本の森の棲み人 10
谷間と森は、ヤンには見渡せないほど広く、そして滅多とシェーンコップ以外の竜には出会わない。その、シェーンコップではない他の竜が、今日はヤンと一緒に日向ぼっこの最中だ。
今日は、シェーンコップがいない。狩りのために、谷の外に出るのだと早くに出掛けてゆき、シェーンコップの代わりに、2頭の竜がヤンの洞穴の入り口を見張っていた。
「谷の向こう側が広い草原になっていて、大きな獣がたくさんいるんです。」
雨に濡れた土の色の竜が、そちらを鉤爪の指で示しながら言う。目の上にひと筋斜めに走る傷跡があり、そのせいで少し細めたように見える目は、深い湖みたいな色をしていた。ブルームハルトと言う名前を、今ではヤンはきちんと聞き取ることができ、そのまま呼ぶことができた。
「大きいと言っても、我々ほどじゃありませんが、この間は小山みたいな猪を捕まえてましたよ。」
「君らは、狩りには行かないのかい。」
「いつもは一緒に行きますが、今日はここにいろと言われましたから。」
もう1頭の竜が言う。こちらは混じりけなしの金色の鱗に、目はブルームハルトよりももっと暗い青だった。あごにある切り傷の跡は古いもののように見えたけれど、顔に傷のあるのは襲われても怯まず、強い証拠だと聞いたことのあるヤンは、彼らが自分に穏やかに接してくれるのに感謝しながら、食べられるならひと飲みだなあと、ちょっと首を縮めるように考えている。
この金色の竜はリンツと名乗った。例の、竜のシェーンコップの姿絵を描いた当人だと言われて、ヤンは慌てて礼を言った。燃やされてしまった絵のことを思い出して、ひそかに胸も痛む。
「絵や文字を表すのは自分の手間だけですが、記す先を調達するのが案外大変なんです。」
なあ、と言うように、リンツがブルームハルトを見る。
「たいてい、動物の皮を剥いで使うんですが、きれいに剥ぐのが難しくて──こいつはそれがとても上手いんです。この爪で、すうっと真っ直ぐに──」
リンツが、ブルームハルトの仕草を、ヤンに真似て見せた。
ぬくぬくと陽射しを浴びながらするには、少しばかり血なまぐさい話題の気もしたけれど、ヤンはちょっと頬の辺りを引きつらせただけで、話の向きを強いて変えようとはしない。
シェーンコップの代わりに、自分も守(も)りと相手をしてくれる2頭に気を使って、ヤンは竜の話を興味深い振りで聞いている。
とは言え、それは決して振りだけではなく、確かに好奇心をそそる話ではあった。
「大昔は、ここにも大きな生き物がいたそうですが、我々竜が増えて、食べ尽くされたのか逃げたのか、今は森にいるのは小さな生き物ばかりですよ。」
「大昔の話ってのは、書物に書かれてることなんだろう。」
「そうです、まとめて置かれているのを、あなたに見せたいからと、言われて整理を手伝いました。」
リンツが言った後に、ブルームハルトが言い足した。
「私はあまり、保管されている書物に興味はなかったんですが、読み出すと案外面白くてやめられません。」
「へえ、君も読んだの。」
ええ、とブルームハルトがうなずいたのが、何だか笑っているように見えた。
それから、2頭があれこれとこの竜の谷について話すのを、ヤンはじっと聞いている。彼らはあまり大勢では群れないのだとか、谷の端と端では滅多と会うこともなく、ここに棲む竜たちがすべて知り合っているわけでもないとか、別にそれで仲が悪いと言うわけでもないとか、シェーンコップは狩りの上手さと勇猛さで、谷の外の竜たちにもよく知られていて、人間の魔術師──ヤンのことだ──と付き合いが始まったと言う話で、別に食っても美味くもない人間たちとも交わりを広げる気かと皆で笑っていたとか、高齢の竜たちからも一目置かれている、だからここにヤンを連れて来ても平気なのだとか、時々、ヤンには分からない竜たちの間の話を混ぜながら、そうして2頭はヤンの相手をし続けてくれた。
彼らはシェーンコップを呼ぶ時に、タイチョウ、と彼のことを言う。竜の言葉での意味は分からなかったけれど、シェーンコップがヤンを提督と呼ぶのと、指すところにそれほど違いはないように思えた。ヤンはその音を、人間の言葉の"隊長"に置き換えながら聞いていた。
ブルームハルトが、ずいぶん前に死んだと言う彼の祖父の竜の話をしている時に、その羽ばたきが聞こえ、ひとりと2頭は同時に空を振り仰ぎ、ずっと先へ降り立つその影の動きを目で追った。
じき足音がやって来て、ヤンはまるで2日も会わなかったように、懐かしげに、リンツとブルームハルトの後ろに立つシェーンコップを見上げる。
向こうに獲物があると、シェーンコップが長く首を回すと、リンツとブルームハルトは立ち上がりながら背中にたたんでいた羽をゆっくりと広げ、ヤンへ向かって揃って首を振り、シェーンコップが示した方へ去って行った。
シェーンコップが動いて揺れた空気の中に、獲物のそれだろう血の匂いが漂う。ヤンは顔をしかめそうになるのを止め、微笑みを作った。
シェーンコップは、仲間の竜たちが消えると人の姿へ変わり、ヤンの隣りにどさりと腰を下ろした。
ヤンはもう尋ねもせずに、自分には青い茶を、シェーンコップには緑の茶を出す。血の匂いを消し、口の中を洗い流すためとは言わずに、シェーンコップが黙ってその茶を受け取ってひと口飲むのを、ヤンは黙って見守った。
「君以外に、人の姿になれる竜はいないのかい。」
「いるでしょうが、人の姿になる理由がありません。」
両手に熱い茶の入った器を抱えて、ヤンが訊くのにシェーンコップが答え、それきりしばらく言葉が途絶えた。
降り注ぐ陽を一緒に浴びて、竜の谷で人の姿がふたつ、並んで茶をすする光景は少しばかり異様だ。それでも、ヤンを邪魔にする竜たちがいないのはシェーンコップのおかげで、そのシェーンコップがここにこうしているのはヤンが彼を助けたせいで、奇妙な成り行きでこうなったふたり──ひとりと1頭──は、互いの心の内を探りながら、次の言葉を探している。
再び口を開いたのは、シェーンコップの方が先だった。
「・・・まだ、肉は食べませんか。」
ヤンはシェーンコップの方を見ないために、手の中の青い茶の表面へ目を凝らし、聞こえない、小さな小さなため息をひとつこぼした。
「腹は空いてないよ、大丈夫だ。」
時々見かける樹になった実を取って食べ、それで満たされない空腹は魔術で紛らわせて、ヤンはまだここへ来てから肉を口にしてはいない。生肉は食べられず、火を通したそれは匂いが吐き気を誘って、見る気すらしなかった。
血の匂いと炎の匂い、今はどちらからも、できるだけ隔たっていたい。体の傷は癒えても、浅い眠りが悪夢に襲われるのは止まらず、今飲んでいる青い茶がじきヤンを眠りに誘って来ても、ヤンにとって心地好いそれであるかどうか保証はなかった。
シェーンコップは淋しげにヤンを見、茶を飲み、ぽかぽかあたたかい陽射しに目を細める。
ヤンの出した茶がぬるくなる頃には、もう切り立った崖のてっぺんへ、太陽の縁が掛かり始めていた。
ここでは陽の差す時間はごく短く、風が冷たくなる前にと、シェーンコップがヤンの手を取る。その手のひんやりと冷たいのに、シェーンコップは形の良い眉を寄せた。
熱が下がったならいい、けれどシェーンコップが触れても冷たいのは、小さくても不安の種になる。
「中へ入りましょう。風に当たると冷える。」
ヤンは返された茶の器を消し、素直に立ち上がり、シェーンコップに手を引かれて自分の穴蔵へと戻る。
葉の寝床の傍らに、これも葉を敷いて積み上げられた本が数冊、読み掛けの1冊からわずかにはみ出した赤い栞が、ほのかに穴の中を照らしていた。
寝床に横たわるヤンの額へ掌を当て、痛いところはないか、気分は悪くないかと、その青白い顔を覗き込みながらシェーンコップは訊く。ヤンはけだるげに瞬きして、別にとゆるく首を振る。
青い茶のせいで、ゆっくりと眠気が頭の中を満たして来る。シェーンコップが傍らにいれば、少なくとも眠りの中に落ちてゆくことはできるヤンだった。
「あの金色の──リンツが、君の絵を描いてくれたって・・・。」
ヤンの手の冷たいのを気にして、シェーンコップは自分の両掌の中に、ヤンの片手を挟んだままでいた。
ええ、とうなずいてから、
「文字を記すより楽しかったと。」
笑いを混ぜてそう言い足すと、ヤンもつられたように笑う。
「せっかくの絵を焼かれてしまって、彼には悪いことをしたなあ。」
「仕方がありません。あいつも、気にはしませんよ。」
ヤンはまたシェーンコップから視線をずらし、あごを胸元に埋めるようにして寝床の中で体を丸めながら、引き寄せた自分の膝に話し掛けるように、小さな声で訊いた。
「・・・また君を描いて欲しいと頼んだら、描いてくれるかな・・・。」
それがどれほど厚かましい頼みなのか、ヤンにはよく分からず、竜が感じることはまた違うのかもと思いながら、上目にシェーンコップを見る。
「次の狩りの時に、いちばん大きな獲物を渡せば、あいつもいやとは言わないでしょう。」
にやっとシェーンコップが笑って見せて、横に広い唇を、竜の時みたいにさらに広げて、
「もっとも私としては、あなたの絵が先に欲しいところですがね。」
突然言われて、ヤンは赤くなった頬をごしごし寝床の葉にこすりつけた。
「それじゃあ、頼みが倍になるじゃないか。狩りをする君も大変だし、皮を準備するブルームハルトはもっと大変だ。わたしは礼なんかできないよ。」
「あなたからの礼は、あなたが元気になってくれればそれでいい。」
微笑みのままそう言うシェーンコップの口調が、不意に真剣さを増す。ヤンはそれに応える言葉を持たないまま、視線を泳がせて黙り込んだ。
シェーンコップはヤンの手を撫で、手首の骨の大きさを測るように指をそこに巻き、それからまたヤンの額を撫でて、黒い目の、眼球の丸みを、髪と同じ色の眉の近くに探る。
リンツがいずれ描くかもしれないヤンの絵姿を思い浮かべて、この現実のヤンの線がどれほど絵の中に現れるかと推し量るように、シェーンコップは今は人の指先で、ヤンの顔をくまなくなぞった。
鼻筋をたどった続きで、上唇の線へ指先を置き、そのままヤンの口の中へ指を差し込みたくなって、ふと自分の肉ならヤンは食べるだろうかと、一体どこからそんなことを思いついたのか、シェーンコップは突然考える。
同族の肉を食べることは別に禁忌ではなく、生き残るためなら共食いも辞さないのが竜だけれど、人の、けれどシェーンコップの血を飲んで竜に連なる者となったヤンがシェーンコップを食べて、それは共食いになるのかと考えながら、ヤンに対する自分の食欲がそんなことを考えさせるのだと、シェーンコップは動揺を押し隠して、やっとヤンの顔から手を引いた。
「絵のことは、今度リンツに訊いてみましょう。」
うん、とヤンはうなずいて、シェーンコップの手の中から自分の手を取り返し、代わりにシェーンコップの膝へ向かって体をずらして、そこへそっと頭を乗せる。
少し驚いて、シェーンコップは脚の筋肉へ思わず力を入れた。
「"隊長"の君の頼みなら、リンツも断らないだろうけど、無理は言わなくていいよ。」
その上、ヤンに"タイチョウ"と不意打ちで呼ばれて、隠したはずの動揺が顔に出た。幸いに、シェーンコップの膝に顔を埋めているヤンにそれは見えず、竜の姿のままなら、きっと長い尾が地面を叩いているところだったから、人の姿でよかったとひそかに胸を撫で下ろして、ヤンの髪を撫でたい自分の手を、シェーンコップは奥歯を噛んで止めた。
ヤンの体は、やはりシェーンコップと同じ程度かそれよりも冷たかった。
間遠な瞬きをするヤンを見下ろして、シェーンコップが、ヤンの眠気を妨げないように小さな声で訊く。
「・・・寒いですか。」
「少しね・・・。」
素直にそう答えたヤンは、ずるりとシェーンコップの膝から頭を滑り落とし、その動きと一緒にシェーンコップの胸元をそっと掴んで来た。
「わたしが眠ってしまうまで、行かないでくれ・・・。」
ひとりでは、眠りの端にたどり着いた途端に、悪夢を見てしまうから。
ヤンの思念を読み、シェーンコップはヤンの傍らへそっと横たわり、ヤンを胸の中へ抱き寄せた。
今日は半日一緒にいられなかった、その埋め合わせのように、抱き合ってシェーンコップも目を閉じる。ヤンをあたため、ヤンの眠りを護るために、シェーンコップは眠るつもりはなく、ヤンの背中をゆっくりと撫で始めた。
穴の外では、竜たちや他の生きものの動き回る気配があり、けれどそれはここまでは伝わっては来ない。静けさの中に、呼吸と心臓の動く音を重ねて、やがて穴の中は、さらに静かになった。
ヤンの髪へ、シェーンコップはそっと唇を押し当て、掌は休まずヤンの背中を撫で続けていた。
血の匂いも炎の匂いも忘れて、今だけは穏やかに、ヤンの寝息がシェーンコップの胸元を湿らせてゆく。