パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。獣登場。
* リアル獣姦展開含 *

変化たちの森 12

 8月に入ると、アッテンボローは夏のキャンプに出掛けてしまい、ヤンは今度こそ誰も自分の時間に入り込んで来ない、ひとりきりになった。
 2週間で戻るからと言い残して行ったアッテンボローは、それでも案外まめにメールを寄越して来て、タイプの打ち直しは進んでいるか、新しいのは書き始めたかと、尋ねるのを絶対に忘れない。
 やってるよ、まだだよと、同じ内容で返信する他は、ヤンはひたすら自分のノートとコンピューターにうつむき込んでいる。
 遅々として進まない打ち直しだったけれど、それでも、書いたきり特に読み返しもしなかった以前自分が書いたものを、そうしながら読み直すのは案外楽しくて、少しずつコンピューターの中にたまってゆくテキストファイルを、これもアッテンボローが作ってくれたフォルダの中に眺めて、ヤンは目に見えるその成果に、ひとりで時々微笑んでいる。
 楽しさの合間に、相変わらずジェシカとラップは必ず入り込んで来て、そのたびヤンの感じていた小さな愉快さは霧散してしまうけれど、今はひとりきりのヤンは、彼らの面影をまるで現実のそれのように自分の傍らへ引きつけて、そうして、誰にも見せない、ヤン自身もそうとは自覚していない孤独をごまかすように、痛みを伴うと分かっているのに、気がつけば幻影の彼らに実際に声を出して話し掛けすらした。
 アッテンボローがいれば、外へ出る口実ができるのだけれど、ひとりになると終日家に閉じこもってろくに陽も浴びない。それはさすがにまずいと、ヤンは午後の終わり、夕食の前には必ず散歩をするようにした。
 家の周囲を少し歩き回り、次には坂を少し上がったり下りたり、次第に散歩の範囲は広がって、ただ歩いていると空っぽの頭の中に、次第に以前のように言葉が浮かび上がるようになって、それが少しずつ意味を持って組み合わさり、物語にはならなくても、文章の形にはなるようになっていた。
 言葉と言葉の間に、ラップの声が甦る。見上げて、息苦しいほど濃い緑の葉の重なりに、ジェシカを思い出す。目に映るもの、耳に聞こえるもの、風の中にふと感じる自分のものではない気配、それをひとつびとつ言葉に変換しながら、その言葉の音の間には必ずふたりが混じり入って来る。
 ヤンの世界は変わらずふたりに満たされていた。ただ、言葉を交わすことも、触れることもできないだけだ。
 ジェシカとラップから隔てられてしまった世界。その隔てはいつか失くなるのだろうか。ヤンも、ジェシカとラップの今いるところへ、行く日がやって来る、それはいつなのだろうか。
 会いたい、とヤンはまた思った。


 その日は、家の前を、自分の車を駐めている、坂へ出る方とは逆へ行き、車は通らない小道の方へ行った。そちらは林と言うのか、入っても迷うほどではないけれど木々が生い繁り、夏の間は木陰が気持ち良く、その下を歩くにはちょうどいい辺りだった。
 小道を街の方へ少し下り、それから林の中の、これは人が歩いたせいか獣道か、踏み固められて細い道のできている跡をたどる。
 ここを抜ければ、もう人は住んでいない打ち捨てられた家屋──家と言うより納屋のように見える──に行き当たるのだけれど、ヤンはそこまでは行くつもりはなく、どこで引き返すかとぼんやり考えていた。
 ふと聞こえたのは、動物のうなり声だった。そして、じゃらじゃらと金属の触れ合う音。
 誰かが犬を散歩に連れ歩いているのかと、ヤンは足を止め、肩の辺りを強張らせて音のするの方へ視線を渡す。ここで、人間に対してこんな声を上げる動物に出会ったことはない。攻撃的で、警戒心丸出しのその声に、ヤンはまず怯えて、すぐにこの場から走って逃げることを考えた。
 人の歩く気配はない。動物の声だけだ。それなら犬の散歩ではないのか。人連れでないとすれば、追い駆けられたら逃げられない。背後から大きな動物に飛び掛かられ、背中の辺りを噛み裂かれる自分の姿を思い浮かべて、こんな時には想像力だけは売るほどある自分の頭の中身を呪う。
 逃げ出すこともできず、どうしようかと迷ううち、位置の変わらないうなり声と、次第に大きくなる金属音へ、ヤンは怯えよりも好奇心をより強く湧かせて、爪先を草の上に滑らせるようにして、そちらへ少しずつ近づいて行った。
 犬に見えた。それならとても大きな犬だ。立ち上がればきっと、ヤンの肩へ届くくらいの。茶色と灰色の混じった毛並み。鋭く尖った鼻先、人間なら白くなる目の部分はやや灰色がかった金色で、それに比べると小さい暗い瞳孔が、その動物を恐ろしげに見せている。
 四つ足の獣は、ヤンへ向かってやや体を伏せ、近づいたら攻撃すると言う姿勢を取るけれど、それ以上は近寄っては来ない。
 金属音は、獣の背後のひと際太い木の幹に巻きつけられた、頑丈そうな鎖のせいらしかった。幹の色に同化した赤茶けた鎖は、幹を一周して地面に伸び、それをたどると獣の後ろ足へゆき、そうしてやっとヤンは、獣の足が鉄の歯に噛み込まれているのに気づく。
 ぎざぎざの歯に挟まれた獣の足からは血が流れ、ヤンは痛みにぞっと背筋を震わせた。
 ヤンは、かたつむりのように、じわじわと傷ついた獣に近づく。
 「何もしないよ。」
 言葉が通じるわけもないのに、そう声を掛けずにはいられず、ヤンに害意がないのは伝わるのか、獣はうなりはしても牙を剥き出しにはしなかった。
 鎖の長さが届かない辺りを見定めて、ヤンは獣の周囲をゆっくりとひと回りし、怪我の様子を観察した。
 罠のどこかを何かすればこの歯は開くのだろうけれど、ここからでは何も分からない。ヤンはただ獣をこの責め苦から解放してやりたくて、罠の仕掛けを観察し続けた。
 いつの間にか獣は動き回るのを止め、まるでヤンを助けるように──そうすることが自分を助けることに繋がると理解しているように──罠に掛かった方の後ろ足を伸ばして、地面にぺたりを伏せて動かなくなる。
 少しだけ見やすくなった罠を覗き込むようにして、自分の手に負えるかどうか決めかねながら、血まみれの痛々しい獣の足へ、眉を寄せずにいられない。
 ひどいことをすると、この罠を仕掛けた誰かへ向かって憤り、その気持ちのまま、ヤンは思わず獣の体へ手を伸ばしていた。
 触れたのは、腿に当たる部分だった。思ったより硬い毛並みはけれどしっかりとあたたかく、ヤンが乗せた掌へ、獣は警戒するように鼻先を向け、けれどもううなりもせず、人間には感情の読み取れない乾いた目を向けるだけだった。
 ヤンは、音をさせずにそっと立ち上がり、獣を見下ろしながらその場からゆっくりと後退る。そうして、くるりと背を向けると後は家まで全速力で走った。
 数分で家に戻ると、ヤンはまずは皮を張ったぶ厚い手袋を工具箱から探し出し、あの罠の歯を開くのに使えそうな工具や道具を選り分けた。それから冷蔵庫を開けて、数日の間に食べるつもりだった生の肉と水のボトルを取り出し、空のタッパウェアをひとつ掴むと、それを全部買い物袋へ突っ込んで、再び家から飛び出した。
 今度は騒がしく戻って来たヤンを、獣は少し驚いたように迎え、ヤンが自分の傍──攻撃の届かない距離は一応取って──に坐り込んで何やらがしゃがしゃやり始めると、警戒はしながらもまた地面に伏せた姿勢を取る。
 ヤンはまず、持って来た肉をそろそろと獣の鼻先に差し出した。獣は長い間その匂いを嗅ぎ、鼻先でつつき、肉以外の匂いがしないと確かめると、後はもうぺろりと、ヤンの、2、3回分の夕食があっと言う間に獣の胃袋に消える。
 餌──安全な──を与えられると、獣は途端に警戒心をどこかへ追いやり、ヤンの方へ鼻先を寄せて、まだ他に何かないのかと、甘えた仕草を見せ始める。
 「現金だなあ。肉はそれだけだよ。」
 次に、タッパウェアにボトルの水を出してやると、空腹よりも渇きの方が深刻だったのか、鼻先を溺れさせる勢いで水を飲み始めた。
 動物を身近に見たことのないヤンは、獣の仕草がいちいち面白く、きちんと容器を前足の間に抱え込み、大きな耳を伏せたり上げたりしながら、思ったより長い舌で水を舐め取るようにしているのを、じっと眺めていた。
 飛び散った水でびしょ濡れになったタッパウェアを、獣がおもちゃのように軽く噛み始めたのを見て、それがもっと水が欲しいと言う仕草か、あるいは腹が満たされて遊びたい気分になったのか、ヤンには分からず、ちょっとだけ気の毒になりながら、ヤンはそれを取り上げるために獣へ向かって手を伸ばした。
 ヤンの警戒心のなさを、獣の方が驚いたように、鼻先を引いてヤンを上目に見つめて、容器に指先を掛けたヤンの手を、獣は濡れた舌を伸ばして舐めて来た。
 それが、とりあえずは親しみと感謝の表現とは理解して、ヤンはつられたように獣の頭を撫でる。犬は目を閉じて、ヤンの掌へ自分の頭を押し付けた。
 獣の、触れれば柔らかな毛並みとあたたかさに、ヤンは何か懐かしい気持ちにひたりそうになった。
 獣と遊ぶためにここにいるわけではない。ヤンは我に返って、獣の後ろ足の方へにじり寄った。
 ぶ厚い手袋を着けて、そろそろと罠へ触れる。こんな間近に見ても仕掛けはよく分からず、何か突っ込んで無理矢理開くかと、歯の噛み合わせの隙間の幅を目測した。
 いちばん長くて太いドライバーを取り出して、獣の方へ見せて、
 「痛かったらごめんよ。」
 武器ではないと示しながら、罠の方へそれを持って行く。何とか傷口から遠い端へ差し込んで動かしても、噛み合わせはびくともしない。
 それでもとにかく、傷に触れないように、ああでもないこうでもないと、ヤンはドライバーを動かし続けた。
 汗が吹き出し、手袋は泥と錆で汚れ、指先の部分は獣の血で赤く染まった。獣は、自分を助けようとしている人間の虚しい戦いを、傷は痛み続けているはずなのに、ただ静かに見守っている。
 ヤンは額の汗を腕で拭い、1ミリも開かない罠の歯を見下ろして、罠が外れないならとりあえず鎖を切ってしまうかと、木の方を見た。けれどその太い鎖を断ち切る道具は家にないと思って、アッテンボローの家族に借りに行こうかとふと思いつく。
 そうして、獣をこの罠から助けることを考えながら、そうすることを自分でしたいのだと、そう思っている自分に気づく。
 誰の手も借りたくない。ひとりぼっちの自分なら、何もかもを自分ひとりですべきだと、そちらの方がいつの間にか目的になってしまっている。
 「・・・そうじゃないよな、おまえを助ける方が大事なのに・・・。」
 ヤンは罠から手を放し、手袋を取ると、獣の背中を撫でた。獣は、経過はともかくも、ヤンの孤軍奮闘には感謝しているとでも言いたげに、長い舌で鼻先を舐めて見せる。
 ヤンはドライバーをとりあえず放り出し、罠の仕組みをもうちょっとよく見ようと、足の傷に障らないように気をつけながら、金属の組み合わせ部分へ丁寧に指先で触れてみる。
 暗くなってしまうとこんな作業も難しくなるから、アッテンボローの家族の手を借りるならそろそろ切り上げなければと、罠の土台部分へ両手の指先を押し付けていた時、行き当たった、押せば押し返して来る感触へ、さらに強く指先を押し当て、そうして一体何が起こったのか、突然ヤンの目の前で、微動だにしなかった罠が口を開く。
 がしゃんと言う、冷たい、大きな音とともに、罠は突然その口を大きく開け、血と肉片に汚れた恐ろしく鋭い歯を剥き出しにした。
 ヤンも獣も、一瞬何が起こったのか分からず、ぽかんと、まるで人間同士みたいに顔を見合わせ、獣はさっとそこから後ろ足を引くと、自分が4本の足で立ち上がれ、動け、そしてそこから逃げ出せることを確認した途端、大きな体をしならせて走り出す。
 獣は、4歩先で立ち止まり、ヤンの方を見て、長くひと声吠えた。
 傷ついた方の後ろ足は軽く地面から持ち上げ、ヤンへ向かって頭を下げ、しばらくヤンを見つめて、それからゆっくりとどこへともなく姿を消した。
 ヤンは呆然と獣を見送り、ともかくも獣を救ったことを悟ると、やっとのろのろとそこから立ち上がる。
 まだ罠を手に、そこにこびりついた血と肉片と毛へ顔をしかめ、獣の傷の心配をしながら、帰るために、足元に散らばった工具をまとめようとするのに、すぐには動かずに、ヤンは獣が消えた方角をじっと見ていた。


 家に戻ってすぐ警察に電話をして、恐らく違法の罠を見つけたことを通報し、1時間後にやって来た警官ふたりを、ヤンは獣のいた現場へ案内した。
 背格好は同じくらいの、ひとりはオレンジがかった赤毛、もうひとりは金髪の、ふたりで良く喋る警官は、通報の時のヤンの説明でもう道具を持参して来ていて、現場の写真を撮ってすぐ鎖を切って罠を撤去した。
 彼らはもちろん、罠が血で汚れていることを指摘して、それについて尋ねられた時、ヤンはすでに逃した獣のことを正直に告げ、
 「ボウズ、野生の動物には絶対近づくな、指から足やら食いちぎられて一生泣く羽目になるぞ。」
 赤毛の警官は両手を腰に当て、ヤンの方へ体をかがめてたしなめに来る。
 「食いちぎられるくらいで済めばいいがな。」
 金髪の警官が、小さなノートに何やら書き込みながら、ヤンにと言うよりも、赤毛の方へ混ぜっ返すように言う。
 「だからこのオレがボウズに注意してるんだろうが。」
 「坊や、自分のことは棚上げするような、こんな大人になるなよ?」
 ヤンに注意をしている振りで、何やらふたりの間だけで通じる会話を続けるふたりを、ヤンはぼんやり見て、あの獣は無事に安全なところへ帰ったろうかと考えている。
 警官たちは現場をあちこち見て回り、他に罠がないかと探して、その間に幾つかの場所へ連絡を取り、ヤンには繰り返し事情を説明させて、2時間近く後にやっとヤンを解放してくれた。
 「いいか、次に同じようなことがあったら、すぐに警察と保健所に連絡すること。自分で野生の動物を何とかしようなんて考えるんじゃないぞボウズ。」
 赤毛の方が繰り返し言うのに、ヤンは一応殊勝にうなずいて見せ、赤毛の後ろで金髪の方が、いかにも良く言うぜと言う表情を浮かべたのに、笑いを噛み殺すのに必死にならなければならなかった。
 警官たちが騒がしく去り、パトカーが暗い坂道を下ってゆくと、ヤンは家の中に戻るために玄関前のポーチへ上がる。
 そうして、ふと感じた気配に、短い階段の途中で足を止め、後ろを振り返る。
 もう薄暗いそこに溶け込むように、どこから現れたのか、あの獣がじっとヤンを見ていた。
 あ、とヤンは思わず獣へ駆け寄ろうとして、階段で足をもつれさせた。何とか転ばずに地面へ下り、体勢を整えて顔を上げた時にはもう獣の姿はなく、あの獣を呼び返して、自分は一体どうするつもりだったのかと、そこへ佇み考えている。野生の動物には手を出すなと、警官に言われたばかりではないか。
 足の傷は大丈夫だろうかと、また思う。あの傷は、無事に塞がるだろうか。
 ぐうっと、空の胃が鳴る。肉はあるだけ全部獣に与えてしまったから、夕飯をどうしようかと言う自分ののどかな悩みに、ヤンはまだ星の見えない夜空をひとり振り仰いだ。

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