「あらし」


1) My Dear

 店主は、若い男だった。
 背の高い、銀の髪の、いつも黒ばかり着ているように見える、ものしずかな男だった。
 2、30歩も歩けば、店の中をすべて見終わってしまうほどの、小さな本屋。艶やかな茶色の板張りの床が、本ばかりがずらりと並んだ店の中を、奇妙に明るく見せている。
 客が入らないのが、気にもならないように、男はいつも、カウンターの向こう側で、本を読んで過ごしていた。
 言葉を交わせば、微かに混じるアクセントが、男がこの国の人間ではなく、ごく若い頃、ここへやって来た---恐らく、両親とともに---のだろうと思わせる。滑らかな英語は、すでに彼の言葉になっていたけれど、まるでそのアクセントにこだわるように、時折Wの発音をVにしてみせたりもする。
 静かな、永遠に動きもなくたたずむ、彫刻を思わせる男だった。
 ドアの上についているベルが、ちゃりんと鳴った。
 肩を入り込ませて、中をうかがった後、深々と帽子をかぶった、長いコートを着た男が店に入って来た。
 店主の男は、カウンターの中から立ち上がって、一応、店を持つ者の役目として、客らしい人の動きを目で追う。
 客はちらりと一瞥をくれ、それから、ゆっくりと店の中を歩き回り始めた。
 いちばん奥の棚で足を止め、すいと首を伸ばす。それから腕を伸ばし、一番上から2番目の段から、本を2冊抜き出す。
 その後ろ姿を眺めながら、店主の男は、少しだけ頬の線を引き締めた。
 客は目深に帽子をかぶっていて、おまけに背中を丸めているので、ほとんど顔など見えない。
 カウンターに本を置いて、客の男は軽く咳払いをした。
 店主は本を手に取り、題名と値段を確かめると、それから、ほんの数瞬、男が口を開くのを待った。
 「"計ったように時間ぴったりにやって来たな"(ハムレット)。」
 顔を伏せたまま、客は、重々しく言った。
 「"森には時計なんてないよ"(お気に召すまま)。」
 低く、それでもおどけた調子で、店主は返した。
 客が、ようやく上目に、店主を見た。店主は、失礼、と短く言い残して、店の奥へ行き、1冊の本を片手に、またカウンターへ戻って来た。
 客がすでに選んだ2冊とその1冊を、一緒に店の名前の印刷された、素っ気もない茶色の袋へ入れると、店主が告げた値段の分の紙幣を、客はまた目を伏せたままカウンターに置き、入って来た時よりももっと静かに、店から出て行った。
 客の背中を見送って、店主はふうっと息を吐く。
 後ろの壁にある時計を振り返って、意味もなく時間を確かめた。


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 店を閉め、通りに面した窓のカーテンを引き、最後の明かりを消して、そして裏口へ向かう。
 建物の裏には、殺風景な駐車場がある。そこに止めてある車へ向かう途中、店主は後ろから呼び止められた。
 「よお、店は終わりかい。」
 地味な、それでも値段が張るだろうと容易に想像できるスーツの上に、肩にだけ長いコートを羽織った、見事に髪の毛一本頭にない男が、にこやかに立っていた。
 「グレート、珍しいな、あんたがこんな時間にここにいるなんて。」
 「大きな仕事が終わった後だ、せっかくじゃないか。」
 そう言って、グレートと呼ばれた男は、またにこやかに、店主の方へ近づいてくる。
 コートの下には、大きなワインのボトルがあった。
 「祝杯に、付き合ってくれるだろう。ひとりで飲めなんて、頼むから言わないでくれ。」
 早口にまくし立てる、その英語は、唇のあまり開かない、イギリス英語だった。
 よほどいいことがあったのか、微笑みは、一瞬たりとも彼の口元から去らない。
 店主の男は苦笑しながら、自分の車のドアを開けた。
 「あんたは、車は?」
 「返したさ。おまえさんを待ってたんだ。」
 軽く、ウインクして見せる。店主は、またもうひとつ苦笑を浮かべた。
 頭髪のない男が、助手席に、当然のような顔で滑り込むのを見て、店主はゆっくりと運転席に身を沈めた。


 「で、取引はうまく行ったのか?」
 ワイングラスをふたつ、キッチンから運んで来ながら、店主の男は尋いた。
 「もちろんだ、大成功さ。」
 開けたばかりのワインを、たっぷりとグラスに注ぎながら、グレートは喜色満面と言った態で、店主の方を見る。
 「新規の取引先だからな、どうも本屋へ足を運び入れるのに、少々抵抗があったらしいが、なに、品物を受け取って、また出て来るだけだ。誰の目も恐れる必要はない。とりあえず、ご満足いっていただいたらしい。」
 「けっこうな話だ。」
 ワインの匂いをかいで、店主は人ごとのように言った。
 「で、現れた男は、台詞をつっかえずに言えたのかい?」
 ふふっと、店主は笑った。
 「初舞台で緊張してる、俳優の卵のなりそこねっていうところかな。」
 グレートも、声を立てて、その答えを笑った。
 壁のない、大きな空間。倉庫の2階に住む場所を作ったような---実際に、ここはそういう造りだった---、家具がなければ、ただの殺風景な空間。
 中央に置いたソファセットに、向かい合って坐って、ふたりはワインを飲んでいる。
 リビングの部分の続きにキッチン、それから、バスルームらしいドアがあり、その横の仕切りの向こうに、大きなベッドが、低くたたずんでいた。
 まるでチェスの駒を、でたらめに並べたように、ぽつんぽつんと家具が置いてある。
 壁際には、大きな本棚が、ずらりと並んだ本を支えていた。
 高い天井には、太いパイプが何本も走り、ここが、今は使われることもない、廃工場の階上なのだという名残りを、はっきりととどめている。
 時折言葉を交わしながら、ワインを飲む。すでにボトルの半分が、空になっていた。
 「中身が何だったのか、尋かないのか?」
 グレートが、不意に言った。
 「興味はない。俺はただ、あんたのために、あんたに言われた通りのことをやってるだけさ。」
 そんな気もないのに、口調に皮肉が混じる。グレートがふん、と鼻先で笑った。
 「おまえさんの大事な本屋を、あんなことに使って悪いとは思ってるさ。隠れみのには最適でね、仕方がない。」
 言い訳めいて、グレートは、銀髪の男から目を反らした。
 拳銃か、麻薬か、武器の部品かもしれないし、宝石だったのかもしれない。それとも、ニセ札か。
 今日、店で帽子の男に手渡した本の中に何が入っていたのか、知っても仕方がないさと、店主は思った。
 月に何度か、あるいは週に何度か、店の地下にそんな本が運び込まれる。多ければ、何十冊も。本の中はくりぬかれ、ページがあるべき部分に、その時その時の品物が納められている。
 本の表紙は接着されていて、ナイフでこじ開けでもしない限り、ちょっとやそっとでは開かない。
 指定された日時に、店主は、定められた本を決まった位置に置く。誰かが入って来て、その本をカウンターへ持って来て、さらに指定の台詞を言えば、店主は合い言葉を返してから、地下から持って来た"本"を、客に渡す手はずになっている。
 調べられれば、すぐにばれるからくりなのに、警察にはたっぷりと金が回っているのか、それらしい手合いが店の前をうろついているのを、見たことすらない。
 いやとも言わず、店主は、グレートの、表沙汰にはできない取引を手伝っていた。もう、ずいぶんと長い間。
 報酬として、隠し口座に振り込まれる金額が、魅力的ではないとは、言わない。
 けれどこんなことに手を貸しているのは、何も金のためではなかった。
 店主は、ワイングラスを空にすると、朝からずっとはめたままでいた、黒の革手袋を、やっと右手から外した。
 グレートが、それを上目に見ている。
 手袋を外すと、それが合図のように、店主は立ち上がって、グレートの横へ行った。
 右手を、そっとグレートの頬へ伸ばす。
 「泊まっていけるんだろう?」
 低い、甘えた声。
 グレートの頬に添えた手は、人間の手ではなかった。
 少しばかりゴツゴツとした、人の手の形をした、金属。鈍い光沢を放って、鉛色に明かりを集めている。
 その、灰色の、冷たい掌---もし、そう呼べるなら---に頬をすりつけると、グレートは、
 「ああ、明日の朝、ここに迎えが来る。」
 そう、囁くように答えた。
 グレートの手からワイングラスを取り上げ、目の前のコーヒーテーブルに置くと、銀髪の男は、自分よりはずいぶん年上の、頭髪のない男に、そっと口づけた。
 「シャワーを浴びて、ベッドへ行こう。明かりも消してくれ。明るいリビングで挑みたいほど、青くもないんでね。」
 グレートが、息がかかる距離でそう言った。
 「あんたは、10年前から、ちっとも変わっちゃいないさ。」
 うっすらと笑って、店主が言う。今はもう、グレートの首に両腕を回して。
 「ベッドの中で腹上死ってのも、悪くない死に方だと、思ったこともあったがね。」
 銀髪の男に、柔らかく口づけを返しながら、グレートが言った。
 「あんたとなら、心中したっていいさ。」
 視線を据えたまま、口元だけで笑って、銀髪が言った。
 「・・・アルベルト、My Dear、この老いぼれにそう言ってくれるなら、頼む、ベッドにしてくれ、ソファじゃなく。」
 途端に、アルベルトと呼ばれた男は、思い切り破顔して、グレートの額にキスの雨を降らせ始めた。
 まるで、大きな犬に飛びかかられでもしたように、自分よりは背の高い、いくぶん体の厚みもある、若い男の体の下からもがき出ると、グレートは、アルベルトの髪をつかんで、自分から引きはがした。
 不意に、じゃれ合いが止まり、ふたりは黙って見つめ合った。
 グレートは、アルベルトの金属の手を取り、そっと指先に口づけた。
 「My Dear、アルベルト。」
 愛しげに、悲しげに、名を呼ぶ。
 「ベッドに、行こう。」
 その手を自分の方へ引き取りながら、アルベルトが言った。