海と空の出逢う場所 ("本の森の棲み人"番外編)
今日もまた暑くなりそうだと、魔術師はすでに黒い瞳を刺して来る陽射しを見上げ、それから逃れるように木陰に入った。どこまでも青く高い空、ぶ厚い雲があちこちに散らばり、上空の風は強いのか、走る雲が時折太陽を遮ってくれる。地面に落ちる影は、風に揺れる葉の形に、一瞬も同じそれを保たず、砂色と影色の踊る様を眺める魔術師の手には、古ぼけた本が1冊。
屋根と壁があるだけの簡素で小さな家の中は、本でいっぱいだ。そこに坐るためのテーブルと椅子と、壁には、とても美しい、肌の白い男の絵が数枚掛かっている。装飾らしいものはそれだけだ。
日中の暑さのために、風通しを良くするのが普通のこの土地で、魔術師は本を傷めないようにとあまり窓を大きくはせず、一体どこでどうやって眠っているものか、その家の中に寝床らしいものは見当たらない。
魔術を使うから、天井辺りにでもふわふわ浮いて眠るんだよきっと。
彼を知る、近くの住民たちはそう笑顔で言う。魔術師はそう言われ、それを特に否定もせず、眠りのための異次元の出入り口のことは一切口にはしない。
思ったよりもずっと長い時間を掛けて、魔術師は海にたどり着いた。海沿いを進むと、船着き場のある村から港のある街へ、次第に人が増え規模も大きくなり、元々この土地に住む人たちと、海のどこかからやって来た人々の雑多に混じり合うこの辺りには、髪も肌も瞳も皆様々で、魔術師のような顔立ちはここでも珍しかったけれど、人々は好奇心を露わにはしても、彼を忌み嫌うことはなかった。
魔術を使うと知られた後も、呪術師みたいなもんだろうとあっさり言われただけで、気味悪がられたり石を投げつけられたりもしなかった。
あまり深くは考えずに、港のある街ではなく、もっと小さな、人家のまばらな街──村と言う方が近い──へ落ち着き、海が目の前の、辺りに木の多い、誰も住まないと言うことはあまり良い場所とは言えないだろうことを承知で、魔術師はそこを自分の住処にした。
雪の降らない土地だった。冬と言うものがなく、1年中あたたかいか暑いかのどちらかで、樹には豊かな香りを放つ実が絶えず、自分で魚を獲ることもできたし、漁師たちから分けてもらうこともできた。
港のある街には、小さな市があちこちに常に立ち、魔術師はここでの暮らしに慣れると、すぐに焼き菓子を探しにそこへ出掛けた。酒はある、他の土地から運び込まれた、珍しい果物もある、魚はもちろん、それを加工した様々な品、魔術師が時々薬草や、それを調合した薬を持参すると、人々は喜んで、魔術師の欲しい品と交換してくれた。
残念ながら、魔術師の求める焼き菓子はこの辺りにはなく、甘い菓子と言えば、ここでは薄く焼いた小麦粉の皮を何層にも重ね、その間に砕いた木の実を挟んだり、蜜を振り掛けたりしたもので、食べるとさくさくと口の中で砕け溶けるそれは、脳が痺れるほど甘かった。
豊かな土地で、人々は豊かに暮らし、流れ着いた魔術師がひとり、ここに住み着いたことを誰も気にしている風もない。距離を置けば放っておき、近づいて来れば微笑み掛ける、様々な人々の暮らすここでは、それが普通のやり方であるようだった。
海を探す間に、少しずつ高くなる気温に、魔術師が黒い、全身を覆う服を脱いだのはいつの頃だったか。時折通り過ぎる街や村に住む人たちから、ごく軽く薄い布を、ふわふわとゆったり巻き付けるような着方を学んで、衣服の間を通る風に潮の香りが混じるようになる頃には、強い陽射しに手足と顔が薄赤く焼けていた。
暑さを避けるには陽射しを防ぐのがいちばんと知って、風通しの良い服装の、今はけれど手足はしっかりと覆っている。その手足を、木陰に敷いた布の上に投げ出して横たわり、魔術師は顔の上に本を開いた。
ここに来てから手に入れたこの本は、魔術師が元々知っている言葉ではなく、この土地の言葉で書かれている。魔術のおかげで造作なく読めるものの、実際に話す方で使うにはまだ完全には慣れない。
魔術師の名乗った、竜の名付けてくれたヤン提督と言う名を、土地の人たちはヤン・ウェンリーと発音する。提督と同じ意味の言葉を、ここではウェンリーと読むのだと言い、竜の発音のままなど最初から期待していなかった魔術師は──ヤンは、ヤン・ウェンリーと言う新たな人間の名をここでは得て、新しい名で呼ばれるたび、竜の、自分を呼ぶ声を恋しく思った。
夜空に投げる竜への手紙には、旅の間のことを細かに書き綴り、新しい名のことも伝えた。それも良い名ですねと、竜は翌日の夜空に返事をして来た。
君が君の声で呼んでくれる名が、わたしにとってはいちばんだよ。
遠く隔たったつがいの片割れへ、ヤンは伝えはしないつぶやきをそっとこぼしたものだ。
本に囲まれ、魔術と竜の石に守られ、強い陽射しと潮の匂いをまとって、ヤンはこの地に根を下ろした。そうしてある日、果てしない青い空の片隅に、竜の羽ばたきの音が広がる。空気を揺すって風を起こし、波立つ海に浮かぶ漁の小舟が、何事かと頭上を仰ぎ見る。額に手をかざし、ヤンは竜の姿を認め、目の前の砂浜に走った。読んでいた本を放り出し、何度も砂の上に転び掛けながら、波打ち際へ、自分のためにここまでやって来た竜を迎えるために走った。
過ぎた日と夜を数えることはしなかったヤンには、一体どれほど竜を待たせたものか覚えもなく、ヤンに招ばれる前にとうとうしびれを切らして、竜は夜空に浮かぶヤンの書き文字と、地面にまだ薄く残る気配を追って、ついに海を見つけたのだった。
そこは、海と空の出逢う場所だった。空の端と海の端がひとつになり、色味の違う青が2種類、くっきりと線を描いて世界を割り、分かたれながらけれど海も空も、そこでは確かにひとつのものだ。その青と碧を背負って、竜がヤンに向かって一直線に飛んで来た。
思わず、胸元の赤い石を手の中に握りしめる。懐かしい、大きな体。空を覆うかと思うほど広い羽、海面と同じほどきらきら光る鱗、そして、自分を真っ直ぐに見つめて来る、灰褐色の瞳。
記憶にある素早さのまま、砂に降り立った途端、竜は人の姿に変わった。それも覚えのある、黒い衣服に全身を包んで、不眠不休で飛んで来たのか、目の辺りに疲れが見えた。それへ、ヤンは両手を伸ばした。
久しぶりとは、ふたりとも言わなかった。言う前に、もう唇が重なっていた。
ここは、君には少し狭いな。茶も焼き菓子も出す前に、眠りのための異次元へふたりで這い込みながら、久しく使っていなかった雲の寝床を、ヤンは竜──シェーンコップのために呼び出す。両手は互いから一瞬も離れず、一緒にそこに横たわり、ヤンはシェーンコップをまず休ませた。ヤンの胸の中で体を丸め、シェーンコップは長い飛行の疲れのために即座に眠りに落ちて、そうして抱きかかえるシェーンコップを、ヤンはまるで卵のようだと思った。
土地の人たちは竜を目にしたことがなく、言い伝えの中にある架空の生きものだと信じていたから、大方ヤンが魔術で何やら空(くう)から取り出したのだろうと、人の姿をしたシェーンコップがその現実の竜なのだとは思いもしないようだった。
時折訪れるようになった、ここでは珍しい肌の白い男を、ヤンの、遠方に住む友人らしいと穏やかな無関心さで受け入れて、たとえシェーンコップが実は竜なのだと知れても、特に問題もなさそうだったけれど、人の住む街に、体の大きな竜がそのまま現れるのは無理があって、結局はシェーンコップは普段は人の姿で過ごし、竜になるのは夜の砂浜で、誰もいない夜更けにと言うことになる。
真っ暗な夜の海を、ヤンも竜のシェーンコップの手の中に抱えられて幾度も飛んだ。空に浮かぶ、その時その時で形の違う月を、飛び越えそうな高さに飛び上がって、夜の暗さはひとりと1頭を優しく包む褥となり、時間は忘れ去られてしまう。
そんな風に、シェーンコップは再びヤンの暮らしの中に戻って来た。
ここで数日から数週間を過ごし、また竜の谷へ帰ってゆく。この土地の、ちょっと趣きの違う甘い菓子にも慣れて、ヤンのために魚を焼く火加減も覚えた頃、シェーンコップは、例のリンツの絵を携えてやって来た。竜の姿と人の姿、両方の、正面からと後ろ姿と、相変わらずリンツの絵は丁寧に細かく、シェーンコップがそのままそこに閉じ込められたようだった。
「わたしの絵は、まだ飾ってあるのかい。」
当然だと、シェーンコップがうなずいた。今一体何枚目かと、ヤンは重ねて訊くことはしなかった。
ずっとそのために空けておいた本棚と本棚の間に、ヤンはシェーンコップの絵を飾った。これで、いない時も──竜の──君に会えると、ヤンはゆるむ口元を止められなかった。
今ヤンは、沖にある小島に、シェーンコップと移り住めないかと考えている。島の周囲は渦がひどく、小舟が近寄れずに、その島には誰も住んでいない。沖に出るたびに羽を休めにゆき、岩の切り立つそこは、人が暮らすにはあまり適していないことはすでに調べてあった。
そこに穴を穿って、竜の谷みたいなねぐらはできないかと、ヤンは考えている。
この小さな住処にはヤンがこのまま住み、シェーンコップがやって来た時にはそこに一緒にいればいいと、そう考えるのが一体現実的かどうか、ひとり考え続けていた。
海面を歩くことのできるヤンなら、恐らく渦の辺りも越えられるだろう。小島に、ヤンひとりで出入りできるなら、シェーンコップの助けなしに準備もできる。
海と空の出逢う場所で、竜が羽を広げて伸び伸びと過ごす姿を想像して、ヤンはその背後に広がる青と碧に、シェーンコップの鱗はさぞ映えるだろうと、リンツがいればぜひ絵にしてもらいたいものだと思った。
シェーンコップがその島に慣れたら、リンツとブルームハルトを誘ってみてもいい。海を見たがっていたブルームハルトは、きっと喜んでやって来るだろう。それとも彼らは、海の魚は苦手だろうか。
試しに、干した魚を持って帰ってあのふたりに食べさせてみてくれと、シェーンコップに頼んでみようかと思いついた時、ゆらりと人影が家の中から出て来る。
ヤンと同じ服装の、今は少しむさ苦しく髪が乱れ、あごにひげも少し伸びて掛けているシェーンコップが、まだ眠気の去り切らない様子でヤンの方へ近づいて来た。
「眠気覚ましに、お茶が欲しそうだね、竜の君。」
浅く何度もうなずくその首筋に、くっきりとヤンがつけた唇の跡が残っている。昨夜はまた空に散歩に出掛け、ここに戻って来てから、眠りの空間で夜明け近くまで互いを食んだのだ。
敷布の、ヤンの隣りへ腰を下ろし、噛み殺したあくびに軽く喉をふくらませる、そのシェーンコップの横顔に竜の牙のある口元が重なって、ヤンは本の陰でひとり頬を赤らめた。
木陰は、ふたり一緒には少し狭い。ヤンは日陰からみ出すようにしながらシェーンコップに少し場所を譲り、シェーンコップはヤンに体を寄せて来て、そのままヤンの傍らへ身を横たえる。
「後で街の市に、菓子を買いに行こう。」
自分の肩へ頭を寄せて来たシェーンコップを抱き寄せながら、ヤンがささやくように言う。
「あなたには酒もですか、黒髪のひと。」
「飲んだら、君、今夜は飛べないよ。」
「今夜は、散歩はなしでもいいでしょう。」
日に一度は竜に戻りたがるシェーンコップが、珍しいことを言うものだと、ヤンはその口元へ耳を近づけながら思った。
「・・・たまには早寝も悪くない・・・。」
シェーンコップの言った意味を瞬時に悟り、ヤンは胸元の石と同じくらい真っ赤になった。
夕べ飛んだ夜空の、月が極限まで細まって、それが、シェーンコップの下で身をたわめるヤンそっくりだったのだ。その月を、今夜は夜空ではない場所で再現して堪能したいのだと、シェーンコップは考えている。
ヤンの手から本を取り上げ、ヤンの上に自分の体でさらに濃い日陰を作り、ヤンの柔らかい首筋に、ごしごしと伸び掛けのひげをこすりつけた。
「痛いよシェーンコップ。」
ふざけ掛かるシェーンコップに、ヤンが首を振って甘ったるく抗議し、やがてその声はシェーンコップの唇に吸い取られて消える。今は夜の帳ではなく、強烈な蒼の降り注ぐそこで、シェーンコップの背がゆっくりと波打った。
「今夜はどうせ雨ですよ。空を飛ぶのは無理です。」
空気の中に、潮だけではなく雨の匂いも嗅ぎ取りながら、シェーンコップがヤンの耳元に、言葉だけではなく吐息も一緒に注いでゆく。
腕の中の真昼の月を、シェーンコップは夜空に帰さず明日の朝まで囚えておくつもりで、その約束のしるしに額に散る前髪をさりさり唇の間に噛んだ。
「ヤン提督・・・。」
そう呼ぶだけで、ヤンの躯がシェーンコップの下でやわらいでゆく。
自分の声が、魔術師には抗い難い魔力のようなものだと竜は知らずに、もうすっかり使い慣れてしまった人間の舌で、改めてヤンの唇を割って行った。
雨雲の気配はまだはるか遠く、ふたりの上で混じり合う空の青と海の碧が、日陰すら蒼く染め、その蒼の中にすっかり溶け込んだふたつの躯の間で、竜の赤い石の発する光が辺りを薄紫に変えて、かりそめの夕暮れの気配をそこに呼び込んでいる。
真昼の月が、竜の下で、泳ぐように両腕をしなわせた。