パラレルコプヤン。天涯孤独のヤン少年の異種同種恋愛譚。ヤンと獣。

変化たちの森 28

 馴染みの、喪失の感覚が、ヤンを蝕んでいる。
 ちぎり取られた自分の内側、そして半分の、傷の端はまだじわじわと血を滲み出させて、乾いてかさぶたになると言う予感もないまま、ヤンはその痛みにじっと耐え続けている。
 ごく普通に振る舞っている振りで、見つめる先には常にワルターを探して、その気配も物音もない空間へ目を凝らし、そこにワルターの姿がないことを不思議に思ってから、ああそうだ、もうワルターはいないんだったと、自分に言い聞かせなければならない。
 ワルターのいない日々に慣れながら、慣れる分喪失の痛みは増し、ぽっかりと空いた自分の体の、ワルターの形の空洞から、向こうの景色が見える様が、ああ自分はここにひとりぼっちなのだと、ヤンに思い知らして来る。
 ワルターを裏庭に埋めて翌日、アッテンボローにやっとメールでワルターが死んだことを知らせ、手を付けなかったドッグフードをどうしようかと、字面だけはのんきに、キーボードを打つ指先は震え続けていたのだけれど。
 アッテンボローはその日の夜に酒を持ってやって来て、ひと晩泊まって行ってくれた。それをありがたいとも迷惑とも、どちらとも思えないほどヤンの感情は鈍麻し、力なく笑うのを、付き合いの長いアッテンボローはどんな風に読んだのか、ヤンは考える力のすべてを、アッテンボローの注いでくれる、味のない酒と一緒に飲み下した。
 震えの止まらない指先で、ワルターとは何の関係もない文章を綴り続ける。宇宙がどうの、宇宙人がどうの、犬とは似ても似つかない生き物たちを描写して、ヤンはそこにワルターのいない世界を築いて、ワルターのいない自分の現実から目をそらし続けていた。
 そうして一方で、真新しいノートに、ただワルターを書き殴り続けている。ワルターとのことを書こうと思ってペンを取って、そうして激しくなる指先の震えで、まともに字として書けるのはワルターの名だけだった。もう自分の名の綴りすらまともに思い出せず、自分の名を綴るつもりでワルターと書き綴っている。ヤンが自分の手でまともに書けるのは、それだけだった。
 空だと訴える胃に、機械的に物を詰め込み、紅茶だけはきちんと湯を沸かして淹れ、それでもワルターを視界の中に探す間に冷え、口もつけないまま、ただカップに手を添えたままでいることもあった。
 ワルターのいた床へ坐り込み、引き寄せた膝の間に頭を垂れ、そうしていれば、背中が足の間に必ず入り込んで来たワルターを待って、ヤンは何時間も動かずにいる。ひとりきりの体温はどこにも行かず、どこにも行けず、自分が動かなければ揺れることのない家の中の空気の淀みに、底なし沼にでもはまったように体の動きを封じられて、息をしていることにふと気づいてから、ああ自分は生きているのだと知る。ワルターはもう、生きてはいないのに。
 最低限の食事と、最低限の呼吸、それさえ何とかすれば、心臓は動き続ける。それを人は生きていると言う。ああそう、とヤンは思う。生きると言うのは、こういうことだったか。
 自分の体の中が腐り、いやな臭いを放っているのを感じて、少しずつ世界から隔絶してゆくのを、その確かな感覚を危機感もなく眺めている。ワルターと出掛けるささやかな散歩が、自分を外の世界と繋げていたのだと、もうしばらく新鮮な空気にも、直接の日差しにも触れずに、自分がまるで、腐水に満ちた皮膚袋であるように、ヤンは手足を投げ出して床に横たわり、冷たい板張りのそこへ頬をつけて、ああまだ体温があると、何の感動もなく思うだけだった。
 背中に乗るワルターの重み、少しちくちくする毛並み、うなじに食い込む牙、内臓を穿つ熱、躯を繋げることがすべてではないにせよ、そうして深まったワルターとの、連れ合いとしての日々は、皮膚と毛に隔てられたふたりを明らかにひとつのものとして、それなのに死ぬ時は一緒ではないのかと、ヤンはこの世のどことやらにいるらしい神と呼ばれる存在に、心の中で何度も悪態をついた。
 不思議と涙は出なかった。血も涙もないと言うのは、何も心の冷たい人間に対してだけの表現ではなく、感情の死んでしまった人間もそうなるのだと初めて知って、ワルターが一緒に持ち去った、ヤンの体温の半分とともに、ヤンの血も涙も、きっとあの穴の底に埋められてしまったに違いないのだった。
 ああ、そうか。横たわる床の上で、頬から額へ、触れる場を移し、頭蓋骨の押し砕けそうにそこを板張りにこすりつけ、半開きの唇の間から、涙の湿りはないうめきが漏れる。体はただ真空の筒になったように、空気だけが行き交うそこから漏れる音は、声ではなく言葉ではなく、空っぽの体を通り抜ける風が骨を鳴らす音のようで、ヤンはじき手足を縮めて、床の上で胎児のように丸くなる。
 抱えた膝にうめき声は吸い込まれ、それでもヤンはその音を止めずに、泣くこともできず、喚くこともできず、ただ丸めた体からうめく音を漏らして、穴に埋められたワルターの傍らに寄り添っている、自分の姿を想像する。
 腐る血と肉、土に染み出しながら、寄って来る虫や微生物に少しずつ食われ、消化され、白く乾いた骨以外はすべて土に還る。そうなればもう、ヤンとワルターは完全にひとつの何かになり、かつてそれが人と狼に似た大きな犬だったのだと、誰もそれを別々に分けようなどとはしない。ひとりと1頭は土に還り、そうして分かたれることなく、抱き合った形のままようやく在ることができる。
 ワルターはもう骨になったろうかと、そんなはずはないのに、ヤンは考える。掘り出して、骨を取っておこうか。何度も夢に見た。汗だくになりながら、シャベルを持ち出し、土を掘り返し、白い骨だけになったワルターを見つけて、それを抱きしめ、そうしてその形と固さに、ワルターの死をより強く思い知る羽目になるだけだった。
 ワルター。
 骨に声はない。骨は動かない。ふたりが繋がるためにあった、ワルターの性器はもう跡形もなく、そうかそこには骨はないんだったと、ヤンは淋しさと哀しさと切なさのない混ぜになった感情でぐちゃぐちゃになりながら、尾骶骨をそれでも見分けて、そこを撫で上げれば必ず始まったワルターの勃起の熱さを、掌の中と自分の躯の中に思い出す。
 交尾だけがワルターとの繋がりではなかったけれど、そうやって分け合った熱の深奥で、触れ合わせたあれは魂だったのだと、それを失った後でヤンは気づく。
 射精の感覚。精液を混ぜ合わせても何も起こりはしない。それでも、あれは確かに、ひとりと1頭の、魂のかけらの触れ合いだったのだと、そこに生み出された形のない何かを、ヤンは身の引きちぎられるような喪失の痛みとともに、腹の底から恋しいと思った。
 その色合いが血を連想させるからかどうか、紅茶を飲みたいと言う気持ちだけには素直に従って、熱い紅茶を手にコンピューターへ向かい、空っぽの体の中に、何もない時もたまり続ける文字だけは機械的に綴って吐き出しながら、それが意味があるのかどうかさえヤンには分からず、それでも書き続けている限り自分が生きてはいるのだとは知れ、それを生存確認に、アッテンボローも安心している節があった。
 とは言え、付き合いの長さで、行間からヤンの気分をほぼ正確に読み取れるアッテンボローは、感情の舵が取れずに、ただ空ろに字が流れるままの部分と、読ませるために磨くことをしない剥き出しの情動と、その両極端に揺れるヤンの書き方を見逃せもせずに、そしてそれをどう伝えていいものか分からないまま、ヤンがともかくも書き続けていることに安心している振りを見せるのが精一杯だった。 
 酒を飲む夜に、ヤンが決してしみ通りはしない酔いの中に孤(ひと)り静かに沈み込んで、アッテンボローには明かさない物思いの底に狼犬のワルターがいるのを感じながら、それを話題にするにはあまりにヤンが閉じ過ぎていて、せいぜいが酔いに紛らわせて、新しい犬でも飼ったらどうですかと、お節介を焼く、気のいい後輩を演じて、いまだ掴みどころのない先輩の、服の端を必死で掴んでいる。
 提督と呼ぼうと先輩と呼ぼうと、ヤンはろくに反応もせず、青白く乾いた頬に澱んだ酔いを走らせて、向き合っていても、奥行きのない無感情の瞳にアッテンボローが映っているのかさえあやふやだった。
 瞳の色そのままのように、ヤンの世界からは色が失せ、音はただ空気の揺れになり、そこに見分けられるのは、覚えているワルターの毛色とあの目の色だけだ。ワルターの嬉しそうな吠え声を蘇らせては、一瞬ヤンの口元へ微笑みが浮かび、共にあった10年と、あったかもしれないさらなる10年と、今のヤンには無限に思える孤りの1分の中に漂って、触れもしないままの壁のカレンダーを、アッテンボローがちぎり取ってゆく。
 酒の減りだけが、確かな時間の流れを示して、かすかに残るワルターの気配のために、アルコールに溺死するような飲み方はしないけれど、酒の苦さに胃を焼かれる痛みで、ワルターのいない痛みをごまかしているのはヤン自身の目にも明らかだった。
 キッチンの床には、まだワルターの皿が置かれたまま、それを片付ける気にならないヤンと、片付けてしまってはと言う気になれないアッテンボローと、ふたりの間に視線を投げて、ヤンはそこにワルターの幻を見続けている。
 ワルターを剥製にしたかったんだ。ワルターを冷凍して、そのまま置いておきたかったんだ。
 酔いの勢いで、そうアッテンボローに向けて滑り出してしまいたかったのに、ヤンはそうしなかった。
 今まで誰にも告げなかったワルターとの秘密は、今さら誰かに告げられることでもないと思って、あれはワルターを埋めた時に何もかも一緒に埋めてしまったのだと、もうこれきり秘密にしたままでおくことが、ワルターへの敬意の示し方のような気がして、どれだけ人間の言葉を尽くしたところで表し切れるとも思えないワルターへの想いと、ワルターが自分に与えてくれたすべてと、それら何もかもを打ち明けられない苦しさも澱のように身内に積もって、またヤンを、ワルターと一緒に土に還りたい気分にさせるのだった。
 ヤンを慰めにやって来て、先に酔って眠ってしまったアッテンボローのために、ソファをベッドの形にして、服をゆるめて寝かしつけてやってから、ヤンは自分の酒を手に玄関の外へ出た。
 もう夜気に寒さはなく、春も過ぎて空気は生ぬるい。それでも裏庭を、こんな夜更けに見つめる気にはなれずに、ヤンは月のない夜空を見上げて、ワルターがそうしただろうように、喉を伸ばして吠えたくなった。
 自分が人の形すら保ってはいないように感じながら、それでも間違いなく今も人で、ワルターのように四つ足で速くも走れなければ、あの見事な遠吠えもできない。けれどこの人間の手指がなければ、あの日ワルターを罠から逃がすこともできなかったのだと、酒のグラスを持つ手を替えながら考えた。
 あの日、傷ついた後ろ足を引きずりながらヤンの前へ再び現れたように、夜陰のどこかからワルターが姿を見せないかと、ヤンは闇に向かって目を凝らす。
 「ワルター・・・。」
 ワルターの選んでくれた自分は、それに相応しかったのだろうかと、10年前にも考えた同じことを今考えて、あの時ワルターに正しいつがいを選択させなかったこと、そこに自分が居坐ったままでいたことを、後悔ではなく、酒の苦さとともに思い出している。
 「ワルター・・・。」
 もう、幾度どんな声で呼ぼうと、応える声はないのだ。すべてがヤンのひとり言にしかならずに、声は虚しく空気の中に吸い込まれてゆく。
 ラップとジェシカの逝った夏を慰めてくれたワルターは、新たにヤンに、別れの冬を与えて去った。
 ヤンは後ろを振り返り、家を通り過ぎて裏庭を思い浮かべた。ラップとジェシカの記憶を埋め、ワルターを埋めた裏庭の、今は何もかもが闇の中に沈んだ、ただ黒い風景に、歩き出せば溶け込めるヤンは、今夜その気になればその"向こう側"へ渡って行けるような気がして、手の中でぬるくなった酒を見下ろし、そうしようかと、誰にと言うわけでもなく、ヤンは声に出していた。
 やめとけ、と苦笑いで言ったその声は、ラップのものだったのかどうか、もうヤンには聞き分けもできず、自分の血も涙も、ワルターと出会う以前、ラップとジェシカの死んだ時に喪われてしまったものだったかと、ヤンは酒の酔いにも熱くもならない頬を、こわごわ指先に探った。
 アッテンボローを、泣かせるのは悪いからなあ。
 相変わらず、自分をもうひとりの息子のように扱おうとするアッテンボローの両親の顔を一緒に思い出して、ヤンは落ちた肩をそのまま、玄関のドアの方へ回した。
 背中にも足元にも、何もまつわる気配はない。
 ヤンはひとりでドアを開け、ひとりで中へ入り、ひとりでドアを閉めた。
 今夜はそこにあるアッテンボローの寝息へ、薄闇の中で耳を澄まし、唇の形でだけ、ワルター、と呼んだ。
 もう動かない空気を揺らさないように歩きながら、アッテンボローの寝息を頼りに、闇の中をひとり進む。乾いたヤンの頬を撫でるのは、ぬるい酒の香りだけだった。

27 戻る  29