「あらし」
2) Good Morning
7時半。ジリジリと目覚ましが鳴る。
うつ伏せのまま腕を伸ばし、それを止めてから、すでにベッドがからなことに気づいた。
「お目覚めかな。」
グレートが、すでにネクタイも締めて、キッチンで紅茶を飲んでいた。
床に散らばった服を拾い上げるのも面倒で、アルベルトは上掛けを外して肩に羽織ると、そのままマントのように体に巻きつけて、グレートのいるキッチンへ歩いて行った。
「なんとも、しどけない格好だな、朝から。」
濃い水色の上掛けの下から覗く、素足から上へ向かって視線をずらして、グレートが笑う。
くくっと、喉の奥で笑って、アルベルトは、体を倒してグレートに軽くキスをした。
「Good Morning。」
椅子にそのまま坐ると、代わりにグレートが立ち上がって、すでにポットに入っている紅茶を、大きなマグに注いでくれる。
イングリッシュ・ブレックファストの香りが、鼻先をくすぐった。
寝乱れて、くしゃくしゃの髪に指を入れ、熱い紅茶をすする。斜めに坐っているグレートが、そっと、剥き出しの膝に掌を乗せた。
暖かな、掌。彼の両掌は、いつも暖かい。
わざと右手---金属の方---をその上に乗せ、アルベルトは目だけで笑って見せた。
「朝食は?」
グレートが軽く首を振る。
「いや、いい。もうすぐ迎えが来る時間だ。」
「不粋な話だな。こんな朝早くにお出迎えなんて。」
「仕方がない。今日は、朝一番で、ダウンタウンの店の支配人を捕まえる予定なんでね。」
「物騒な話か?」
グレートが目を伏せ、唇の端で苦笑した。
「いや、仕入れと売り上げが一致しないんでね、いつものことさ。出来れば、腕の一本くらいですましたいもんだ。」
「明日の朝、男の溺死体が河に浮かばないことを祈るよ。」
アルベルトも笑っていたけれど、冗談ではないことは、ふたりともに通じている。
グレートがふと何か言いかけた時、グレートの上着のポケットが、ルルルと鳴り出した。
「お、どうやらお迎えらしい。」
椅子の背にかけてある上着のポケットに手を差し入れると、小さな携帯電話を取り出して、受信のボタンを押す。
「ああ、上がってくれ。」
短く言うと、また、アルベルトに振り返る。
「もう行くよ、My
Dear。」
「なんだ、お楽しみの時間くらい、あると思ってたのに。」
冗談めかして、アルベルトが艶っぽい仕草を見せる。唇を突き出して、接吻の形をつくると、グレートが、頬にそっと触れてきた。
「お楽しみは、また次の時に。まったく、後ろ髪を引かれることをしてくれる。罪なやつだよ、おまえさんは。」
そう言って、頭髪のない額を、つるりと撫でた。
軽いノックの音に、ふたり同時にドアへ振り向く。
立ち上がって上着を着るグレートと一緒に、アルベルトもドアへ向かった。
長いコートを羽織りながら、すっかり身支度を整えて、まだ上掛けを羽織っただけのアルベルトを振り返った。
自分より、いくぶん背の高いアルベルトに向かって、優雅に首を伸ばして、静かに接吻する。
もう一度、夕べ触れた青年の素肌を、思い出すような目付きをして、グレートはドアを開けた。
ドアの向こうには、浅黒い膚の、明らかにネイティブ・インディアンとわかる大男が、ドアをふさぐように立っていた。
横顔だけで振り返ったグレートに手を振り、それから、その大男に向かっても手を振り、アルベルトはもう一度笑った。
「行こうか、ジェロニモ。」
ジェロニモ、と呼ばれたその男は、グレートにうなずいて見せ、アルベルトにも軽くうなずいて見せ、グレートの体を自分の大きな体でかばうようにしながら、ドアを閉めた。
ひととき、閉じてしまったドアと、その向こうを去ってゆく足音に心を馳せてから、アルベルトは、シャワーを浴びるために、上掛けを引きずって、バスルームへ歩いて行った。
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店は、10時に開けることにしている。
9時には店に行って、開けられる窓とドアを、全部開ける。それから、本棚のほこりを払い、床をざっときれいにして、カウンターを磨き、もし、取引のある日なら、間違いのないように、慎重に予定の本を指定された場所へ置く。
取引がなければ、気楽な気分で、奥にある事務室の小さなキッチンで、ゆっくりとお茶をいれる。
紅茶を飲みながら、本の在庫を調べ、帳簿をつけて、仕入れのためのメモをつくる。
午前中に、必要な電話をかけ、話をすべき人間たちとすべき話をし、その間に、まれにある、普通の客の相手もする。
午後は、作って来たサンドイッチと紅茶ですませるか、たまには、店を閉めてしまって、1時間ほど外へ出ることもある。
目立たない、表通りから2ブロックほど奥まった辺りにある、こんな小さな構えの店が、はやるはずもない。
長い間、自分の孤独を癒してくれた本に、ずっと関わっていたくて、店を開いただけの話だった。
最初に、小さな書店をやりたいと言った時、グレートは、冗談だと思ったのか、大声で笑い出した。
本屋? おまえさんが? この街で本屋なんて、正気の沙汰じゃない。
確かに、過ぎるほど大きなこの街で、個人が経営する小さな書店が、生き残れるはずもなかった。
偏った趣味人のための、特殊な本屋か、ある種の専門の店か、でなければ稀覯本ばかり扱った古書店か、そんな店でもやる気でない限り、本屋など、商売にはならない。
別に、生活のために、そんなものをやりたいんじゃない。
笑い終わったグレートに向かって、静かにアルベルトは言った。
何か、自分ですることがあっても、いいだろう?
長い間、与えられるだけの生活をした後、どうしてもアルベルトは、自分の足で歩いてみたいと、切実に思った。
気の遠くなるほどの間、この男の庇護の元で、この男に守られるだけの時間を過ごした後、普通の社会から隔離されていたその時間を、アルベルトは取り戻してみたいと思った。
グレートは、ふっと真面目な表情を取り戻し、仕事の話をする時の顔を取り出すと、唇を隠すように両手を組んだ。
それは、おまえさんが、おれから離れてくってことかい?
低い、声だった。
アルベルトは、一瞬、驚きで声を失い、言葉を失った。
そんなこと、心配してるのか?
してるとも。
言下に、押さえた声で、グレートは答えた。
穏やかな、眠ったような目が、底に、冷たい光をたたえる。
仕事をする時の、瞳の色。
はしばみ色の瞳が、微かに、ナイフの銀の色を帯びる。
アルベルトは、思わず右手を握りしめ、背筋を伸ばした。
おまえさんとは長い付き合いだ。それも、ただの付き合いじゃない。おまけに、おまえさんには、色んなことを知られてる。おれが心配したって、不思議じゃないだろう。
そんなに心配なら、殺せばいい。あんたに無理なら、あんたの可愛い部下にでも、やらせればいい。
アルベルトは、半ば本気でそう言った。
グレートが立ち上がり、ゆっくりと足を運ぶ。優雅な仕草で。
二流どころのギャングのポスにしては、奇妙な威圧感がある。猫背で、どうと言って目立つ容貌でもないのに、彼の、銀の光の差した瞳ににらまれるだけで、誰もが黙って体を硬張らせる。そんな場面を、アルベルトは何度も見ていた。
それなのに、優雅さは、いつも彼の傍にある。まるで、影のように。
アルベルトの前に立つと、グレートは、すいとその頬に手を伸ばした。今はもう、すっかり自分よりも背も高く、胸も厚くなってしまっている青年の、昔と変わらず青白い頬に、グレートは、細い、しなやかで節のない指を添わせた。
それができれば、とっくにやってるよ、My Dear。
耳の中に、甘く溶けた蜜のように、流れ込んで来る、彼の声。
何度、そう囁かれたろう。夜と昼と、時間の区別もなく。この言葉だけが、真実だった。信じられるのは、この囁きだけだった。
首を曲げ、グレートの唇に触れた。
まるで、服従を示すように。
抱き合いながら、グレートのネクタイをといた。グレートがドアの鍵を閉め、それから、大きな机の上に、アルベルトを押し倒した。
アルベルトは、裏切りなどしないことを、その場で、その体で誓った。
それから。
はやりもしない、はやらす気もない書店を開き、あの廃工場の階上にある元倉庫の、アパートメントを与えられた。
グレートの情人という立場は変わらず、ただ、少なくとも今は、ただのアルベルトとしての顔を、表に持っている。
取引場所のひとつを管理し、その責任を、仕事として果たしてもいる。
顔や体だけで、グレートに取り入っているわけではないのだと、自分に言い聞かせることが、今は出来る。
もっとも、顔も体も、グレートに気に入られた理由のはずは、なかったけれど。
店を閉める午後6時が、近づいていた。
棚に並んだ本を並べ換えるのに手を取られ、店を閉めた後で、ようやく裏口から出て来たのは、もう9時に近かった。
ひとりで帰って、食事を作るのが億劫に思え、どこかで夕食をすませて帰ろうかと、考えごとをしながら、駐車してある車に向かっていた。
不意に、後ろから首に腕を回され、頬に、冷たいナイフが当たった。
声を出すなと、背後から言われた。
男の声。背は、アルベルトよりも少し低い。首に回った腕は力が強く、アルベルトは両手を上げて、抵抗する意志のないことを示した。
「そのまま歩いて、車に行け。」
背を反らした格好で、自分の車の方へ歩く。歩くたびに首が締まり、息を詰まらせた。
痛みはあったけれど、恐怖はない。
グレートとの付き合いで、こんなことには慣れっこになっている。殺されるのは別にかまわない。けれど、死なない程度に傷つけられるのは困るなと、アルベルトは冷静に思った。
傷を見つければ、グレートは間違いなく、犯人を見つけ出してなぶり殺しにするのが、わかっていたので。
強盗と暴行の報復に、殺人は少しばかり酷だなと思いながら、アルベルトは、男が、欲しい物を奪って、とっとと去ってくれればいいと思っていた。
車へたどり着くと、男は正面に向かい合って、ナイフをアルベルトの喉元に突きつけたまま、アルベルトのコートと上着のポケットを探り始めた。
スキーマスクのようなものをかぶっているので、顔は見えない。その方がいい。グレートに探し出される確率が、ずっと低くなる。
その時、突然踊り出た人影が、スキーマスクの男を、後ろから羽交い締めにし、ナイフを叩き落とした。
スキーマスクの男は、素早く体をねじって、自分を捕まえた腕から逃れ、道路に向かって走り出した。
ふたつ目の人影は、地面に落ちたナイフを拾い上げて、それから、逃げる男を追うために、駐車場の半ばまで走って、けれどあきらめたように、こちらに戻って来る。
「大丈夫か?」
ひょろりと背の高い、髪の赤い男だった。
ナイフの当たっていた喉に、傷のないことを確かめて、アルベルトはほっとする。
目の前の男を見上げて、ありがとうと礼を言おうとして、不意に口をつぐんだ。
「アンタ、もし警察に行くなら、オレが一緒に行ってやってもいいぜ。」
まだ若い、とアルベルトは思う。芝居も下手だ。声が上ずっている。こんな手合いとの付き合いには慣れているアルベルトをだますには、もう何年かかかるだろう。
「親切には、ありがとう。でも、強盗のお仲間と警察に行く趣味はない。」
若い、赤毛の男は、弾かれたように肩を後ろに引いた。
「襲う相手が、素人か玄人かの区別もつかないなら、こんな仕事は辞めた方がいい。そのうち痛い目に遭う。」
ひとりが襲い、ひとりが助ける。ショックで口も聞けない被害者に、親切にする通りすがりの人間のふりをして、気づかれないうちに、財布や金目のものを奪う。
陳腐な手口だと、アルベルトは、おかしくなった。
図星にせよ、とんだ勘違いにせよ、驚いて口も聞けないらしい赤毛の男を放って、アルベルトは素早く車の中に滑り込み、ドアをロックした。
相手が銃を持っている可能性は考えたけれど、強盗だけで、傷害罪は必要のないチンピラだろうと、すでに踏んでいる。
案の定、男は車を追うこともせず、アルベルトはそれでもミラーを見ながら、駐車場を後にした。
真っ直ぐ家に帰るのは危険だった。どこかで、尾けられているかもしれない。
面倒だなと、初めてため息をこぼす。
にぎやかな表通りを通って、なるべく明るい店を探した。
車を止め、周囲に注意を払いながら、足早に店の中に入る。ドアの奥に電話を見つけて、アルベルトはようやくほっとした。
どこにいても、アルベルトといる時をのぞいて、グレートの携帯電話の電源が切られることはない。鳴って2つ目で、グレートの、くぐもったような、イギリス英語が聞こえた。
「グレート?」
------おまえさんか、アルベルト。どうした?
「今どこだ?」
------店にいる。例の支配人はクビにした。しばらく病院から出れんだろうよ。
「今からそこに行く。着くまで待っててくれるか?」
------どうした、一体?
そう尋かれて、思わず駐車場で襲われたことを言いそうになった。口をつぐんで、とっさに言葉を変える。
「・・・・・・逢いたいんだ。」
グレートが、息を飲む音が聞こえた。
------これはこれは、そんな耳に心地よい言葉で、この老いぼれをうれしがらせてくれる。
おどけた調子で、一瞬の間をごまかすようにグレートは言葉を継いだ。
それに調子を合わせるために、わざとはすっぱに、軽薄な口調で、アルベルトは歯の浮くようなことを口にした。
「俺があんたに惚れてるって、先刻ご承知のくせに。」
------My Dear、"今ここで死ねたら、この上ない仕合せだ"(オセロー)。
グレートが時折やる、芝居や戯曲からの引用が、なぜか今はひどく優しく、知らずに尖っていた神経をなごめてくれた。
ゲームのような言葉のやり取りが、不意に、ほんもののように思えてくる。
「死なないで、待っててくれよ、頼むから。」
少しばかり気弱さの露呈した声音で、アルベルトは言った。
電話を切って、やはりあの男の元で、守られていたいのだという本音を、頭のすみに聞きながら、アルベルトは、車に向かって駆け出していた。
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