* "眠れぬ夜"改題
ろくでなしのBlues 1
誰にも会わなかったのが奇跡だった。いくら深夜もとっくに過ぎたとは言え、警備等夜を徹して詰めている面々もあちこちにいる要塞内で、パジャマに毛布を巻きつけて引きずって歩く姿を見られなかったのは僥倖としか言えなかった。とは言え、監視カメラを真面目に見ている誰かがいれば、ヤンがそんな姿で歩き回っているのはちゃんと映っていたろう。それでも、世間には変わり者で通っているこの司令官の奇矯な振る舞いは、きっとまたかと彼らにつぶやかせたきり、興味も抱かせなかったに違いなかった。
ベッドから抜け出したままのくしゃくしゃの髪、パジャマの襟はよれて立ち、寝相がよほど悪いのかと間違いなく人には思わせる姿だった。
寝不足にふくらんだまぶたも重たげに、引きずるような足取りでよたよた歩き続けて、ヤンがやっと足を止めると決めたのは、将校たちには解放されているラウンジと言うのか、そんな場所があると知ってはいても位置が不便で誰も使わない、坐り心地はまあまあのソファがいくつも置いてあるだだっ広いフロアだった。
ここを誰も使わない理由のひとつに、今はヤンの右手にある壁全面が、ガラス張りであると言うことがある。
なるほど、戦闘中にここから高みの見物ができると言うわけだ。一体誰がそんなことをしたがるのかと、同盟側の誰もが思った。これは帝国側の趣味なのかどうか、自分たちの間の、橋渡しもできそうにない深い溝が可視化されたようなこのデザインに、キャゼルヌは深いため息で応えたものだ。
おかげでひとりになりたいと思えば、いつでもここにくればよかった。ヤンは踏み込めば沈む感触の絨毯の上を、ぺたぺたと室内履きで進み、ソファの群れを通り抜けて一番奥の壁際へゆく。たどり着いた壁にくるりと背を向け、床にぺたんと坐り込んだ。
左肩を、ほとんど強化ガラスにくっつけそうにしながら、ヤンは毛布を体に巻きつけ直し、肺すら吐き出しそうに深い深い息をこぼす。
眠れない。今に始まったことではないけれど、近頃不眠はひどくなる一方だ。酒は効かず、緊急時を考えれば睡眠薬など使うわけには行かず、うつらうつら日に数時間、それがヤンの睡眠の精一杯だった。
せめて4時間、いや、3時間足らずでいい、ぐっすり眠りたい、そう思い始めてもうどのくらいになるだろうと、ヤンはガラス越しに宇宙を見ながら考える。
どうやったら、たとえばユリアンのように眠れるのだろう。一度眠れば、少々肩を揺すったくらいで目覚めはしない、少年が健やかに貪る眠り。放っておけば半日でも眠ったままでいる、その寝息を盗み聞きして、ヤンは何度も何度もユリアンの眠り方を羨ましいと思った。
あんな風に眠れたのは一体いつが最後だったろう。エル・ファシルへ記憶をたどって、もうあの頃には不眠の兆候があったと思い出す。その前は?それ以前は? 寝返りを繰り返し、最後には諦めて天井を眺めて過ごす夜。酒が効いていた頃もあったけれど、酒量をユリアンに咎められて、その手はあまり使えなくなった。どちらにせよ、酒で招ぶ睡魔はごく短く浅い。
ヤンが欲しいのはそんな眠りではなく、まるで死んだような、ひたすら深い睡眠だった。夢すら見ない、そんな深い──
「こんなところにいたんですか。」
絨毯で足音の消えた長身が、気がつけば目前にいた。語尾のわずかに尖った声が、頭上から降って来るのに、ヤンはぼんやりと視線を向け、ああ、自分はまたこの男に叱られると思った。
「・・・シェーンコップ・・・。」
薔薇の騎士団、優美な呼称とは真逆に、凶暴な野犬の群れとひそかに揶揄されるローゼン・リッターの、その束ねの男。口元も目元もいつだって両方とも冷笑にねじ曲げているくせに、今はどちらも真っ直ぐで、今にも呆れた表情を浮かべそうにヤンを見下ろしている。
「何か、用かい?」
ヤンはいたずらを見つかった子どものように、かすかに肩を縮めて自分の部下を窺った。
毛布をかぶって膝を抱き寄せている自分の上官に、シェーンコップは首を振りたそうにした後で、
「別に用はありませんがね、監視カメラの係が夜勤の警備は初めてでしてね、貴方がどこかへふらふら歩いて行ったとわざわざ報告して来たから、一応部下としては心配して探している振りをしに来たわけです。"ウチの司令官は夢遊病の気があるから心配するな"とも言うわけに行かんでしょう。」
「──そう言ってくれればよかった。当たらずも遠からずだ。」
「イゼルローンに不要な噂を、自ら振りまく気ですか。」
そうだ、ここを無血で攻め落とした奇跡の人と、上がったばかりのせっかくの評判──ヤンは内心で苦笑した──を、どうも色々問題のある人物らしいと自ら落とすこともないだろう。ヤン自身はそんなことどうでもいいと思うけれど、彼の下にいる人々には、上官のろくでもない噂は神経に障るだろうし、しばらくはおとなしくしているに越したことはない。自分のためではなく、皆のために。
皆のために。思った途端にまた睡魔が遠のくような気がして、ヤンは疲れた仕草で髪に手をやる。
すでにくしゃくしゃの髪をもっと乱して、自分の腕の陰で、ヤンはそっとため息をこぼした。
「──眠れませんか。」
シェーンコップの声が沈み、不自然なほど優しく、ヤンの耳に届く。自身が恐ろしい猟犬のような、この、野犬たちを束ねる男が、明らかにヤンを気遣って、声音を変える。それが逆に、ひどくヤンの神経を逆撫でした。
「すぐに部屋に戻るから、放っておいてくれないか。」
決して毎晩と言うわけではない。それでも皆が気づいていて決して触れずにいる程度に、ヤンの深夜の徘徊は周知のことだった。眠れず、わずかでも眠れそうな場所を求めて、ヤンがさまよう。ベッドを抜け出したままの、完全に私人の姿で。
自分たちを導く人間の、そんな弱った姿など見せられても困る。信頼に足る人物にせよ、問題があるなら解決してもらわなければ困る。
解決できるならとっくにしてるさ。我ながら珍しいトーンで、ヤンは毒づく。不眠の苦痛、軍人なら誰でも通る道だ。目の前の、このシェーンコップも、恐らく。
「それなら今すぐ戻って下さい。こんなところで貴方に風邪でも引かれたら困る。」
今にもヤンの腕を取りたそうに、シェーンコップの手入れの良いブーツの爪先がわずかに床の上を滑った。
眠りを奪われて、風邪を引く自由もない。司令官と言うのはそういうものだ。何度も書き掛けて、あるいは書き終わった後に破り捨てた、辞表になり損ねた紙くずの山を思う。軍籍を退いたら、また眠れるようになるだろうか。軍人をやめたら、健やかな睡眠を取り戻せるだろうか。
多分そうはならないだろうと、ヤンは奇妙に冷静に考えた。悪夢はどこまでも追って来る。軍人でなくなっても、虐殺者と言う事実は消えない。
シェーンコップには見えないように、ヤンは毛布の中で拳を握り締めた。
君は、と思うより先に口が開く。声が出て、自分で驚いてから、改めて問い掛ける。
「君は、ちゃんと眠れるのか。」
上向いて、光の加減によっては紫の影の混じる淡い茶の瞳を、ヤンは捉えて、訊いた。
「眠りたければ、飲んで女を抱くのが一番だ。もっとも私の不眠は、貴方のほど深刻でもないでしょうがね。」
「飲むのはともかく、女性と云々はわたしには少々難易度が高すぎる。」
「そんなことはないでしょう、その気になれば、貴方と寝たがる女なぞいくらでもいるはずだ。」
「──残念ながら立場上、わたしは君たち以上に身持ちを云々されるし、今以上問題を抱えるのはごめんだ。自分の問題に、無辜の女性を巻き込む気はないよ。」
不眠のせいの徘徊癖と、女癖の悪さと、どちらの方が評価に響くかと、シェーンコップは数瞬真剣に考えそうになる。
口数が増えて、ヤンの瞳に光が戻って来たせいかどうか、シェーンコップはやっといつものように、ちょっと胸を張る姿勢に戻っていた。
片手を顔の横でひらひらと振り、話にならないと言いたげに唇の片端だけねじ上げて、元々本気で議論などする気もないから、シェーンコップはとにかくヤンを立たせようと手を伸ばし、指先を動かしてヤンを促した。
そうされると、ヤンは意固地に壁へ背中をぴたりとくっつけ、すいと視線を外してガラスの方へ向く。シェーンコップはやれやれと伸ばした腕を戻し、自分もガラスへ顔を向けてそこでヤンと目を合わせた。
「・・・無辜の女性でなければいいわけですか。」
何を言われたか分からないと、ヤンが眉をしかめてガラスに映るシェーンコップを見る。
「貴方の問題に巻き込まれるのが無辜の女性でなければ、構わないと言うことですかな司令官。」
そう重ねて言われても、いっそう言葉の意味が分からないまま、ヤンは眉の間をさらに狭めるだけだった。
ガラスに映るヤンから視線をずらして、シェーンコップはヤンを直接見つめた。
「──私を使いますか。」
ヤンもシェーンコップに視線を返して、いつもの、頭の中にあれこれ考えを巡らせる時の表情を浮かべる。
「君を、使う?」
「別に私でなくてもいい、貴方はただ部下を選んで命令すればいいだけだ。我々は上官には絶対逆らえない。その点については覚えがあるはずだ。私も、貴方も。」
すぐには反論せず、ヤンはまず黙り込んだ。考え込んでいるのと、シェーンコップの真意を測りかねているのと、あるいは怒りを覚えているのと、どれなのかあるいは全部が適当に混ざったそれか、シェーンコップは今では内心可笑しそうに事の成り行きを見守っている。
いつの間にか引き寄せていた膝から腕を外し、ヤンはシェーンコップの方へ床から身を乗り出すようにしていた。
「それは、わたしが間違っていなければ、職権濫用と呼ばれる行為じゃなかったかな。」
声の震えを隠すためかどうか、いつもより発声が低い。床近くから聞こえたそれを、シェーンコップは鼻先で笑い飛ばすことにした。
「このイゼルローンで、貴方のすることに云々する輩なんかいやあしない。」
「──わたしが、欠点まみれでどうしようもない人間であることは否定しない。だが、立場を笠に着る奴と思われるのは心外だ、シェーンコップ准将。」
乱れた前髪の向こうで、いつものようにヤンの目が輝いていた。睡魔は遠ざかっても、いつもの気力は取り戻したようだと内心で安堵してから、シェーンコップはあっさりと言葉を継いだ。
「そうでしょうな、貴方はそんな人じゃあない。」
シェーンコップが前言を翻し、再び、訝しげにヤンの眉が寄る。
「貴方は、死んでもそんなことを考える人じゃあない。だからこれは私からの提案ですヤン提督。民主主義国家でなら、部下が上官を口説いても不敬にはならんでしょう。」
帝国側ではならこうだと、見せつけるように、シェーンコップは自分の首に人差し指で斬りつける仕草をした。
毒舌と皮肉ばかりのこの部下の、これは気遣いの示し方だとヤンはやっと素直に受け取って、それにしても冗談が際ど過ぎると思いながら、体を起こす動きで毛布が床に滑り落ちる。途中でそれをシェーンコップが素早く受け止め、ようやく立ち上がったヤンの肩へ、子どもにでもするようにしっかりと巻きつけた。
肩を並べて動き出すと、ごく自然にシェーンコップの手が背中に添えられて、毛布とパジャマ越しに、ヤンはそれをあたたかいと思った。
女たちが彼に群がるのも道理だと、自分の部屋へ向かいながら、あくびを噛み殺して巡回している警備兵と2度ほどすれ違い、そのどちらもヤンを見て見ぬ振りをして、敬礼はシェーンコップが代わりに返す。
来た時よりはしっかりとした足取りで、思ったよりも早く自分の部屋の前へ着き、ヤンはなぜかそれを少し残念だと思った。
ドアの前で足を止め、シェーンコップを斜めに見上げて、ヤンは微笑みながら言った。
「君の提案は、ありがたく受け取っておくよ。」
それで、今夜の礼を言ったつもりだった。何もかも、それきりのはずだった。シェーンコップが自分のあごを指の先で持ち上げて、ひどく真剣な顔つきで、
「──眠れますか、ひとりで。」
と改めて訊くまで、ヤンは、今夜のシェーンコップが一言一句冗談など言っていなかったのだと、気づかなかった。
いや、気づかない振りをしていたのだと、数秒、息を止めて悟るしかなかった。
微笑みが消え失せた後に、ひどくやるせない表情を刷いて、自分などより何十倍も苦渋を舐めて来ただろう年上の男に向かって、ヤンはまるで諭すように言うしかなかった。
「シェーンコップ准将、上官と寝るのは、君にとって面倒事でしかないよ。わたしも君も、それが分からないほど初心でもないだろう。」
「・・・貴方が、心も痛めずに部下を利用できるロクでなしならもっと楽だったでしょうにヤン提督。」
「わたしはひとでなしかもしれないが、ろくでなしにはなりたくないんだ、シェーンコップ。」
ご同情申し上げると、言葉の上っ面だけは軽々しくシェーンコップが言い、君の言うようにろくでなしになりたかったよとヤンがおどけて返し、もう一度だけ黙り合って、ふたりは視線を絡みつかせるように見つめ合った。
足元に視線を落として、お休みとヤンが言い、お休みなさいヤン司令官とシェーンコップが返す。ドアが開き、引きずった毛布を吸い込んで閉まる。ヤンが姿を消すと、シェーンコップは名残り惜しげにドアの表面を2度撫で、その手をポケットにしまい込んでそこを離れた。
人工の夜明けの訪れは、もう少し先だった。