ふたりのいるところ

10) 寄り添う

 季節の変わり目には腕が痛む。今年は失くなった腕ではなくて、義手と繋いだ辺りが、まるできしむように痛んだ。
 耐えられないことはない。それでも週末、仕事が休みなのだから構うものかと、アルベルトは普段は手にも取らない鎮痛剤を朝から服んで、キッチンのテーブルに置き手紙をした。
 薬を飲んで寝るから起こさないでくれ。ここの合い鍵を持っているジェット宛てだ。
 来る時にわざわざ連絡をよこすことはしないし、アルベルトも、来るのかとわざわざ訊くこともしない。
 いつの間にかそんなことになっていて、アルベルトのこの部屋は、今ではまるでジェットの部屋のようだ。
 最初は、ひと晩分の着替えだった。それから、CDや雑誌を持ち込んで、着替えが1週間分に増えた頃には、ジェット用の引き出しと棚が、アルベルトの手で用意された。
 ジェットの気配が増えてゆく。浸食されていると、頭の中では表現しているくせに、そう考える時に笑顔が浮かぶのはなぜだろう。
 誰かと生活の場を分け合うこと、もちろん想像したこともあったけれど、腕を失くしてからは、腕と一緒に消してしまった考えだった。
 それなのに、いつの間にジェットは、まるで雨が地面に染み込むように、当たり前のことのように、アルベルトの生活の中に入り込んで来てしまっていた。
 効いて来た強い鎮痛剤にうつらうつらしながら、アルベルトは先もなく考え続けている。
 アルベルトが驚いているのは、こんな風にアルベルトの中に食い込んで来ているジェットにではなくて、それをほとんど何の抵抗もなく、自分が受け入れていることにだった。
 自分に触れる掌、ジェットに触れる剥き出しの右手、重なる掌、そんなことを思い出しているのが、夢なのかただの思考の流れなのか、薬の作用に脳が飲み込まれ始めていて、どちらとも見極めがつかなくなった辺りで、アルベルトはほんとうに眠ってしまったらしかった。


 音も気配も、届いた記憶がなく、どこかの水底から浮かび上がる自分の姿がはっきり見えた後で、自分が包まれているのが水ではなく毛布で、そして水の重さだと思ったのが、腰の辺りに巻いている誰かの腕だと気づいて、アルベルトはそっと首をねじって自分の後ろを見た。
 自分の背中に向かって、丸まったジェットの背高い体。窮屈そうに、アルベルトのベッドに一緒に収まって、少し動けば手足がはみ出す狭さは、けれどふたりきりでここに閉じこもる時には、ぴたりと体を合わせるのにちょうど良かった。
 ああ、やっぱり来てたのか。
 薬が良く効いていたのか、ジェットが部屋にやって来たことはおろか、ここへもぐり込んだことにすら気づかなかった。
 テーブルの書き置きを見たのだろうか。
 大きなスポーツバッグを抱えて、ごろりと大きな靴を音を立てて玄関で脱ぎ捨て、肩を丸めて入って来る。練習で疲れて、何となく埃っぽい風体で、時には何より先にシャワーを浴びる。汗を流した後で、上機嫌にアルベルトに近寄って、
 「せんせェ。」
 頬をすりつけて来る。まるで大きな犬か何かだ。
 アルベルトを、常に上機嫌の表情で見下ろして、もう教師と生徒ではないと言うのに、いまだアルベルトをそう呼ぶのをやめず、アルベルトもやめろとは言わない。
 いつか名前で呼んでくれるだろうかと、心の底で期待しながら、それを自分からは言い出せないでいた。
 アルベルトは、自分の背中に頭をこすりつけるようにして眠っているジェットに向かって、思わずねじれた腕を後ろへ伸ばした。
 やっと触れた髪をそっと撫でて、そうしているうちにそれだけでは足りなくなって、アルベルトは、ジェットを起こさないつもりで体を回す。ジェットの腕の中で、できるだけそっと寝返りを打って、正面に向き合おうとした。
 額が触れ合いそうになったところで、ジェットがゆっくりと目を開ける。
 「・・・おはよ、せんせェ。」
 「どちらかと言うとお休みだな。」
 「どっちでもいいよ。」
 アルベルトと体を近づけたまま、ジェットが軽く伸びをする。犬よりも、むしろ仕草が猫めいて、アルベルトはそのままそこで笑いを小さく漏らした。
 「まだ、腕痛い?」
 そう言われて、今は自分の体の下敷きになっている右腕のことを思い出し、アルベルトは少しの間そこへ意識をやる。熱っぽい疼きは消えている。少なくとも今だけは、薬のせいか、あの鬱陶しい痛みは消えていた。
 「今は大丈夫だ。」
 よかった、とまだ少し眠そうな声で言って、ジェットがもっと体を寄せて来る。さらに手足と背中を縮めて、アルベルトの胸の中へすっぽりと収まりながら、あごの下ヘ赤い頭をもぐり込ませて来た。かすかに、汗の匂いがした。
 左腕で、ジェットの背中を抱き寄せて、アルベルトはジェットの髪にあごをこすりつける。
 まだ少し眠気は残っていて、このままこうしていたい気がする。ジェットはどうしたいのだろうと思いながら、抱き合う以上のことはまだする気にならず、ジェットの手がもう少し不埒に動き始めたら、その時はやんわりとたしなめようと、半分はそう考える自分を信じないで、アルベルトは心を決めかけていた。
 「今何時だ?」
 また眠りかけているジェットに、アルベルトは小さな声で訊く。大きくてあたたかな体を抱いて、そのおかげか、痛みのいっそう薄れた体に気づきながら、ジェットの背中を、礼を言う代わりに撫でている。
 「わかんないなあ、オレ来たの、4時頃だったかなあ。」
 ジェットの腕に力がこもった。
 「そうか。」
 別に正確な答えを期待していたわけではないアルベルトは、ジェットの反応に奇妙に心を浮き立たせて、何をすると言うわけでもなく、こうやってただジェットを抱きしめている。
 このままずっと、先のことなど特には考えずに、眠りたいなら眠り、空腹なら何か食べて、そんな風に過ごしてしまえばいいと、決して投げやりでもなく考える。
 何もしない時間が、ひどく心地良かった。
 ひとりでこうしていれば、きっと気持ちは焦るばかりだ。けれどジェットと一緒なら、これはこれで有意義だと思える。
 何もしないことに罪悪感ばかり抱いていた頃もあったのに、何もできないことに焦りばかり感じていたこともあったのに、こうして、何もしないことを選んでしまえるのは、体の傷だけではなく、心の傷もほんとうに癒えつつあるという証拠なのだろう。
 こうなるのに何年掛かったろうかと、心の中で指を折ろうとしたその手は、ごく自然に鉛色の右手だった。そんな些細なことすら、心に突き刺さっていた過去があった。
 失った右腕は戻らない。代わりを得ても、それは元の右腕とは違う。それでも、他に何か得たものがあったのだと、アルベルトはジェットの髪の中に浅くあごの先をもぐり込ませながら思った。
 ジェットはまるで、絆創膏のようだ。擦りむいた傷や切った傷に貼る、たまたまそれしか手元になかった、やけにカラフルな絆創膏。いやでも目立つ傷に、けれどその妙に明るい色が、怪我を楽しくさえさせてくれる。
 ああ、そうか。ふと思って、アルベルトは不意に微笑みを深くすると、背中に置いていた掌をジェットの後ろ頭へ移し、今度は髪を撫でた。
 別に、怪我をしてもいい。傷があってもいい。傷跡が残っても構わない。それが、生きていると言うあかしだからだ。
 そうだ、そうだったな。
 痛みを感じるのも、こうして生きているからだ。痛みがあるからこそ、右腕があったことを憶えていられる。右腕があった時の自分のことを、忘れないでいられる。恋しがるのではなく、ただそうだったと、憶えていればいい。
 「せんせェ、後でさ。」
 眠っていたわけではなかったらしいジェットが、アルベルトをぎゅっと抱きしめて、肩口に顔を埋めて、くぐもった声を出した。
 「何だ?」
 「後でさ・・・後で・・・。」
 はっきりとは言わずに、同じことを繰り返しながら、合間に、誘うような笑い声が小さく交じる。
 「腕、大丈夫だったら・・・。後で。」
 毛布の中で、いっそう近く寄り添いながら、
 「ああ、後で。」
 アルベルトは、ジェットの言う意味を汲み取って、素直にうなずいた。
 夕食はもう、面倒なら外に出掛けてしまおう。帰りに、ジェットに選ばせた菓子でも買って、紅茶をふたり分淹れよう。
 あるいは、何もせずこのまま、ふたりで微睡んでいてもいい。
 寄り添う先のことは何も考えず、ただ流れるままにまかせて、とアルベルトは思った。
 キミと一緒なら、何でも楽しめる。
 たとえ、辛いことでも。
 右腕のない自分の隣りに、にこにこと立つジェットの姿が浮かんだ。思い浮かべるうちに、自分の口元へ移って来るその笑みが、どこかジェットと似ているように思えて来る。
 ひとりではないあたたかな毛布の中で、アルベルトは、もう少し近く、ジェットの方へ体を寄せて行った。