本の森の棲み人 11
竜と人間が一緒にいるのは、少しだけ骨が折れる。ヤンは、竜のリンツに踏み潰されないように気をつけながら、彼が樹の枝から果実をもぎ取ってくれるのを見上げていた。
ヤンが食べられそうな実はどれも小さく、リンツは何度も鉤爪の先でそれを潰してしまい、しまいには枝をこそげて、掌に落ちた葉ごとヤンに差し出して来る。リンツがそうする時も、鉤爪の先が当たらないように、ヤンは気をつけて距離を測った。
「すまないね、わたしでは届かなくて。」
リンツが肩をすくめて見せた。
ヤンは差し出された葉っぱの山から、木の実を拾い上げては携えて来た椀の中へ入れ、それは小さな黒い実が集まってできた実で、幸い種はなく、酸味は強いけれど吐き出すほどではない。
まれに、リンツは他の枝に見つけた実も摘み取って差し出し、食べられるかどうかはともかく、ヤンはそれも一緒に椀に入れる。
「今日は何だか騒がしいね。」
森の中から、穴蔵の並ぶ崖の方を見て、ヤンが言う。朝の早いうちに、シェーンコップはブルームハルトを連れてどこかへ姿を消し、ヤンに付き合うためにやって来たのはリンツだった。
「年寄りが死にましてね、弔いの準備ですよ。」
それが悲しいとか淋しいとか言う口調ではなく、空が青いとでも言うような言い方で、リンツが上から告げて来る。
「え、誰かの家族とか身内とか・・・。」
「さあ、我々はあなた方人間のように、家族とかそういうくくりで暮らしてるわけじゃありませんから。」
「でも、お弔いはするんだね。」
「仲間が死ぬと、また増やす準備がいりますから。死んだだけでは、我々は滅びてしまいます。」
リンツの竜の言葉は、そのままヤンの頭の中できちんと理解されるにせよ、内容もまたそのまま伝わると言うわけではなく、ヤンにはリンツの言っているお弔いとやらのことがさっぱり分からなかった。
「お弔いって、何をするんだい。」
「雌雄同体の者が肉を食べて、残りは砂漠で焼いて、骨は砂に埋めます。食べた者はつがいを見つけて、仔を作ります。」
「し・・・しゆうどうたい? 食べる?」
「死んだら、肉を食べて、それが新しい仔になります。我々は長命ですから、それほど数を増やす必要はないんです。死んだ年寄りは300近かったそうで、我々の中でも長生きでしたが。」
同族の死肉を食べると言うのは、それが竜たちの習慣にせよ、あまり想像して気持ちの良いものではなかった。死んだ者の肉が、生きている者に食われて新しい命になると言う考え方も、人間のヤンにはよく分からず、すらすらリンツが答えてくれることの半分も、ヤンには理解ができない。
「シェーンコップとブルームハルトは、肉を食べに行ったのかい・・・。」
恐る恐るヤンが訊くと、リンツがきょとんとヤンを見下ろして来た。
「まさか。隊長もブルームハルトも、私もですが、つがいにはまるきり関係ありませんから。ふたりが行ったのは、年寄りの体を砂漠まで運ぶためです。300近くまで生きただけあって、大きな体だそうで、寝床の穴から引きずり出すのも大変だったでしょうね。それを抱えて谷の向こうまで飛ぶのは大仕事ですよ。」
仲間が死んだと言うのに、それがどうしたのだと言わんばかりの口調で、リンツは木の実を取る手を止めず、ヤンの方が死んだと言う年寄りを勝手に不憫がって、つい口数が少なくなる。
つがいの話は、ヤンにはいっそう不可解で、リンツは人間のヤンに分かるように説明するなど考えもしないようだし、シェーンコップが戻って来たら訊いてみようと、ヤンは椀の中の黒い実をひとつ口の中に放り込みながら考えた。
木の実取りが終わり、リンツの日光浴にお茶を飲みながら付き合い、やがてシェーンコップとブルームハルトが戻って来て、ヤンには聞き取りにくい早口で、弔いの様子をリンツに説明し始めた。
皮と言う言葉は聞き取れ、それにブルームハルトが森のどこかを指差すのへ、リンツがうなずいて、雨がどうのと3頭が空を見上げながら言い、
「夜は私のねぐらへ持って行きます。」
一体何のことか、ブルームハルトがそう言ったのへ、頼んだぞとシェーンコップがあごの先を振った。
2頭が、自分たちのねぐらへ戻るのか立ち去ると、シェーンコップはすぐに人間へ姿を変える。ヤンはやっと頭上へ向かって伸ばしていた首を元に戻し、聞こえないようにほっと息を吐いた。
「砂漠まで弔いをしに行ったって、リンツが言っていたよ。」
ええ、とうなずいてから、骨になるまで焼くのが大変だったと説明し掛けて、シェーンコップは笑顔のまま唇を閉じた。
「君らの弔いは、わたしたちのとはずいぶん違うんだね。」
「リンツがそう言いましたか。」
「うん、肉を食べるとか新しい仔を生むとか、砂漠へ運ぶとか──。」
「まあ、そんなところです。」
言葉を濁し、シェーンコップは笑みをさらに深くして、ヤンの腕を取った。
「あなたのねぐらへ行きましょう。お茶を出していただけませんか。」
顔色の悪いのは治らないヤンを支えるようにして、シェーンコップはヤンの背中を押す。そうされて、おとなしくシェーンコップの腕へ体を預けて、ヤンは足を前に出した。
リンツが今日摘んでくれた椀いっぱいの木の実を、ヤンは2日掛けてゆっくり食べる。味は魔力で何とかなる。たとえ人間には毒の実でも、竜の血を飲んだヤンの身を害することはできないから、それほど神経質に選別する必要もない。とは言え、弱った体を痛めつけたくはないから、見知らぬ木の実はほんのひと口まず試して、全部食べてみるのはそれからだ。
葉の寝床へ坐り、ぼそぼそ木の実をつまむヤンの傍らで、シェーンコップは今日は赤い茶を飲み、ふと思い出したように、
「あの焼き菓子にも木の実が入っていたが──それとはずいぶんと味が違う。」
ヤンは木の実の汁で赤黒く染まった自分の指先を見て、
「あれは干してあったり、砂糖に漬けてあったりするからね。焼き菓子が、恋しいかい。」
ちょっとからかうようにヤンが訊くと、案外生真面目に、茶の器の向こうからシェーンコップがうなずいて見せた。
「あれなら、あなたも食べられるでしょう。」
「わたしは、木の実があれば大丈夫だよ。」
ヤンは、またひとつ木の実を口に放り込んだ。
実を噛む唇の端に、果汁がかすかに黒くにじみ、やたらに酸っぱいその実を、ヤンはごくりと飲み下す。
それをじっと見ていたシェーンコップが、黒く濡れたヤンの唇へ、指を伸ばして来た。伸びる指と一緒に、低めた声も近づいて来る。
「焼き菓子ではなく、私の肉を、食べますか──。」
唇を押さえる指先が、合わせ目から中へ入り込もうとするとを、ヤンは慌てて顔を振って避けた。
指の代わりのように、シェーンコップが腰を滑らせて来て、ヤンへ体を寄せて来る。いつも、ヤンを護ったりあたためたりする時とは少し違う風に、ヤンの背中へ長い両腕が巻き付いて来る。ヤンはそこで、身を固くした。
「君の肉なんか、いらないよ。君にはもう血をもらったんだ、これ以上君からは何もいらない。」
「──私は、あなたを食べたい。」
そう動いたシェーンコップの唇がヤンの唇を覆って、そうして、木の実の酸味の残る唇の合わせ目を差し出した舌で舐め、歯はどこにも立てずにそのまま位置をずらしてゆく。
ただヤンを抱きしめてシェーンコップはそれ以上動かず、ヤンは自分を抱いて震えているシェーンコップの背中を、小さくため息を吐いてそっと撫でた。
シェーンコップの腕から逃れられず、強いて逃れようともせず、ヤンは広い肩にあごを乗せ、近頃ますます骨張って来た自分の体は、食べてもちっとも美味くはないだろうと考えている。
「別に、君に食べられるのはいやじゃないよ。ただ、食べるなら生きたままじゃなくて、さっさと殺してから──」
「そうじゃない、私が言うのは、そういう意味じゃない。」
ヤンの首筋で頭を振り、人間のシェーンコップの柔らかな髪にあごをくすぐられて、その髪色に、ヤンは一緒に食べた焼き菓子の味を思い出した。あの甘さが、今はひどく恋しい気がした。
「あなたと、つがいになりたい。」
絞り出すように、シェーンコップが言った。
竜は、そのことをそんな風に言うのかと、ヤンはぼんやり思う。つがいとはまた、ずいぶんと直截な言い方だと思って、どちらにせよわたしはちっとも美味くはないよシェーンコップ、と、ヤンは目の前の、人の姿の竜へ思念を送る。
シェーンコップの腕の輪が、いっそうヤンの回りで縮まった。
どうしようかと、ヤンは迷った。竜の言うつがいと言うものを完全には理解できずに、どうぞと返事をしていいものかどうか、そもそも、仔を生む生まないにまったく関係のない自分たちが、つがいになることが可能なのかどうか、それすらよく分からない。 少なくともシェーンコップが人の姿のままなら、抱き合うくらいはできる。けれどその先は──?
本で読んだあれこれを思い出しながら、結局のところ、そのつがいと言うシェーンコップの考えを拒む気はない自分へ、ヤンはくすりと苦笑をこぼし、君になら食い殺されてもいいと、シェーンコップのあごを両手で持ち上げる。
唇の合わせ方もよくは知らないふたりは、ただ押し当てたそこをようやくこすり合わせて、シェーンコップはつい竜の細長い舌のつもりでヤンの唇を割り、人間の、厚みのある短い舌の扱いに戸惑いながら、ヤンの口の中を舐めた。
「ちょっと、待って。」
自分の肩を押して来るシェーンコップをそこで止めて、ヤンはシェーンコップの背中の後ろで腕を振った。
久しぶりの、防御の異次元へ、ふたり一緒に運ばれる。自分のねぐらに不満はなかったけれど、あの寝床の葉の青臭さを気にしたくはなかった。
シェーンコップが、ヤンの素肌へ直に触れて来る。骨の固さへ時々眉を寄せながら、ヤンと額をこすり合わせ、肩や胸をこすり合わせ、そうして、喘いで開いたヤンの口の中へ自分の指先をそっと差し入れる。ヤンはそれを、力を入れずに噛み、舐めた。食べずに食み、そうして空腹の胃がわずかに刺激されて動き、ヤンの脳は久しぶりに食欲と言うものを思い出していた。
シェーンコップの体は、どこに触れてもヤンの指先を弾き返し、竜の鱗とは違う固さが、ヤンの薄い胸を押し潰して来る。シェーンコップの加減の調子の少々狂うたび、ヤンはその手を押さえて止めて、重いとか痛いとかもう少しゆっくりとか、そんな風にシェーンコップの耳元でささやいた。
シェーンコップは、ヤンを食べたいと思うのをもう止めずに、ヤンの全身を舐めた。決して食いちぎりたいわけではないヤンの皮膚を味わい、代わりに、ヤンには自分の指先を与えて、ふたりは互いを舐め、噛み、しゃぶり、互いの食欲をそんな形で満たしている。
シェーンコップの指がヤンの舌をすくい取り、指の腹で裏も表も撫で、うわあごの凹凸をひとつずつなぞって、柔らかな頬の内側を軽くつまむ。その指の後を、差し入れた自分の舌に追わせて、シェーンコップはまた飽きずヤンの口の中をくまなく探る。
上になり下になり、体の向きを何度も変えて、足指の爪の形まできちんと人のそれに写したシェーンコップへ、感嘆の吐息を漏らしながら、その小さな爪にヤンはぎりぎりと歯を立てる。お返しに、シェーンコップはヤンの足裏を舐め、足の小指を口の中へ入れて、少し強く噛んだ。
そこなら噛みちぎられてもいいと、ヤンが思ったのが伝わったのか、シェーンコップは詫びるように自分が噛んだそこを丁寧に舐め、それから体の位置を変えて来て、ヤンの黒髪をそっと撫でた。
動き回る手指が、互いの体の輪郭をたどり、肋の凹凸や鎖骨のくぼみの深さを覚え込もうとする。
そうしてついに、どうすればいいとすでに知っているみたいに、シェーンコップはヤンの下腹へ顔をずらして、勃ち上がってかすかに震えているヤンのそれを口に含んだ。すでにぬるぬると、果てるためのひと触れを待っていたヤンは、シェーンコップの舌の熱に触れた途端にあっけもなく終わり、ヤンの吐いたそれを、シェーンコップはためらいもなく飲み下す。
能力を分け合うために、互いの肉を食べたり血をすすったりするのがごく当たり前の竜にとっては、それは特別のことでも何でもなかった。
疲れ果てても、ぬるつく皮膚の上で分け合う汗が、竜の力を分けてくれるものかどうか、ヤンは決して萎えてはいない手足を集めて、今度は自分がシェーンコップの上へ這い寄った。
見た目は人間のそれでも、掌で包むと微妙に鋭い突起の感じられるシェーンコップの性器へ、恐る恐る唇を近づける。舌へ乗せるだけのつもりが、竜の生殖器はそういうものなのか、ヤンの口の中で勝手に動き回り、じわじわと先端からあふれ出す熱は自然にヤンの喉奥へ送り込まれてゆく。
飲み込んでいると言う自覚もないまま、ヤンは確かにシェーンコップのそれを飲み、そして飲み下すたび、胃の中に無数の小さな火がちりちりと燃え始め、おまえは今は竜なのだと、自分に向かってささやく声を聞いた。
喉を心地好く焼いてゆくそれの熱さが、酒と似ていて、ヤンは酔ったように目元を染めて、シェーンコップのそれを舐め続けた。
シェーンコップが果てたのが一体いつか覚えもなく、気がつけばそこに横たわり、互いの体に絡めた手足は外さないまま、ヤンは赤みの差した全身をまだシェーンコップへこすりつけて、久しぶりに寒さも空腹感もないのに、これはシェーンコップのおかげかと、熱に潤んだ目を向ける。
焼き菓子とよく似た色のシェーンコップの髪の中へ両手の指を差し入れ、ヤンはそこへ唇を押し当てた。
美味かったと、口の中で舌が勝手に動いている。
人の体を寄せ合って、なめらかな膚を重ね合って、互いを食べ合うのに、死ぬ必要も殺す必要もないのだと知ったふたりは、また互いを食べ合うために、互いへ向かって唇を差し出していた。