DNT、竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。

本の森の棲み人 9

 竜には狭過ぎる穴の中を、歩き回れるようになるのには少し時間が掛かった。
 魔術師は、夜も昼も分からない薄暗がりの中で、ほとんど横たわって過ごし、竜が運んで来る水を飲んで、体に巻いた葉を取り替えてもらい、後はうつらうつら、眠っているとも目覚めているとも分からない風に、まるで冬眠中のけもののようだった。
 シェーンコップが2度ほど、火を通した肉──元は大きな鹿の──を持って来てくれたのだけれど、肉の焼けた匂いだけで吐き気がし、2度目は何とかひと口は噛み切ったものの、飲み込むのにひどく苦労して、それきりになった。
 空腹は、幸い再び使えるまで体力を取り戻した魔術で紛らわして、それでも口から物を食べなければ体力の戻りは遅く、ただでさえ肉付きの悪い魔術師は、首筋の辺りへはっきりとやつれを漂わせてシェーンコップを心配させた。
 それでも起き上がって歩けるようになり、やっと魔術師が外へ出たいと言うと、シェーンコップは顔を輝かせた。
 「水を浴びたい。何だか体中がむずむずするよ。」
 もう巻いていた葉は必要ない程度に、腫れはすべて引き、皮膚の色も、左腿の傷跡以外はすべて元通りになっている。
 葉の青臭さ──寝床もなのだから仕方がない──に魔術師は少しばかり辟易して、何もかもをさっぱり洗い落としたいと思った。
 「外に出るなら、私は竜に戻りますよ。」
 水浴びのできる場所まで、少し距離があるのだと言う。そんな距離を魔術師に歩かせるわけに行かず、そろりそろり、初めて洞穴の出入り口へやって来た魔術師が、顔だけ外へ出して辺りを窺うのに、シェーンコップはそこでいつものように竜の姿に戻った。
 外へ出ると、そこは森だった。自分のいた洞穴が、切り立った崖に無数にあるそのひとつと、見上げて魔術師は驚き、その数え切れない穴のひとつびとつを、竜たちはねぐらにしているのだとシェーンコップが説明する。
 「てっぺんに近い穴は、若い連中が入ります。真ん中辺りは、私のような連中のものです。飛ぶのが危うい者たちは、下の、地面に近いところにいます。」
 魔術師の洞穴は、出ればすぐ地面の、いちばん下にある、しかも竜には使いものにならない小さなもので、シェーンコップも人の姿になるようになって初めて入ったのだと言う。
 「君のねぐらはどれだい。」
 あれですよと指差され、魔術師は精一杯喉を伸ばしたけれど、生身ではとても登れるような位置ではなかった。
 「あなたがもうちょっと元気になって、もしあそこまで何とか上がれるようになったら、私のねぐらに横穴を開けましょう。あなたの本も全部一緒に置けるくらいの大きさのを。」
 どうかなと、思いながら反論はせず、魔術師は竜に向かって曖昧にうなずいておいた。
 森の樹々はどれも竜よりも背高く、幹は、魔術師の両腕では抱え切れないような太さに見える。樹と樹の合間から見える空は果てもないように高く、ここから出るとすれば、シェーンコップに連れられてなのだろうと、特に意味もなく魔術師は考えた。
 シェーンコップの揃えた両手の上に乗せられ、鋭い鉤爪がこちらに触らないかと少しびくびくしながら、魔術師は水のある場所へ運ばれる。
 竜たちも水浴びに使うと言う泉は、途中森の途絶えた場所にあり、碧みの強い青い水がさんさんと陽射しを浴びて、まぶしいほど輝いていた。
 地面に下ろされ、魔術師はまずは水に手を差し入れ、水温を確かめる。陽射しにぬるまってはいる。けれど深い場所は、恐らく水は冷たいだろうと思われた。
 弱った体で風邪を引くわけには行かないから、できるだけ浅くて水温の高いところを探そうとしてシェーンコップに訊くと、浅いところはありませんとあっさりと返される。
 「岸からもう、我々が半分程度沈みます。我々は水の中でも平気ですが、あなたはそういうわけには行かないのでしょう。」
 「踏み入った瞬間に溺れてしまうね。それとも君の血を飲んだから、泳げるようになってるかな。」
 「試すのは別の時にしましょう。」
 竜がたしなめるように言う。
 それも、魔術で何とかなりはするけれど、たかが水浴びに余計な力は使いたくはない。魔術師がやれやれと首を振ると、
 「私も一緒に入りましょう。私の手の上から、あまり離れないようにして下さい。」
 「言われなくてもそうするよ。」
 ここに運ばれた時と同じに、シェーンコップの差し出す両掌へ再び乗り、魔術師は背を向け、着ている物をすべて脱いだ。首に掛かった赤い石も外して一緒に置く。
 竜がそっと水の中へ入ってゆくのに、鉤爪を抱えるようにしながら、魔術師は水の冷たさを予期してすでに膚に粟を走らせている。思ったよりも泉の水はぬるかったけれど、その温度に慣れるまで、魔術師は首まで水につかって、しばらくじっとしていた。
 はあと大きく息を吐いて、ところどころまだ血の固まったままの髪を、やっと水の中でほどきに掛かった。指を通し、頭を振り、髪の後は、覚えている限り、怪我をしていた部分を掌でこすって、魔術師は全身から血と火の匂い、そしてすっかり染み付いてしまっている寝床の葉の青臭さを洗い流そうとする。
 そんな魔術師を見下ろし、捧げる形にした掌から魔術師が落ちたりしないように、竜は用心深く鱗の手を軽く丸め、ちょうど良く水に沈め、けれど長く鋭い鉤爪が決して魔術師に当たらないように、思ったよりも気を使うこの仕事に神経を集中させていた。
 魔術師の皮膚を、つるつると水が滑ってゆく。魚の腹のように白い、鱗のような模様はない魔術師の体は、水に濡れていっそう照りを増して、普段魚はあまり食べたいとは思わないシェーンコップは、この時だけは川を優雅に泳ぎ上がる魚の群れを思い浮かべて、口の中でぴちぴち跳ねる魚の体の冷たさを想像した。
 勝手に、細長い舌が口の中で動く。口からつい飛び出したそれが、獲物を狙う時のようにしゅるしゅるしなり、まるで魔術師を食べようとしているみたいに、けれど魔術師に伸びる直前に気づいて慌てて牙の間に引き戻した。
 水の冷たさに馴染んだ魔術師は、今は竜の掌の中で体を伸ばし、黒髪はふわふわ水藻のように水面に揺らいでいる。元の色を取り戻した皮膚の、けれど左腿だけがぽつりと赤い。
 それを見て、シェーンコップは自分の背中の赤い鱗が疼くのを感じた。
 滴る水が光を集めて、魔術師の体も輝いて見える。にっこりと、自分に向かって微笑み掛ける魔術師へ、竜は、人にはそうとは分かりにくいはずの笑みを浮かべた。
 竜の手の中にあぐらをかいて、魔術師は腕を伸ばして来る。自分に触れようとしているのだと思って、シェーンコップは顔の位置を、それに向かってゆっくりと落とした。
 牙の覗く口元を、魔術師の掌が撫でてゆく。鱗の流れに逆らうと、人間の小さな指がその間に入り込みそうになる。
 「気づいてるかい、竜の君。」
 突然、微笑んだまま魔術師が訊いた。
 「竜の、君の言葉が、わたしにはもうそのまま分かるんだ。」
 シェーンコップの暗い瞳孔が、すっと大きくなる。
 「君の血のせいだろうな。わたしの言葉もきっと、君にはそのまま伝わってるんだろう。不思議なことだね。」
 そう言えば、とシェーンコップは、魔術師の傍らで人の姿で過ごす時間が増えて、竜に戻った時に言葉をごく自然に切り替えたけれど、人間には鳴き声に聞こえるはずのそれが、もう思念ではなく竜の言葉としてそのまま魔術師に通じているのに気づきもしなかった。
 魔術師が、シェーンコップの牙の辺りを撫で続けている。それから、ゆっくりと唇で言葉を形作ろうとした。
 「えーと、しぇ・・・しぇえん・・・シェーン──?」
 「シェーンコップ。」
 2度目に会った時に名乗って、けれどその時の魔術師には発音ができなかった竜の自分の名を、シェーンコップは改めて名乗る。魔術師のために、もう一度、動く口の形を見せながら言った。
 「シェーンコップです、黒髪のひと。」
 「しぇーんこっぷ・・・シェーンコップ。」
 人間の、平たくて短くて厚みのある舌のまま、魔術師が、正確にシェーンコップの名を呼んだ。
 「わたしの他はみんな竜のところで、君を竜の君と呼び続けるわけには行かないからなあ。」
 人の喉と唇の発する音は、竜のそれよりもやや平たく、まろやかな音(おん)を帯びて聞こえた。
 「私はどちらでも構いませんよ。あなたの好きに呼んで下さい。」
 なぜかそう言った時、魔術師が、わたしの竜の君、わたしのシェーンコップと自分を呼ぶ声を聞いたような気がした。他の竜ではなく、シェーンコップだけを呼ぶ、魔術師の声。もしかすると、シェーンコップの血は、魔術師を竜に近づけて思念までも分け合えるようにしたのかもしれない。
 それなら、と魔術師をそろそろと水の中から引き上げながら、シェーンコップは、今では自分を両腕全部で撫でている魔術師へ、
 「あなたが私の名を呼ぶなら、私もあなたを名で呼びたい。」
 濡れた黒髪の額に張り付いた、魔術師が戸惑った表情を浮かべた。
 「わたしには名前と言うものはないんだ。」
 以前言った同じことを、言い含めるように繰り返す。竜はひるまず微笑みをたたえたまま、はっきりとした声で言った。
 「それなら、私があなたを名付けましょう。あなたの黒髪を、私はとても気に入っていますが、それはそれとして、あなたを、あなたを表す名で呼びたい。」
 「君が、わたしに名前をくれるのかい、シェーンコップ。」
 「あなたが、嫌でなければ。」
 鱗に触れていた手を離し、魔術師は少しばかり考え込むように、唇を真一文字に結んだ。しばらくして、やっと顔を上げて、
 「まあ、いいや。君が決めてくれた名前を、わたしが気に入ったら、と言うことにしよう。気に入らなかったら、呼ばれても返事はしないよ。」
 わざとそっぽを向きながら、茶化した口調でそんな風に言う。
 長くは考えずに、魔術師を水から完全に上げる前に、シェーンコップは思いついたことを口にしていた。恐らく、ずっと意識はせずに考えていたことだったのだろう。竜の口が、少し不思議な形に開く。
 「ヤン、ていとく。」
 「やん? ヤン? どういう意味だい。」
 「竜ではない、と言う意味です。"ていとく"は、導く者、と言う意味です。」
 「へえ、わたしたちの言葉にも、同じ音があるよ。意味は、少しだけ似ているかな。」
 「ヤンていとく。」
 「"ヤン提督"──へえ。」
 まんざらでもなさそうにそのままを繰り返す、竜の言葉とはわずかに音(おん)の違う、魔術師の音を聞き取って、シェーンコップはそれを口移しにした。
 「ヤン提督。」
 「シェーンコップ。」
 竜の言葉で名を与えられた魔術師──ヤンは、礼の代わりのように、再びシェーンコップの口元を撫で、それから、牙を避けて、そっと小さな唇で口づけをした。
 「いい名前をありがとう。誰かに名前で呼ばれるなんて、思ってもみなかったよ。」
 シェーンコップは、鱗でヤンの膚を傷つけないように、そっと頬ずりを返す。
 「風邪を引く前に、水から出ましょう。」
 ヤンから習った、風邪と言う人の言葉を、シェーンコップが使う。すでに陽射しでヤンの体は乾き、けれど黒髪からはまだ水が滴り、竜のシェーンコップを真似て、ヤンはぶるぶる頭を振った。
 匂いはすっかり洗い流され、血の痕跡はもう跡形もない。草と葉の寝床に戻って、また青臭さが染み付くのが残念だったけれど、また水を浴びにくればいいだけのことだった。
 来た時よりも、ヤンは少し浮かれている。恐らく、自分に与えられた新しい名前のせいだった。
 脱いでおいた服を身に着けながら、それを見ているシェーンコップが、かすかに安堵の息を吐いたのには気づかない。
 くしゅんと、小さくくしゃみをしたヤンを、慌てて風──ごくわずかな微風──から守るように、シェーンコップが鉤爪の手で周りを覆って来る。
 それを笑うヤンの口元には、今は久しぶりの清々とした表情が刷かれ、笑みはしばらくヤンのつるりとした頬にとどまったままでいた。

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