* リアル獣姦展開含 *
変化たちの森 27
前の夜と同じように、ヤンはワルターの傍で寝た。明らかに冷たい、固くなったワルターの体に腕を巻いて、首筋や頭に顔を埋めながら、同じように夜をワルターと一緒に眠った。
床に敷いたマットレスの上で目覚め、ぼんやりとした頭で、おはようワルターと言い、ああそうだ、もう食事の用意はいらないんだと思った。
目を開いたまま動かないワルターを撫で、ヤンは汚れたシーツの上から立ち上がると、自分のために紅茶を淹れるためにキッチンへ向かう。
そうする間中、ワルターを決して視界から逃さず、かすかに開いた口の間からだらりと垂れた舌の先が見えているのと、開いたままのガラスのような目と、目は閉じてやればよかったなと、何の感情もこめずに思う。
紅茶を手に再びワルターの元へ戻り、触れる傍らへぺたりと坐り込んで、紅茶を飲み終わるまで、ヤンはワルターを撫で続けた。
口から流れた血で、汚れてごわごわに固まった毛並みが気になり、後で全身を丁寧に拭こうと思いつく。見開かれたままの目が少し不気味で、その見掛けが可哀想で、何度もまぶたを押し下げるけれど、死後硬直のまだ解けない体がヤンの自由になるわけもなかった。
ワルターと、数分置きに声を掛ける。いつもなら、わふ、と短く小さく吠えて応える声はない。ヤンを見つめて動く瞳もない。ヤンの膝へ掛けて来るはず前足は投げ出されたまま、大きな丸い肉球はただ冷たくて固い。
もう長い間、水すらろくに飲めなかった体は痩せて平たくなって、腹の辺りはヤンの両手で作った輪に収まりそうな細さだ。空の胃の辺りを、ヤンは何度も何度も撫でた。
もう苦しまなくていい。きっと今頃、どこかで、健康だった頃の姿で走り回っているだろう。きっと。ひとりきりで。あるいは、ヤンの知らない仲間たちと一緒に。
ワルター、とまた呼んだ。紅茶の湯気はとっくに消えている。
ワルター。カップの陰で、唇が震えた。
鼻先から、ゆっくりと尻尾の先まで掌を滑らせた。耳の先が氷のように冷たい。頭頂から尾骶骨へ続く骨の流れが、ごつごつと掌に痛い。尻尾と言うものは、そこに特別の生気が集まっているように、ぱたぱたと動かなければただの毛束だ。
乾いた鼻先が、冷たいくせにそこだけ妙に生ぬるく、それを自分に押し当てて来た時の、湿りと心地好い冷たさを思い出して、今はもう撫でても指先にざらざらと鬱陶しく引っ掛かる。
肋骨の間へ、添えるように指を広げて、掌を置いた。どれだけ探っても鼓動はなく、呼びながら揺すると、四肢を突っ張った形に、体全部が一緒に揺れるだけだ。
体の中で、動きを止めた内臓が見えるような気がした。空っぽの、縮んでしまった胃。ヤンの胃も、きっと同じくらい小さくなってしまっている。最後に取ったまともな食事が思い出せず、このままなら、自分もワルターの傍で、嵩を亡くして死んでしまうのだと思った。
「大好きだよ、ワルター。」
何度言ったか分からない同じことを、ヤンは繰り返す。朝起きて、食事──朝と夜と、昼にも少し──が終わって、ワルターを置いて出掛ける時に、帰って来た時に、交尾の後に、眠りに落ちる前に、日に何度、同じことを言ったろう。交尾の数より確実に回数は多かったはずのその台詞を、ヤンは繰り返す。
大好きだよ、ワルター。
ワルターは身じろぎもしない。
ワルターの前足を取り上げ、ヤンはそっと握った。丸い輪郭をなぞり、肉球のかさついた盛り上がりを撫で、先の丸い爪を指先に食い込ませるようにして、こうしていれば、いつかワルターがまたのそりと起き上がって、がふがふ言いながら自分に乗り掛かって来るのだと、考えることをやめられない。
ワルターは、ただ眠っているだけだ。少しばかり長い昼寝、ただそれだけのことだ。
ワルターの体を飽きず撫でながら、ヤンは、ワルターをこの姿のままここに置いておくにはどうしたらいいかと考え始める。大きな冷凍庫はどうだろう。洗濯室へ置けないだろうか。そこへワルターを寝かせ、そうすればヤンはずっとワルターと一緒にいられる。抱きしめるには少し冷たいけれど、それでもワルターはワルターのまま、ヤンの傍にいてくれる。
あるいは、剥製と言う手もある。そんなことをしてくれる誰かを、探し出せるだろうか。アッテンボローに訊けば、何かつてくらい見つけてくれるかもしれない。ああそうだ、アッテンボローに訊いてみようか。あいつなら、いつだって何か教えてくれる。いつだってそうだ。アッテンボローはいつだってヤンを助けてくれた。
ワルターを、このまま永遠に手元に置いておきたいんだと言えば、きっと何か考えついてくれるだろう。
体を切り開かれ、中身をすべて取り出され、外側だけになった、腹の中に何か詰め物をされたワルター。この目はこのままなのだろうか。それとも別の、ガラスか何か、元の目によく似た色のにせものを嵌め込まれるのだろうか。剥製のワルターは、抱けば少しはあたたかいだろうか。
思い浮かぶそのどれも、決して非現実的ではなかったけれど、正気の沙汰でもないと、ヤンは知っている。気が狂っているわけではなくても、間違いなく人は──アッテンボローも──ヤンの正気を疑うだろう。
分かってるよ、わたしは今、まったく正気じゃない。
ワルターは死んだのだ。ただ眠っていて、いつか目を覚ますわけではない。このまま置いておけば、ワルターの体は腐り始め、肉が溶け、骨と毛皮が残る。溶けた内側はその場に染みを残し、消えない腐臭を染み付かせる。
その様すら、ワルターのそれなら一瞬も逃さずに見ていたいと、ヤンは思った。
骨は清潔だ。乾いていて、腐りはしない。火葬すると言う手もある。遺灰になったワルターを、ずっと手元に置いておける。
でも、とヤンは思った。それではワルターを抱きしめられない。灰になればずっと一緒にいられる、でも、それではワルターを抱きしめられない。
ヤンは枕にするように、ワルターの胸元へ向かって倒れ、そこに頭を乗せた。骨にはこんなことはできない。骨では撫でることができない。
高温の炎で焼かれ、何もかも焼け落ちて、白い骨が灰になり、小さな容器に入れられた、ワルターだったもの。それを自分の部屋に置いておくところを想像して、違う、とヤンは思う。汚れてしまった毛並みへ頬ずりしながら、ワルターはこれで、それではないと思う。
撫で、抱きしめ、そうして自分の傍らにあった、ぬくもり。ヤンの腕の回る、ワルターの体。のし掛かられれば、息が止まるかと思うほど重かった、ワルターの体。生きていた、ワルターの体。
ワルターと言う、ヤンの現実。10年間、間違いなくヤンの連れ合いだった、ワルターと言う存在。
「ワルター。」
ワルターを失いたくないと、ヤンは思った。このままでもいい、冷たくて、動かなくて、ヤンを見ず、ヤンに応えず、それでもいいから、ワルターをこのまま傍に置きたいのだと、ヤンは思った。
凍った体でも、中身をそっくり入れ替えられた体でも、ワルターの、このままの姿であれば何でもいい。自分の目の前から、ワルターが消えてしまうことが耐えられないと、ヤンは思う。
どうやって、これからひとりで生きて行けばいい。ワルターと一緒だった10年を思い出しながら、そうして自分は、空っぽになったこの感覚のまま、やっと呼吸をしながら生きて行くのか。
ワルターの冷たさと、飲み終わった紅茶のカップの冷たさが、同じように掌に伝わって来る。
ヤンは呆けたように、ワルターの傍らから離れない。
汚れたシーツを取り替え、死後硬直の解けない、扱いにくいワルターの体を、濡らしたタオルで何度も何度も拭いてできるだけきれいにし、ヤンはほとんどワルターの傍を離れずに過ごしている。
ぼそぼとと何か食べたような記憶はある。正確には思い出せない。紅茶だけは日に何度か淹れ、コンピューターを起動させ、書き物の仕事をする振りすらした。
そうする時もワルターが必ず見える位置にいて、合間合間に、ヤンはワルターに、何も変わらない風に話し掛け続ける。
上手く出ない文章に悩むと、どうしてワルターは今日は自分の足元にやって来ないんだろうと思ったり、声を掛けているのに、体を起こして応えてくれないのはなぜだろうと思ったりした。
ワルターが動くたび、首輪にぶら下げた名札とワクチン接種の登録証の札がちゃらちゃら鳴る音がないと、ヤンだけが動く家の中はひどく静かだ。爪が伸びれば、床に当たってかちかちと鳴る音も、聞こえないのがひどく淋しい。
ワルターはそこにいるけれど、ワルターの気配はない。食事と水の皿は、手も触れないけれど出しっ放しだ。
床に敷いたままのマットレスの上で、ワルターを抱いて眠り、目が覚めたら、ワルターが空腹を訴えて自分を見下ろしているのではないかと期待しながら、泥の詰まったように頭の重い朝を迎える。
ヤンの後ろをついて回ることはない。閉じたドアを、ヤンが出て来るまで引っかき続けることもない。自分の部屋へ行ってしまえば、ワルターの姿は目に入らない。ポーチに出てもひとりきりだ。蹴らないように気をつけて、テーブルにつく必要もない。書き物の最中に、素足の足裏で撫でるあたたかな体もない。
ヤンは、床に横たわったきりのワルターを眺めやる。自分が動かさない限り、もうぴくりとも動かないワルターを、テーブルの上に頬杖をつき、コンピューターのモニタから視線を外して、じっと眺めやる。
撫でても撫でても冷たいままだ。少しずつ、ヤンは、ワルターの気配のない現実に馴染んでゆく。1日1日、自分の視界の中にワルターが飛び込んで来ない時間に、驚かなくなってゆく。
剥製にしたい、冷凍したい、そう相変わらず強烈に考えながら、どれひとつ実行には移さずに、ヤンはワルターをただ撫で続け、そうして5日目に、ヤンはやっとのろのろと立ち上がった。
裏庭へ出る。冬の風の吹き通る空の眺めの中に、ジェシカとラップの死んだ後で、ノートを焼いて埋めた跡を探ろうとしても記憶が遠過ぎる。のっぺらぼうの風景に、あの辺りだったろうかと定かではない位置を求めている。
掘った穴の中から立ち上る煙、その傍に坐り込んで、膝を抱えて声も立てずに泣いた自分の姿を思い出す。
無精髭のまばらに伸びたあごを撫でて、ヤンはあの日と同じように、穴を掘るためのシャベルを手に裏庭へ出た。
凍った土は厄介で、かじかむ手に何度も何度も息を吹き掛けながら、そのくせ額からはひっきりになしに汗が滴り、真っ赤になった頬の回りに吐いた白い息をまつわりつかせて、ヤンは再び裏庭に穴を掘る。今度は、自分が横たわれるくらいの大きさに。
身長分ほどの深さにはできなかった。それでも、這い上がるには少し苦労する深さになるまで、どのくらい掛かったろう。空腹も渇きも感じず、ヤンはただ無心に固い土を掘り、痛む手をこすり合わせながら途中で一度だけ紅茶を淹れて休憩し、そうしながら、マットレスの上に横たわるワルターからはするりと視線を外して、ヤンは再び穴掘りの作業に戻る。
ワルターのお気に入りの毛布を持ち出し、穴の底に敷いた。古い首輪も、いちばん古いのだけ残し、全部裏庭へ出して来た。
家の中に戻りながら、けれど裏口から中に半歩足を踏み入れたところで立ち止まる。開け放したドアから冷たい風が吹き込み、室温を下げるのにも構わず、ヤンはそこに立ったまま、家の中をぼんやり眺めている。
あの夏、ワルターと出会った夏に、ただ指先を動かすためだけに書き始めた、ワルターを少しだけモデルにした例の殺人事件の物語は、結局書き上げない途中で放ったままだ。書き掛けのノートがどこにあるかは知っている。机の引き出しを探ればすぐに見つかる。それを一緒に埋めようかどうしようか、ヤンはそこで迷った。
ワルターと同じ色の瞳の色と、ワルターの毛並みと同じ色の髪を持つあの少女。あれを書いた時にはまだ、ワルターとこんな風になるなど、考えもしなかった。
ワルターと抱き合って眠った夜。ぬるつく性器を探り合って、奇妙な必死さで交尾の術を探った頃の自分の幼さに、ヤンは改めて驚いてから、ワルターと一緒に過ごした時間の、短さと長さの両方へ心を馳せる。
内臓を穿つ方法で、それ以上はできないほど躯を近寄せて、この世の誰よりもワルターを大事に想って、ほんの数日前まで、それが永遠に続くのだと思い込んでいた。
人は、簡単に消えてしまうんだ。自分の言ったそのことを、ワルターと一緒にいる間はきれいに忘れていた。
大事な存在は、ある日突然消えてしまう。ほんとうに、突然に。
ワルターは、確かにヤンの家族だった。そうしてふたりきり、そこからどこへも行かずに、閉じこもるように一緒にいた時間の名残りと言って、ヤンには何も思い出せず、今この瞬間もまだ、ワルターの今ある姿のまま、永遠に一緒にはいられないものかと、往生際悪くヤンは考えている。
ドアから後ろを振り返り、掘った穴をちらりと見てから、やっとヤンは家の中へ入った。
マットレスに横たわるワルターを、ヤンはまた撫でた。ワルターとしきりに声を掛けながら、耳や鼻先や脚や背や腹や尻尾や、あらゆるところへ手を伸ばし、触れた。
「ワルター、大好きだよ。」
痩せて軽くはなってはいても、抱え上げれば持ち重りのする体を両腕の中に収めて、ヤンはゆっくりと家の中を横切ってゆく。1歩1歩、裏口へ近づきながら、今度は一体、自分がいつもの自分に戻れるのはいつだろうかと、ヤンは自分の目の前へ向かって目を細めた。
足を進めながらワルターへ頬ずりし、ごわごわの毛並みが自分の皮膚をちくちく刺すのに、その痛みすら今はひどくいとおしくて、裏庭へ近づく足が自然に遅くなる。それでも前へ進むうち、掘った穴にたどり着き、その手前でヤンは足を止めた。
どうしようと、今更迷いが湧く。これ以上、ワルターをこのままにはしておけない。冷凍庫を探しに行くかと、わざと冗談めかしてヤンは考える。
「ごめん、ワルター。」
ヤンは膝を落とし、ワルターをまだ抱いたまま、また胸の中でワルターの頭を撫でた。しばらくそうして、それからやっと、穴の中に下りて、そこへワルターを引きずり入れる。できるだけ静かにワルターを横たえ、持って出た首輪を全部傍らへ置き、外へ這い出て、ヤンはまた少しの間、ワルターをじっと見下ろしていた。
あのノートは取っておこう。1本だけ残した首輪と一緒に、ワルターの形見として。
ようやく立ち上がり、シャベルに手を掛け、掘った土を穴へ戻す。尻尾の方から土を落とし、ヤンはひとすくいのたび、手を止めてワルターを見つめた。
土に覆われ、ワルターの姿が見えなくなっても、穴を埋める土はまだ残っていて、作業は長く続いた。
ざくっと、盛り上げた土にシャベルの先を差し込むたび、ヤンはワルターと出会ってからの1日1日を思い出し、そうしてうなじが疼くのに、泥に汚れた掌を当てる。
ワルターに何度も噛まれたそこには、跡は残っているだろうか。鏡で確かめたこともない。アッテンボローに訊いたら、変な顔をされるだろうかどうだろうか。
再び汗が吹き出して、それを冷たい風が撫でてゆく。ああこれは風邪を引くなと、妙に冷静に考えながら、顔を濡らすのが汗だけではないのだとヤンは気づかない振りをする。
穴は完全に埋まり、盛り上がった土を、ヤンはシャベルの背で軽く叩いた。
シャベルを放り出して、ヤンは穴の傍へしゃがみ込む。目の前の、たった今ワルターを埋めた穴の表面を執拗に掌で撫で、そうして、土の上に落ちる自分の涙を見た。
「ワルター。」
両手を組み、額に当てた。腕の陰に顔を隠し、そのまま体が前へ倒れる。体を投げ出し、口の中へじゃりじゃりと土が入るのに構わず、ヤンは大きく口を開けてそこで肺いっぱい叫んだ。
意味のない音を発し、喉が裂けたような気がして、震える全身を止められずに、ヤンは声を放って泣いた。
わーわーと、叫ぶ声と涙が、土に吸い込まれてゆく。それは、穴の底に横たわるワルターに届くのだろうか。
冬の短い日が終わり掛けた、そろそろ薄暗い裏庭で、ヤンはひとり泣き叫ぶ。その声を聞くのはワルターだけだ。土まみれになって、ヤンは泣き続ける。
丸まったヤンの背に、慰めるように乗り掛かるワルターの姿はなく、ヤンはいつまでもそこでひとりきりだった。