〜 More Than Words 〜

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みの字

 髪を切ってくれと、ハインリヒが言った。
 もうその準備を整えて、珍しく首や腕の出るシャツだけを着て、体を覆うつもりらしい大きなタオルは、キッチンの椅子の背にすでに掛けてある。
 差し出された細身のはさみは、髪を切る専用のものではないようだけれど、銀色に光る刃が、きちんと役目を果たしてくれそうだった。
 ああ、とジェロニモはうなずいて、はさみを受け取って、ふたり揃って裏庭へ出た。
 風もない、天気の良い日だ。こんなことには確かにふさわしい日だった。
 ハインリヒが、ジェロニモに背を向けて軽くうつむく。そう言えば、こんな風にうなじを眺めるのは初めてかもしれない。
 そこから、後ろ髪をすくい取るように、ジェロニモは太い指を差し入れる。細くて柔らかい髪は、人工のものとも思えない確かな触感で、少し乱暴に扱えばすぐにぐしゃぐしゃに絡まって、指の中で切れてしまいそうだ。
 「どうせ向こうに行けば全部刈られるんだ。適当に切っちまってくれ。」
 何気なく言うその言葉が、ジェロニモの胸に突き刺さった。まるでそれに対する答えのように、ジェロニモは指の間に挟んだ銀色の髪にあっさりと最初の刃を入れる。
 じゃきりと音と手応えを返して、切られて主から離れた髪が、はらりと肩回りへ巻いたタオルの上に落ちる。明るい日差しの下、白いタオル生地の上で、切られたハインリヒの髪はよく目を凝らさなければ見えない。
 またひと房、指先に取って切る。何となく長さを揃えながら、言われた通り手つきは適当だ。
SHIMA
 ドイツへ戻って、何とか言う組織へ入れば、あれこれの規則で髪も服装も向こうの言う通りにされてしまうのだろう。そうして変わってしまうハインリヒを、見分けられるだろうかとジェロニモは思った。
 手の動きは止めず、声も掛けず、じゃきじゃきと髪を切り落とし、それでも指に絡むこの髪の感触を、絶対に忘れたくないと、ほとんど血を吐くように考える自分がいる。ジェロニモは、その一切を表情には出さず、次第にあらわになるハインリヒのうなじや首筋の線を、ただ眺めている。
 絡めようと思えば指に充分巻き取れる長さの柔らかな髪が、少しずつ短くなってゆく。ベッドの中や自分の服に、本人が去った後も残ることのあった銀色のひと筋の、それを見つけるたび心のどこかに火のともるような気分を味わったことを、ジェロニモは決して忘れてはいない。
 なぜ、とまた思う。理由は誰の目にも明らかだ。だがなぜ、とジェロニモはまた考える。
 祖国へ帰るのだ、おかしなことはひとつもない。けれどその帰る先が、軍隊まがいの場所と言うのは、一体どういうことなのだろう。軍隊ではないと説明はされた。それはジェロニモ個人に対してではなかったから、ジェロニモはギルモアとイワンからの報告の場にいながら、ジェロニモはもうハインリヒがここから姿を消すのだと言われた瞬間に、残りの説明を理解することを拒否していた。
 いなくなるのはハインリヒが初めてではない。最初はジェットだった。それからグレートが去った。ピュンマは色んなことに嫌気が差したと背中にだけ言わせて、大学へ戻ると去って行った。
 そしてついにハインリヒだ。なぜ、と問う必要すらないほど、他の皆には明らかな成り行きだったけれど、ジェロニモだけは心のどこかで、ハインリヒは祖国の政府や情報機関へ関わることはないだろうと思い込んでいた。
 全身兵器である自分を忌み嫌い、どこか戦いを楽しむ風なところが伺えるにせよ、ハインリヒがそんな自分を嫌悪していたことを、ジェロニモは思い知っている。
 それなのに、なぜ。
 髪を切る手はこめかみの辺りへ移動し、そこから前髪へ掛かり始めていた。
 芝生の上に、切った髪が散らばっている。ジェロニモの靴の先にも、きらきらと落ちた髪が光っているのが見える。その髪を落としたり踏んだりしないように何となく気をつけながら、ジェロニモはハインリヒの正面へ体の位置を動かした。
 髪に触れる指先に、切った髪が少し残ったままだ。その指先のまま、ジェロニモはさり気なく自分の頭に触れた。
 この男を引き止める理由が、あるともないとも決められず、ジェロニモはすでに、ひと房ひと房切り取られて短くなるこの髪が、ハインリヒを自分から遠ざけているのだと気づいている。
 ハインリヒは、こうやって別人になってゆく。00ナンバーのサイボーグではなく、ドイツの、どこかの機関に所属する軍人──厳密には違うとイワンは言うけれど、ジェロニモにとっては同じものとしか思えない──になるために、その準備のために、ジェロニモが今、ハインリヒの髪を切っている。
 切り終わったら、すべてが終わるのだと思った。だからハインリヒは、ジェロニモに自分の髪を切らせているのだ。
 前髪をほぼ切り終わって、そしてまた指先につまんだ髪を切ろうとした刃が、少し深く入り過ぎていた。刃先が指先に当たっていると思うまま、気づけば髪も皮膚の表面も一緒に切ってしまっていた。
 まさかこんなはさみで人工皮膚が切り裂けるとは思わず、ジェロニモは思わず痛みの走った指を自分へ引きつけ、傷口を眺める。小さな小さな切り傷から、赤い人工血液が、丸い玉になって盛り上がって来る。
 「おい、大丈夫か。」
 上向いて、椅子から立ち上がりそうにハインリヒが声を掛けた。
 ジェロニモは心配ないと首を振って見せ、その指を口に含む。舐め取った血と一緒に、そこにあったハインリヒの髪が舌先へ乗って来て、ジェロニモは一瞬、耐えていたものが堰を切ってあふれそうになるのに、歯を食い縛って耐えた。
 舌先へ取り上げた髪を、歯列の間でこっそりと噛む。唇の裏にも当たるその、頼りないくせに確かな感触に、もっと別のものを思い出しかけたけれど、それを振り払って、必死で無表情を保った後で、また髪を切る作業へ手を戻した。
 ハインリヒが、上目にジェロニモを見た。前髪が短くなると、水色の目がその表情を隠さなくなる。ハインリヒの、意外な、どこか物言いたげに思いつめたような瞳の色に気づいて、何か言うべきかと迷う気持ちのまま、ジェロニモはまたひと房、じゃきりとハインリヒの髪を切り落とす。
 「お前さんは──」
 「おれは──」
 声は、同時だった。けれど相手に先を促すように、そこで途切れたままふたりは黙り込み、続く言葉を探す様子さえ消え失せて、あてもなく互いから視線をそらした後で、こぼれた髪が、陽射しを集めてきらきらと落ちてゆくのを、その時ふたりは一緒にただ見つめるだけだった。
 言わなかった言葉を、この後どれほど長く後悔することになるのか、ふたりはまだ知らないままだった。

************

マリ

「ピュンマは?」
「どこかに消えちまった…。」
 ――それが、27年ぶりにふたりの交わした、情だった。



「ジョーは死んだのか…!」

 絶望し足元のふらつく老人の肩を、ジェロニモは慌てて後ろから支えた。このところ立て続けに事態が急展開しすぎる。ギルモア博士からの召集に、日本でのジョーの覚醒、しかもそのジョーは自爆テロを計画していたと告白。そしてジェットの暴走とついには核ミサイル…。さすがのジェロニモも、自分が今どこにいるのかを見失いつつあった。その騒ぎの只中に現われたハインリヒ。動揺するなという方が無理だった。

 それで、思わず口を突いて出てしまったのが先の言葉だった。ハインリヒの返した言葉もそれに対応した、至極真っ当なものだった。違う、とジェロニモは思った。ハインリヒに再会するときは、もっと違う言葉を掛けるつもりでいたのだ。それは、つい先刻まではジェロニモの頭の中をしっかりと占めていたはずなのに、ハインリヒを目の当たりにした今となっては、すでに思い出せなくなっていた。

 壁一面に切られたモニターの中に浮かび上がる、キノコ雲にもうもうと包まれた、かつてドバイの街並であったモノと、点滅するレッドアラートを背にして、まず張々湖が中国での単独任務の報告を行い、続けてハインリヒがピュンマの失踪の経緯(いきさつ)を説明している。

 ジェロニモは低いが良く通るハインリヒの声に耳を傾けながら、モニターとハインリヒの顔とを交互に見比べるが、ハインリヒはピュンマの残した写真を凝視したまま、ジェロニモの方を一向に見ようとはしなかった。

 ドバイ騒ぎののち、一旦休憩を兼ねて散会となった。メンバーはそれぞれの思いを秘めて司令室をあとにする。廊下へ出て張々湖と雑談をしながら歩いていたハインリヒを、最後に出てきたジェロニモは思わず呼び止めた。

「ハインリヒ…。」

 自分の名前を呼ばれて振り返ったハインリヒの顔を見て、ジェロニモの人工心臓の鼓動がー拍ぶん、跳ね上がった。努めて冷静を装いながら、ジェロニモはハインリヒへ歩み寄る。自分を見上げるハインリヒのごく薄い、懐かしい、氷色の目が近付く。

「じゃ、ワテは引き取らせてもらうアル。さすがに暴れて疲れたアルからね。」
「あぁ、ゆっくり休んでくれ、大人(たいじん)。」

 張々湖にねぎらいの言葉を掛けながら見送るハインリヒの後ろ姿を、ジェロニモは目にした。見慣れない、黒革のライダーズジャケットを着込み、カジュアルなカーキのズボンにローファーの革靴と、昔では考えられなかった出で立ちに身を包んだハインリヒを、それでも司令室へ入ってきた瞬間に、ジェロニモは彼と気付いた。この男を見間違うのでは…などとなぜ自分は恐れていたのだろうか?

 その短く刈り込んだ後ろ髪も、昔自分がはさみを入れた、そのままの形を保っているように見えた。あれからもう30年近くの歳月が流れたというのに、まるで昨日の事のように鮮明に蘇る。この銀髪の柔らかな手触りさえ、まだ自分の指先に残っているようだ。振り返ったハインリヒの前髪も、記憶のままの姿を留めていた。ハインリヒに目顔でまだ何か、と促されて、ジェロニモはからからに乾いた口の中で舌先をようやく動かし、息を押し出すように口を開いた。

「君はピュンマと一緒にここに来ると聞いていたが。」
「…そうだ。」
「ではなぜ大人(たいじん)と?」
「ピュンマを捜し回った挙句、一旦先に研究所入りしようとしたら、たまたま鉢合わせただけだ。…なぜそんな事を訊く?」

 ハインリヒはジェロニモの言を聞くなり、眉間に皺を寄せ不快の色を隠そうともせず、逆にジェロニモに詰問した。それはまさに、彼がこの27年間そうしていただろう、振る舞いを容易く想像させた。きっとこうして、自分を鎧ってきたのに違いない。それはハインリヒの元々持っていた性質ではあったが、ここへ至ってますます色を濃くしているような気がして、ジェロニモもそれ以上は言い募れなくなった。

 ギルモア財団の輸送機を日本からドイツへ経由させて、ハインリヒを拾って行ってはどうかと提案したのはジェロニモだった。それは武器弾薬の多いハインリヒの移動を気遣ったつもりだったのだが、当の本人にキッパリと却下された。彼の祖国の後押しがあるから、というのがその理由だった。

 それにしては、覚醒したジョーを連れてギルモア研究所へ着いた時点でも、ハインリヒの姿はまだ無かった。とっくにイスタンブール入りしているらしいのに、わざわざピュンマと合流してから来るという。なぜそんなまだるっこしい真似をするのか。こと戦略や戦術に関しては、私情を抜きにして冷徹ともいえるほどに合理的な判断を下すハインリヒにしては、珍しい事態だった。

 思わず歩を進めてハインリヒに詰め寄るのへ、ハインリヒも一歩後退する。ジェロニモがまた一歩踏み出せば、ハインリヒもまた下がる。その距離は一向に縮まらない。とうとうハインリヒが廊下の壁際に追い詰められ、その歩みが止まった。しかし今度はジェロニモの方が、縫い止められたようにそれ以上足を進める事ができなくなってしまった。

 自分の影になって明度の落ちたハインリヒの姿の中で、銀色の髪と氷色の瞳だけが、綺羅綺羅と光を放っていた。その光にわずかなめまいすら覚えながら、ジェロニモも立ち尽くす。ハインリヒもターゲットアイの焦点をジェロニモに絞ったまま、やはり彫像のように動かない。

 数十年ぶりにまみえた、この死神が、今は手を伸ばせば届く所に居るのだ。それをどうしても確かめたくなったのか、ジェロニモは無意識に右腕を上げ、右手の太い指には似つかわしくない、繊細な動きで、つと、ハインリヒの左頬に触れた。そのまま掌を左耳へ添わせ、指を耳の後ろへ這わせる。くしゃくしゃと音のしそうに、ハインリヒの短い後ろ髪がジェロニモの指先をなぞった。ハインリヒは逆らわずにジェロニモの指の動くままに任せている。

「この髪…、」
「あぁ。」

SHIMA
 その一瞬、ハインリヒの瞳がやわらいだ気がしたが、次の瞬間にはそれは、冷たい光沢を放つ無機質なターゲットアイに戻っていた。

「着任早々、新入りは丸刈りが規則だと言われたんだがな。このまま押し通してやったさ。それくらいなら、連中も手出しはできん。冷戦時代の遺物で祖国の厄介者とはいえ、自分の居場所は自分で確保しないと、な。」
「君の居場所?」
「そうだ。俺の居場所…。」

 ハインリヒの氷色の瞳と、ジェロニモの深い琥珀色の瞳が、今度こそ、真っ直ぐに絡み合う。その突き刺すような視線にさらされて、ジェロニモは唐突に、ハインリヒの熱を思い出した。この、表面は凍り付いたように冷たい男の、その実、燃えたぎるような熱い情けを。かっと肌が火照り、刺青が浮き出しそうになるのを、ジェロニモはあるだけの意志の力をかき集めて、なんとか抑え込んだ。

「お前はどうなんだ?居場所は見付けられたのか?」
「私は…。」

 ジェロニモは00ナンバーズの解散後、やはり一旦祖国へ戻り、自然保護活動に従事した。植物の生態系を管理したり、そこで生きる野生動物を保護する仕事は、やりがいも有り、自分に合っているとも実感できた。――だが、果たしてそれは、本当に、そうだったろうか?

 1.16を皮切りに同時多発テロが起こったときに、真っ先にギルモアから召集が掛かり、ジェロニモはそれを快諾した。自分が財団の役に立てるならという思いはもちろんあったが、何より仲間にいち早く会えるという期待が無かったといえば嘘になる。しかし、彼が最も再会を望んだ仲間――その表現にジェロニモ自身はしっくり来ないが、他に何と呼べば良いのかも分からない――は、皮肉にも最後にやって来た。

「私の居場所は、ここだ。」
「…そうだな。博士もイワンも、もちろんフランソワーズも、お前を頼りにしているのはよく分かる。これから忙しくなるぞ。俺からも頼む。皆のために、存分に働いてやってくれ。」

 それだけ吐き捨てると、ハインリヒはジェロニモの腕(かいな)の下をくぐり抜けるように、素早く身を躍らせた。ジェロニモはそれ以上ハインリヒを追う事もできずに、やや背を丸めた後ろ姿が廊下の彼方へ消え去るのを、ただ黙って見詰めた。その右手に残る、ハインリヒの髪と肌の感触を、ジェロニモはいつまでも確かめていた。

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 次第に足取りが速くなる。
 当たり前だ、とハインリヒは自分に言い聞かせた。今は非常時なのだ。昔の感傷に浸っている暇はない ――。
 靴の底を床に叩きつけるようにして歩いていく。用意された個室で30分ほど仮眠をとったら、次の作戦会議までに、ピュンマのファイルをじっくり読み込んでおくつもりだった。
 恐らく、ピュンマが発見したという未確認生物の化石が全ての発端となっている。その化石の発掘現場で働く人々が口々に訴えたという一種の神秘体験と、この一カ月の間に世界中で発生した連続同時多発テロ事件の容疑者達が取り調べで口にした現象が、あまりにも酷似しているのだ。彼らの誰もが、何者かの声を聞いていた。人類を“やり直す”ための戦いに参加せよ、と告げた、その声に従って、ある者はビルを爆破し、ある者は人口200万都市の上空で核爆弾を投下した。結果として、多くの命が失われた。
 ――この世界には、やり直せないこともあるということを、彼らは知らなかったのだろうか。
 ふと、ハインリヒはドアの前で立ち止まる。ジェロニモが追ってきたような気がしたのだ。ドアノブに手を掛けたまま振り向いたが、静まり返った空間には、誰もいなかった。
 薄い口元を軽く引き結ぶようにして、ハインリヒは視線を戻す。
 通路で、思いつめた顔つきのジェロニモに呼び止められたのは、たった今だ。
 何も言わずに伸びてきた腕を、ハインリヒは拒まなかった。ジェロニモも、昔のことを思い出しているのだと悟ったからだ。髪をいじる手つきは、相変わらず優しかった。けれども、それ以上、先へ進む気は、ハインリヒにはない。互いに目と目が合うだけで、相手をベッドに連れ込むことしか考えられなかったような時代は、もう過ぎ去った。強引に終わりにしたのは、ハインリヒの方だ。短い間のことだったが、忘れるには思っていたよりも長い時間が必要だった。
 あれからジェロニモが、人生のほとんどをギルモア研究所で過ごしてきたことを、ハインリヒは知っている。久しぶりに感じるジェロニモの視線は、穏やかな輝きに満ちていた。言葉遣いも以前より洗練されて、常に周囲から必要とされる場所で生きてきた男の落ち着きと自信が、静かな物腰に溢れていた。
 込み上げてきた自嘲を、今度はやり過ごす事が出来ず、はっきりとハインリヒは端正な顔を歪める。
 分かっていたはずなのに。
 自分とジェロニモは違う種類の人間だ。
 暗い室内へ大股に踏み込んで、後ろ手にドアを閉めた。手の中の青いファイルを持ち直す。革のジャケットを着たままで、マットレスが剥き出しになったベッドに腰掛けた。足を組み、無意識に顔の左側に手をあてる。つい数分ほど前に、ジェロニモの指が、触れたところだ。灯りも点けずに、ハインリヒは白い瞼を伏せると、ピュンマらしい律儀な筆跡を目で追った。




 「…ピュンマは、“彼の声”とは何だ、と問いただした。すると彼らは、こう答えた…。」
 がらんとした地下礼拝堂に、張り詰めたハインリヒの声が、よく通る。
 ドバイの壊滅後、半日余りが経過したが、依然として状況は変わらなかった。連鎖を続ける同時多発テロの恐怖に、世界中が竦み上がっている。得体の知れない敵を前にして、9名の元ゼロゼロナンバーサイボーグの内、1人が招集を拒み、3人が行方不明という異常事態の発生の下、作戦会議というよりもレクチャーに近い形式で、淡々とハインリヒが“彼の声”に関する分析を進めていく。誰もが困惑を隠せない中で、この男だけは、どこか傍観者めいた態度を崩さずにいることが、皮肉にも残りのサイボーグ達にとっては救いのように感じられた。
 ジェロニモにとっても、それは同じことだ。淀みなく流れてくるハインリヒの声は、それ自体が精神安定剤のようだった。
 昔から、ハインリヒの声が好きだ。高くも低くもなく、コップの縁ぎりぎりまで注がれた水面のように、微妙な力具合で支えられている。
 ピュンマの残していった記録について、ジェロニモが感じた疑問は一つだけだ。
 “彼”とは、一体何者なのか――。
 自らを滅ぼせ、と告げるような存在を、少なくとも自分は、神とは呼ばない。
 「君たちの神というのは…」
 ジェロニモが慎重に最後の問いを口にしようとした、まさにその時だった。

 施設内のどこかで遠く、爆発音が響き渡った。

 息を呑んだ全員の耳に、今度は不気味な爆音が飛び込んでくる。
 「なんだ、あれは…!」
 「攻撃アルか!?」
色めき立つハインリヒと張々湖を尻目に
 「馬鹿な!…この研究所を攻撃するなど、一体、どこの誰が…」
ギルモア博士がよろよろと腰を浮かせようとする。素早く老人を支えるようにして、ジェロニモも立ち上がった。何かとてつもないことが起こりかけているということだけは分かった。自分達に攻撃の手が及んでくるということは想定外だったが。
 「V-22OSP型軍用ヘリよ…!6機…いえ、少なくとも8機が接近してくるわ!」
 「米軍所有のモデルだね!」
 フランソワーズの叫びに、イワンが鋭く反応する。
 「博士とイワンを司令室に…急ごう、フランソワーズ!」
片手にイワンを抱え、もう一方の手でギルモア博士を助け起こすと、ジェロニモは俊敏に巨体の向きを変えた。フランソワーズがヒールの踵を踏み鳴らして後に続く。
 「いくアルよ!ハインリヒ!!」
 「おう!」
 張々湖に不敵な笑みを投げ返すと、ハインリヒも駈け出した。



 地下通路を走り抜けて階上に躍り出た瞬間に、もう戦闘は始まっていた。
 敵兵が矢継ぎ早に撃ってくる。戦闘用サイボーグの研ぎ澄まされた本能で、ハインリヒは難なく銃撃を避けると、身をひるがえして死角に飛び込んだ。体勢を低くして右手を口元に持っていくなり、ギッと革手袋の指先を歯で食い締めて、引っ張りざま脱ぎ捨てた。
 マシンガンの銃口を装備した四本の指が露わになる。
 こいつらを使うのは久しぶりだ――。
 人工のアドレナリンが、全身兵器と化したハインリヒの体内を駆け巡る。
 「ハインリヒ!」
 太い声で呼びかけられて、勢いよく振り返った。
 やはり、ジェロニモだった。司令室に博士たちを送り届けた後、急いで駆け戻って来ただろうに、息一つ乱していない。両腕に予備の弾薬や手榴弾の詰まった大型バッグを抱え込んでいる。真横に膝をついた巨人を見上げて、ハインリヒは小さくうなずいた。ねぎらいも感謝の言葉も一切必要なかった。二人の間は、それで充分だったのだ。
 一瞬、ハインリヒを見つめ返した後で、ジェロニモが冷静な面持ちに立ち返る。
 「私は、上からの敵を食い止める。ここは君たちに…!」
最後まで、ハインリヒはジェロニモに言わせなかった。咄嗟にマシンガンではない方の腕を伸ばし、ジェロニモの大きな頭を抱え込む。
「気をつけて行け…!」
乱れた黒髪に、唇を押しつけるようにして口走った。
 言いたいことは、それだけだった。
SHIMA