
 成長期だからというわけではなく、ただ肉の薄い体は、元々の色素の薄さと、太陽をまだ充分に浴びていないせいで、以前よりはましになったとは言え、まだ痛々しく青白い。その青白さを、白い包帯が覆っている。それを、ギルモアがゆっくりと、手首から解き始めた。
 軽く持ち上げた掌と指先は、恐ろしいほど人工的な鉛色だった。確かに人の手の形はしている。けれど、どう見ても人間の手ではなく、まるで、機械のようだった。
 義手と言えば、指に当たる部分が鉤状になっているものと想像していたグレートの目には、それは確かにより本物の手らしく映ったけれど、その形の完璧さゆえに、機械じみたその様が、いっそう強調されている。グレートは、驚きだけではなくて、喉の奥に苦さを感じて、ほとんど見えない眉の端を、ひくりと上げた。
 肘があらわになり、二の腕も剥き出しになりそして、ついに肩が現れて、みぞおちの辺りまでを完全に覆っていた包帯が取り去られた後には、右胸の部分をすっかり鉛色にされたアルベルトが、生身の部分の儚さを裏切るような、その重たげな右腕をだらりと下げてそこに立ち、やや斜めに傾いた視線でグレートを見つめていた。
 つやつやと光るその鉛色の腕は、形も色も美しくて、皮肉なことに、アルベルト自身よりも、よほど強靭で健康そうに見えた。
 なんてこった。
 声には出さずに、唇だけでそうつぶやいていた。自分が一体何をしたのか、何に加担したのか、目の当たりにして、グレートは、絶望と呼ぶしかない波打つ胸の内を、面に出さずにはいられなかった。
 機械のようではない。機械じみているのではない。これは、機械そのものだ。胸の半分、上半身の4分の1を機械に侵食され、アルベルトは、強姦と蹂躙を、そのまま体現していた。
 なんてこった。
 今度は、かすれた声が、細く出た。
 叫び出しそうな震える唇を隠すために、無意識に口元を掌で覆い、グレートは、血の気を失くしてふらつく足元を、必死に支えながら、
 「ありがとうギルモア博士、診察があるだろうから、おれは外にいるよ。」
 ほどいた包帯を手に、アルベルトの傍で優しく誇らしげに立つギルモアから、わずかに揺れる視線をそらし、グレートはかかとを後ろに引いた。
 背を向ける直前に、大きく見開いた水色の瞳が、すがるように自分を見つめているのに、グレートは、きちんと言葉を掛けることすらできなかった。
 逃げるように部屋を出て、ドアを音をさせずに閉め、そこから5歩ほどで階下をまっすぐに見下ろすことができる、階段の手すりの続きに、思わず両手を乗せて体を支える。吐き気がした。初めて人を殺した時のことを思い出させる悪寒と眩暈に、髪の毛のない頭から、冷たい汗がこめかみを流れてくる。
 あれはなんだ。
 唇が動いて、酸素の足りない魚のように、下を向いたまま、ぱくぱくとあえいだ。まるで、ロボットか何かじゃないか。
 もっと正しくは、ただでさえひとである気配のまだ薄いアルベルトが、本物の人形のように見えて、あれを壊したところで、充分な罪悪感が湧くことはないだろうと、そう思えることに、グレートは吐き気を覚えている。
 腕が戻って来てよかったと、そう思っている表情ではない。目の前で、満足気な笑みを浮かべるギルモアが、喜んでいるらしいことを単純に喜び、そして今度は、グレートが喜んでくれるだろうと、あれはそれを期待していた目だ。
 わかっていたことだ。あんな踏みつけられ方をしてきた子どもが、人を悦ばせることだけで生き延びて来た子どもが、たとえ体をばらばらにされたとしても、怒りや憤りをあらわにすることなどない。おまえのためだと言われながら、結局は誰かのエゴのために利用されることを、それでも歓迎しなければならなかったアルベルトを、誰にも責められない。
 あの子は、そういう生き方しか知らないのだ。あの子は、そんなふうにされてしまったのだ。その何よりのあかしが、あの腕だ。鉛色の、気味の悪い、切り取られて歪んでひしゃげた右肩の名残りの傷痕よりももっとグロテスクな、本物そっくりのあの機械の腕が、五体揃ったと喜ぶギルモアや、早く元気になってくれと願うグレートの、己れのためだけのエゴの現れだ。
 あれを見るたびに、グレートは思い知るだろう。アルベルトに何が起こったのか、その片棒を、結局は自分も担いだのだと、これから一生、何度も何度も、念を押されるのだ。
 どちらが、より醜かったのか。腕を奪われて、大きな傷痕の残った体か、それとも、ああして鉛色に覆われて、形だけは本物らしくされた体か。
 グレートは、回る視界の中に、つやつやとよく光る階下の床を映して、ゆっくりと頭を振った。手すりで支える体は、まだふらりと頼りなく、何度もまばたきをしてからようやく、背筋をまっすぐに伸ばした。
 あの子が醜いわけではない。醜いのは、あの子をあんなふうにした連中---もちろん、グレート自身も含めて---の方だ。価値のないことを認められずに、自分よりもより価値のない存在をつくろうと、あらゆる手段を講じることに、必死なだけのクズのような連中だ。
 深呼吸をして、それから、ゆっくりと肩を回した。部屋へ戻るために、アルベルトに、きちんと声を掛けるために、足を前へ踏み出そうとした時に、中からギルモアが出て来る。
 「終わったよ。もう、今日、包帯を取ってしまおうと思っておったから、ちょうどよかった。」
 何がちょうどよかったのかはよくわからなかったけれど、すっかり穏やかな顔つきになったギルモアに、険しい視線を送る気にもならず、グレートはするりと無表情を面に刷くと、ただ了解したとでも言うように、浅くうなずいて見せた。
 「あの子のあの肩の辺りは、つなぎ目は、もう痛まないのか。」
 「むやみに動かせば痛むじゃろうが、そもそもそんなにまだ動かせはせんよ。あんまり乱暴に触ったりはせんようにな。」
 あの腕は、重くはないのだろうかと、そんな心配をし始めて、手術の成果に、謙虚に胸を張っているギルモアの浮かれぶりに水を差すことはせず---できなかった---、グレートは、
 「帰る前に、あの子に挨拶してゆくよ。また2、3日したら、顔を出す。」
 「ワシは下におるよ。行く前に用があったら、声を掛けてくれ。」
 ギルモアは、ゆったりとした足取りで、階段へ向かい始めた。
 目の前のドアに向かって、グレートは静かにため息をこぼした。
 せめて、よかったなと、そう言ってやらなければならない。振りだけでもいい、腕が両方揃っているのは喜ばしいことだと、そう態度に表さなければならない。凍ったような無表情を消すために、グレートは頬から口元にかけてを、片手で拭った。その手でそのまま、ドアを軽く叩いた。
 「アルベルト。」
 数瞬待ったけれど、返事はない。
 聞こえないはずはない。部屋の中にある、小さなバスルームにいて聞こえないのだろうかと、今度はもう少し大きな音で、ドアをノックした。
 それでも、何も聞こえない。
 「アルベルト?」
 今さら無作法もあるまいと、そっとドアを開け、片目だけで中をうかがうけれど、小さく切り取られた空間に、アルベルトの姿は見えない。
 「アルベルト?」
 呼びながら、部屋の中へ入った。
 右手の壁にある、バスルームのドアは開いたままだ。そこは空だった。ベッドは少しだけ乱れていたけれど、シーツは平たく、無人を示している。ベッドの下のわずかな空間も、体を折り曲げて確かめてみたけれど、アルベルトはいない。
 他に隠れるような場所はないし、別の部屋に通じるドアがあるという話は聞いていない。グレートは、少し焦りを感じながら、部屋の中をきょろきょろと見回した。
 ベッドを通り過ぎたところで、窓際のカーテンが、不自然に丸まっているのを見つける。床とのわずかなすき間から、裸足の爪先が、縮こまっているのが見える。
 「アルベルト。」
 そっと近寄ってカーテンをめくると、今にも泣き出しそうな顔をうつむけて、アルベルトが、横目にグレートを見上げていた。
 「どうした、かくれんぼか? ひとりでやってもつまらないだろう。」
 通じないのは承知で、勝手に話し掛けながら、苦笑いのような、泣き笑いのような、そんな表情をうっかり浮かべて、グレートは、アルベルトの頭を撫でようと、ゆるゆると手を伸ばす。
 その手をまるで避けるように、アルベルトがくるまったカーテンの中に、いっそう小さく身を縮めて、体を後ろへ引いた。引っ張られたカーテンが、天井近くに取りつけられた金具を、がしゃりと鳴らす。そんな音を立てたことに、驚いて怯えたように、水色の瞳をいっぱいに見開いたアルベルトが、今度こそ真正面からグレートを見つめる。
 「・・・Ugly。」
 カーテンを体に巻き付けて、必死に握っているのは、主には左手だ。あの鉛色の右手は、半袖の手術着から、けれど背中の後ろへ消えている。隠そうとしているのだと気がついて、グレートは、突然、目の奥が痛くなるような悲しさに襲われた。
 「Ugly・・・。」
 グレートに、うつむいた横顔を見せて、アルベルトがはっきりとつぶやく。一体どこで、そんな言葉を聞き覚えたのだろうか。それとも、誰かがわざわざ教えた言葉なのだろうか。
 「アルベルト・・・。」
 くるまったカーテンの中へ指先を滑り込ませて、グレートは、まだ逃げようとするアルベルトの頭を、自分の胸に抱え込んだ。
 「おまえさんは、ちっともみにくくなんかない。醜いのは、おまえさんじゃない、おれたちの方だ。心配しなくていい、そんな言葉を使わなくてもいい、頼むから、そんな悲しいことを言わないでくれ。」
 慰められているのだろうとはわかっても、グレートの言っていることは、アルベルトにきちんとは伝わらないだろう。グレートは、それをありがたく思った。その方がいい、自分たちのような人間が、一体何を考えているのか、この少年は知る必要などないのだ。
 ただ自分のことを、大事にしてくれればいい。
 「おれは、おまえさんが無事でうれしいよ。おれは、おまえさんが生きていてくれて、うれしいよ。腕があってもなくても、どんな腕でも、それがおまえさんなら、おれはうれしいよ。」
 いつもは押し隠している感情というものを、今はあらわに、グレートはひとりつぶやき続けた。アルベルトに、通じることはなくても、それでもかまわなかった。
 この腕ごと、この少年を大事にしようと、新たに思いながら、おずおずとアルベルトが左腕でグレートを抱き返し、そのうち、頼りない動きで右腕が脇腹の辺りに触れたのを感じた時には、グレートは、思わず涙ぐみそうになった。
 カーテンの中からアルベルトを連れ出して、左手を取る。それに、びくりと肩を震わせて自分を不安気に見上げるアルベルトに、精一杯心を込めた笑みを見せると、グレートは、その手を自分の両手で包み込んで、うやうやしい仕草で、唇を押し当てた。
 どうしていいかわからずに、ただされるままになっているアルベルトの、冷たい鉛色の機械の手の甲が、自分の息と体温であたたまるのを、グレートはただ、口づけながら待っている。