ふたりのいるところ



7) ひとのからだ

 せんせェと、何度も夢の中で呼ばれ、それに合わせて、ゆるく頭を振った。
 額や頬に、何か暖かなものが触れ、何だろうかと、夢の中で考えていると、耳の上の部分に噛みつかれた。
 はっと目を開けると、ちょっと驚いた顔のジェットが、上で、見下ろしながら、目を細めた。
 「ジェット・・・」
 夢の中から、まだ完全には戻っていない、少しかすれた声で名前を呼ぶと、横に長い唇が、照れたように、にいっと吊り上がる。
 「ごめんね、せんせェ、起こした?」
 そのつもりだったくせにと、口にはせず、見つめられていることに照れて、さり気なく目元を、左手で覆った。
 触れていたのは、ジェットの指先だろうか、それとも唇だろうかと、覚えている限り、感触のあった場所を、思わず指先で追う。
 それから、まだ、飽きずに自分を見つめたままでいるジェットに視線を合わせて、うっすらと頬を染めた。
 ソファでうたた寝をしている間に、冷めてしまったらしい紅茶は、まだテーブルの上にあり、その傍には、おそらく、開いたままで胸の上に伏せられていたはずの---読んでいる最中に、眠ってしまったので---厚い文庫本が、きちんとしおりの頭を見せて、置いてあった。
 一体、どれくらい長い間、寝顔を見られていたのだろうかと、またゆるく首を折って、ようやく眠気の去った頭を持ち上げようとする。
 ジェットが、唇をへの字に曲げた。
 「起きちゃうの?」
 思わず、何か約束でもしていたろうかと、また起き上がりかけた肩を元に戻して、ジェットを見つめる。
 「いつ、来たんだ?」
 視線をずらしながら、訊いた。
 瞳を上に押し上げながら、唇を突き出して、考える表情になる。その子どもっぽい仕草にわくいとしさを隠せずに、アルベルトはくすりと笑った。
 「30分くらい前かなあ。」
 「起こせばよかったのに。」
 体をずらして、アルベルトの顔の、すぐ傍についたひじに頬を乗せて、ジェットがくすりと笑い返す。
 「だって、せんせェの寝てるとこなんて、めったに見られないもん。」
 寝つきの良くて、寝起きの悪いジェットと、寝つきは悪くて、寝起きの良いアルベルトと、そう言えば、ジェットの寝顔はよく見るけれど、ジェットが、アルベルトの寝顔を見るチャンスはあまりなく、30分も眺めていて、飽きないのだろうかと、そう思ったのが照れ隠しだとは、気づかないふりをする。
 ジェットが、いとしさを込めて、アルベルトに向けて、微笑みかけた。
 「紅茶が、冷めた。」
 微笑み返す代わりに、そう言って、呼吸さえ、数えられそうな距離で、ジェットの、淡い緑の瞳の中に映る、小さな自分を見ていた。
 まるで、水に浮かんだように、白い顔が、ゆらゆらと揺れている。
 ジェットの中に、取り込まれてしまったような、そんな不安を感じながら、それでも、その水はきっと暖かく、心地良いのだと、信じられた。
 自分の、水色の瞳の中にも、ジェットの真っ赤な髪が、揺れているのだろうかと思って、そう思うと、瞬きすることが恐ろしく、まるで、泣くのをこらえる時のように、瞳を大きく見開いてしまった。
 「せんせェ、好きだよ。」
 その声はまるで、自分の瞳の中の、揺れる小さなジェットから、発せられたように思えた。それは、ジェットの言葉ではなく、自分自身が、ジェットから聞きたい言葉なのだと、そんなふうに思う。
 まだ、夢の続きのように、とりとめも、繋がりもない思考に、ほんの少し驚きながら、アルベルトは、ゲームのような連想を、心のどこかで楽しんでいる。
 ああ、とジェットに向かってうなずくと、ジェットの顔が近づいて来て、唇が軽く重なった。
 湿った、薄紅い皮膚が、きゅっとこすれる音が、耳の奥の骨に響く。
 唇を開こうかと、思って、やめた。
 突き出した唇を重ね、ジェットが一度、うっすらと目を開いたのが見えた。
 同時に、まつ毛が触れたような音を聞いて、また目を閉じる。
 唇が離れても、距離は変わらないままで、ジェットが見下ろしていた。
 ジェットの長い腕が、肩の方へ伸びてくる。そのまま、アルベルトの頭を抱え込みながら、ジェットが、ソファの上に上がってきた。
 アルベルトにさえ、ちょうどいいとは言い難いソファは、ジェットの長身に合うはずもなく、窮屈そうに、肩や足をずらしながら、そのままアルベルトの上に乗ってくる。
 「ソファが・・・気の毒だ。」
 言いたいのは、そんなことではなかったけれど、そんなふうに、伝える言葉がこぼれた。
 胸と胸が、肩と肩が、腰と腰が、まるで、ベッドの中でのように重なって、生暖かく、さっきの唇と同じに、体温が重なる。
 「何もしないよ。」
 先回りして、ジェットが言った。
 されてたまるかと、言うつもりだった唇を、きゅっと結ぶ。
 ジェットの息が、耳や首筋にかかる。髪の生え際を、からかうように触れてゆく唇に、もどかしく、肩が小さく震えた。
 体を重ねて、服越しの体温を感じて、膚に触れながら、けれど、そこから先へは進まない。
 言った通り、ジェットの体温は、穏やかなままだった。
 「せんせェ、こういうの、苦手?」
 ジェットの背中に、腕を回すかどうか、迷っていると、ジェットが訊いた。
 「・・・こういうのって?」
 耳元に、また息がかかった。
 「こうやって、オレが、せんせェにくっついてるの。」
 また何か、ジェットの機嫌を損ねるようなことをしただろうかと、今度はしっかりと、背中を抱き寄せながら、表情を隠すために、喉を反らした。
 「いやなわけが、ないだろう。」
 いやだったら、裸で、一緒に抱き合ったりなんかするもんか。
 シャツの下の、大きな肩甲骨をなぞりながら、思った。
 「・・・でも、最初は、くっついて寝てもくれなかったくせに。」
 最初はと、突然言われて、思わず頬が赤く染まった。
 人との接触が苦手なのは、生まれつきのことだと言ったら、ジェットはわかってくれるのだろうか。
 右腕を失くしたことが、それに輪をかけた。触れることも触れられることも、つまりは、秘密を暴く、あるいは暴かれることだったから。
 そんなことは、秘密でも何でもないのだと、ジェットに、教えられるまでは。
 首の下に、当然のように腕を敷いて、自分の肩に、アルベルトを引き寄せて、そのまま眠ってしまおうとしたジェットの腕を、アルベルトは、戸惑いと苦笑を混ぜて、そっと外した。
 眠れないんだ、人がいると。
 うそではなかった。人の気配が、眠る自分の傍にあることに、どうしても神経が立って、ジェットの呼吸と体温を、膚に直に感じながら、結局朝まで、ろくに眠れなかった。
 ジェットだからではなく、誰といても、おそらく同じことをしたに、違いなかった。
 ベッドの、端と端に別れて眠り、手や足が、伸ばせば触れ合うようになり、それから、ジェットが、右腕を抱え込んで離さないのを、許せるようになった。
 夜中に目覚めて、あちら側にある、ジェットの大きな薄い背中に、今は、自分から胸を重ねてゆくこともある。
 手足を絡めて、けじめもなく、混じり合ってしまいながら、眠る自分の空間を侵されることは、どうしても耐え難く、それでも、少しずつ、そんな些細な---けれど、だからこそ、ひどく大事な---距離を、ジェットは辛抱強く、長い時間をかけて、縮めて来ていた。
 今は、ジェットがいなければ、やけに広く感じるベッドの上で、ジェットのいない空間に、まるで、探るように腕を伸ばす。
 眠りの中に落ち込んだ、無防備な自分を晒せるのは、今もジェットだけなのだと、そう言っても多分、納得はしないだろうなと、心の中に苦笑をこぼす。
 肩甲骨を撫でる手を止めて、肩を、しっかりと抱き寄せた。
 ジェットが、猫のように、喉の奥を、小さく鳴らした。
 「せんせェ、紅茶飲む? 新しいの、オレ、いれるから。」
 体の重みを気にしてか、ようやく体を浮かせながら、ジェットが言った。
 肩に回した腕に、いっそう力を込めて、アルベルトはぎゅっと目を閉じる。
 「いい、紅茶は後でいい。」
 ジェットの戸惑いが、胸から伝わってくる。
 「もうしばらく、このままで、いてくれ。」
 言葉は、まっすぐに伝わって、またまっすぐ、アルベルトへ返ってくる。
 うんと、ジェットが、肩の上でうなずいた。
 「オレ、でも、重いよ。」
 本よりも、自分の腕よりも、重い人のからだだから、こんなにいとしいのだと思った。
 「いいんだ。」
 逃がさないように、しっかりと、腕の中に取り込んだ。