竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。"本の森の棲み人 (DNT)"の前日譚。
* コプヤンさんには「世界はいつだってかみ合わない」で始まり、「ほら、朝が来たよ」で終わる物語を書いて欲しいです。できれば3ツイート(420字程度)でお願いします。

優しき人の詠う声に (OVA)

 世界はいつだって噛み合わない。シェーンコップは、自分を見下ろしている小さな人間──竜族からすれば、大抵の生き物は小さいけれど──へ、力のない視線を投げて、鋭い爪の先をぴくりとも動かさずに、ああ自分はここで死ぬのだと考えていた。
 仲間からはぐれて、こんな時に行き合ったのが、爪の先で弾き飛ばせそうな弱々しい人間とは。運のないことだと、シェーンコップは、体の痛みにひどく腹を立てながら、相手が人間では、仲間たちに伝えるための遺言も残せないことに、いっそうの情けなさを感じている。
 青い血の流れ出る背中に走る深い傷、炎を吐くけれど空は飛ばない種の、よりによって下っ端に引き裂かれたものだった。巨(おお)きな翼を動かすと、それが根元からが落ちそうに痛む。シェーンコップのかすかな呻きを聞いたのか、人間は心配そうな顔つきで、シェーンコップの首に触れて来た。
 「わたしに、治せるかな・・・。」
 ひとり言めいて呟く声には、その漆黒の髪に釣り合う邪悪な響きはなく、シェーンコップは思わず灰褐色の瞳を見開いて、一体何者だと、誰何するようにその男を再び見た。
 男が自信なさそうに言う。
 「一応魔術は使えるんだが・・・君はわたしには少し大き過ぎる・・・わたしの力で、足りるかどうか。」
 ──小さくなれば、効くと?
 竜のうなり声は人間のそれとは違う。声ではあっても、言葉は直接男の頭の中に流れ込んでゆく。
 巨大な竜に怯える様子はなく、言葉を伝え合えることに驚く風もなく、
 「多分ね──保証はしないが。」
 男は髪をかき混ぜながら、薄い肩をすくめて見せた。
 やれやれ、とシェーンコップは思う。ここで黙って死ぬよりはましか。まだ力の残っているうちに、この男が何とかしてくれるかもと、儚い望みに賭けてみよう。どちらにせよ、死ぬなら一緒だ。
 黒髪の男の緊張感のない空気が、たいていのことは笑い飛ばすいつものシェーンコップを取り戻させ、巨大な岩を思わせる体はそこに横たえたまま、竜は長い首をもたげ、男をひと飲みにできそうに大きく口を開く。精一杯激しく息を吐き、そうして、縮んだ肺に引きずられるように、巨岩の体躯はしぼんだように見えた。
 黒髪の男は慌てて後ずさり、竜の変化を見守った。
 するすると小さくなる体から、長い尾もしなる首も鱗も爪も消え失せ、そこにうずくまるのは黒髪の男と同じ、人間の姿をしたものだった。
 竜の、恐ろしげでも雄麗な姿そのまま、シェーンコップは人になっても美しかった。黒髪の男は、少しの間目を見開いて人間のシェーンコップを見つめ、へえ、と、感嘆とも呆然とも、どちらとも分からない声を漏らして、そこに立ち上がったシェーンコップの、傷は変わらず走る背中の方へ近寄った。
 「ああ、ひどいなあ。わたしだったらとっくに死んでるよ。」
 竜の時は青かった血が、人の姿を取ると赤に変わる。黒髪の男はその長く深い傷口へそっと掌をかざし、何やらシェーンコップには分からない言葉を、低く詠うようにつぶやき始めた。
 それが、男の言う魔術なのか、その掌が傷に沿って動くのが、かすかなぬくもりで分かる。仲間たちに舐められているような湿りはなくても、傷口を塞ごうとする優しさのぬくもりは同じようなものかと、黒髪の男の声に、シェーンコップは目を閉じて聞き入った。
 痛みが消え、痛みのあった部分に、引き攣れるような感触が走り、裂かれた肉が閉じ、皮膚の合わさる音が、体の底から聞こえるような気がした。
 掌のぬくもりはそこに残ったまま、黒髪の男はやっと手を下ろし、シェーンコップから半歩後ろへ退く。
 「まだあんまり無茶な動き方はしない方がいいよ。竜に戻るのも、明日の朝まで待った方がいい。傷口が開くと厄介だ。」
 シェーンコップは素直に男へ振り向き、
 「そうしましょう。」
 人間と同じ言葉を使ったのに、男は驚いた様子もない。
 黒髪の男はシェーンコップから視線をずらし、羽織っていた真っ黒のマントを取ると、シェーンコップに差し出した。
 「これを着るといい。裸で動き回るとまた怪我をする。」
 今は硬い鱗のないシェーンコップの体は、確かに無防備ではあったけれど、服を着るなど慣れていないシェーンコップは、男の申し出を断ろうと首を振った。
 「頼むから着てくれ。わたしが目のやり場に困るんだ。」
 「こまる?」
 また何か、噛み合わない話だと、シェーンコップは思った。竜と人が、噛み合うわけもないのだけれど。
 「わたしたち人間は、裸ではうろつき回らないんだ。頼むから。」
 差し出すマントの陰に、シェーンコップの彫刻めいた体躯を隠すようにして、そむけた男の頬が赤い。その意味もシェーンコップにはよく分からず、それでも一応は恩人なのだし、逆らうのもどうかとやっと思って、シェーンコップは言われた通り、男のマントを肩に掛けて体を覆った。
 「とりあえずわたしのところに行こう。朝まで、そんな格好で外で過ごすわけにも行かないだろう。」
 男の言うことは、実のところシェーンコップにはよく分からなかった。そんな格好と言われても、外で過ごすと言われても、人間の言葉を、人間と同じように発したところで、互いに意味することは微妙に違う。竜の使う言葉のまま人間の言葉に置き換えて、ようやく、ああ、巣穴に連れてゆかれるのかと悟る。
 まだ皮膚の引き攣れる違和感はあっても、すでに痛みもなく歩けるのはありがたかった。竜の大きな体のまま動き回るよりも、今は確かに小さな体の方が具合がいい。人の身と言うのも悪くはないと、シェーンコップは男をちらりと見て思う。
 「黒髪のひと、貴方はここで何をしている。」
 「わたしかい? 今日は薬草を取りに行くつもりで出て来たんだが・・・君のおかげで予定が変わった。竜の君は、誰かとケンカでもしたってところかな。」
 シェーンコップの傷が、もう深刻なそれではなくなったせいか、男が不意になごやかな調子でからかうように言った。言葉の意味がまた咄嗟に分からず、けれど声の調子だけは正確に聞き取って、シェーンコップは思わず竜には似ない微笑みを浮かべる。
 獣の通る道を、男は進んでゆく。その隣りを、シェーンコップはついてゆく。こんな小さな道を、竜のままではシェーンコップは通れず、小さくなった自分の視界が珍しくて、黒髪の男から離れないようにしながら、時折ちらちらと周囲を見回した。
 じきに着いた人の住み処は、巣穴と言うよりは木を積んだ小さな塔のようだ。竜の姿のシェーンコップならひと足で踏み潰してしまえそうなそこへ、男は板を押し込んで入ってゆく。シェーンコップも後に続いた。
 竜の時のようには暗さに慣れない人間の目をしばたたかせていると、男が手を振って明かりを点け、オレンジ色の中に浮かび上がった人の住まいに、今度はシェーンコップがほう、と目を見開く。
 四方八方本に囲まれ、部屋の中央に置かれた大きなテーブルの上にも本が積まれ、男がシェーンコップに勧めようとした椅子の座面からも、まずは本を取り上げなければならなかった。
 いくつか目に入った背表紙には、竜にも分かる言葉で書かれたものもあり、一体どこでどうやって手に入れたのだろうかと、シェーンコップはそれを手に取って読みたい衝動に駆られる。
 黒髪の男は再び手をひと振りし、机の上に、本以外のものの置けるスペースを空けた。
 「お茶でも淹れよう。君のは、傷に効くのにしようか。」
 また手をひと振り、どこかから華奢なティーカップが現れ、それぞれの前に一客ずつ、男が指をぱちんと鳴らすと、シェーンコップのそれがまず満ちる。鮮やかな青に、神経を貫くようなミントの香りが立つ。
 指をもう一度鳴らすと、男のカップに、美しい赤い色の茶が満ちた。
 「君は肉食かな。できれば、わたしを食べるのは勘弁して欲しいな。」
 「ひと晩食べないと言って死ぬわけではなし。」
 今さら男が、そんなことを言うのに、シェーンコップは相手にならず、青い茶に、恐る恐る口をつけた。見た目よりもずっと柔らかな、深い味だった。口に含めば鋭いミントの香りはするりと鼻を抜け、後味だけが喉を爽やかに滑ってゆく。
 男の掌のおかげで、ずっとほのあたたかかった傷口に、今度はこの茶の効能かどうか、涼し気な風の吹き渡る気配が駆け抜けて行った。
 首を回しても痛みが走ったから、詳しく見ることはできなかった傷は、恐らく骨に達するほど深かったように思うけれど、もう痛みもすっかり消えた今、傷ついたことさえ忘れそうになる。
 大したものだと、シェーンコップは思った。
 カップを手にしたまま、傍らの本へ手を伸ばす。ぱらぱらめくって、文字は読めるけれど理解は追いつかない。人間の手で何かに触れると言うのが珍しくて、シェーンコップはまじまじとカップを眺め、積まれた本を眺めた。
 「これは、すべて読んだのですか。」
 ぎこちなく人の言葉を使うのに、黒髪の男がいたわるような淡い笑みを浮かべる。
 「うん、ここにあるのはね。でもこの世にはまだまだたくさんの本があって、わたしが死ぬまでに一体どれだけの本が読めるのかなと思うと、時々絶望的な気分になるよ。」
 「本を読むために、ここにひとりで?」
 ここらで人間を見掛けることは滅多にない。まさか住み着いているとはシェーンコップは思いもしなかった。
 「本を読むためではないが・・・結果的にはそうなったかな。人の多いところにいると、髪と目の色を気味悪がられてね、面倒くさいんだ。だからね、ここに隠れ住んでる。」
 そうだろうとシェーンコップは思った。人間ではないシェーンコップでさえ、黒い髪には禍々しいものを読み取り、そこに黒い瞳まで合わされば、悪魔扱いは間違いない。黒髪の男の、いかにも頼りなげな見掛けに、よく無事に生きて来たものだと思う。
 「おかげで身を守るために魔術を習う羽目になって・・・便利なこともあるから文句はないがね。君の役にも立ったし。」
 「まだ、傷の礼を言っていませんでした。」
 「いいよ別に。今日はわたしも、ひとりきりで過ごさなくて済む。」
 言葉の終わりはカップの陰に隠して、黒髪のせいで忌避される男は、それを淋しいとも感じていることを、シェーンコップにちらりと見せる。
 そうだ、自分も、あそこでひとりで死んでゆくのを淋しいと思ったのだと、シェーンコップは男の目色に引き寄せられたような心持ちへふと落ち込んで、自分の手元へ目を落とした。
 いつもだったら、黒髪など目にした瞬間引き裂いたかもしれない。そうできる状態ではなかったにせよ、そんな男を自分に近づけて、治療まで許したのは、同じような淋しさのせいだったのだと気づいて、向かい合うように坐っていたそこから立ち上がると、シェーンコップはティーカップを片手に、黒髪の男の方へテーブルを回って行った。
 竜の時にそうするように、男の足元の床に直に腰を下ろす。
 男がシェーンコップへ向かって軽くうつむき、そうすると前髪が軽く揺れ、男の顔に黒い影を落とす。男にまつわる黒さは、どれも不吉を思わせるよりも、その艶にまず目を引かれるものだった。
 髪の黒の奥深さ、瞳の黒の潤み、それらが男の顔を縁取り彩る時には、男の様子を考え深く見せ、明らかに近寄りがたくはしている。けれどそれは、男を凶々しいものと決めつけるには、あまりに艷(つや)やか過ぎた。
 こんな風に思うのも、男を引き裂かずに、こんな近さでまじまじと眺められるからだ。竜の爪も羽も鱗もない自分の体をシェーンコップはふと見下ろして、竜でないのもそう悪くはないと、再び思った。
 残っていた青い茶をそこで飲み干し、それを見た男が指をひと振り、カップをシェーンコップの手から消す。
 空になった今は人間の手を、シェーンコップは男の足へ回した。自分により掛かって来るのを好きにさせて、黒髪の男は怖がりもせずにシェーンコップの髪に触れ、指先で撫でる。ふわふわと柔らかい灰褐色の髪から、シェーンコップの元の竜の姿は想像もできない。男はシェーンコップの髪を指先にすくい上げて、わずかに目を細めた。
 黒髪のひと、と不意にシェーンコップが呼び掛ける。何か、と言う風に男は軽く体を折り、自分を見上げて来るシェーンコップへ顔を近づけた。
 「貴方は、この世にある本をすべて読みたいと願うか。」
 男は一瞬考え込む表情を作り、曖昧に、首を振ったとも前に折ったとも分からない動きを見せる。
 「さあ、そうしたいのは山々だが、すべてを読むのは無理だろうな。わたしはただ、わたしの力でここに引き寄せられる本を読めるだけで満足だよ。」
 「──不死になれば、それは可能ではありませんか。」
 いつもは、火を吹き、その喉の奥を震わせて出す怒号のような"波"であらゆるものを吹き飛ばす竜のシェーンコップは、今は短い、言葉を発するためだけに使われる人間の舌で、何とか男に伝わるよう人間の言葉を操ろうとする。
 「我らの血を飲めばそれが叶うと、魔術を使う貴方ならご存知のはずだ。」
 竜の青い血は、不死への道。それを望んで、シェーンコップたちを探し追う者たちは少なくない。死なずにそれを果たしたと言う話を、シェーンコップは聞いたことがないにせよ。
 「そうしたい人もいるだろう。でも、わたしは遠慮するよ。死ななくなってもいいことなんかない。読む本が失くなった後も生き続けなきゃならないなんて、私には性に合わないな。」
 なるほど、本があればそうしたいのか。シェーンコップはそう解釈した。
 「傷の礼にと思いましたが、そうも行かないようだ。」
 「礼なんかいらないと言ったろう。わたしを食べずにいてくれればいい。」
 「・・・失礼だが、貴方は食ってもあまり美味くはなさそうだ。」
 「それに、肉もなくて、ちっぽけ過ぎて腹の足しにもならない、だろう。」
 「──その通り。」
 シェーンコップは、慣れない人間の笑い方に肩を揺すった。
 わずかに見える男の首筋や手首からは、ふっくらとした肉付きは期待できず、食べても美味くないと思うのは本心だった。今頭の触れる腿も、固いばかりで、引き裂く肉も大して感じられない。
 食べずに見逃すだけでいいと男が言っても、何かせずには気が済まずに、シェーンコップは考え続けている。
 そのうち、男の足に回したままの手に力が入らなくなった。首が前に折れ、まぶたが重くて持ち上がらない。
 「そろそろ眠くなって来たかな。傷のために、ゆっくり眠った方がいい。あの青い茶にはその効き目もあるんだ。」
 「眠れば、貴方を食べることもできない──。」
 まどろみに引きずり込まれながら、シェーンコップはようやく憎まれ口を叩く。
 「そういうわけではないがね。君が眠る間に、わたしは昨日の本の続きを読むよ。」
 「貴方は、眠らない、のか。」
 呂律も怪しい。男が手をひと振りしたのは見えた。
 ふわりとシェーンコップの体が宙に浮き、そこに突然現れた、白く柔らかなものに全身を包み込まれる。まるで雲でできたベッドだ。シェーンコップはあまりの心地好さに、我慢できずにそこに頭を沈めた。
 「お休み。目が覚めたら、もう背中の怪我は大丈夫だ。」
 「──貴方は、眠らないのか・・・。」
 もう半ば目を閉じて、それでもシェーンコップは男の方へ手を伸ばす。偶然指先に触れた黒髪に、びくりと一瞬指を引き掛けてから、自分の髪を撫でた男の指先の優しさを思い出して、シェーンコップは改めて男の髪に指を伸ばし直す。柔らかでしたたかで冷たい、これから落ちる眠りと、まったく同じ感触だった。
 黒髪の男は身じろぎひとつせず、穏やかにシェーンコップを見つめて来る。
 「わたしは眠れないたちでね、君の寝顔を見守ることにするよ。」
 「貴方が、私を、護る。」
 「そんなえらそうなことでもないが・・・安心して眠るといい。君の姿はきちんと隠して、誰にも見えないようにするよ。」
 「貴方も──」
 尖った爪のない指先で、ヤンの黒い服を掴んでいた。
 人の姿で眠り込んでしまうのが正直不安だったし、さっきそうしていたように、この黒髪の男に触れてもいたかった。
 男が自分を害するとは、不思議に思わず、シェーンコップは男を何とか自分の方に引き寄せようとして、襲って来る睡魔に逆らっている。
 黒髪の男は、ついに根負けしたようにシェーンコップの傍らに上がって来て、また手をひと振り、自分の膝へ本を取り出した。
 「いいよ、じゃあ一緒にいよう。わたしはここで本を読むよ。」
 シェーンコップは男の膝に手を置き、それでもまだ問い足りずに、目を閉じるのを拒んだ。
 「なぜ、貴方は、眠らない。」
 膝に本を開き、昨日読んでいたページを忙(せわ)しく探しながら、男は渋々と言う風に言う。
 「滅多にないが、わたしを殺そうとやって来る者たちがいてね、眠っている間に襲われたことがあって、それ以来眠れなくなったんだ。」
 「そいつらは、殺した。」
 声が、疑問の形に上がり切らない。けれど男は答えた。
 「いや・・・。ちょっと遠くへ、ここまでは戻って来れないくらいに遠くに送ったよ。それ以来見ないから、諦めたんだろう。」
 やっと目当てのページを見つけたのか、男は本の上で手を止めた。それから、まだ薄目のシェーンコップへ向かって、悲しいほど静かな声を滑り落とした。
 「わたしはただ、本を読んでいたいだけなんだ。」
 ええ、そうでしょう。そう相槌を打ったつもりで、もう何も起こらなかった。シェーンコップはやっと寝入り、竜の時にそうするせいか、今は体の近くへ手足を集める姿勢に、それでも片手は黒髪の男の膝に触れたままだった。
 「おやすみ、竜の君。」
 詠うように男が言う。
 片方の手はページを繰り、もう片方の手は、シェーンコップの手に乗せて、男は文字へ目を落とす。
 竜の姿のシェーンコップは夢の国に足を踏み入れ、黒髪の男は本の世界へ分け入ってゆく。
 自分なら、男の平穏を脅かす何もかも、瞬時に引き裂けるのにと、夢の中でシェーンコップは思った。


 目覚めて最初に、黒髪の男の顔が目の前にあった。
 「おはよう、よく眠れたかい。」
 穏やかな声の息が、まぶたに掛かりそうに思った。
 そう言った通り、眠れなかったらしい男の目元にはかすかに疲れの色が浮かんでいて、本を読むのに飽きて、シェーンコップの傍らに横たわりはしても、シェーンコップのようには安らかな眠りに引き込まれはせずに、それも言葉通り、シェーンコップの寝顔をそうしてずっと見守っていたようだった。
 「もう、竜の姿の戻っても大丈夫なはずだ。」
 男は先に起き上がり、雲のベッドから降りる。シェーンコップもそれに倣って、相変わらず体を覆ったままの黒いマントを引きずって床に降りた。
 皮膚の下が、早くそこから出してくれとざわめいている。ひと晩、本来の竜ではない姿で過ごして、竜であるシェーンコップの本性が、体の奥で喚いていた。
 「お茶の時間くらいはあるかな、竜の君。」
 雲の寝床を去らせながら男が訊くのに、シェーンコップは首を振った。入って来た、押せば開く板へ真っ直ぐ向かい、そのまま押したけれど動かない。
 黒髪の男は苦笑いして、手をひと振り、シェーンコップの代わりにその板──扉を引いて開けてやる。
 「ほら、朝が来たよ。」
 男がそう言う通り、踏み出した扉の外に、朝陽が地平の縁を染め、すっかりその姿を現しているのが見えた。
 シェーンコップがそこでマントを落とすと、男はもう一度シェーンコップの背中の傷を撫で、
 「うん、大丈夫だ。」
 確かめるように言って、軽くシェーンコップの肩を押す。
 男に見守られて、シェーンコップはそこから20歩ほど離れ、そうして、シェーンコップの小さな人間の体と、大地と、空気と、辺りの樹々が、咆哮するように震えた。
 白い閃光に目を突き刺されたと思った一瞬後には、振動も光も消え失せ、男は空を仰ぐように、竜に戻ったシェーンコップを見上げている。
 恐ろしげな姿の、豊かな土に金をつき混ぜたような色合いの鱗は、今は朝陽を浴びて金色に輝き、それよりいっそう黄金みの深い瞳は、人間のそれとはまったく違う形で、黒髪の男を静かに見下ろしていた。
 男はシェーンコップの脇へ回り、背中の傷を検分しに掛かった。
 本来なら跡形もなく消え失せるはずの傷の、その痕が、巨大な羽の、右側の根元に赤く走っている。竜になど使ったこともない男の魔術との、相性なのかどうか、あるいは人から竜の姿に戻る間に、魔術の効き目のどこかが抜け落ちてしまったものか、黒髪の男は予想もしない自分の不手際に、不似合いな不機嫌の色を眉の間にたたえた。
 「傷は治っているんだが・・・。」
 ぼそりとひとり言めいてつぶやくのに、シェーンコップは長い首を回し、その傷跡とやらを眺めに行った。
 もう痛みはすっかり消え、羽を伸ばしても首をねじっても、何をしても平気なのがシェーンコップには十分だった。
 ──貴方に治してもらったと言うあかしだ。
 竜のシェーンコップの言葉が、頭の中に流れ込んで来るのに、黒髪の男は、まだ自分のしでかした手落ちへの不満を完全には消さずに肩をすくめて見せ、
 「君がそう言うなら──。」
 この傷跡を何とか消す方法はないかと考えていたのだと、シェーンコップは男の思考を読んで、ゆっくりと長い首を振る。シェーコップはむしろこの、自分の体に生まれた新たなしるしを気に入って、再び首を伸ばして赤い線を間近に眺めた。
 色の変わってしまった鱗が、自分のもののようではなく、これはこの男の一部が自分に乗り移ったのだと信じて、シェーンコップは竜の笑い方をする。軽く口を開くその表情は、人間の時のそれとは似ても似つかず、非力な人間にはただ恐ろしげに見えたろう。 黒髪の男はつられたようにやっと唇の端を上げ、シェーンコップに向けて、軽く頭を傾けた。そうして、もっと小さな生きものにするように、シェーンコップの体を撫でる。
 男を驚かせないように、シェーンコップはゆっくりと羽を開いた。いっぱいに広げれば、そこら一帯が日陰になる大きな羽の下で、人間の男はさらに小さく見える。
 今にも飛び立ちそうに羽を軽く揺すって見せた後で、シェーンコップは再びそれを静かにたたみ、それから、男を見下ろしたまま体を震わせた。
 太陽の陽射しを浴びた鱗が金色に光り、まぶしさに目を細めた男の目の前に、はらりと落ちて来たものがある。不思議そうに男が差し出した手に、迷うことなく落ちて来たそれは、竜の赤い鱗だった。
 ──私の血の代わりに、どうか。
 竜が、頭の中に響く声に、重圧をこめて言う。
 黒髪の男は、しばらくの間困ったように自分の手と竜を交互に見て、握り潰せはせず、そこに捨てて踏み潰すわけにも行かず、返したところで剥がれた鱗が竜の体に元通り返るわけもなく、もう一方の手でくしゃくしゃの髪をさらにくしゃくしゃにかき混ぜてから、
 「じゃあ、ありがたく受け取っておくよ。」
 微笑みよりは困惑顔でやっと言った。
 男が指先で、何やら鱗に向かって文字を書くような動きをすると、赤い鱗は男の掌の上で赤い霧になった後、男の手の中に、赤い、美しい光沢を持った紙片となって現れた。それを見て、竜が、目と目の間を寄せる表情を作った。
 「本を読む時の、栞にさせてもらうよ。これでどこまで読んだか、毎回迷わずに済む。」
 稀少な宝石のようにも扱われ、場合によっては薬の代わりにもされ、持てば竜に連なる者と見なされる竜の鱗を、よりによって本の栞に使うのかと、シェーンコップは内心呆れながら、それでもやっとにっこりと笑った男につられて、人間の笑い声には似ても似つかない、何やら喉の裂けるような音を立てる。
 長い尾を左右に振り、そしてもう一度体を震わせ、竜はもう1枚の鱗を体から落とした。
 今度は、それが男の手に届く前に、男の目の前で輝く赤い石に変わり、
 ──それが、貴方を護るだろう。
 どうかそのまま身に着けてくれと、竜が念じるのが男に伝わり、
 「やれやれ、君も義理堅いことだ。」
 男は指を振ってその赤い石に鎖を通すと、それを自分の首に掛けた。
 「これでいいかな。」
 確かめるように竜を見上げ、竜がうなずくと、男はその石を服の下へ押し込み、ならすように胸元を撫でつける。
 それでも、男への礼も終わり、後はもう飛び立つだけになった竜のシェーンコップは、それでもまだそうせずにぐずぐずとそこにいる。
 黒髪の男も、何となく名残り惜しげに自分の胸の中の赤い石を撫でながら、シェーンコップを見上げ、背中の傷跡を眺め、これからシェーンコップが目指すのだろう、太陽の昇って来る方角を見やった。
 男は、そこから自分の足元へ視線を落とした。
 「そんなことはないと思うが・・・もし、その傷跡に何かあったら──痛んだり、傷口が開いてしまったりしたら、ここに戻って来てくれ。またわたしが治そう。」
 ──戻って来れなければ?
 シェーンコップはちょっと意地悪く訊いた。
 黒髪を揺すり、男が言い淀む。動く唇が、やけに赤く見えた。シェーンコップの竜の瞳には、色の変わった鱗と同じ色に見えた。
 「その時は、わたしが君に会いに行こう。君が呼べば、わたしに聞こえるんだろう、竜の君。」
 胸元を押さえて、男がにやっと笑う。
 ──あるいは、貴方が呼んでも、私に届くことだろう、黒髪のひと。
 その、竜の赤い鱗から変じた、まばゆい宝石のおかげで。
 「ほんとうに君は義理堅いな。竜と言うのは皆そうなのかな。わたしは大層なものを手に入れてしまったようだ。」
 ちょっと申し訳なさそうに言う黒髪の男への謝意を、再び目色で告げながら、シェーンコップは人間がそうするように、男に向かって軽く頭を下げる。
 「そろそろ行くといい。高く飛ぶと暑くなってしまう前に。」
 ──そうしましょう。もし傷が痛んだら、またすぐに戻って来るでしょうが。
 また竜の笑い方で、ぐるぐるとシェーンコップが喉を鳴らす。男もつられて笑った。
 では、とシェーンコップは羽を広げる。男と男の住み処を吹き飛ばさないように、用心しながらゆっくりと空へ上がる。
 男の目の中に、きらめきを残しながらシェーンコップは飛び去ってゆく。羽ばたくそれが、陽を跳ね返し、風を起こし、辺り一帯に光の雨を降らせた。
 そのひとつびとつが竜の気配を含み、しばらくの間は、男の傍へ、男を害そうとする者たちを寄せ付けはしない。黒髪の男に、それはちゃんと伝わるだろう。彼のひとに安らかな眠りの運ばれることをと、竜らしくもなくシェーンコップは祈った。
 自分を見送って大きく手を振り続ける男の、闇色の視線を涼しげに感じながら、シェーンコップは仲間たちの許目指して飛び続ける。
 痛みのない赤い傷跡を、仲間にどう説明しようかと思って、黒髪の男のことを考えてすでにゆるみ掛ける口元を引き締めるのに、思い掛けず必死になっていた。
 背中の傷から、かすかな声が聞こえるような気がした。傷を癒やすための男の唱える呪文のような、詠うようなその声へ、羽ばたきながらシェーンコップは耳を澄ませている。
 浴びる朝陽の喝采の中に、黒髪の男の詠唱と竜の羽ばたきの二重奏が、穏やかに響き続けていた。

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