本の森の棲み人 18 (最終話)
雨の気配のないのを見計らって、ヤンは旅立つ日を決めた。支度と言って、リンツが集めてくれた木の実を、ブルームハルトが用意してくれた小さな皮袋──例の、死んだ年寄りの皮──に入れて持ってゆくだけ、後は本を収めたままの竜の石を身に着け、ふらりと散歩にでも出るような身軽さだ。
草の寝床の青臭さが、去るとなれば何となく名残り惜しくて、ヤンは先に外に出たシェーンコップを待たせて、もう一度自分のねぐらだった穴を振り返る。
ここに、本棚を作り、本をすべて並べることを考えた日もあった。結局そうはしなかった。今日と言う日が来ることを、その時すでに予感していたのだと今なら分かる。
心地良い眠りを貪った幾つもの夜を思い起こして、またあんな風に眠れるだろうかと、ヤンは考える。歩き疲れた体を、ひとりきり横たえて、そうして眠ろうとする夜に耐えられるだろうかと、ヤンはやっと引き剥がすように穴から出ながら考えた。
人の姿のシェーンコップがそこでヤンを待ち、やるせなげにヤンを見て、森の方を窺う振りで視線を外す。
ヤンが谷を去ると決めて以来、毎夜ヤンの傍を離れなかったシェーンコップは、引き止めるようなことはひと言も口にしない代わりに、昨夜はただヤンの膝に顔を埋めて泣き続けた。
ヤンは、シェーンコップの震える背を黙って撫で、そこに走る傷跡に、癒やすためのように掌を当て続けていた。
互いの躯から吹き出す汗の、蜜色に染まっているように見えて、それを食んで飽きずに、すでに飢えの気配を揺らめかせるシェーンコップの瞳に、いっそここで自分を食べてしまってはどうかと、そう言いたい気持ちを、ヤンは何度も飲み下した。
そうではない、ヤンをヤンとして、生かしたいとシェーンコップは望み、ヤンは人間としての生を今は選んだ。シェーンコップに、自分を食べてしまえと言うのは簡単だ。けれどシェーンコップは、竜の本能よりもヤンとともに生きる道を選んだ。
見ているものは同じだ。たとえ、一緒にはいないのだとしても。
竜のシェーンコップの口の中で、ヤンの躯を探って動く舌と、今にもヤンを飲み込みそうに波打つ喉奥と、それはヤンを食みながら、ヤンを食べてしまうためではなく、落ちたシェーンコップの、小さな炎の揺らめく胃の中の闇で、ヤンは穏やかに眠りながら融かされ、そうしてシェーンコップ自身と融け合う、そんな方法もあった。けれどふたりは、それを選ばなかった。
ひとつにはなれない。ひとつにはならない。そしてひとつにならないまま、竜と人間は、これからともに歩む方法を、長い時間を掛けて探してゆく。何もかも手探りだ。
そんなことが、可能と思うのですか。
人間の寿命では無理だろうね。でもわたしと君は、それより倍長く生きるんだ。どこかできっと、何かが見つかるさ。
長いだけの人生は退屈だからと、言い掛けてヤンは言葉を飲み込み、曖昧なその笑みの意味を正確に読み取っても、シェーンコップはもうそれ以上の問いを投げては来なかった。
見つからなくても、わたしは君を見つけたし、君はわたしを見つけた。それで十分だよ──。
シェーンコップの鱗の感触を、次に会うまでに忘れないようにしようと、森と谷を越えるために竜に戻ったその鉤爪の手へ乗りながら、ヤンは思う。
鱗の形、なめらかさ、重なりの、くっきりとした凹凸、その色が、陽を浴びると黄金に輝く様も。
シェーンコップは両手にそっとヤンを包み込むようにすると、静かに空へ飛び上がる。
ヤンに見せるためか、シェーンコップは真っ直ぐではなく、時々左右に丸く逸れながら、谷の向こうの端へ向かって飛ぶ。
ヤンは重なる鉤爪の間から、眼下の森と、時折見える竜たちの日向ぼっこの背中を眺め、崖の穴々から時々突き出される竜たちの顔を眺め、彼らの、この谷での営みを目に焼き付けようとした。
ふと、ひと際白っぽく見える竜の姿がちらりと見え、首をねじってそれを追い、もしかしてあの人間風情の白い竜かと思ったけれど、上からでは顔も見えず首の長さもよく分からず、確かめる術もないまま、シェーンコップは大きく羽ばたいて森の端に向かってゆく。
人間風情はこの谷を去り、シェーンコップは竜の暮らしに戻る。だから、シェーンコップをどうか放っておいてくれと、そうヤンが念じたのが伝わったものかどうか、白い竜はふと首を巡らせ、森を越えてゆくシェーンコップを仰ぎ見て、どんな表情を浮かべたのか、もう通り過ぎたヤンには見えなかった。
森の、いちばん背の高い樹よりも崖ははるか高く、それへ向かってシェーンコップはゆっくりと上昇してゆく。
陽の光のあふれる空の蒼さの中に、ひとりと1頭の姿は完全に溶け込み、その時、彼らは確かにひとつの何かだった。
崖を越えると、そこにはまた森が広がり、その森もゆっくりと越えて、シェーンコップは森が切れて土の剥き出しになった広い地面を見つけ、やっと地上に降り立つ。
土の上に、ごくかすかに、生きものたちの辿った跡がある。これを進めばどこかへ行けるだろう。ゆく先には木々の影も見え、空気の揺らめく辺りには水があるのだと分かる。水を追ってゆけば、いずれ海にたどり着く。どれだけ先かは分からない。それでもヤンは、まだ海の片鱗もないこの眺めに失望はしなかった。
「ありがとう。」
振り返って、ヤンは言った。シェーンコップはもう人の姿になり、そこにぼんやりと立っている。結んだ唇の形を崩さないために、噛んだの奥歯の線があごに走り、悲しい時淋しい時、人の髪は普段の艶を失ってしまうものなのだと、ヤンはシェーンコップを見つめて思う。
「リンツとブルームハルトに、よろしく伝えてくれ。色々とありがとうと。」
懐ろに入れた木の実の袋を軽く叩いて、ヤンは微笑んだ。シェーンコップが、浅くうなずいて見せた。
ヤンが谷を去ると知って、彼らは驚き、けれど卵を抱えると決まっていたブルームハルトはゆっくりヤンと別れを惜しむ暇もなく、リンツはその埋め合わせと言うように、木の実と一緒に、練習に描いたシェーンコップの小さな絵をヤンにくれた。
どうぞ持って行って下さい。絵が仕上がれば捨ててしまうものですし。隊長の絵は、まだまだ先になりますから。
色はない、線だけのシェーンコップの、明るく微笑む表情がそこにあった。ヤンが良く知る、シェーンコップの表情のひとつだった。
自分が、この表情をシェーンコップに与えたのだと、ヤンは思った。そしてシェーンコップも、同じ表情をヤンに与えてくれたのだ。
今はけれど、そんな笑顔など浮かべられずに、シェーンコップはただつらそうにヤンを見つめて、ヤンはやるせない笑みではあっても、間違いなく微笑みのそれを消さずに、シェーンコップを見返し続けている。
ここから1歩先に進んだ途端、自分はひとりになるのだと思って、ヤンの胸はすでに鋭く痛む。君も一緒に行かないかと、そう言って手を伸ばせば、シェーンコップは後ろも振り返らずにヤンとともに来るだろう。
そうして、とヤンは続けて考える。もう幾夜も、ここを去ると決めてから考え続けたことを、また考える。
シェーンコップを、自分と同じ目に遭わせるのか。人間の中に紛れさせて、竜の正体をひたすら隠し続けて、様々の飢えに苦しめるのか。その見返りは何だ。自分がそれに値いするのか。
今はまだ、とヤンは、心の中で付け加えた。今は、まだ。けれど、いずれ。いつか。いつの日か。
今ではない。けれど再び、この手を取れる日が来る。
シェーンコップの手を取るためではなく、ひと時の別れの挨拶のために、ヤンはシェーンコップへ向かって手を差し出す。人間のやり方をシェーンコップが知っていたのかどうか、シェーンコップはヤンの手を両手で取り、包み込むように握り、それから自分の口元へ持ち上げて、そっとそこへ唇を押し当てた。
柔らかな、人間の唇。牙などない、力いっぱい噛んでも、ヤンの肉を引きちぎらない、人間の口元。
「ヤン提督──。」
人間の舌と喉が、人間の言葉とは少し違う響きで、ヤンをそう呼ぶ。竜のシェーンコップが与えてくれたその名を、ヤンがたどり着いた街で名乗る時、人間たちはそれをどんな響きに聞き取るのだろう。どんな響きで発するのだろう。それが竜の言葉とは知らずに、彼らはヤンをそう呼び、そしてヤンは、シェーンコップの声をきっと恋しがるだろう。
この声で呼ばれる名だけが、ヤンの真の名だった。
シェーンコップが与えてくれた、あまりにも多くのものを、もうひとつびとつ数えることもできず、ヤンは未練を押し隠してシェーンコップから手を引く。
代わりのように、シェーンコップが手繰り寄せられたようにヤンへ1歩近づき、長い腕の中にヤンを抱きしめた。
口づける唇の重なりに、シェーンコップの涙が流れ込んで来る。絡まる舌の間にそれを舐め取って、生まれた小さな海は、けれど今はこちらとあちらに分かれてゆく。
シェーンコップの涙が、ヤンの頬と唇と、そして髪まで濡らし、逃れて滴った地面に、ぽつりと小さな花を咲かせた。
シェーンコップの足元に突然咲いたその可憐な花を見つけて、ヤンは思わず心の底から微笑みそうになった。
他の生きものを、殺して食べる竜の涙が、こうして小さな花を生む。その花を、小さな小さな生きものたちが生きる糧にして、そうして生命はめぐってゆく。自分もその環(わ)の中に含まれているのだと思いながら、自分たちはやはり繋がっているのだと、今は晴れた空のような自分の心へ、ヤンはその花びらの形──鱗の形に、少し似ている──をくっきりと写し取った。
シェーンコップに出逢って、ヤンの命もこうして咲いたのだ。そして今は、その種をどこか遠くへ飛ばすように、ヤンはひとり旅立ってゆく。
「シェーンコップ・・・わたしの、竜の君。」
まだ涙に濡れたシェーンコップの灰褐色の瞳に、空の青よりもさらに淡い、紫がかった光がひらめき、そしてやっと、ヤンの微笑みを写して、シェーンコップの唇の端がうっすらと上がる。
小さな花を踏み潰さないように、さり気なくシェーンコップを違う位置へ引き寄せて、ヤンはシェーンコップの頬と髪を撫でた。
この声をよく覚えておこうと、シェーンコップはヤンの声に耳を澄まし、眠るような長い瞬きと一緒に、絞り出すようにヤンを呼ぶ。
「・・・黒髪のひと・・・私の、ヤン提督・・・。」
語尾は、かすれるように震えていた。それでもふたりとも、もう浮かべた笑みは消さずに、ヤンはわずかに後ずさり、シェーンコップからそっと体を引いてゆく。
追いすがるように、シェーンコップの腕が伸びた。
「もう少し先まで、あなたを連れて飛んで行きましょう。」
せめて、海のきらめきのかすかに見え始める辺りまでと、シェーンコップが思ったそのままが、ヤンに伝わって来る。
風を受けた水面のように、一瞬ヤンの心が波打ち、いいやと首を振って応えるまでに、息を吸い込む途中までの間(ま)が掛かる。
肋の骨の間を、風が吹き通るような淋しい音を聞いたと思った。
「もぐらは空を飛ばないものだよ、竜の君。わたしは自分の足で、地上をゆくよ。」
竜の鱗を得、竜の血を与えられ、竜に名付けられても、ヤンはまだ人間だった。人間で在ることを選んだヤンは、人間としてここを去るために、人の姿をした竜のシェーンコップから、1枚の皮膚を引きちぎるような痛みを感じながら、また1歩、やっと後ろへ下がる。
「眠れない夜には、君に手紙を書くよ。書いて、夜空に投げよう。下手くそな竜の文字でも許してくれ。」
「人間の文字でも構いませんよ、黒髪のひと。あなたのいない間に、読めるようにしておきましょう。」
伸びた手の指先が、けれどもう触れ合いはしなかった。互いにゆっくりと後ずさり、距離を作り、次第に遠ざかるその姿へ、けれど痛いほど目を凝らしている。
シェーンコップは、ヤンの瞳と同じ色の夜空を毎夜見上げるだろう。ヤンの記した文字を星々の間に探して、そうしてヤンを想うだろう。
別々の場所で、けれど見上げる空はひとつだ。同じ空を見つめて、そうしてふたり──ひとりの人間と1頭の竜──は繋がり続けるのだ。
ヤンがようやくくるりと背を向けたのと、シェーンコップが竜の姿に戻ったのと、ほとんど同時だった。
竜の羽ばたきで、咲いた小さな花が揺れ、起こった風の止まない間に、そよそよと頭を振り続ける。
再び谷に戻るシェーンコップには、これから海を目指すヤンの、地面に残る足跡がくっきりと見える。かすかに赤く光るそれを、追うことは雑作もないことだった。
世界のあらゆる場所にヤンの気配を感じ、それを追い、そうしながら、シェーンコップは竜の谷で竜として生き続ける。
ヤンはひとり歩き続け、やがて海を見つけて、シェーンコップの咲かせた花のように、そこにもぐらのひげのみたいな細い根を下ろすだろう。
地下を伸び続けるその根が、いつか竜の谷にも届くかもしれない。
リンツの描いた絵を抱えて、いつかやって来るシェーンコップを思いながら、ヤンはもう振り返らなかった。シェーンコップも、その長い首をめぐらせはしなかった。
竜の羽ばたきの送って来た風の名残りに、ヤンの、もう隠さない黒髪が揺れる。ヤンは頭をまっすぐに上げ、力強く海への1歩を踏み出していた。
残るそよ風に、竜の小さな花も、ふたりを見送るようにそこで揺れ続けていた。
了、そして後日譚。