DNT、竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。

本の森の棲み人 6

 魔術師の家に戻り、落ち着いたところでいつものようにお茶が出た。
 買って来たばかりの例の焼き菓子を適当な厚さに切り分け、ひと切れふた切れ魔術師がつまんだ以外は、結局全部シェーンコップの胃の中に収まった。
 指先についたバターまできちんと舐め取るのを、魔術師が笑って眺めている。
 それから、酒が出た。
 酒の瓶と同じ類いの造りの器に、静かに注がれたそれを差し出され、竜はまず匂いをかいだ。
 「菓子と、同じような匂いがする。」
 「ああ、くだものを発酵させたんだろうから、そうかもしれない。」
 魔術師はもう、自分の分へ口をつけながら答える。それを上目に見て、シェーンコップもやっと自分の器の縁へ、人間の横に平たい唇を近寄せた。
 ひやりと触れる深くて濃い赤のそれは、口に含んだ瞬間、円みを帯びた苦味が鼻を通り、思わずむせそうになる。舌に同じ苦味が広がるのに、それでもそこには確かにまろやかな甘みと酸味があり、シェーンコップは苦味を我慢しながら、そのわずかな量を飲み干した。
 喉と胃が焼ける。熱い固まりでも飲み下したように、シェーンコップは目をしばたたかせ、これは一体何だと問うように魔術師を見やる。
 「不味いと思うなら無理しなくていいよ。」
 それを取り上げようと、すでに伸びて来る魔術師の手から、シェーンコップは酒の器を遠ざけた。
 「いえ、不味いと言うわけでは──。」
 帰り道、魔術師の懐ろに抱かれ、その後はシェーンコップが抱えて帰った酒は、ぬくまってはいても室温よりははるかにぬるく、口の中に含めば何かひんやりと頬の裏を冷たくしてゆくのに、含むうち次第に熱くなって、喉を通る時には小さな火でも飲み込んでいるようだった。
 竜の姿で火を吐く時のことを思い出しながら、あれとは逆だと、シェーンコップは何となく可笑しみを感じている。
 もうひと口、シェーンコップはそれを飲んだ。
 胃の辺りに熱さがとどまり、それがじわじわと体中に広がってゆくのが分かる。喉から上がって来る熱が頬へもたどり着く頃には、もう2杯目を自分で器に注いでいた。
 美味いかと訊かれれば、よく分からないとしか言いようがなかった。それでも、お茶を飲む時と同じ調子で、もう3杯目を終わろうとしている魔術師のペースについ乗せられて、シェーンコップは初めての酒と酔いと言うものに、初めてにしては心地よくひたっていた。
 「君も案外、うわばみかもしれないな。竜なのにうわばみってのも変な話だ。ああでも、君らの仲間って言えば、そう言えるのかもなあ。」
 いくら飲んでも酔わないと言う魔術師も、いつもよりも明らかに口数が多く、もう相槌も打たずに、舐めるように2杯目を干そうとしているシェーンコップは、うわばみと言うのがどういう意味か思い出せず、あやふやに頭を振って見せるだけだった。
 瓶の中の酒は、一体どれだけ減ったのだろう。焼き菓子とは逆に、魔術師はシェーンコップの倍以上飲み、シェーンコップは3杯目をいくらか残して、その杯をテーブルへ置いた。置いたその手はするりと滑り、珍しく椅子に坐っているシェーンコップの、膝の間にぽとりと落ちる。
 それを見て、魔術師は自分の杯を一気に終わらせると、椅子から立ち上がってシェーンコップの傍へ来た。
 「立てるかい、歩ける?」
 そう言って、どう見ても酔っ払ったシェーンコップの肩を軽く揺すりながら、シェーンコップが残した酒はさり気なく飲み干してしまう。
 赤く濡れた唇を手の甲でぐいと拭って、魔術師はシェーンコップの脇の下へ自分の腕を差し入れた。
 「行こう、もう寝よう。明日の朝、二日酔いってことはないだろうが、気分が悪くなったら言ってくれ。」
 魔術師の指を振る動作で、いつもの雲の寝床が出て来る。シェーンコップはそれに乗せられ、防御の紗幕の掛かった異次元へ運ばれ、ぼんやりとしているくせに心臓の音が鮮烈に響く頭を、ぐすぐすと寝ぐずりでもする子どものように枕の辺りにこすりつけている。
 魔術師は、シェーンコップの傍らへ上がって来て、今夜はすぐにそこに横たわった。
 「・・・本は・・・?」
 魔術師の肩の辺りへ額を押し付け、持ち上げた手足がぐにゃぐにゃと揺れるのに、少しだけ不安になってシェーンコップは魔術師にしがみつく。
 シェーンコップの髪を撫でて、魔術師は本の代わりのように、シェーンコップの丸まった背中を抱え込んだ。
 「今日はわたしも一緒に寝るよ。酒が入ると眠れるんだ。夢見は悪いがね。」
 「一緒に・・・。」
 「そうだ・・・ひとりで眠るのは怖くてできないが、今は君がいるから、酒で眠るのも大丈夫だ。」
 「私と、一緒に・・・。」
 「うん、そうだ、わたしと君と、一緒に──竜の君。」
 ふわふわと浮く雲の寝床の上で、シェーンコップの体もふわふわと頼りなく、その体が人の形を保っていると確かめられるのは、魔術師の腕の中に収まっているからだった。
 「焼き菓子が、美味かった、黒髪の、ひと・・・。」
 ふわふわとした声で言う。それはよかったと、また魔術師が髪を撫でる。
 甘くて、口の中でほろほろ崩れる焼き菓子。生地に練り込まれた干した果実を時々噛んで、酸っぱさが舌に広がる。鮮やかな赤の茶。爽やかに口の中を洗い流しながら、後には、秋の頃に空気に混じる、乾いてもまだ生きた湿りはきちんと含んでいる木々の葉を思わせる深い香りが残る。濃い赤の酒。ひんやりしているくせに熱い。苦いと思うのにまろやかに甘い。何が何だか分からない間に、ぬくまった体から力が抜けて、何もかもがぼんやりする。
 これが酔うと言うことかと、思いながらシェーンコップは、おやすみと言う魔術師の声を聞いた。
 おやすみと言われたら、人の言葉ではどう返すのだったか思い出せないまま眠りに落ちて、自分の額に魔術師が唇を押し当てたのも、竜は知らないままだった。
 
 
 時間と言うものはそもそも竜にはよく分からず、それでもまだ夜だろうと言う見当はついた。
 突然目覚め、背中に当たる寝床の柔らかさで、ここは魔術師の住み処だと思い出し、それから自分の手を持ち上げて眺める。人間の姿だ。
 すっぱりと断ち切られた眠りは、脳のどこにも気配も残さず、シェーンコップはその冴えた頭の中で、寝入る前にしたことをゆっくりと思い出す。
 市で、魔術師が買った酒を、初めて飲んだ。酔っ払い、魔術師に連れられてこの寝床へ上がり──自力ではなかった──、魔術師も一緒に寝ると言った。そうだ、寝ると言った。
 隣りに大きく首をねじり、魔術師の首と背中があるのを確かめた。
 抱えた本は見えず、字を読むための明かりもない。魔術師は、ほんとうに眠っている。
 シェーンコップはそろりと体を起こし、腰をずらして魔術師の方へ寄った。上から覗き込むように、向こうを向いている魔術師の寝顔を、目を閉じて、ゆっくりと呼吸をしている様子を、現実かどうか確かめようとした。
 かすかに開いた唇。かすかに上下する胸元。かすかに震えている闇と同じ色のまつ毛。今は瞳の色は見えない。
 シェーンコップは、ゆっくりと音をさせずに息を吐き、思わず自分の胸へ手を当てた。
 初めて見る魔術師の寝顔の、目覚めている時よりもいっそうぼんやりとした輪郭へ、それが安らかさの証拠だろうと思いながら、触れないぎりぎりで指を伸ばす。
 いつも自分がそうされているように、魔術師のくしゃくしゃの黒髪へ静かに指先を埋め込んで、冷ややかに巻きついて来る、その思い掛けないしなやかさとしたたかさに、大樹の根元にふっくらと育った苔の、竜の時の足裏に感じるあの不意の冷たさと、踏まれて足跡を刻まれても、じき元通りになる靭(つよ)さを思い出した。
 そうして飽かず魔術師の寝顔を眺め、頬や鼻筋や額や唇の線を観察し、眼球の浅い丸みが今は覆われ、白と黒のくっきりと分かれた魔術師の闇色の瞳が隠されているのに、楽しく失望している。
 濁りのない、わずかに青みがかった魔術師の目の、切り取ったような白さを記憶の中から引きずり出して、覚えているそれが正解かどうか、今すぐ知りたいと渇望しても、魔術師を起こす気にはもちろんならず、この滅多とない眠りを妨げるなど考えられないシェーンコップだった。
 シェーンコップが竜の姿で触れれば、死なせずにはおかないだろう、人間の、脆弱な姿。柔らかいだけの薄い皮膚。骨も筋肉も、竜の鱗ほどの強度もなさそうな、腹の足しにもならない、小さな人間。
 今日市で見た、皮を剥がれた小さな生きものの姿を、シェーンコップは思い浮かべた。人から見たあの生きものと、竜から見た人は同じようなものだ。もっとも、竜にとっては人間など食料になるほど肉もなく美味そうでもなく、わざわざ襲う価値もない。人の肉の味を知らないシェーンコップには、人間は獲物には見えなかった。
 それでも今、酒の酔いのせいかどうか、シェーンコップの内側でかすかに解き放たれたものがあり、またざわざわと、竜の自分が人の姿の自分の中でうごめいているのが分かる。
 無防備に眠る魔術師を、食べたいと思ったわけではなかった。けれど、何か、そのような気持ちがかすかに湧いて、それが何なのか分からずに、シェーンコップは少しの間自分を落ち着かせるためにゆっくりと深い呼吸を繰り返す。
 市で見掛けたふたり組たちが、唇を触れ合わせていたのを思い出し、あれは捕食のためではなかったのだと思うと、食べないのなら触れても構わないのかと、そんなことも思いつく。
 魔術師の、やわらかな皮膚。冷たい髪。そこが唇だと知らせて来るその紅(あか)。
 ごくっと、鳴った喉が痛んだ。
 そこでやっと、ひどく喉が乾いていることに気づく。ひりついて痛む喉を思わず撫でて、水が欲しいと思った。
 渇きに気づくともう我慢ができず、シェーンコップは寝床の回りをうろうろと見回して、けれど閉じられたこの空間には寝る場所以外何もなく、水が欲しいと強烈に思うせいかどうか、また身内の竜がざわめき始めて、シェーンコップはひとまず魔術師から離れるために寝床を下りた。
 水を探すためにここから出たいと、そう無意識に念じたものかどうか、両足を床──と言うべきだろうか──に着けた途端、まるで弾き出されるように、魔術師の住み処の、あのテーブルの傍らに立っている。
 一体、魔術師の眠る空間はどこにあるか、部屋の薄闇の中にはそこへ入る何の痕跡も見当たらず、弾き出された時と同じに、戻りたいと願えば戻れるものかどうか、今は試してみる気にならずに、シェーンコップはともかくも喉の渇きを何とかする方を優先させることにした。
 外へ出て、いつも竜の姿で降りる野原の方へ駆け出す。駆け出しながら、もう半ば竜の姿に戻って、羽だけは大きく背中に取り戻して宙へ舞い上がる。あの野原の少し先に、小さなせせらぎのある、目指すのはそこだった。
 空の上で、飛びながらすっかり竜の姿に戻って、シェーンコップは夜気を吸い込むように、鱗ごとの全身で深呼吸をした。
 酒の酔いはやはり、シェーンコップの素を誘い出すようだ。次に飲む時は、ここまで酔っ払わないようにしようと心に決めながら、ほんの数分で着いた小川へ降り立ち、竜の姿のまま顔の先をせせらぎへひたした。
 澄んだ水が、かすかに甘い。思う存分喉を潤し、酒の火に炙られ干上がってしまった体に水分を満たして、シェーンコップはやっと人の心地を取り戻していた。
 せせらぎは、竜の体には少し小さ過ぎ浅過ぎ、ついでに水浴びもしたいと思ったシェーンコップは再び人の姿に戻って、月のない夜空の下で、全身を水の中へ投げ出す。
 穏やかな水の流れの中に、小さな魚の群れがあり、ふと自分の体に触れながら泳ぎ去ってゆくその小魚たちを、シェーンコップは獲物としてではなく、同じこの世に生きるものとして見送った。
 水の中に、顔も何もかもすべてをひたして、シェーンコップは水音以外のすべてを遮断した。水に冷やされる皮膚──鱗──が、眠くなるほどののろさで静まり、喉の渇きと気づかなかった自分の飢えが満たされたとようやく感じると、シェーンコップはやっと水から顔を上げ、流れる水で酒の苦味の残る口の中を洗い、それからもう一度ごくごくと水を飲んだ。
 水から上がり、ぶるぶると全身を揺する。水の滴りは、けれど人の皮膚からは簡単には去らず、まだぽたぽた垂れて足元を濡らしている。
 乾くまで、魔術師のところへは戻れないと思いながら、ぺたりと頬へ張り付いた髪をかき上げ、そうして持ち上げた自分の肘越しに、シェーンコップは真っ赤に染まった夜空の縁(へり)を見た。火の爆ぜる音が、シェーンコップの耳には確かに届いた。ような気がした。
 その聞こえないはずの音に、シェーンコップの全身が感応する。一瞬で人の皮膚は竜の鱗に変わり、再び羽が、背中を突き破るようにそこに広がった。
 燃えている。そこに魔術師がいる。駆け出すのは人の脚で、飛び上がろうとするのは竜の羽だった。空気を切り裂くひゅんと言う音が夜空を貫き、羽ばたきに揺れる空気がせせらぎの水面を乱す。
 小川の小魚たちが、怯えたように寄り集まり、夜空を駆けてゆくシェーンコップをそこからじっと見上げていた。

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