DNT、竜のシェーンコップと魔術師のヤンの似非ファンタジー。

本の森の棲み人 5

 ごめんよ、とまず魔術師は言った。
 受け取った竜の書物をそそくさとテーブルの、本の山の間へ置き、お茶すら出さずに、
 「今日は街に市が立つ日でね、ちょっと買い物に行こうかと思って。」
 だから君はここにいてくれと続けて、魔術師は竜の傍らを、黒いマントを翻して出て行こうとする。
 そのマントの裾を掴み、人の姿のシェーンコップは、ちょっと情けない顔をした。
 「私は、ここでひとり留守番ですか。」
 「うん、だからごめん。」
 確かに申し訳なさそうに、魔術師は黒い眉の端を両方とも下げてシェーンコップを見やる。
 ひとりでも別に構わない。そこらの床か、テーブルの下にでももぐり込めば、すぐに眠ってしまうだろう。それでも、それは少なくとも寝入るまで魔術師が一緒にいてくれるならと言う話だ。
 魔術師はもう今にも出掛けてしまう様子で、じりじり外へ出る扉へ向かって後ずさりしている。
 「私も、一緒に。」
 魔術師のマントを掴んで離さず、シェーンコップは微笑みながら言った。魔術師の、闇色の瞳が左右に揺れる。それはいい考えではないと、はっきりとその動きが言っていた。
 「・・・君が一緒に行くのは、どうかな・・・竜だとばれはしないだろうが・・・。」
 「黙って一緒にいるだけです。あなたが行くと言うなら、私も人間の市とやらに行ってみたい。」
 3分の1くらいはほんとうだった。本音のところは、魔術師の行くところならどこにでも行ってみたい、と言う気持ちだったのだけれど。
 魔術師は唇と眉の端を一緒に下げたまま、承知はせずそこに立ったままでいる。結局竜を説得はできず、不承不承と言う風に、ふたりは肩を並べて街へ向かった。
 竜がいつもやって来る方向からそのまま真っ直ぐ、魔術師の住み処を通り過ぎる形に、深い森をふたつ抜ければ小さな村へ着き、そこをさらに進んでもうふたつ村を抜けると、時々市の立つ街へやがて着く。
 村に近づけば人の気配が増え、街へ近づけば、いっそう人の数が増える。魔術師はマントをすっぽりとかぶって顔を伏せ、髪の色も目の色も見せないように、背中を丸めて歩いた。
 シェーンコップも同じように、最初の村を抜ける時にマントのフードをかぶろうとしたら、
 「君はいいよ、ふたりで一緒に顔を隠していると余計に人目を引く。君はどうせ目立つから、そのままで人目を集めてくれ。そうしたらみんなわたしを見ない。」
 笑って言うのに、口調が真剣だったから、竜は言われた通り背筋を真っ直ぐにして顔を上げた。
 目立つと言うのが、竜だからなのかどうかよく分からず、うまく人に化けているつもりで、見れば分かるのだろうかと一瞬不安になる。それでも、竜と一目で分かるなら、魔術師が何とかごまかしてくれるのだろうと、竜はともかくも頭を高くして歩いた。
 人の群れと言うのは奇妙だった。話す声が甲高く、魔術師の詠唱ほどではなくても何か歌うような節がついて、そして魔術師が言った通り、すれ違う人すれ違う人、皆シェーンコップを見てゆく。色とりどりの瞳が、シェーンコップを見た瞬間軽く驚きに見開かれ、通り過ぎても視線が追って来るのが分かり、シェーンコップはちょっと居心地の悪い思いをした。顔のどこかに鱗でも出ているのかと、そっと頬を撫でてみても、確かに人間の形の指先に触れるのはただなめらかな人の皮膚だ。
 魔術師が留守番をしていろと言ったのはこういうことかと思いながら、それでも果物や野菜を売る屋台がところ狭しと並び、竜が食べるには小さ過ぎる獣が毛と皮を剥かれて吊るされ、売り買いの声が飛び交い、小さな人間たちが、シェーンコップの足元を転がるように駆けてゆく市の真ん中を通ると、好奇心が先に立って人の視線が気にならなくなる。蹴飛ばさないように、シェーンコップは小さな人間たちが来るたびに道を譲った。それを見て、魔術師が可笑しそうに笑う。
 肉や野菜を焼いたり炒めたりする匂い、シェーンコップには馴染みのないそれらの匂いは、けれどきちんと竜の食欲をそそって来る。
 ごくっと喉が鳴るのを魔術師に聞かれないように、いい匂いから顔を背け、竜は魔術師の傍らを無心に歩き続けた。
 すれ違う人たちの中に、時々他の何も見ずに互いだけを見つめているふたり組がいた。服装の違いで男と女と見分けられるその組み合わせは、腕か肩を触れ合わせて歩きながら、まれに足を止め、そこで顔を近づけたと思ったら唇同士を重ね合わせる。
 人間は共食いをしないはずだがと、シェーンコップは不思議に思って彼らを見て、けれど味わうと言う風でもなくすぐに外れる唇ははっきりと笑みの形になり、その間、彼らの人間の指先は複雑な形に絡め合わされ、同じほど強く、互いしか見ていない視線もそこで重なり合っている。
 瞳の潤みと揺らめきで、やっとそれが彼らの親愛の表現と悟ると、どれだけ近寄って触れても相手を傷つけない人間の手指を、竜のシェーンコップは少しだけうらやましいと思った。
 魔術師に会うためだけに人の姿になっているけれど、これはこれでそう悪くはないと、歩きながら自分の手を見下ろし、それから魔術師の、今はマントの下に隠れている手指の形を思い浮かべる。
 竜の鉤爪と人間の手指は、役割が違うのだ。主には武器の鉤爪と、物を掴んで使うための人間の手指と、人間は、傷つけないために触れ合い、竜たちは親愛を示すのには首筋同士を触れ合わせる。鉤爪を、親愛のために相手に差し出すことはない。あの唇を触れ合わせるのはどんなものだろうと、シェーンコップは、地面に目を伏せて歩く魔術師に訊いてみたいと思った。
 人の波をかき分けかき分け、魔術師が不意に足を止めて、露天のひとつへ爪先を向ける。
 長い髪を無造作に束ねた、顔も胸も腰も丸い女──ふくらんだスカートが見えたから、男ではないだろうとシェーンコップは思った──が、魔術師へ笑顔を送った。
 「今日はえらくきれいなお連れさんと一緒だね。」
 「ここの焼き菓子が気に入った張本人でね、一緒に来たいと言うから──。」
 魔術師が、女と同じくらいに軽い口を叩く。ちょっと浮ついたその声の調子に驚いて、シェーンコップは魔術師を思わず見下ろした。
 「おや、この間のケーキ、気に入ってくれたの。それはよかった。」
 女が言う通り、そこに並んでいるのは確かにこの間魔術師が竜に振る舞ってくれたのと同じものだ。あの甘い味を思い出して、また竜の喉がごくっと鳴る。
 女はもう魔術師が何か言う前に、並んだ焼き菓子のひとつを取り上げ包み始めていた。
 「おまけしとくよ。また来てちょうだいな。そっちのきれいなお連れさんもね。」
 女は、真っ直ぐに魔術師の目を見て、恐らく髪の色にも気づいているだろうに、何の素振りも見せずに、魔術師の差し出した金貨を受け取って代わりに菓子の包みを渡し、菓子と同じくらい甘いふっくらとした笑みを、シェーンコップにも向けた。
 包みを懐ろへ入れた魔術師へ、不意に女が声をひそめる。口元を掌で囲い、ささやいた。
 「今日は向こうで酒の振る舞いがあってね、もうすっかり出来上がっちまってるのがいるから、あんまり近づかない方がいいよ。」
 女が指差すのは、これから魔術師が向かう方向だった。
 「ありがとう、気をつけよう。」
 魔術師は言い、ちらりとシェーンコップを見る。
 「後は酒を買ったら終わりだ。」
 小さな声で言うのに、酒、とシェーンコップは口移しに問い返す。
 「そうだな、君らは飲まないだろうな。空を飛ぶんだし。」
 「あなたの、いつも出してくれるお茶ではなく。」
 「全然違うよ。飲むのは同じだが、酒は飲むと酔っ払うんだ。今もこの先で、すっかりいい気分になってる人たちがいるらしい。」
 「酔う。」
 「うん、帰ったら試しに飲んでみるといい。」
 魔術師は、ちらりとシェーンコップを見上げて、いたずらっぽく笑った。
 先に進むにつれ、男たちのだみ声が次第にはっきりと聞こえるようになった。中にはすでに呂律の怪しい声も混じり、魔術師は参ったなとぼやいて、マントの下の薄い肩をすくめて見せた。
 「さっさと酒を買って帰ろう。酔っ払いに付き合うのはごめんだ。」
 「酔っ払い。」
 「うん、酒を飲み過ぎると、人は色々と愚かなことをしでかすんだ。」
 「それなのに飲むのですか。」
 「本人はいい気持ちなんだよ。」
 シェーンコップは思わず首を振った。人間と言うのはよく分からないと、聞こえないつぶやきがそれに続いたのを、魔術師はしっかりと聞き取っている。
 「一緒に来たいと言ったのは君だぞ、竜の君。」
 周りに聞こえないように低くした魔術師の声へ、
 「こんなことを知れるのも、面白いものですよ、黒髪のひと。」
 「確かに、書物にはこんなことは書いてないな。」
 小さく言葉を交わす間に、やっと魔術師は酒を売る露天を見つけ、薄い土色の瓶をひとつ指差して受け取り、金を払おうと懐ろへ手を入れた。
 その時、千鳥足でふらふらやって来た男が、どんと魔術師へぶつかり、一応は口先だけで自分の無作法を謝りながら、顔は酒の露天商の方へ向けて、そこだけはむやみに力強く指を1本立てて見せる。
 「やめときなあんた。もう売らないよ。」
 どうやらここで買っては飲み続けらしい。露天商は魔術師に向かい直って釣りを渡す。酒を断られ、無視され、酔っ払いの男は真っ赤な顔をさらに赤くした。
 「なんだおれには売れねえってのか! このどこの馬の骨か分からねえやろうには売るくせに。」
 ろくでもない言い掛かりに、巻き込まれまいと魔術師は背を丸め、胸の前に酒瓶を抱え込んで、さっさとその場を立ち去ろうとする。
 酔っ払いはそれが気に食わなかったのか、魔術師の肩を掴み、その酒へ手を伸ばした。
 「よそ者にはもったいねえ、おれが飲んでやる、置いてけ!」
 「おい、あんた、よさないか。」
 露天商が男を止めようと、中から腕を伸ばすより先に、男の腕を避けようとしたその指先がマントのフードに当たり、ばさりとフードが魔術師の背中の方へ落ちた。
 乱れた黒髪が露わになる。魔術師はそこへ慌てて手をやったけれど、もう遅かった。一瞬でその場の空気が凍りつき、誰もが動きを止めた。
 露天商が、思わず、と言う風に、魔術師を指差して、悪魔とつぶやく。さっと人波が引き、魔術師とシェーンコップの間へ距離を作る。酔っ払いだけがその場にとどまって、まだ酒瓶を奪おうと、よろよろ奮闘していた。
 騒ぎを聞きつけたのか、警備で市を見回っているらしい体の大きな男がふたり、こちらに駆けて来る。目当ての酔っ払いを見つけて、すぐに取り押さえてはくれたけれど、男を叱りつけている声が魔術師を見た途端途切れ、彼らもそこで、ちょっと竦んだように足を止めた。
 「あんた、その髪──」
 震える指先で指差しながら言う声には、明らかに怯えがあって、シェーンコップは無意識にその男たちをまとめてにらみつけていた。
 「髪の黒いのが、一体ここで何をしてるんだ。」
 彼らはシェーンコップの視線にちょっと後ずさって、それでも魔術師を指差す仕草をやめずに、
 「ただの買い物だ。もう用は済んだからすぐに消えるよ。」
 魔術師が言うのに、一斉に疑心暗鬼の視線を投げつけて来る。
 目も黒いよ、とひそひそ辺りから声が聞こえた。シェーンコップは、炎でも噴き出しそうな目でそちらもにらみつけて黙らせると、魔術師を自分の背中へかばうようにして、
 「私の連れに何か用なら、私が聞こう。言いたいことががあるならさっさと言えばいい。」
 いつもはただ美しいだけの声を凄みをこめて低めて、ぐるりと辺りを、その灰褐色の目で見渡した。紫がかった白い閃きの走るシェーンコップの瞳の恐ろしさに、人たちは震え上がって黙り込む。それでもふたりをじろじろ眺めて指差すのをまだやめず、シェーンコップはこめかみに青筋を走らせ、彼らへ向かって1歩踏み出そうとした。
 ぷつぷつ、人間の皮膚の下が泡立っている。敵意を向けられた時の竜の本性が、人の姿の下から飛び出そうとしていた。それをかろうじて、人の姿の方へ引かれたシェーンコップの理性が押しとどめている。それでもいつ、その竜のシェーンコップには馴染みの薄い理性とやらが決壊するか分からず、不穏な気配を察知した魔術師はシェーンコップの袖を強く掴み、
 「行こう、もう買い物は終わった。」
 竜の正体を表す前にと、立ち去るために歩き出そうとする。
 まだ市の人々をにらみつけているシェーンコップの腕を引き、魔術師はフードをかぶり直すと、人たちを押しのけるようにして市の中を抜けて行った。
 市を過ぎても魔術師は足取りをゆるめずに、街を出るまでほとんど小走りだった。
 強張っていた肩と背中の先が少しやわらいだのは、住み処へ戻るいちばん手前の森へ入った時で、そこでやっと魔術師はひとつ大きな息を吐き、ずっと後ろをついて来ていたシェーンコップをゆっくりと振り返る。
 「人間は、こういう時に酔っ払うために酒を飲むんだ。」
 胸の前に抱えた酒瓶を軽く持ち上げて見せながら、魔術師が苦笑を深くする。シェーンコップは笑い返すことができず、ただ唇を真一文字に引き結んだ。
 「悪かったね、不愉快な思いをさせた。」
 「あなたのせいじゃない、逆だ、あなたが言った通り、私は市に行くべきではなかった。」
 魔術師ひとりだったら、ひっそりと静かに用を済ませて市を後にできたろう。目立つ自分がいたばかりにと、シェーンコップは作った拳の中に指先を食い込ませた。
 「──違うよ、君がいたからわたしは無事でいられたんだ。わたしひとりだったら殴られてたか、石でも投げられてたか、とりあえず無傷で市を出してはもらえなかったと思うよ。買ったものも、多分全部取り上げられてたろうな。」
 魔術師が酒瓶を示して、また苦笑いをこぼす。
 「市の人間たちがあなたを害そうとしても、あなたの力なら止められたはずだ。」
 竜はもう、掌から赤い血でも流しそうに拳を握りしめて、震える声で言い募る。それでも魔術師は一向に激した様子も見せず、変わらない苦笑いをそこに刷くばかりだった。
 「うん、そうだね。わたしにはそうできる。だがわたしはそうはしない。あの人たちを傷つけたくないんだ。わたしは魔力が使えるが、人に向かってはできるだけ使いたくはないんだ。特に攻撃のためにはね。」
 「あの連中が、あなたを殺そうとしてもですか。」
 「人を殺すのは相当に強い衝動がいる。人はそれほど理性のない生きものではないよ竜の君。」
 必要なら誰を、何を殺すのにためらいのない竜族を揶揄する意図はなかった。それでもシェーンコップはわずかにむっとしたように黙り込み、ふいとよそを向く。
 「眠れないのは、以前殺されそうになったからだと、言ったのはあなただ、黒髪のひと。」
 反駁され、今度は魔術師が黙り込む。
 しばらくして、魔術師がかすれた声でやっと言った。
 「ここに来てからは、そんなことは一度もない。あの市には、私の目の色を見ても何も言わない人もいる。だからあそこの人たちは、君が思うほど悪い人たちじゃない。今日はたまたまだよ、酒のせいだ。」
 「あなたも、色んなことを酒のせいにするために、飲んで酔っ払うのですか。」
 「残念ながらわたしはどれだけ飲んでも酔っ払えなくてね。酔ってバカをしたと言う言い訳は使えないんだ。」
 シェーンコップはやれやれと言う風に首を振り、魔術師の真似をして、肺ごと吐き出すような大きなため息を吐いた。
 「人間のことは、まったくよく分からない。少しでも分かるために、どうやら私も酔っ払ってみる必要がありそうだ。」
 「君の飲ませるのはほんの少しだよ。酔っ払われたらどうなるか分からないじゃないか。」
 「突然竜の姿に戻って、あなたの住み処を潰してしまうかもしれない。」
 「やめてくれ、雨風しのぐのに、屋根と壁と床は必要なんだ。」
 ようやく少しだけ、いつもの調子を取り戻して、ふたりは淡く笑い合う。
 シェーンコップは魔術師の手から酒瓶を取り上げ、帰りましょうと薄い肩を押した。
 また歩き出し、揃わない肩を並べて、魔術師の歩幅にシェーンコップが合わせ、時折触れ合う肩から伸びた腕を、シェーンコップは市で見掛けたふたり組たちを思い出しながらわざと絡めるようにして、マントの生地越しに魔術師の指先を探り当てる。
 鉤爪ではない自分の指で、魔術師の指を握ると、魔術師はもがくようにそこから指を抜き取って、遠ざかったことに明らかに落胆したシェーンコップの指へ、マントから出した剥き出しの指で改めて触れて来る。
 傷つけるためではない、人間の手指。大切なものを、傷つけずに扱うための、人間の手指。
 魔術師の指を、加減が分からず不安になりながらも、シェーンコップは握りしめ続けた。魔術師は足の幅半分ほど、隣りのシェーンコップへさらに近寄り、やがて掌を合わせる形に手指を絡め合わせて、竜に人の親愛の仕草を教えるように、優しさだけをそこにこめた。
 森を抜け切るまで、ふたりの指はそうして触れ合ったままでいた。

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