〜 More Than Words 〜
B (最終話)
*イラストは画像クリックで原寸ページに飛びます。
*反転で担当部分のHNが出ます。
*後半、少しだけ肌色注意。
みの字
再びイワンに呼び戻され、恐ろしいほど静かなフランソワーズの肩を抱くようにして、ハインリヒたちの再び現れたそこには、イワンを抱いた張々湖の姿しかなかった。
「ギルモア博士は?」
感情のこもらない声でフランソワーズが訊く。
「部屋の辺りは無事だったアルからそこで寝てるアルね。疲れた言っテ──」
「そう。」
空ろなフランソワーズの表情と声に、張々湖はひたすら気まずそうに、丸い唇を掛ける言葉も見つからないまま短く引き締める。
肩に掛かったままだったハインリヒの腕からすり抜けるように、フランソワーズは横開きのドアの方へ半歩動いた。
「ギルモア博士の様子を見て来るわ。着替えて、シャワーも浴びたいし。居住エリアの水や電気は無事かしら。」
「それは大丈夫アルね。後でお茶でも持って行くヨ、フランソワーズ。」
「ありがとう、張大人。」
歩き出しながら髪を払い、その拍子に触れたマフラーへ向かって、フランソワーズがちらりと視線を流した。一瞬、その瞳の上を駆けるように走った痛々しい色をふたりは見逃さずに、同時にそこから目をそらす。その間に、もう動揺などちらりと交ざらない足取りで、フランソワーズはモニタだらけの指令室を出て行った。
フランソワーズの足音が遠ざかってから、ハインリヒは張々湖に向き直った。
「ここの状況は?」
「地上部分は大分やられてるアルね。でも地下はそれほどでもないアルヨ。残ってるのは我々だけで、無事な人たちは全員避難したネ。」
そうか、と吐く息と一緒につぶやいて、ハインリヒは張々湖の傍へ寄ると、その腕に抱えられたイワンの頭に左手をそっと乗せる。
力を使い過ぎたからか、超能力ベイビーはおしゃぶりをくわえたまま眠っている。
「すぐ起きるから、イワン、眠る前にそう言ったネ。」
「・・・まだやるべきことが山ほど残ってるってわけか。」
「どうやらそのようアルね、ハインリヒ。」
張々湖も、その時だけは憂鬱を隠さずに答える。
それから、イワンを抱いているはずの男の姿を求めて、ハインリヒは今は何も映っていないモニタの方へ視線を流し、張々湖からはわざと視線を外したまま、何気ない様子で訊いた。
「ジェロニモはどこだ。」
建物の規模から考えれば、今はほぼ無人状態のここで、聞こえるのはジェロニモが敵サイボーグの残骸を片付けている物音だけだった。
張々湖がそうだったように、ジェロニモももう防護服から着替えて、白いシャツが煤や機械油で汚れるのも構わないように、今ではがらくたでしかない砕けたサイボーグたちを、長い廊下の片隅に黙々と集めて積み上げている。
「大した数だな。」
それがもうただの金属片ではあっても、決して粗末にもぞんざいにも扱わないジェロニモの手つきを見習って、ハインリヒも彼らを蹴ったり踏みつけたりはせず、床のわずかな隙間へブーツの爪先を滑り込ませるようにして、ジェロニモの丸まった大きな背中へ近づいて行った。
ジェロニモが肩越しにその声へ振り返り、そうして、防護服の赤さへでも驚いたように、濃い茶色の目を細めた。
「地下部分は無事だそうだな。上からの侵入を防げたお陰だな。」
ジェロニモはまだ、そこに立っているハインリヒの防護服姿をじっと眺めていた。もう二度と見ることはないかと思っていた姿だ。こうやって見れば、何も変わってはいないのだと思い込みそうになる。いや、実際に、本当は何も変わってはいないのかもしれない。ハインリヒが振り向きもせず前へ飛び出し、ジェロニモがその背を守る。いつもそうだった。今度もそうだった。これからもそうだろうと、信じてしまいたくなるのを、ジェロニモは何とか押しとどめて、また敵たちの残骸へ向かって膝を折る。
「ここは、私が守ると言った。」
素っ気なく伝えたのが、多分依怙地に聞こえるだろうと思ったそのまま、ハインリヒが、見慣れた苦笑の形に唇を曲げる。それから、自分も膝を折って両手に残骸を取り上げ、ジェロニモへ近寄ると、すでに積まれた壁際の小さな山へそれを乗せる。
「ああ、そうだな。」
互いに真っ直ぐ掛けるねぎらいの言葉が、今はどうしても口から出て来ない。ジョーとジェットを失い、グレートとピュンマは行方知れずのまま、あまりに甚大な犠牲の後では、自分たちが生き残ったことを素直に喜ぶ気にはなれないのはふたり一緒だった。
腕の長さ半分の距離にやっと体を近寄せて、ふたりはそれきり無言で、作業の手も止めてしまっている。言いたいことは山ほどある。不謹慎だと思っても、相手の無事を喜ぶ気持ちがあふれそうで、何か、この状況に見合った言い方はないかと、必死で探している。
ジェロニモは普段の寡黙さを言い訳にしてかどうか、先に口を開いたのはやはりハインリヒの方だった。
「お前が、無事で良かった。」
言ってからすぐに、また足元へ身をかがめてまだ散らばった金属片を拾う。顔を隠して、その自分の姿をジェロニモがじっと見つめているのを感じながら、ハインリヒはその姿勢を数拍続けた。
体を起こす。残骸の山へ向き合う。ジェロニモも視線を壁際へ据え、前を向いたまま、ぼそりと同じことを言った。
「君もだ。」
また手が止まる。ふたりが動かなければ、地の底かと思うように、辺りには物音がない。その静けさを破るのを恐れるように、ふたりの声は自然に低まっていた。
「・・・お互い、悪運だけは強いらしいな、相変わらず。」
今の状況に決してふさわしい言い方ではなかった。他の誰かがそう言ったなら、すぐさま単なる軽率と取っただろう。けれどハインリヒが言うからこそ、結局は無力なまま、だからこそ生き残ったのだと言う皮肉な響きをきちんと聞き取って、ジェロニモはその部分に対して素直に賛同していた。
こんな風に、変わらず気持ちは通じてしまう。ハインリヒのことなら、自分の掌でも眺めるように理解(わか)ってしまう。そう思うことが傲慢だとは、今はなぜか感じなかった。
ジェロニモはやっと自分の左側へ顔を向けて、ハインリヒを見下ろした。
目の前へ視線を置いて、けれど何も見ていないように、ハインリヒの瞳は透明に見えた。ジョーを目の前で見送る羽目になったハインリヒの方が、その分深く傷ついているだろうことは容易に想像がつく。簡単にそれを慰める言葉などどこにもなく、今はその肩を抱き寄せる勇気も、ジェロニモにはない。
揃わない肩をただ並べて、ふたりは上と下で顔だけでやっと向き合って、けれどそれ以上は互いに近づけない。
「ひと休みしたらどうだ。張大人が後でフランソワーズにお茶を淹れるそうだ。俺たちも便乗するか。」
むしろハインリヒの方がジェロニモをいたわるように、できるだけ軽い口調でそう提案する。
できるだけ何気ない風に振る舞って、起こったことへとらわれるのは後にしたい。とらわれて、身動きできなくなる前に、どうしても伝えておきたいことがある。仲間を失って、それを慰め合うのに、どうしてためらわなければならないのだろう。
慰め合いが目的ではないからだ。それは単なる口実に過ぎない。ふたりが求めているのは、離れ離れだった時間を、一緒に飛び越えることだった。またあの頃に戻れるのか。あるいは一体、本心から、戻りたいと思っているのか。
また今こうして、肩を並べている。腕を伸ばせば抱き合える近さに、互いの傍にいる。そして口には出せずに、宇宙の彼方へ消え去ってしまったのが互いでなくて良かったと、心のどこかで考えている。そしてそう考えることを、卑怯だと感じられる程度に、ふたりはようするに真っ当な人間──ひとの心を持ち続けたままの、人間──だった。
それは、さらなる改造を拒んだハインリヒだったからこそなのか、その己れのひとらしさをただ抱え込み続けることができず、あふれそうなそれをもう閉じ込めておくことができず、また先に動いたのは、やはりハインリヒの方だった。
ジェロニモの方へ体全部で向き直り、出し抜けにその大きな手を取った。汚れているその手へ、ふっと小さく笑みをこぼして、
「相変わらずだな、お前さんは。」
体を動かして、汚れ作業を厭わないこの大男が、ほんとうに無事に生き延びたのだと、ハインリヒはこの時初めて心底実感した。煤と機械油に汚れたその指先を、マシンガンの右手に取って、そうして突然、そこから腕へ向かって真っ赤な線が走り始めたのを見た。
浅黒い膚を這い上がる線を追って、ごく自然にジェロニモを正面から見つめる羽目になって、覚えているそれとは色の違う、けれど見慣れた線に彩られたジェロニモの顔に、一瞬で時間が消える。
ハインリヒはほとんど衝動的にジェロニモの手を離し、それからジェロニモの両頬へ手を掛けて自分の方へ引き寄せていた。下目に、不意の近さに耐え切れずに目を閉じて、額と額を合わせると、皮膚のあたたかさと髪の冷たさの両方に、ハインリヒの中で耐えていた何かが切れた。
「・・・軽蔑してくれてもいい、お前さんが無事かどうか、心配だったのはそれだけだった。」
近々と迫ったハインリヒの鼻筋や唇の線──今は震えている──に向かって目を細め、ジェロニモはハインリヒの腕に手を掛けて、そして、まったく同じことを口にしようと、まだためらう唇を動かそうとした。
「それはお──」
──ミンナ、準備ヲシテ。ミンナガマタ一緒ニナルタメニ、ふらんそわーずガソウ望ンダ通リニ、僕ラハマタ一緒ニ集マルンダ。
ジェロニモの言葉を断ち切ってふたりの脳へなだれ込んで来たのは、イワンの思念だった。
──準備ヲシテ!早ク! モウ時間ガナイ。ふらんそわーずト一緒ニ行クンダ。
同じことが繰り返されるテレパシーは、ほとんど頭の後ろを殴られでもしたような衝撃をふたりに伝えて来て、見えるはずもない発信先を見つけるためのように、ふたりは天井の辺りを同時に見上げた。
そうして、ふたりの視界は四角く切り取られて砂嵐に埋もれ、ぷつんとすべての音が遮断される。
足元が消え失せた感触の中に落ち込みながら、ふたりはごく自然に右手と左手を繋ぎ合っていた。
************
マリ
「良く戻って来てくれた。君達の活躍に感謝する。」
それはギルモア博士から発せられた言葉だったが、サイボーグ戦士達の心からの声であり、また互いへ贈られた祝辞でもあった――。
――あるいは、これが“彼の声”だったのか?これこそが、“彼”の望んだ事だったのだろうか?
ハインリヒは目の前で手を握り合うギルモア博士とジェットを眺めながら、傍らの、イワンを片手で抱いたジェロニモの、空いている手の側へそっと寄り添い、そんなことをぼんやりと考えていた。
ギルモア研究所の地下で唐突に響いてきたイワンのテレパシーの後、二人が再び足元を踏みしめた先は――手と手はしっかり繋いだままだった――“アドリア海の女王”と称えられる水の都の、“世界で最も美しい”広場だった。
それからは夢のようだった。
フランソワーズはジョーに付きっきりで、必要な物を調達する以外には、セーフハウスにこもりきりだった。ジェットにグレート、ピュンマも、この状況に戸惑いつつも、思い思いに過ごしていた。
宇宙で“彼の声”に抗ったジョーとジェットはもちろん、“彼の声”に導かれた――本当の所は本人達にも見当が付かない――グレートやピュンマも、ギルモア博士のメディカルチェックの結果、異状無しとのデータが弾き出された。その後、当分の間様子を見るという前提で、00ナンバーズは数十年ぶりに、空間と時間とを共有していた。
奇しくも、イワンの予言が成就された形となったが、それがイワンの言うようにフランソワーズの望んだ結果なのか、あるいはイワン自身の能力の成せる技なのかは、誰にも、フランソワーズでさえ、言葉では説明できなかった。
その当のイワンは、今はジェロニモの腕の中で昏々と眠り続けていた。今度こそ力を使い果たしたのだろう。ゆっくり休んでくれ、とジェロニモはもごもごとかすかに動くおしゃぶりへ向けて優しく、しかし起こさないようにそっと語りかけた。
ここが本物の“ヴェネツィア”なのか、それとも世界は本当は滅びていて、ここは最後に残された“ノアの方舟”なのか、ハインリヒには分からない。あるいは、そんなことは実際はどうでも良いのかもしれない。ジェロニモがここに居さえすれば。そして、その傍らに居ることを許されるのならば。失ったと思いかけた仲間を取り戻した喜びは計り知れないほど大きかったが、それはすぐに別の物に取って代わろうとしていた。
イワンをギルモア博士と張々湖に預けて――イワンは夜の時間は基本的には手を煩わせない――ジェロニモは自分のセーフハウスへ向かった。そこは休息を取り、そして先へ歩み出すまでの、仮の宿りになるはずだった。
その後をハインリヒが付いて来る。ハインリヒにも彼にあてがわれたセーフハウスがあるのだが、ジェロニモは何も言わずに背中にハインリヒの気配を感じ続けていた。こんなことは珍しい、とふと思う。いつもは逆だった。いつもハインリヒがジェロニモの前を行き、ジェロニモはハインリヒの背を見守るのが常だったからだ。
「良い所だな。」
ハインリヒの評したように、ジェロニモが選んだのは、この石と煉瓦造りの街の中で、外観は街に溶け込みながら、内装は木をふんだんに使った温かい、そして心の落ち着く空間だった。ハインリヒが入口で一旦足を止め、わずかばかりに逡巡(しゅんじゅん)したのを見逃さず、ジェロニモは大きくうなずいて、ハインリヒを迎え入れると静かに戸を閉めた。
「まだ片付いていないが、そのへんに座ってくれ。」
ジェロニモはそう言うが、室内に無駄な物は一切無かった。越してきたばかりだから当然なのだが、一時しのぎとはいえ、ハインリヒがこうしてやって来るのなら、彼の過ごしやすいように必要な物を揃えなくては、とジェロニモは頭の中で算段し始めていた。
ジェロニモはギルモア研究所で着ていた、煤と油にまみれた白のボートネックシャツから、黒の半袖シャツに着替えていた。対してハインリヒは、防護服を脱いだ後は、いつもの革のライダーズジャケットを着込んでいた。ジェロニモが黒を着るのは珍しい――少なくとも、昔は見たことが無かった――と考えながら、ハインリヒは不意に思い至った。
――ふたりとも、変わった振りをしていただけだ。ただ、言葉を見失っていただけなのだ。
ジェロニモは確かに、外見は大きく変わったかもしれないが、肝心な所は何も変わってはいない。再改造を重ね、人工筋肉や刺青の見かけがいくら変わろうとも、それはジェロニモの大切な部分には何も手出しできなかったのだ。そして、ジェロニモは待っている。何か――ハインリヒにも言葉には現わせないが、大切な何かを。ハインリヒはジェロニモの慌ただしく動く後ろ姿を、見失うまいと恐れるように目で追った。
「色だけは、お揃いだな…?」
「急なことで、これしか間に合わなかった。あとで市場へ出て、何かもっとましな物を仕入れてくる。」
「そうか。」
ハインリヒは少し残念に思いながらも、ジェロニモの意向を特には否定しなかった。そして、そう言うジェロニモの目元から、ほんのりと桜色の線が浮き出るのを目にした。それは、ここへ来てからは鳴りを潜めていたが、ここでハインリヒが見るのはおそらく初めてだった。
「お茶でも淹れよう。」
「そうだな。この間の張大人のは、結局飲み損ねたからな。」
ジェロニモは所在なげに立ち上がると、リビングを出てキッチンへと歩き始めた。寛いでいてくれ、と言われたにも関わらず、ハインリヒも席を立ち、ジェロニモの後を追う。
この、世界遺産にも指定されている街は、一歩外に出れば洒落たカフェなぞはいくらでも存在するのだが、なぜか陽の明るい、喧噪の中へ繰り出す気分には二人ともなれなかった。
ここの台所は内装同様、建物の年代に似合わず現代的な物が備わっていた。ジェロニモが水を薬缶(やかん)に汲み入れ、焜炉(こんろ)に点火する。青い炎を眺めながら、やがてしゅんしゅんと湯気が噴き上がるまで、静かな時間が二人に流れた。こんな時間を過ごせるようになろうとは、少し前までは考えられもしなかった。
沸いた湯を手際良くティーポットに注いで、ジェロニモが手慣れた様子で紅茶を煮出す。程良い頃合にあらかじめ温めておいたカップに移し、ハインリヒに勧めてくれた。
「茶菓子も何も用意できていなくてすまない。」
「構わんさ。急に押し掛けたのは俺の方だ。」
ジェロニモがぽつりとつぶやくのへ、ハインリヒが穏やかに答えながら、二人は小ぢんまりとしたダイニングテーブルを向かい合わせにして席に着いた。まずハインリヒがソーサーごとカップを鋼の手に取り、湯気と香りを楽しみながら口を付ける。
「美味い。」
「ありがとう。」
数十年ぶりにも関わらず、紅茶はハインリヒの好みの温度と色と濃さとを正確に保っていた。ハインリヒの賛辞に、ジェロニモも素直に礼を述べながら、自分のカップを口へ運ぶ。
「次は君の好きな茶葉を揃えておこう。ここにしばらく居るのなら、今度エスプレッソの淹れ方も覚えようと思っている。」
「そいつは楽しみだな。」
「あぁ。」
何気ない会話をそつなくこなす二人に、落ち着いた時間が流れていく。こうしていると、まるで時が止まったような、いや戻ったような錯覚を覚える。27年前とは、すっかり変わってしまった。それでもふたりはきっと、何も変わってはいない。やがて二人ぶんのカップは空になり、それからまたしばらくの沈黙が流れた。
「お前さんは…、」
「私は…、」
意を決して口を開いたのは、ふたり同時だった。
「あのときと同じだな。」
ハインリヒは苦笑した。ジェロニモの刺青の線が赤味を増しながら顎から首筋へと下って行き、半袖の先の二の腕から肘へ向かって走り出すのを見て、ジェロニモも同じことを思い出しているのだと、ハインリヒは悟った。ハインリヒは先走りたいのをじっと堪えながら、辛抱強く、ジェロニモの次の言葉を待った。
「おれは…君を、…おまえを――、」
ジェロニモが朴訥(ぼくとつ)と言って良い調子でぽつぽつと言葉を発するのを、ハインリヒのレーダーイヤーが心地良く捉えた。しかしそこでまたジェロニモの言葉は途切れる。
ジェロニモは言霊(ことだま)を信じているのだろう、とハインリヒは考える。ハインリヒは口に出さなければ――言葉にしなければ伝わらない、という文化の持ち主だが、ジェロニモはそうではないと思っていた。少なくとも、この瞬間までは。しかし、ジェロニモも本質では自分と同じなのだと、ハインリヒは今のジェロニモを目の前にして、ようやく気付いた。
ジェロニモは不安なのだ。
言葉の危うさ、薄っぺらさを知り尽くしているからこそ、その言の葉の力をどこまでも知り抜いているのもまた、ジェロニモという男だった。だからこそ、ジェロニモは滅多なことは口にしないし、逆にジェロニモが口にすることは、虚偽や偽善では有り得なかった。
つと、ジェロニモをさえぎるように、ハインリヒの鋼の右手がジェロニモのごつごつとした、だがしなやかな赤銅色の左手に重ねられた。小さなテーブル越しに、手を伸ばせばすぐに相手の手に届く距離だ。
「皆まで言わなくていい…。」
「……。」
ハインリヒは左手もジェロニモの右手に置き、そっと力を込めた。ジェロニモの刺青が両手の甲に新たに浮き出し、腕を逆流していく。それが肘で繋がった頃に、ジェロニモは突然がたっと席を立った。そのままテーブルを回り込み、ハインリヒの背後に立ち尽くす。
「どうした?」
「このほうが落ち着く。」
ジェロニモは椅子の背ごと、後ろから腕を回しハインリヒの肩に手を置いた。ちらとハインリヒの横目に映ったその刺青は、先ほどより濃く太くなっている気がした。
「…もう一度、呼んでくれないか?」
「…?」
ハインリヒはややうつむき加減になり、そのまま重ねてジェロニモに呼びかけた。ジェロニモがハインリヒのうなじをまじまじと見つめているのが気配で分かる。ハインリヒの言葉の意味を図りかねているのだ。
「俺の事を、もっと呼んでくれ。」
「おまえの、ことを…?」
「そうだ。もっと…。」
「おれは…、おまえを…、」
「もっとだ、もっと…、」
「おまえのことを…、おれは…、」
ジェロニモはハインリヒをいつまでも呼び続ける。やがてジェロニモが背を丸め、その頭がしっかりと両手で抱いたハインリヒの肩ほどにまで下がっていき、その声はだんだん低くなり、ついにはハインリヒの耳に掛かる息だけになりつつあった。その刺青が灼熱に染まっていき、ハインリヒの氷色の瞳を溶かすように熱く燃え盛る。ジェロニモの言霊を直接吸い取るかのように、ハインリヒの耳元も、その刺青に染まりほのかに色づき始める。
ヴェネツィアの運河に水面(みなも)は陽を弾いて綺羅綺羅とたゆたい、風に乗って遠くサンマルコ広場から鐘の音がかすかに響いていた。
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着古したライダーズジャケットが、くたり、と椅子の背に引っかかっている。
白いティーカップが二つ、テーブルの上に行儀よく並んでいた。
結局、二杯目の紅茶が飲み干されることはなかったのだ。色褪せた液体の表面に、天井の梁の形が、ぼんやりと映り込んでいる。
細く開いた窓の向こうは、薄青い色の闇だ。
石造りの建物の間を埋めつくす水路に、街灯の黄色い灯りが反射しているのか、ほのかに明るい夜だった。
時折、たぷ、と水面のたわむ音がする。この時間になっても、ゴンドラが運河上を行き来しているらしい。
靴音は、ひとつも聞こえない。
たっぷりとした水を掻き分けて、舟が進んでいく。ゆるゆると満ち足りた潮の流れを遡るようにして、先へ、先へと ――。
ゆっくりと、ジェロニモは瞼を引き開けた。意識まで、外へ持っていかれそうになったからだ。視界がぼやけているのは、思いがけなく眠りが深かったせいだろう。
傍らで、ハインリヒがぐっすり眠り込んでいる。
ぴったりと寄り添う温度が、心地よい。
床の上で抱き合ってから、ベッドへ移動した。
ハインリヒの反応は、記憶に残るそれよりも、はるかに積極的で、すぐさまジェロニモの体に火がついた。手加減しなければと思ったのは、最初のうちだけだ。冷たい手足の絡みつく強さに、薄い唇を割って漏れ出す吐息の熱さに、ジェロニモは為す術もなく流され、我を忘れた。
何度も口づけて、名前を呼んだ。
時に急かされない交わりというものが、これほど気持ちのよいものだったのだということを、初めて知った。
もうすぐ、夜が明ける。
動かないハインリヒの肩をぶ厚い掌で引き寄せて、ジェロニモは仰向けに横たわっている。
この数日間の間に起こった事が、夢の中の出来事のように思えてならなかった。
手の中で握りつぶしたラザロの頭蓋の感触や、爆風で吹き飛んだ天井の穴から醜悪な軍用ヘリが続々と降下してきた光景が、五感の先をおぼろげに浮かんでは消えていく。
夢中で敵に立ち向かいながら、戦いの最中(さなか)にあってさえ、ハインリヒのことしか頭になかった。
「ん…。」
鼻にかかった溜息とともに、ハインリヒが身じろぎする。ジェロニモは、そっと手首の力を抜いた。今は、十分に休息をとって欲しかった。ハインリヒは働き過ぎなのだ。
おもむろに首を傾けて、短い銀髪の密生したハインリヒの頭に顎先を擦りつける。柔らかな毛先を唇だけで食もうとしたが、そのためには枕から後頭部を浮かせなければならない。だが、下手に動けばハインリヒが目を覚ましてしまう。
ふと、口元に笑みを刻んで、ジェロニモは、あきらめた。
見つめているだけで、よかった。
眠るハインリヒは、これまで見たことがないほど、安らかな表情をしていた。思いのほか長い睫毛が、白い頬骨の辺りに淡い影を落としている。
あぁ、とジェロニモは静かに呻く。太い喉が、ごくり、と鳴った。こんなにも愛おしかったのだと、叫びたくなるような思いを噛み締める。あの時は、どうしても言えなかった。27年前の夏のことだ。なぜ、ハインリヒの眼差しの意味に気づかなかったのだろう。今では、ジェロニモにもはっきりと分かっている。ハインリヒも、どこか取り返しのつかない時点で、自分を愛していたのだ、と。
言葉など、必要なかった。
より多く愛した者の方が、より苦しむことになるのかもしれない。けれども、ジェロニモは幸せだった。ハインリヒの体は、あたたかい。この温もりだけが、現実なのだと感じられた。
起こしてはいけないと思いながら、我慢することができなかった。
ぐい、と一瞬だけ強く抱き締め、再び口づけた。
顔を離すと、眠ったまま、少しだけハインリヒが笑ったようにみえた。
今こそ、帰ってきたのだと思った。
自分の場所に。
――ハインリヒの、そばに。
安心して、ジェロニモは目をつぶる。
世界は、救われたのだ。