本の森の棲み人 1
気配がする。はるか彼方に聞こえる羽ばたき、それが渡る森の樹々を揺らし、そこに棲む小さな生きものたちを驚かせる。起こる風に辺り一帯がざわめき、地表を覆う大きな日陰に、生きものたちは上向き、それの正体はけれどはるか高み過ぎて、あるいは巨大過ぎて、何なのかとらえることは難しいのだった。ゆっくりと終わる羽ばたき。地面に降り立つ音は案外静かで、その気配はそこで唐突に途絶えた。
黒髪の魔術師は読んでいた本に赤く輝く栞を挟み、簡素な木の椅子から立ち上がる。本だらけの部屋を横切り、外へ出る扉へ向かい、軽く引けば開くそれへ手を掛ける。
開いた戸口いっぱいの人影、魔術師よりも頭半分高く、肩の厚みは倍もありそうな、美しい男がそこに立っている。
「やあ、竜の君。」
魔術師にそう呼ばれて、男は微笑み、その横に広い笑い方の唇の端の動きがややぎこちないのが、竜と呼ばれるその通りに、男の正体を示していた。
竜の男──魔術師に以前背中に負った傷を治してもらった、この竜はシェーンコップと言う名だ──は、黒髪の魔術師が部屋の中へ戻るのに続いて中に入り、自分で扉を閉めた。
魔術師は軽く手を振り、本を読むためにまぶしいほど明るくしていた部屋を、瞳の色の淡いシェーンコップのために少し薄暗くして、靄の掛かったオレンジ色の中で、ふたりは似たような微笑みを写し合って見つめ合う。
「元気そうだね、竜の君。」
「おかげさまで、黒髪のひと。」
シェーンコップの方はその名を名乗ったものの、竜の言葉は人には発声しづらいと、魔術師は竜をそう呼び、竜は魔術師をそう呼ぶ。
魔術師の名を尋ねても、
「呼んでくれる誰も今までいなかったのでね、わたしに名前と言うのはないんだ。」
ほんとうなのかはぐらかしなのか、魔術師は静かに、けれど毅然とそう言うだけだった。
魔術師の黒髪のつややかさは、シェーンコップの竜の鱗の美事さに負けず劣らず、そして夜空を凝り固めたような瞳は、竜の鱗が変じて生まれると言われる宝石同様の輝きを秘めている。
ただでさえ不吉と言われる黒をふたつもその身に背負って、その黒の、抑えても隠しても目を引かずにはいないきらめきのゆえに、魔術師は恐ろしく目立たない姿で、ここに隠れ住んでいる。まれに街へゆく時は、長衣にすっかり全身を覆い、頭には深々とフードをかぶり、伏せた目を誰とも合わせない。
魔術師が、剥き出しの目と髪で真っ直ぐに向き合うのは、竜のシェーンコップとだけだった。
魔術師に会いに、シェーンコップは人の姿になってやって来る。この住み処は竜の身には小さく狭過ぎたし、人の手で触れるなら、魔術師を鋭い竜の爪で傷つける恐れもないからだ。
人は衣類を身に着けるし、裸で外をうろつき回ったりしない。気に入らないと火を吹いたり、辺りを揺るがす怒号も、滅多と──あるいはまったく──吐いたりはしない。それも魔術師に教わったことだ。
竜の、細く、先端がふたつに分かれた長い舌は、火を吹く時の加減を操るのには最適だけれど、それは言葉を発するには適していない。竜の声は言葉よりも鳴き声に近くて、人の短い舌にはまだ馴染み切れず、シェーンコップの使う人の言葉は完全に流暢とは言い難かったけれど、魔術師は言わない言葉を読み取ることに長けていたから、ふたりはこうして会っては、人の言葉に竜の思考を混ぜておしゃべりを楽しみ、この時だけはシェーンコップは肉を食べたい普段の欲を忘れて、魔術師の振る舞ってくれるお茶に、それは竜のやり方でぐるぐる喉を鳴らすのだった。
「今日はこれを。」
シェーンコップが、魔術師の持ち物そっくりのマントの下から、巻いた紙の束を取り出して差し出して来る。
「ああ、ありがとう。」
顔を輝かせてそれを受け取り、魔術師はさっそく丸まった束を開きに掛かった。
竜の文字で書かれたものだ。伝説と言うのか、古い言い伝えを書き記したもので、人のようにインクで紙に記すのではなく、それは念写で紙に焼き付かせるのだとシェーンコップが説明し、元は竜である彼ら用に巨大はものだけれど、今はシェーンコップの力──竜たちは、たいてい軽い魔力なら生まれつき持っている──で、人の抱えられる大きさに変えてある。
今着ている人の衣服も、魔術師のそれを写してシェーンコップが自分で出したものだ。
どちらかと言えば、襲って来る他の巨大な生きものや、他の竜の群れに対峙して、彼らを脅したり力づくで追い払ったり、必要なら炎や鉤爪を使って殺したりする方が得意なシェーンコップは、竜に魔力がありそれを使えるとは知っていても実際に使う場などないまま、近頃やっと魔術師の傍らでそれに慣れつつあるところだった。
物を引き寄せたり呼び寄せたりする魔術は得意ではなく、だからこうして、魔術師の好きそうな書物を見つけては携えてやって来る。
とは言え、魔術師は物の引き寄せなどお手のものなのだから──この住み処を埋め尽くす本の山は、彼がそうして集めたものだそうだ──、彼に任せれば良いところを、わざわざここまで飛んで来るのも、半ばは魔術師にただ会いたいからだった。
巨大な竜のための書物を、魔術師に読ませるために小さくするのも、最初は慣れずに、本それ自体は小さくなっても、中に書かれた文字の大きさはそのままだったり、逆に字だけ小さくなって書物の大きさは変わらなかったり、魔力の加減も扱い方も、魔術師に手取り足取り習ったような有様だった。
「こんなことを自由自在にやれるとは、まったくあなたは人の身で信じ難い。」
「こんな難しい文字をすらすら読める君の方が信じ難いね、わたしには。」
ふたりはそんなことを言い合いながら、お茶を飲む。
今も、椅子に腰を下ろして竜の書物を早速読み始めた魔術師の足元の床へ、シェーンコップは人の姿を少し丸め気味に坐り込み、魔術師の足を片腕に抱え込んでその膝へ頭をもたせ掛ける。
人の姿に慣れつつはあっても、やはり竜の時のまま、人のための椅子に坐るのには馴染めず、シェーンコップにはこの方が自然な姿勢だった。
魔術師は、時々分からない文字や言葉をシェーンコップに質問して、シェーンコップはたどたどしく、それを人の言葉で説明し、足りなければそこだけ竜の思考を魔術師の脳に注ぎ込んで、ふうんなるほどねと魔術師が言えば、また頭を魔術師の膝に戻すのだった。
肉の薄い魔術師の膝は、お世辞にも頭を置くのに心地好いとは言い難かったけれど、鱗に覆われた体の表面は常に冷たい竜のシェーンコップには、人の柔らかな皮膚と体温と言うものが珍しく、竜の青い血が冷たく、人の赤い血があたたかいのに、改めて自分たちの違いを目の当たりにして、少し淋しい気持ちにもなるのだった。
書物を読み解く傍ら、魔術師の空いた方の手が、シェーンコップの髪を撫でる。鱗の時に触れる手つきとは少し違う、もてあそぶような、髪をすくい、落とし、またすくい、さらさらと、その冷たさは鱗そっくりのシェーンコップの、竜の時の鱗の色そっくりの灰褐色の髪を、魔術師の指先が飽きもせず梳いてゆく。
ここまで飛んで来て、シェーンコップは少し疲れている。人の姿でいるのも、いつも使わない力を使うから、魔術師の住み処で、魔術師の傍らでこうしていると、シェーンコップはごく自然にうたた寝を始めて、時には魔術師の足元に体を丸めるようにして眠ってしまうのだった。
自分に襲い掛かろうとするものたちを射すくめるその眼光を、今は丸い人間のまぶたに覆い隠して、眠ってしまったシェーンコップの長いまつげがかすかに震える眺めへ、魔術師は書物を読むのを忘れて見入っていた。
鋭く通った鼻筋、鱗のひとつびとつが輝くように美しい竜の姿のまま、整った造作の人間の男になったシェーンコップは、森で時々見掛ける、尻尾のふさふさと長い四つ足の獣のように、手足を集めて体を丸め掛けて、完全に寝入ってしまった姿は、恐ろしさなどどこかへ置き忘れたようにあどけない。
この寝顔を護らなければと、魔術師は思った。
竜の携えて来てくれた書物をひとまず片手に抱え、もう一方の手の指先で、いつものように雲の寝床を呼び出す。するりと男の体の下に滑り込ませ、重いその体を包み込ませ、雲にくるまれた体を、ここではない別の次元に隠す。
そうして、竜の書物と、さっきまで読んでいた本を抱えて、魔術師もその次元へ移動した。
部屋の中からふたりの姿は煙のようにかき消え、この部屋に誰が入り込んで来ようと、ふたりのいることは悟れず、ふたりの許へはたどり着けない。
雲の寝床へ、本とともに上がり、魔術師はシェーンコップの投げ出した腕の中へ、そっと身を横たえた。
赤児が母親のぬくもりを探るように、シェーンコップの腕は魔術師へ巻き付き、その眠りを妨げないようにしながら、魔術師はその少々不自由な姿勢で読書を続ける。
開いたページに挟まれていた赤くまばゆい栞が、おぼろな明るさを発して、シェーンコップの眠りの邪魔はせずに、文字を読むには十分な光を与えてくれる。
竜の書物の、ところどころ理解不能な部分は、眠っているシェーンコップの脳の中身から答えを探し、それでも見つからなければ、空(くう)に指先で、自分にだけ見える文字を書き取っておく。
シェーンコップが目を覚ましたら、今日はどのお茶を振る舞おうかと、魔術師は考えている。今夜また良く眠れる青い茶か、魔術師がいつも飲む赤い茶か、香り高い紫の茶か、心がやわらぎ脳のほどける緑の茶か、あるいはシェーンコップの鱗を溶かしたような、豊かな土色の茶か。
君はどのお茶が飲みたいかな、竜の君。
書物から視線を外し、魔術師は首をねじって肩越しにシェーンコップを見た。
穏やかな竜の寝息を首筋に感じながら、もう長い間味わってはいない睡魔の、甘いささやきの調べに、心の片隅が浮き立つような気がする。
いつかこの竜の傍らで眠れる日がやって来るだろうかと、書物を一度そこへ置いて、魔術師は竜の、今は人の形の腕を抱き寄せた。
目を閉じていれば自分にも訪れてくれるかもしれない睡魔の、夢へ誘う踊りを想像しながら、魔術師は読書を忘れて間遠な瞬きをした。
竜の呼吸に合わせて、ゆっくりと息を吐いて、夢の国の入り口へ爪先を差し入れても、全身が立ち入ることは──まだ──できないと知っている。
魔術師は、もうひとつ、寝床の回りに守護の魔術を掛けた。ぐるりふたりを囲う紗幕が、ぼんやりとふたりの寝姿をさらに覆い隠す。この次元に入り込んでさえ、もうその姿は誰にも見えない。
竜の男は魔術師を抱え込み、魔術師は書物を抱え込んで、ふたりしかいないこの空間に、本の匂いとシェーンコップの寝息だけがゆっくりと満ちてゆく。
そうやって竜の眠りを庇護しながら、同時に、竜の巨(おお)きな羽にくるまれている安堵に、淋しげではあっても確かな笑みを浮かべて、魔術師は赤い栞の発する光を消し、シェーンコップの腕と雲の中へ、体も意識も埋没させて行った。