路地裏の少年


2) 痛み

 午後遅く、重い足をひきずるようにして、アルベルトはアパートメントに帰り着いた。
 どれほど時間が経とうと、ずっと年下の学生に囲まれて、彼らのおしゃべりに耳を傾けなければならない日は、ひどく神経が疲れる。
 今日は、それでも少しだけ、胸のどこかがふくらむような気分で、階段を上がった。
 ドアには、出た時閉めたまま、鍵がかかっていて、ドアを開けながら、アルベルトは、まだいる、とふと思った。
 「おかえり。」
 開けた途端に、中から、小さな声が飛んでくる。ただいま、と思わず小さな笑顔で答えた。
 ジェットはソファに坐って、いつ起きたのか、まだくしゃくしゃの髪のまま、アルベルトの方へ首を回していた。
 「何か作って食べたのか?」
 荷物を床に置き、上着を脱いで、キッチンの椅子に掛けながら、最初にそう尋いた。
 「ミルク飲んだ。」
 シンクを見やると、白く汚れたグラスが、ひとつだけぽつんと置いてある。
 どうりでやせてるはずだと、口にはせずに思って、少しだけ眉を寄せる。
 ジェットは、寒そうにひざを胸に引き寄せ、ソファの上に、どこか居心地悪そうに、静かに坐っていた。
 ほんとうに、薄汚れた野良猫のようだと、そんなことを思う。
 目つきの鋭さは、今は少し失せているけれど、警戒心は、やはり細い肩の辺りに、まだあらわだった。
 自分が何をしているのか、アルベルトにもよくわかっていなかった。
 ここに夕べ、泊めたことさえ、ひどい非常識だと言うのに、まだジェットがここにいることを、心のどこかで何となく喜んでいる。ほんの、少しだけ。
 長い間、人に優しくすることを拒んでいたのに、一体どうしたんだろう。自問しても、答えはない。
 自分に対して苦笑をこぼしてから、アルベルトは、外から持って帰った、白い大きなプラスティックの袋を、ソファの前へ運んだ。
 「好みじゃないのは、勘弁してくれ。サイズだけは、合うはずだ。」
 ジェットは、目の前に置かれた白い袋と、アルベルトの顔を見比べて、怪訝そうな表情になる。
 「そんな格好じゃ、外にも出れないだろう。」
 夕べから着たままの、自分の白いシャツを指差して、アルベルトはうっすら笑う。
 ジェットはようやく、袋に手を伸ばした。
 がさがさと音を立ててそこから現れたのは、白いTシャツと、ジーンズ、厚いデニムの袖の長いシャツ、それから、下着と靴下。
 ジェットが、眉を寄せ、軽く頭を振った。
 アルベルトは、特に何も言わず、戸惑ったままのジェットをそこへ残し、いつもそうするように、紅茶をいれるために、キッチンへ向かう。
 背中に、ジェットの声が追って来た。
 「これ、オレのか?」
 振り向かずに、返事を返した。
 「俺には少々小さすぎると思わないか?」
 今朝、家を出る前に、ふと思いついて、ジェットがキッチンに残した服のサイズを調べた。
 どれも薄汚れていたし、何しろジーンズはきれいに切り裂かれていて、どうしたところで、服として用を為すようには見えなかった。
 小さくため息を降りこぼして、ジェットのために服を買って来ようと思ったのは、その時だった。
 明らかに、家を出て、路上で生活している子どもに、親切にするのは、ある意味では気狂い沙汰だった。家に戻ってみたら、何か盗まれていたとか、壊されていたとか、そんなことが起こって、警察に駆け込んだところで、得るものは嘲笑だけに決まっている。
 あんた、馬鹿か。ホームレスのガキを家に入れるなんて。
 それから、恐らく、下卑た視線で、歪んだ性的嗜好を勘繰られる羽目になる。
 そんなことがわかっていて、それでもなぜか、ジェットを放り出す気に、まだなれない。
 ふん、と紅茶をマグに注ぎながら、思った。
 ジェットの分にも自分の分にも、ミルクだけをたっぷりと注ぎ、無表情を整えて、アルベルトはリビングへ戻った。
 ジェットは、何とも形容詞がたい表情で、近づいてくるアルベルトを見ていた。
 新しい服を胸の前に抱え、アルベルトがマグを差し出すのと同時に、ありがとう、と伏し目に言う。
 服へのありがとうなのか、紅茶に対してなのか、どちらとも取れる、絶妙なタイミングだった。礼を言うのに困惑が必要なほど、こんなことには慣れていないのかと、アルベルトはやるせなくなる。
 まだ、子どもなのに。
 自分だって、子どもだったさ。
 アルベルトは、不意に思った。思い出したくないことが、ふと頭の後ろで疼きを増す。自分が受けた傷が、具現化して目の前にいるのだと、そんな思いに、いきなり取りつかれる。
 子ども。逆らう力のない、子ども。幼い体は、人間の扱いをされなかった。まだ、子どもだった。
 汗が、額に浮かぶ。手が細かく震えて、紅茶が少しだけこぼれた。
 ジェットが立ち上がり、マグを、アルベルトから取り上げた。
 「アンタ、大丈夫か?」
 心配そうに見上げるジェットの声に、突然また現実に引き戻され、アルベルトは我に返ったように、目の前のジェットに焦点を合わせた。
 シャツの下が、汗で冷たい。
 「ああ、大丈夫だ。」
 引きつった笑いを、それでも必死に口元に浮かべて、アルベルトは、ジェットから自分の分のマグを受け取った。
 ソファに、ふたり並んで腰を下ろし、アルベルトはようやく呼吸を整える。
 ジェットがまだ、不安げな視線で、アルベルトの横顔を見ていた。
 ゆっくりと数を数え、以前はよくそうしていたように、心を、どこか別のところへ飛ばす。突然訪れた痛みに、知らんふりをするために。久しくこんなことはなかったのにと、目の奥の、突き刺さるような痛みに、静かに耐えた。
 汗が引き、また、張りついたような無表情が戻ってくる。大丈夫だと、心の中で自分に告げた。
 ジェットに振り返って最初に、思わずジェットの髪を撫でた。
 そうせずには、いられなかった。
 ジェットが肩をすくめ、まっすぐにアルベルトを見る。瞳に、警戒の色が少しだけ浮かんだ。
 右手、とアルベルトは思った。
 ジェットの髪を思わず撫でた、自分の右手を、アルベルトはまるで、自分が殺した小動物の死体を見るように、怯えた視線で眺める。
 それでも必死に、動揺は押し隠して、さり気なくジェットから手を離す。
 黒い革手袋をはめたその手を、ジェットが不審げに見ていた。
 

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 キッチンのテーブルで、授業のノートを少しばかり読み返してから、外が薄暗くなった頃、
 「チャイニーズは、嫌いか?」
と、まだリビングでぼんやりしたままのジェットに、アルベルトは尋いた。
 何を言われたのかわからないという表情を見て、アルベルトは言葉を付け足した。
 「誰かのために食事を作るのに、慣れてないんだ。」
 組んだ足を、揺らしながら言うと、ジェットはようやく合点が行ったように、ああ、と小さく声をもらした。
 「別に、きらいじゃない。」
 ぱたんと、音を立てて、教科書を閉じる。
 「シャワーを浴びておいで。着替えて、出かけよう。」


 真新しい服は、サイズはともかく、少しばかり、体から浮いて見えた。
 ジェットは、まだ少し固い布地に、少しだけ不機嫌そうな顔をしている。照れくさいのだとわかっていたから、アルベルトは、何も言わずに笑ってみせるだけにした。
 明るい場所で見ると、体の薄さがよくわかる。あごも首筋も骨ばって、ひょろりと長い手足が、これから先の身長の伸びを予感させた。
 よけいなお世話だと思いながら、もう少しまともな食事をして、太った方がいいと、思わず言いたくなる。
 もちろん、路上で生き延びるのに、まともな食事は縁遠いに決まっているけれど。
 アパートメントの階段を下りながら、夕べと打って変わって口数の少ないジェットが、アルベルトの後ろから、
 「どこに行くんだよ?」
と訊いた。
 「どこにも行かないさ。」
 なぞなぞの答えのように、アルベルトが少し弾んだ声で言う。
 もしかして、精神異常者に拾われたのだろうかと、ジェットが訝しがり始めたのが、空気でアルベルトに伝わった。
 「ここは、チャイニーズ・レストランの上なんだ。オーナーが、このビルの持ち主で、ついでに言うと、ここの家主だ。」
 ふーんと、初めて子どもっぽい声を出す。
 階段を下り切って、右手にある扉を開け---左側には、夕べ入って来た、外への扉がある---、先に入るように、ジェットを促した。
 そこは大きなキッチンで、湯気と熱に取り巻かれ、様々な音が四方から襲いかかって来る。
 ジェットが驚いた顔で立ち尽くし、肩を押されて、ようやく足をまた進める。
 「アルベルト!」
 奥から、声がかかった。
 「勉強、終わったアルか?」
 背の低い、丸い男が、料理人の白衣で、にこやかに微笑みながら近づいて来る。
 「今日は息抜きの日だよ。たまにはいいだろう。」
 「いいことアル。おいしいもの食べて、休むこともたまには必要ネ。」
 英語を使い慣れてはいる、けれど人によっては閉口するだろう、きつい中国語なまりだった。
 目の前のジェットの肩に、左手を置いた。
 「この子に、何か食べさせてやってくれ。腹が空いてるはずだから。」
 ジェットに視線を当てて、男が目を細めた。解せない、というその瞳の色に、ジェットが少しあごを引く。
 誰だと、ジェットの頭越しに、その男が視線でアルベルトに訊いたのが、ジェットにもわかった。
 「友達だよ。」
 短く言ったアルベルトに、ジェットが、驚いたように振り返ると、今度は、白衣の男が驚いてあごを引く番だった。
 「何か、食べたいものがあるか?」
 ジェットを見下ろしてアルベルトが訊くと、ジェットは慌てたように首を振って、
 「食えれば、何でもいい。」
 その答えに、途端に男が表情を変え、大きな声で笑う。
 「わかったアル。適当にやるから、ワイにおまかせネ。」
 「頼むよ、張大人。」
 ジェットの肩を押して、アルベルトはキッチンをさらに奥へ進んだ。
 「あれが、オーナーか?」
 「ああ、そういうことだ。」
 「いいのか、オレのこと、友達なんて言って。」
 「困るのか?」
 あっさりと言ったアルベルトに、まるで鼻白んだように、ジェットが唇をとがらせる。
 「アンタ、変なやつだな。」
 アルベルトは何も言わず、うっすらと笑って見せただけだった。
 大きなドアを過ぎると、レストランのいちばん奥へ出た。
 階上のアパートメントの住人である特権で、キッチンからの出入りが許されているらしい。ジェットは肩をすくめ、居心地の悪い表情で、またアルベルトを振り返った。


 隅の、静かなテーブルで、ジェットは飢えた犬のように、出された皿を空にした。
 ナプキンを使うのももどかしげに、油とソースで汚れた口元を手の甲で拭い、まるで断食の後の修行僧のように、そのやせた体に食べ物を詰め込んでいた。
 一体、最後のまともな食事はいつだったのだろうかと、自分の食事を終えて、ジェットを眺めながらアルベルトは思う。
 最後のジャスミンティーで、口の中を洗い流して、静かに近寄って来たウエイターに、お茶のお代わりを頼み、ついでに、持って帰るために、新たに2品ほど包んでくれるように頼んだ。
 ふう、とようやく手を止め、満たされた胃袋のせいで、目の色をなごませ、ジェットがナプキンで口元を拭いた。
 「うまかった。」
 その言い方に、ひどく素直に心がこもっていて、アルベルトは思わず苦笑する。
 「大人が喜ぶよ。」
 すっかり空になった大量の皿を見れば、キッチンにいるあの男が、満面に笑みを浮かべるのが、目に見えるようだった。
 椅子に深く体を埋めて、向かい合っているアルベルトから、少し距離を取ると、ジェットが、低い声で言った。
 「アンタ、ここにはよく来るのか?」
 考えるように、眉を少し上げ、それから、たまにな、とアルベルトは答えた。
 「ひとりで?」
 切り込むように、ジェットが重ねて尋いた。
 また、挑むような視線に戻っている。うそを言うなと、その目が言っていた。
 正直になることは、時折傷つくことでもある。真実を語るのには、勇気がいる。こんな子どもに見透かされるほど、孤独な表情をしているのだろうかと、アルベルトはおかしくなる。
 「ああ。誰かと一緒に来たのは、これが初めてだ。」
 アルベルトの答えを吟味するように、ジェットがすっと目を細めた。
 ひとりの食事。ひとりの時間。ひとりの眠り。誰かと共有したことなど、もう、久しくない。長い長い間。
 ジェットが恐らく困惑しているだろう以上に、アルベルトは戸惑っている。
 自分が何をしているのか、よくわからない。今まで、いつだって自分の行動を、きちんと客観的に把握していたと言うのに。少なくとも、そう信じてきたのに。自分を守るために、自分のしていることを、知っていなければならなかったから。
 いきなり、自分の静かな、孤独な世界に飛び込んできたこの少年を、どうしてなのか、引き止めておきたいと、微かに思う自分がいる。
 自分の中に、踏み込ませてしまったばかりか、そこにとどまることさえ、許してしまいそうな気がする。
 もし、少年が、そう望むなら。
 自分の傷口を、広げているだけなのにと、アルベルトは思った。
 まだ、皮膚の薄い傷跡は、触れるだけでまたぱっくりと開き、血を吹き出す。そこに触れてはいけないことを、アルベルトは知っている。けれど、他人は知らない。傷と傷跡を隠して生きながら、触れられないために、アルベルトはあらゆる人間を避けていた。弱々しい自分を、守るために。
 ジェットが、あの頃の自分と重なってしまうのは、年齢のせいだけではないのだろう。
 似たような傷つき方をしているのだとわかるから、そんな、匂いがするから、踏みにじられた同士が、まるでひ弱な肩を寄せ合うように、傷を舐め合いたいのだと、自分でわかっている。
 いやな傾向だ。アルベルトはひとりごちた。
 抱え込んでいる傷のために、誰かにすがりたくはなかった。ことに、同種の人間には。
 すがらずに、今まで、ひとりで生きてきたのに。
 ウエイターが、大きな紙の包みをテーブルに運んで来た。
 ふと我に返り、作った笑いを振り向ける。
 冷たい思念を、片隅に追いやって、らしくもなく、なるようになるさと、軽く思った。
 ジェットを促して立ち上がり、ふたりはまた、レストランのいちばん奥の、キッチンへ通じる扉へ向かった。
 「明日は、ひとりでもちゃんと食べてくれよ。夕方までには戻るから。」
 紙の袋を示して言うと、ジェットが、驚いた顔をする。
 「・・・明日も、いてもいいのか?」
 立ち止まり、振り返って、ジェットを真っ直ぐ見て、アルベルトは言った。
 「言ったろう、子どもをひとりで放り出すほど、非常識じゃないって。」
 ジェットの手が、アルベルトの、トレンチコートの腰の辺りをつかんだ。
 夕べ、ジェットの体を覆った、黒いコート。
 「あ・・・ありがとう。」
 習ったばかりの外国語を発音するように、ジェットはその言葉を口にした。アルベルトを、戸惑いながら、それでも真っ直ぐ見上げて。
 帰ろう、と言って、アルベルトはジェットの肩を引き寄せた。
 2日目の、夜だった。