シェーンコップ×ヤン

ろくでなしのBlues 2

 あくびを噛み殺して、椅子の中で思わず体を伸ばす。ムライがこほんと咳払いをし、咎める視線を投げて来たのを背中に感じて、ヤンは後ろへ伸ばした腕をそっと下ろし、見えないように肩をすくめる。
 昨夜もまた悪夢だらけの、ぶつ切りの睡眠──微睡み──で、眠った気など一向にしない。ベッドを抜け出して飲んだ酒が、まだ吐く息に匂う気がして、ヤンはもう1度椅子の中で肩をすくめた。
 歩幅の広い足音が軽くして、自分から遠ざかるのに、聞き覚えのあるそれへ耳を引き寄せられるのと同時に、ヤンは椅子をくるりと半分回し、気配の主を視線の先に追う。
 そう期待した通りに、肩の広い大きな背中が存在感を示しながら、けれど不思議と場の空気は揺らさずに向こうへ去ってゆくのが見えた。自分の方へ振り向くかと思ったけれど、肩から続く案外太い首筋はみじろぎもせず、ふん、とヤンは唇を軽く尖らせて、自分の軽い不機嫌の理由を探ろうとはしない。
 寝不足のせいだ。そう断じて、ただぼんやりと遠くなる背中を見送っていた。
 ふと足が止まり、彼──シェーンコップ──の横顔がこちらへ向く。けれどヤンを見たわけではなくて、そこにある誰かのデスクの上の何かに視線を引かれた風に、数秒動きを止めた後で、シェーンコップはそこへ手を伸ばした。
 手に取ったのは本だった。開いたまま、机の上に伏せられていたらしいそれを取り上げ、シェーンコップの視線がデスクの上をさまよい、メモか何か、紙片らしきものを見つけてページに挟み、そっと閉じた本を元の場所に戻す。背中はまたゆっくりと動き出し、じきにヤンの視界から消えた。
 ヤンは椅子に坐り直して、足を組んだ。また肩をすくめ、たった今見た光景をスローモーションで反芻して、シェーンコップの、本に触れた指先や、背表紙に添えられた掌や、特に音もさせなかった本の扱いのひとつびとつに、少々意地の悪い、評価の目を光らせてから、合格と、素っ気なく胸の中でひとりごちる。
 頭の上にかろうじて乗っていたベレー帽を取り、くるくると指先で回す。それに視線を当てている振りで、見ているのはシェーンコップの手指だった。手首の太い、大きな掌。骨張った長い指。ヤンが覚えているのはたった今見たそれではなかったけれど、その掌があたたかいことはすでに知っている。
 他人の持ち物に勝手に触れるのはどうかと思いながら、ヤン自身も、本を乱暴に扱われるのには苛立ちを隠せない性質(たち)で、ページの端をしおり代わりに折る輩は、心の中で裁判なしの銃殺刑にしている。口に出しはしなくても、そんな場面に出会うと、これを使えと紙片や紙ナプキン等を差し出さずにはいられない。
 本好きでなければ、本を特に丁寧に扱おうとしないのが一般的な態度だ。だから、本に対して礼儀正しい態度を見ると、ヤンはそれだけで相手に対する評価を上げてしまう。あまりいいことではないと、反省はしながら。
 ベレー帽を両手の中でねじり上げながら、ヤンはまずいなと思った。ベレー帽を顔にかぶせ、昼寝でもするような振りで表情を隠す。帽子の下で唇を尖らせ、それから下唇の端を噛み、寝不足のせいか考え慣れないことを考えているせいか、どちらか見極めのつかない軽い頭痛にこめかみを軽く押さえ、何度も何度も長い瞬きをした。
 シェーンコップの、あたたかな掌。その手が本を注意深く扱う動き。そこから自然に、その指先が自分に触れるところを想像する。
 ベレー帽の内側の闇の中で、自分の姿が、顔の見えない敵兵へするりと入れ替わる。対峙したシェーンコップは、戦斧の柄を握りしめて力いっぱい振り下ろし、敵兵の体を叩き切ってその返り血を浴びると、形の良い眉ひとつ動かさずに次の敵へ視線を移す。ヤンはそれを自分の目で見たことはない。ただ想像するだけだ。血の生あたたかさ。体から流れ出した瞬間、体温よりも低まるそれ。血だまりを踏みしめて、立ち上る血の匂いを振り払って、シェーンコップはただ前へ進む。ヤンがそう命令した通りに。
 ヤン自身の、殺意ではなく、破壊欲でもなく、ただ自分たちの側を有利にしたいと言うだけの、ヤンの頭の中でだけ繰り広げられる一種のゲームの駒として、彼はヤンの思考に忠実に動く。まるで脳自体が直接繋がっているかのように、こう動けと思った通り、シェーンコップはまるでヤン自身の手足のようだ。
 自分の指が動いて、開いた本のページを繰る。その指にシェーンコップのそれが重なり、いつの間にか彼の指と入れ替わっている。本を読んでいるのはヤンの目と脳なのか、それともシェーンコップのそれなのか。本を持つ手、自分のものともシェーンコップのそれとも分からず、いつの間にか、彼がヤンのために持ちページを繰る本を、ヤンは読んでいる。ヤンが最後の行読み終えると同時に、ぱらりとページが繰られ、何も言わなくても、ヤンの視線は活字の上をスムーズに進んでゆく。
 広い胸に背中を重ねて、幼い頃、父親がそうやって本の読み聞かせをしてくれたように、シェーンコップの胸の中で、ヤンは自分の指すら使わずに、本を読んでいる。
 ページを繰る指が、いつの間にかヤンの髪をかきまぜていた。本の扱いと同じに、その指先は穏やかで優しかった。シェーンコップが何か言う。何だと軽く上向いて、ヤンは彼の口元を見ようとした。思ったよりもふっくらとした唇の線が視界の端に引っ掛かり、なぜか紅茶の香りがした。
 自分の息から匂うのかと思って、またあごを引く。それなら酒の匂いではないかと思ってから、彼の唇から匂うならコーヒーのはずだと、混乱したままヤンは眉を寄せた。
 閣下、と彼の唇が動いて呼ぶ。いつもの、揶揄するような響きでないそれが、いっそうヤンを混乱させた。
 「閣下。」
 肩を軽く叩かれ、驚いたヤンの手足が椅子の中で跳ねた。その拍子にベレー帽が膝にずり落ち、そうして、うっかりうたた寝をしていたのだと気づく。
 「閣下。」
 聞こえたのは、柔らかな女声だった。グリーンヒル大尉がいつもの慈愛に満ちた笑みを浮かべて、ヤンへ紅茶を差し出している。
 「あ、ああ、すまない。ありがとう。」
 やっと体を立て直し、受け取って唇を寄せる間に、
 「ブランデーは抜きですから。」
と、ムライに聞こえるようにか、彼女がきちんと声を張る。
 やはり昨夜の酒が抜けていないのは見通されているのかと、ヤンは唇の両端を下げて、ありがとうと、大尉に向けてもう一度言った。
 熱い紅茶が、泥のような眠気を洗い流してゆく。一緒に、シェーンコップの手指の眺めも遠ざかってゆく。
 軽くやけどした上顎を舌先で探りながら、ヤンは小さく息を吐いた。まずいなとまた思って、いや紅茶はちゃんと美味いのだと思い直す。
 本を読むように彼に触れ、ページを繰るように彼に触れられたいと考えている自分に気づいて、ヤンは思わず前髪をくしゃくしゃにした。
 自分を使えと言い、部下が上官を口説いても不敬にはならないとうそぶいた彼の、一体どこまでが本気だったのだろうかと考える自分のろくでもなさに、吐き気のするほど嫌悪を覚えるくせに、ヤンがそう命じれば確かにあの男は否とは言わないだろうとも思う。
 ろくでなしにはなりたくないのではなかったかと、自分の吐いた言葉を思い返しながら、ベッドの中で本を読みながら眠りに落ちた、子どもの頃には確実に味わえたあの安眠の扉の感触を、ヤンは今強烈に思い出している。
 その扉を叩く手。自分のものかシェーンコップのそれか、輪郭も皮膚の色も混ざり合って見分けがつかない。
 自分がろくでなしになっても、あの男は赦してくれるだろうか。あるいは、裏切り者と謗られ続けた彼に、今度はヤンが変節漢と罵られる番になるのか。
 きちんと閉じられ、本棚へ静かに戻される本になりたい、そうしてひっそりとただそこにあるだけの存在になりたいと、ヤンは思った。次に誰かが棚から取り出すまで、そっとしておいてもらえる、そんな本のようになりたいと、また今夜も眠れない予感に襲われて、紅茶の湯気越しにぼんやりと視線を投げながら、ヤンは思い続けていた。  

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