路地裏の少年



1) 出逢い

 ポケットの中の車のキーを、指先で確かめた時、その音を聞いた。
 くぐもった、明らかに不快を示す声。何かが、硬いものに押しつぶされている物音。車のタイヤがきしむ音。
 足を止め、アルベルトは音のする方へ、ゆっくりと首を回した。
 駐車場の境を示すフェンスのすぐ傍に止められた車の、トランクの辺りに、人影が見えた。
 ひとりは車の上にうつ伏せになり、ひとりがその背中にのしかかり、最後のひとりは、車の上の人影の肩や頭の辺りを押さえつけているように見えた。
 けんかだろうかと思いながら、なぜかそのまま立ち去る気になれず、巻き添えを食うかもしれないうっとうしさを、心のすみに追いやりながら、アルベルトは、その小さな、諍いらしい現場へ、わざと足音をさせながら近づいた。
 体を倒していたひとりが、その音を聞きつけて慌てて体を起こし、もうひとりを促して、ハインリヒが姿を確かめる前に、素早くフェンスを乗り越えると、走って去ってしまった。
 後ろ姿を、追うべきかどうか迷ってから、支えを失った体を、ずるずると地面に落とす、もうひとつの人影へ、足早に近づく。
 思ったよりも小さな体が、くたりと地面の上へ、横たわっていた。
 足元にそれを見下ろして、夜目にも明らかな服のひどい乱れ方で、何が起こったのか、アルベルトは瞬時に悟った。
 小さな体は、うめきながら上体を起こし、そこへ立っているアルベルトに、きつい視線を当てた。
 「見せモンじゃねえ。どっか行けよ。」
 視線の鋭さに似合わない、まだ、声変わりを終えていない、子どもの甘い声。アルベルトは、驚きをうまく隠して、静かに少年を見下ろしていた。
 痛むだろう体をかばいながら、それでも必死に、乱れた服を整えようとする。
 殴られたのか、赤くはれた唇の端が見えた。
 「大丈夫か?」
 「どっか行けよ。それともアンタも、路上でガキ探してるクチか?」
 ひどい英語だと、アルベルトは思った。
 早口の、罵り言葉の詰まった文法。長く聞いていると、頭痛がしてくる類いの言葉づかいだった。一目で、とっくに学校へなど行くのをやめてしまっている、そこらにいくらでもうようよしている、先のない少年たちのひとりだと知れる。
 「病院か、警察か、行くなら、連れて行ってもいい。」
 低い声で、アルベルトは言った。
 少年は、口元を、シャツの袖で拭ってから、奇怪な動物でも見るように、アルベルトに一瞥をくれる。
 「アンタ、バカか? オレみたいなガキが、ゴーカンされましたって警察に行って、相手にしてもらえるって思ってんのか? 病院の待合室で、一晩中こんなカッコで順番待ちなんて、冗談じゃねえ。」
 少年の言っていることは、正しくはなかったけれど、忠実に事実を語っていた。
 それに、とアルベルトは思う。
 恐らくこの少年は、こんな目に遭うのは初めてではないのだろう。
 関わってしまったことを、ほんの少しだけ後悔しながら、それでもアルベルトは、なぜかそのまま立ち去れずにいた。
 「家に帰るなら、送ろう。そんな格好で、歩くわけにもいかないだろう。」
 ふと、少年の目の色が、弱くなる。
 家なんか、と吐き捨てるように言って、目を伏せた。
 恐らくナイフだろう、はいているジーンズは、後ろが、腰から腿まで、すっぱりと切り裂かれている。かろうじて体に引っ掛かってはいるけれど、歩くには少しばかり無理がありそうだった。
 ハインリヒは、着ていたトレンチコートを脱ぐと、少年の傍にしゃがんで、肩にかけてやった。
 「とにかく、ここにいても仕方ない。」
 腕を引いて立たせると、逆らいもせずに、アルベルトについて来る。
 酔狂だと思いながら、自分のアパートメントに連れて行く以外、どこも思いつかない。
 車のドアを開けてやると、少しだけ躊躇して、それでもまた何も言わず、少年は静かに助手席に滑り込んだ。
 外よりは明るい車の中で、少年の、こけた頬の辺りを盗み見る。
 なるべく、アルベルトから離れ、ドアにぴったりと体を寄せて、少年はうつろな視線をどこかへさまよわせていた。
 真っ赤な髪、高い鼻、あごや首の線が、まだ稚なく、細い。せいぜい13、4かと、アルベルトは少年の歳を読んだ。
 こんな子どもが、一体こんな時間に何をしていたのだろうと思ってから、もっと幼い子たちが、夜の路上をうろついているのにと、自分でおかしくなる。
 理由は様々だけれど、結果はどれも似たり寄ったりだ。いずれ学校をやめ、家出をし、路上で、生き残るためにすべきことをする。盗みや喧嘩、薬の売買、それから、売春。
 ダウンタウンの路上には、そんな少年たちが、夜も昼もなしに群れている。
 アルベルトには、縁のない世界だったけれど。
 まだにぎやかな表通りを過ぎ、裏通りに入ると、アルベルトは、古いレンガの建物の裏で車を止めた。
 少年は、アルベルトについて車を降り、きょろきょろと周囲を見回す。
 茶色い鉄のドアに鍵を差し込んで、開けたドアの目の前に、別の扉が、明るい光をこぼしていた。
 その扉へは見向きもせず、すぐ右手の急な階段を、上へ上がってゆく。
 時々後ろを振り返っては、少年が間違いなくそこにいることを確認した。
 階段を上がりきると、また別のドアがあり、そこを抜けて、アパートメントのドアの並ぶ廊下へ出た。
 4と記されたドアを開け、アルベルトは、少年の肩を中へ押した。
 自分の城へ帰りついて、ようやくほっとする。
 「ここ、アンタん家か?」
 怯えに近い声音で、少年が尋いた。
 「ああ、そうだ。」
 中に入って、どこかに坐るように、目線で促しながら、アルベルトはドアの左手にあるキッチンに入った。
 少年は、肩を縮めてゆっくりと中へ進むと、左手の奥にある、リビングのスペースを、きょろきょろと見回した。
 「ほんとうに、警察には行かなくてもいいのか?」
 キッチンから、背を向けたままで、アルベルトは訊いた。
 「いい。」
 短く、少年が、けれどきっぱりと答えた。
 その答えを反芻するように、少年を数秒眺めた後、アルベルトは、ケトルをストーブに乗せると、少年を置いて寝室へ行った。
 白いシャツを手に戻って来ると、それを手渡しながら、自分の後ろを指差す。
 「シャワーを浴びて、着替えた方がいい。ケガも、消毒くらいはした方がいいだろう。」
 警察に行く気がないなら、証拠を気にする必要もない。襲われた痕跡を洗い流しても、文句は言われない。
 疑り深い視線で、シャツとアルベルトを交互に見て、少年はようやくシャツを受け取った。
 示された方向へ足を運びながら、アルベルトから視線は外さない。
 バスルームのドアの向こうへ消える横顔をちらりと見て、アルベルトは、まるで手負いの動物だと思った。
 ろくでもない下心で、親切ごかしにここまで連れて来たと思われているのだろうと思うと、ふとおかしくなる。そんな心配はする必要はないと、説明するのももちろんばからしく、信用できないならしなくてもいいと、どこか投げやりに思う。
 ケトルが、キッチンで音を立てていた。


 バスルームから、濡れた髪を拭きながら出て来た少年を見て、アルベルトは思わず小さな笑みをもらした。
 長袖の白いシャツは、明らかに少年には大きすぎて、首元がだらしなく開き、肩の線は、少なくとも10cmほどは、あるべき位置からずれていた。手が、袖に隠れてしまっていて、見えない。
 ふと、彼に覆いかぶさっていた男の大きさを思い出して、その笑みも瞬時に消えた。
 クソったれどもめ。思わず、口の中で、普段は使わないようにしている、英語の罵り言葉をつぶやいた。
 脱いだ服を、キッチンの椅子の上に置いて、すでにそこで本を読んでいたアルベルトの前の椅子に、静かに腰を下ろす。
 少年は、暗い目で、上目に、斜めにアルベルトを見た。
 「紅茶で、いいかな。」
 返事は聞かずに、湯気の立つマグカップを、少年の前に置いてやる。ミルクのカートンと、砂糖の入った白い陶器の小さなポットは、すでにテーブルの上に出ていた。
 ミルクだけを注ぎ、少年は、まるで、毒が入っていないことを点検でもするように、しげしげと紅茶の、薄い茶色の表面をたっぷり2分ほど眺めてから、ようやく一口すする。
 「どこに、住んでるんだ?」
 また、ひどく暗い目で、少年がアルベルトを見た。
 「どこにも。家なんかない。」
 ないはずはない。親、あるいは保護者の家に、帰りたくないのだ。
 この年頃の子どもが、すでに浮浪者の生活をしているのは、別に珍しいことではない。すでに、そんな話を聞いても、実際に、そんな子どもたちを目にしても、心も痛まないほど、アルベルトはそんなことに慣れ切ってしまっている。
 よくあることだと、そう思って、通り過ぎてしまうだけの話だった。
 それでも、自分が拾って来たこの赤い髪の少年には、行きがかり上、あまり無関心ではいられない。
 「どこかに、帰る場所があるんだろう? 連絡しなくても、いいのか。」
 ちらりと視線で、電話のある位置を、少年に知らせたけれど、彼は、鼻先でそれを笑い、視線をちらとも動かさない。
 「オレが死んだって、死体なんか、誰も引き取りにも来ないぜ。」
 そんなはずはないだろうと、言うことは出来なかった。
 少年の言うことが、ほんとうだと、アルベルトは知っていたので。
 何人もの子どもたちが、毎日誰かに殺されている。親や、大人の友人や、買春の客や、通りがかりの、見知らぬ他人に。少なくない数の死体が、身元不明で処分される。誰にも必要とされない子どもたちは、殺したい、誰かを破壊したいという、大人たちの欲望を果たす時にだけ、必要とされ、愛されているふりをされる。
 この街には、そんな話が、あふれ返っている。
 心のどこかが、しくしくと痛んだ気がしたけれど、アルベルトは、少年の強がりを尊重するために、眉ひとつ動かさなかった。
 「アンタ、物好きだな。こんなガキ拾って、家に連れて帰るなんて、怖いもの知らずもいいとこだ。」
 「あんな時間に、子どもがあんなところでひとりでいるのに、知らんふり出来ない程度に、常識人でね。」
 大人びた、挑むような少年の口調に、アルベルトは、思い切り皮肉を込めて、言葉を投げつける。
 こんな子どもは、偽善に満ちた、大人の愛しているふりにひどく敏感だろうから、優しいふりをする必要はないと思えたし、そんな優しさを、この少年が喜ぶとは、とても思えなかった。
 ふん、と鼻を鳴らして、少年はわざと音を立てて、マグをテーブルに置いた。
 アンタ、とまた言った。
 「この街の人間じゃないだろ。どこから来たんだよ。」
 「・・・・・・ドイツ人だ。前は、ニューヨークにいた。」
 「ふーん、アンタのそのアクセント、ドイツ語かあ。」
 生意気なガキだなと、ドイツ語で思う。眉を軽く寄せたのを、見とがめたのか、ふと、少年が口をつぐんだ。
 「キミの、名前は?」
 少しだけ年齢相応になった表情に向かって、アルベルトは訊いた。
 少年は、またマグを持ち上げ、顔を隠すようにすると、その影から片目だけで、アルベルトを見る。淡い緑色の瞳が、ぞっとするほど静かで、暗かった。
 「・・・ジェット。」
 ようやく、囁くように---聞こえなければいい、とでも言うように---、短く言う。
 「アンタは?」
 お返しだと言わんばかりに、また皮肉っぽく、アルベルトに尋く。
 「アルベルト。アルベルト・ハインリヒ。」
 こちらは、礼儀をわきまえた大人のだと知らせるために、わざと丁寧に、名字も付け加えた。
 唇のはしが、切れている。右の眉の上に、すり傷があった。首には、微かに指の跡が見える。服を脱げば、もっとあざや傷があるのかもしれない。どんな生活をしているのだろうかと、ふと興味がわく。同情の混じった、興味。
 悪趣味だと、アルベルトは自分に言った。
 それきり黙って紅茶を飲み終わってから、アルベルトは、
 「明日は、朝から授業があるんだ。起きてここにいなければ、好きにしてくれ。サンドイッチくらいは作れるだろう?」
 自分の後ろにある冷蔵庫を肩越しに指差して、早口に言った。
 「授業って、アンタ、学生なのか?」
 「ああ、大学に行ってる。」
 泊まっていけと、暗に言い、学生の質素なアパートメントには、盗むものなど何もないと、さり気なく告げる。言葉の間の意味合いが、きちんと伝わったのか、少年------ジェットの表情が、少しだけゆるむ。こんな夜中に、見も知らぬ街角に、シャツ一枚で放り出されずにすむらしいと、安堵したらしかった。
 おいでと、少しだけ優しい口調で、アルベルトはジェットを寝室の方へ連れて行った。
 「知らないベッドで寝る気分じゃないかもしれないが、ここで我慢してくれ。」
 少しだけ、おどけた調子で言ってみる。
 ジェットは、促されて、アルベルトの方を見たままベッドに這い上がり、毛布の下に足を滑り込ませた。
 肩まできちんと毛布をかけてやってから、ふと、額に掌を乗せた。
 「おやすみ。」
 ジェットが、毛布を固く体に巻きつけて、ようやく正面からアルベルトを見上げる。
 「アンタは?」
 「リビングのソファも、たまには悪くない。」
 笑って見せた。
 ジェットは、額に乗ったアルベルトの手に触れ、目を閉じながら言った。
 「おやすみ。」
 ふと、その素直な口調に狼狽して、アルベルトはまたちくりと胸が痛むのを感じた。
 一呼吸置いて、ジェットが目を閉じたのを見てから、ゆっくりとベッドの傍を離れながら、
 「おやすみ、ジェット。」
 少年の名を呼んだ。
 足音を消して部屋を出て、後ろ手にきちんとドアを閉めた。
 初めての、夜だった。


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